AWC Lの殺人 1   永山


        
#3084/5495 長編
★タイトル (AZA     )  95/ 5/28   8:53  (162)
Lの殺人 1   永山
★内容
 かなり以前から言おう言おうと思っていた台詞を、やっと口にできた。そこ
から来る安堵感みたいなものが、百合子の内にじわっと広がった。
「あの人と別れる」
 返事は早かった。
「本当かい?」
 百合子の願っていたそのままに、高原は喜色を浮かべた。年齢の方は高原の
方が上なのに、こんなときはぐんと子供っぽく見える。
「ええ。愛想が尽きたってやつ。そりゃあね、私だってこうして他の人と逢っ
ているからお互い様だけど」
 百合子の細い人差し指が、高原の大きな肩に触れる。
「暴力だけは我慢できない。あんなのと一緒にいたら、下手すると殺されちゃ
うわ」
「まさか」
 笑う高原。だが、百合子は真顔で続ける。
「だいぶ前だけど、私、頬骨にひびが入ったことあるのよ」
「え?」
「目の周りにあざができるほど殴られるのも、しょっちゅうだし」
 しょっちゅうというのは嘘だった。これまでに二度ほどあるだけだ。しかし、
百合子はほとんど無意識に誇張している。
「それに、向こうの母親と合わないのよ。炊事や趣味の違いでもめるのはまだ
いいとして、子供ができないことを私のせいにしてくるのが、一番頭に来る」
「……決心できているんだね」
 どことなく探るような高原の低音が響く。
「そうよ。明日にでも手続きを始めるわ。あいつがもしも嫌がっても、いくら
だって理由があるんだから、絶対に離婚できる。慰藉料だってせびる必要ない
ものね。とにかく別れたいんだから」
「それからどうしてくれるのかな」
 身体を起こし、高原は楽しそうに言う。
「もちろん」
 百合子も起き上がると、高原の背中に身を寄せる。
「あなたと」
 高原は低く笑っただけであった。
 再度、百合子は高原に寄り添った。相手の二の腕を握る手に力を込め、将来
 のパートナーの存在をしっかり確認した。

 百合子が寺西百合子から倉田百合子へと戻った日、つまり実際に離婚が成立
したのは、八月四日のことだった。離婚話を夫−−今となっては元の夫である
が−−に持ちかけてからちょうど二週間が過ぎていた。
 年も押し迫った時期に、何でまた離婚なんかを−−彼女の周囲の人間は、た
いていそういう言葉を口にした。
 当たり前であるが、百合子にとっては時期なんて問題にならない。ともかく、
あの男と早く別れたい。その一心であった。
 すぐにでも高原卓夫と結婚したいと考えていた百合子だったが、それはでき
なかった。
「おかしな法律もあるものね」
 喫茶店の中、離婚のときに世話になった弁護士を前にして、ぞんざいな口を
利く百合子。それだけ納得していないのだ。
「そういう決まりですから」
 作り笑いらしき表情をし、弁護士は答える。金をたっぷりもらっているから、
にこにこしていられるのだろう。無論、相談料は高原の懐から出ている。親か
ら相続した山林の換金・運用によって、高原はいっぱしの事業家となっていた。
「女性は離婚後六ヶ月間は婚姻してはならない。それが法律です」
「男女差別だわ」
 百合子は声を高めた。
「この法律にそういう色があるのは指摘されていて、もうすぐ改正されるかも
しれません」
「改正されるって、どのぐらい先の話なんです?」
「さあて。委員会による答申がなされただけで、どうなることやら」
 面白おかしく話したつもりらしい弁護士だが、百合子は頭を激しく横に振っ
た。
「そんな悠長なことやってられないわ。半年ぐらいすぐに過ぎてしまう。待っ
てられないわ」
「すぐに過ぎるんでしたら、辛抱なさい。えーっと、来年の二月四日を待てば
いいんですよ」
「ほんっとに、融通が利かないんですわね、法律って」
「融通が利いていたら、法じゃなくなるでしょう。ま、そんなにぷりぷりしな
いで。こんな法律にもちゃんと理由があるのだから」
「結構です。どうもありがとうございました」
 席を立つと、百合子は足早にまっすぐ、ドアを目指した。

