#3058/5495 長編
★タイトル (QWG ) 95/ 5/ 2 17:12 (145)
けせん(1) 道路掃除人
★内容
この作品は岩手県沿岸南部を中心とした一帯、古来「けせん」と
呼ばれてきた地方が舞台となっており、現在そこで話されている
ことばを用いてあります。現実の会話にとって重要な発音・抑揚
・リズムなどを文字に映しとるのは無理ですが、せめて発音だけ
でも原音に近づけるため、会話文において表記の工夫をしました。
1) 鼻濁音を「゜」によって示し、濁音と区別する。
例:「かきくけこ」の鼻濁音は「か゚き゚く゚け゚こ゚」
1) 標準語「し」に対応する発音には3種類あり、
ス :無声の[s]
スィ:米語の[si]に近い
スィ :母音[i]が上よりもっと弱く、次にくる音によっては
ほとんど発音されない
1) 半角で示す母音「アイウエオ」は上記規則と同じに「ァィゥェォ」よ
りも弱く次にくる音によってはほとんど発音されない。
また半角「ン」についても同様。
気仙地方のことばについては、山浦玄嗣著『ケセン語入門』(共
和印刷企画センター)を参考にし、また、示唆を与えられました。
ここに感謝の意を表します。
けせん
淵のはるか深みで一匹の鼈が鼻うごめかしカパッと口を開いた。わずかの緊張が
たちまちうれしさに替る。鼈はも一度水にまじるその匂いを嗅いでにんまりとする
(%〜ようやぐ来てけるよァだ……)。雨が、ひさしぶりに来るというのだ。渓に
そそぐ雨がもうここまで流れてきている。ということは山ではかなり前から降って
いるということだ。それもかなり強く。おもむろにではあるが確かに流れは太って
きていた。雨の気配をかぎつけた河鹿たちが岸に這い出て鳴きはじめた。
鼈の鼻はまたかすかな匂いをかぎつけた。雨の匂いよりもっとなつかしい匂い。
人の仔の匂いだった。それから間もなく何か大きなかたまりが流れてくるのが波の
動きでわかった。そのかたまりは瀬を破って突き出た岩と岩との間にはさまって留
まった(%〜童が。めずらスィじゃあ)
だいぶ以前から川遊びを禁じられて、この川にも子どもたちだけで遊びにくるこ
とはめったになくなっていた。ときたまやんちゃな子らが冒険心にも誘われて川に
やってくるが、川遊びを心得た兄貴分に習う機会をもたない腕白たちは、川のどこ
が危険かもわからずに夢中で遊びこける。あげくに思わぬ深みや急流に足をすくわ
れて、川面の泡と果てることがしばしばあった。(%〜おぼれだんだな)なつかし
さに動かされて鼈は瀬のほうへ浮かび上がっていった。年の頃ならば五つ六つだろ
う、人間の男の子が岩の間にはさまって虫の息でいた。(%〜血の気ァ失せかけで
るども、うまスィけ゚なわらスだごどや)
と、鼈は流れに人の雄のにおいを嗅ぎ、危険に身を固くした(%〜わがね、わが
ね……ひっこじさま、このためにはがなぐなったんだった)
鼈の曾祖父母の時代に、同族の一匹が己が子を病から救おうとして人の肝をとっ
て食べさせたために−−それとて、たまたまそれがほかの獣ではなく人だったにす
ぎないんだが−−人らの復讐が川を洗いざらい侵しまわり、曾祖父をはじめ数多の
朋鼈が虐殺された。それ以来鼈族には人を遠ざけるようにという戒めができていた。
入道雲がのしてきていた。水嵩も目に見えて上がっている。
川沿いを走る国道のわきの家の玄関にごま塩頭の農夫が立った。空を見あげたそ
の顔が笑みくずれた。男はおもむろに振り返ると家の中に叫んだ。
「ばっちゃ、いまのうづィに夕立くるぞ。洗濯物入れどげ!」
返事が返ってきたのは隣家からだった。
「秀二の声聞けだべ。夕立くるど」
まもなく隣家の主が表に出てきて、空を見あげ、
「ほンに、ザァーど来そうだな、こりゃ。うんと降ってければいいじゃな」
秀二と話しだす。
「んだ。稲ァまづまづだども、畑がなんともなんねがらな。川も細ってスィまって、
は、鮎釣りもさっぱりだ」
「ぺァっこ、川見に行ぐが」
秀二と忠義は国道をわたって川沿いに上へと歩いていった。
「おお、水増えでっちゃ、は」
「忠、見ろ! わらスだ!」
「!!流さェであスォごさ引っかがったんだな」
「人呼んで来。俺、様子こ見でるがら」
「おう!」
忠義は駆け出そうとして、はた、と足を止めた。
「秀二、一人で助けっぺどすなよ。流れ、よっぽど速ェぞ」
「わがってら、早ぐ行げ!」
(%〜ひでじ?……ったら聞ぎおぼえあるぞ)鼈は水面に首をだしてその人物を
見た(%〜あェづァ吾か゚淵あだりで雑魚ぼったぐってだ秀二でねが)。半世紀も
前のことである。(%〜ぜんぶ年寄ったなあ、あのきかねわらス)鼈は思い出し笑
いする。
秀二はとんでもなく無鉄砲な童だった。
人間に『かっぱ淵』と呼ばれ怖れられていた広く深い淵は魚や生き物たちの楽園