 六月半ば−−達也が生まれてから二十日ほど過ぎていた。ようやく体調が戻
ってきた百合子に、それは唐突に伝えられた。
「え……」
「聞いてますかっ? 病院の名前と住所と電話番号、言いますから、メモを!」
「は、はいっ」
 夫の部下からだった。百合子は半ば機械的に、電話の向こうの男が伝える言
葉をメモしていった。
「よろしいですね? なるべく急いで」
 慌ただしく電話は切れた。
 ほんの一瞬の空白の後、百合子はタクシーを呼ぶため、再び電話を握った。
タクシーを呼んでもらってから、百合子は身支度を始めた。その脳裏では、一
つの思いが渦を巻く。
(あの人が……死ぬ? そんな、そんなはずないわ! 交通事故に遭っただけ
よ。命に関わる怪我なんかじゃない。きっと、大げさに言ってるんだ。死ぬな
んて)
 生まれてまだ間のない子供をかき抱くと、彼女は唇を強く結んだ。対照的に、
心の唇は止まることを知らない。
(達也ちゃん、大丈夫だからね。一緒に行こう。行って、お父さんを元気づけ
てあげようね)
 表に出る。何分もしない内にタクシーが目の前に滑り込んできた。後部座席
に乗り込み、行き先を告げる。
「あの、あの、病院」
 だが、うまく口が回らない。
「どこの病院でさぁ?」
 運転手の中年男性は、前を向いたまま、気怠い言い方を返してきた。
「……ここにお願いします」
 唾を飲み込んでから、百合子は先ほどのメモを手渡した。
 運転手は「ああ、ここね」とつぶやいて、やや乱暴に車をスタートさせた。
 いけ好かない感じの運転手だったが、今の百合子には普段のそんな感情なん
て、どこかに消し飛んでいた。
 それに一つだけ、いい点もあった。「急いでください」と言わなくても、相
当のスピードで走ってくれることである。
 近所の見慣れた景色が歪みながら、後方へと飛んで行った。

 正面にいる男が高原卓夫に似ていないことを、百合子はある意味で感謝して
いた。似ていたら、きっと奇妙な気持ちにとらわれるだろう。悲しみが新たに
わき起こるかもしれないし、男の外貌に引かれるかもしれない。
「お悔やみの言葉はもういいでしょう」
 ドライな口調で言った男の名は、高原継雄。卓夫の弟である。
「今日、寄せてもらったのは、兄貴の財産のことでね」
「それは」
 ついに来たと思いながら、百合子は身を乗り出し加減にした。テーブルに置
いた肘に力がかかる。
「もう、話は着いたんじゃありませんでしたか?」
 半分は妻であった自分が相続し、もう半分は達也が相続する。確か、そうい
う法律になっているはずだ。百合子はそんなことを皆まで言わずに、心中で唱
えた。
「ところがですねえ、ちょっとややこしいことがでてきたんだな、これが」
「何でしょう?」
 毅然とした口調。根拠のない揺さぶりにうろたえる必要はない。
「普通、夫が死ねば、その財産は妻と子供に行く。夫である男に兄弟があろう
が両親が健在でいようが関係ない」
「……」
「さて。義姉さんに半分が行くのは、間違いないから安心してくれよ」
 笑う継雄。どこかひきつっている。ここに来て初めて、百合子は嫌な予感を
覚えた。
「問題は達也ちゃんの方だ。いやあ、勉強しましたよ。法律ってのは、知らな
い条文がいくらでもあるもんだと。−−はっきり言うと、達也ちゃんは兄貴の
子供じゃないんだ」
「……ばっ」
 馬鹿々々しいと言おうとした百合子だったが、それさえも声にならない。あ
まりにも馬鹿々々しすぎるからだ。
「何を言ってるの、継雄さん? 達也は私の子よ。私とあの人との間にできた。
血液型だって見たんだから」
「ふふん」
 軽くうなずく継雄。
「達也ちゃんがあなたの子供であるとは認めてもいいですよ。でもね、兄貴の
子供じゃない」
「何を言うの!」
 腹が立つ。瞬間的に声を張り上げた百合子。
「あの人と私の子よ、達也は。それとも何かしら。私が他の男の人と……」
「うーん、普通の意味での他の男と言うんじゃなくて……。怒らないで聞いて
くださいよ。あなたの前の夫のことを言ってるんです」
「−−いい加減にして!」
 思わず、テーブルを平手で叩く百合子。
「もっとひどいわ。別れた男とどうこうなんて、そんなこと、するはずありま
せん!」
「参ったな。どうか冷静に。私は口下手で、歯に衣着せぬ言い方しかできませ
んから……」
 嘘だ。百合子は思う。わざとこんな喋り方をしているに違いない。私達親子
に財産を持って行かれるのが嫌なのだ。
「法律の話をしているんです。義姉さんが前の旦那さんと今でも関係を持って
いるなんて、言ってない。こういう法律を知っていますか? 『離婚後三百日
以内に生まれた子は前夫との子と見なす』−−原文とは違っているでしょうが、
意味は間違っていないはずです」
「……どういうことよ」
 言ってから、自分の口ぶりが非常にきつい調子だと気付く百合子。意味はな
いが、口元にそっと手をやる。
「だから、離婚して三百日以内に生まれた子供は、無条件で、前の夫婦間の子
供とするってことです」

−−続く




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