であり、秀二にとっては、おとぎばなしの竜宮みたいなところだった。鯉や丸太、
山女や岩魚、鮒や魚與や鯰、さまざまな雑魚に亀に川蟹、などが悠然と生きている
さまを見ることができた。そこはめったに人の寄りつかない、したがってよそでは
見られない大きな魚に遭えたから、どんなに大人にしかられても秀二は淵で遊ぶの
をやめなかった。
「ンな(奴)みでなわらスァ、河童さ獲らェるんだじゃ」
父親はそう言って秀二をおどすのだった。しかし祖父はそんなときいつもさりげな
く彼の援護にまわった。
「なあに、こった真っ黒ェわらスだば、烏だど思て見逃すべォん」
「川さもぐって雑魚とるんだば烏でねァ、鵜だべした」
祖母が茶化し、うだ、うだ、とみんな笑った。
秀二はまるで怖いもの知らずというわけではなかった。深みの水となると手足が
しびれるくらい冷たく、蛭や八目鰻などのゾッとする生き物もいた。けれど彼は恐
れをなだめるすべを心得ていたし、その向こうにあるものの価値も知っていた。
小学校最後の夏休み、秀二はある決意を抱いてそれまでより足繁くかっぱ淵に通
った。(%〜やづの心ァわがってだ。来る日も来る日も、ヤス持だねで真っつく゚も
く゚ってくるァんで、ははん、こいづは一番深ェどご探ってらな、淵の奥までもく゚
る気ァスてだな、ど。そんどぎもこった暑う夏だったけァ。やっぱり雨足ンねで好物
の鮎ァあんまり食ェねがった。かてで、わらスこァやだらど泳ぎ回っから、ほがの
魚まで散ってスィまう。そったごどで、ごしゃっ腹焼げでらったがら、一回懲らスィ
めでやンべど思ったった。そごさ、やづ、白目光らせでもく゚って来たがら、吾、や
づの後ろさ回り込んで臑さかぶりつィでやった。やづァ、泡吹いで、手足ばだばだ
させで逃け゚で上か゚ったけァ)大口をあけて鼈が笑った。
その秀二だ。(%〜おりょ、わらス助けさくるつもりだな。早ぐさねば流さェで
スィまぅど)。とうとう雨が落ちてきた。秀二は救助の手を待ちきれず、ズボンを脱
いでガードレールを跨ぎ越そうとした。そこへ忠義が戻ってきた。「秀二!」
彼は両手に縄を一巻ずつ携えていた。
「忠! もう待でね、早ぐさねば流されでスィまぅど」
「おお。縄用意してきたァんで」
彼らは荒縄を数本束ね、それぞれの腰に巻きつけた。
「よス! 行ぐぞ!」
「気つけでな」
急流を渉る秀二を忠義が岸で縄を引いて支えた。子どもが引っ掛かっている岩にた
どりついた、そのとき、
「シ! 去れ!−−去れてば!」
秀二が大声で怒鳴った。
「なにスた!?」
忠義が叫んだが、それに構わず秀二は子どもを右肩にかつぎ上げると、左手でロー
プをたぐって、叫んだ。
「引げ! ゆっくりだぞ!」
秀二が岸に向かって歩きだした頃、消防団の者が何人か駆けつけてきて、秀二た
ちを助けるために流れに踊りこんでいった。そして子どもを道路に引きあげて間も
なく救急車が到着した。
子どもを乗せて走り去る救急車を見送りながら忠義がつぶやいた。「助かるべが
……」
「わがらねな」秀二が暗い顔で言った。「あぶなぐ流されっとごだったか゚、首がら
上、水さ浸かってねがったがらな。運はあるがも知ェねか゚……」
どうか運があるように。そこにいた誰もが同じ祈りを胸に救急車が見えなくなるま
で立ちつくしていた。
サイレンの音を引き継ぐように雷が鳴りだし、激しい夕立が来た。
「みんな。雨やどりったってもぅはすっかり濡れでだべか゚、おら家で一杯やって体
温めでけろ」秀二が消防団員たちにそう言った。
歩きだしてすぐ、忠義がふと思い出して秀二に尋ねた、
「そォいぇば、ンな、あの岩のどごで『去れ』とが叫んだっけか゚」
「ああ。でっけェすっぽんわらスィさ喰いつィでらったのっしゃ」
「すっぽんか゚!? わらスィ喰べァどスたんだべが」忠義はぶるっと身を慄わせた。
「おそらぐな。あったなすっぽんはズィめで見だでゃ。尺半、いや二尺近ぐあったべぉ
ん」
鼈はわらしを食おうとしていたのではない、流されないようにシャツをくわえて
引っぱり上げていたのだ(%〜その前にぺァっこばがり血ィなめだどもな)。しか
し秀二にそれを知るよしはない。その左ふくらはぎにかすかに残る傷痕が、五十数
年前その生き物に咬みつかれた痕だということも。
雷の嫌いな鼈はとうに淵の底に帰っていた。
事故からふた月経ち、死んだ子供の祥月命日にあたるその日、両親が、幼い息子
の魂を流した川に花を手向けに訪れた。(%〜はて……)若い父母とともに一輪の
りんどうを投げて掌を合わせる少女に鼈は以前会ったことがあるような気がして首
を伸ばした(%〜この辺のもんでァねァよぅだか゚……。誰ぞに似でンべが)もっと
よく見ようとするが、三人はすぐ車に乗り込んで走り去ってしまった。