#3033/5495 長編
★タイトル (ARJ ) 95/ 4/27 21: 9 (138)
司法神官ドラクーン(8) みのうら
★内容
「……と、困ったな。お前の名前を登録しなきゃ。そのまんまティシュタルじゃ、
さすがに困るし……なんか、少しでも思い出せることは?なんでもいいんだが」
印刷された書類を、サインをとばかりに突き出す。
「そんなものがあったら、こんなとこ来るか!」
大声を上げて帝国貴族名鑑を机にたたきつけると、盛大に埃が舞った。
二人してしばらくせき込む。
ぽつりとティシュタルだった女が言った。
「本当に、なんにも思い出せないんだよ……」
下を向いて、ぽつぽつと語り出す。
「だから、来たんじゃないか。十年も、知らない場所に知らない奴等と押し込めら
れて、我慢してたのは、あんたがそうしろって言ったからだ。どっちにしろ、当分
はこの世界で暮らすんだから、一般常識くらい身につけろって。でも、十年もかか
るなんて言ってなかったじゃないか」
「減刑してもらうために、あらゆる手を打ったよ!金も使った。義理で、したくな
い仕事も随分とやらされる羽目になった。
たった十年、そう思ってくれなきゃ困る!ほんとなら、その場で極刑にされても
仕方なかったんだから」
ルースの言い訳は、その姿と声から、親に怒られた子供が抗議しているようだっ
た。
親側は、顔を上げ、きりりと睨む。
「収容所たたき壊してさらってくれても良かったんだ!それくらいの芸はあるだろ
う!」
「ふざけるな!僕は司法神官だぞ、そんなまねができるか」
「あんたはドラクーンだ。司法神官じゃない」
きっぱりと言い切られて少年は言葉につまった。
「ドラクーンは、自分より下位のユニットを救う義務がある。そうだろう?」
「よくまあそんな都合のいいことだけ覚えてるもんだ」
「十年前あんたに叩きのめされた時、基本データだけ蘇ったんだよ。
だからあんたを殺さずにすんだ。下位のユニットは敵対しない上位ユニットの生
命を脅かすような行動に出てはいけない……てね。ストッパーがかかってこっちは
気絶。だったけど、よかったじゃないか。お互い」
「……まったく」
親指の爪を噛みながら、悪態をつく。
「こんなうるさいの、たすけなきゃよかった。さっさと縛り首にでもしちまえばよ
かったんだ」
「縛り首くらいじゃ死なないよ」
「うるさい!僕もだ」
あたりの物を蹴散らかしながら、壁に下がった紐を掴んで引く。どこかでベルが
鳴るかすかな響きがある。
「とにかく、行かなきゃならん。おまえを減刑してもらうのに、随分迷惑かけたか
らな。挨拶くらいはしなけりゃ。どうせ跡目争いか遺産の分け前で大揉めに揉める
んだ。覚悟して来いよ」
軽い足音のあと、ドアがノックされた。
「お呼びでしょうか」
神官見習いの、当番学生が威儀を正してかしこまった。
「ああ、ティシュトリヤ大公のお呼びだ。急ぎで、馬車と船の手配を。正式な依頼
状を頂いているから、管理官に渡すように。出発前に寄るから」
「かしこまりました。出発はすぐに?」
「すぐ、だ。二人分たのむ」
学生は、好奇心いっぱいの顔で彼女を盗み見たが、大公からの書状を受け取ると、
「はい、ただいますぐに」
と一礼して駆け出した。
「さあ、これから典礼部に行って、おまえの衣装と装備を見繕ってやる。
おまえの素性については、船の中ででも推測を述べてやる。ほら、ぼーっとして
るな!急げよ」
身長の関係で、持ち上げられないトランクを左手で引きずりつつまくしたてる。
相手は、風に揺れる柳のごとき優雅な動作で立ち上がり、指摘した。
「ルース・リンクス司法神官」
「なんだ!ちんたらしてると置いてくぞ」
「書類。あたしの名前が入ってないと、提出できないって言ってたけど?」
その小さな右手を指す。
握りつぶされ、生乾きの黒インクで汚れた紙屑を。
インクを飲み干したような表情でその物体を眺める。
トランクを引き倒し、紙を手でのばし、ペンをインク壷にじゃぼんと浸ける。汚
点が、年代物の絨毯を点々と汚した。
「さて、なんて名前にしようかね!メディア、クレオパトラ、モナリザ、楊貴妃、
ジュリエット、何でも結構。気に入った名前を言ってごらん!何かあるだろう、何
か!」
「アストレイア」
「……それはだめだ。公式文書に載せるとき、混乱するだろう」
名無しの彼女は困ったように首を傾げた。
「それくらいしか、女性の名前を知らないから」
「十年も収容所にいて、回りの女性の名前を聞いたりとかしなかったのか?」
「みんなあだ名と番号で呼ばれてたから、知らないよ。聞かないのが礼儀ってなっ
てたし」
「じゃあ、男性名でもいいや。なんかいいのはないか。ユリウス・カエサル、イヴ
ァン、リチャード、アーサー、テムジン、何でも来いだ」
「あんたが付けてくれていいよ。何でも、好きなように呼んで」
インクが、紙にぼたりと落ちる。
「そう言われても……弱ったな」
なにげに顔に手をやると、ペンのインクがべっとりと付いたが、気付かない。
ふと思いついた名はあった。それをつけるべきかどうか。判断に迷う。
再びノックがあって、当番学生が扉を開けた。
「ちょうど、もうすぐ出る便がつかまりました!お急ぎ下さい!」
「早いな。船はどう」
「うまくつながるようです。逃すと、後がないとかで」
「そうか、すぐ出る。おい……」
腕を組み、ただじっと彼を見ていた彼女の、少しだけ迷ってから名を呼んだ。
「早くしろ、レックス。急がないと、おまえの荷物はなしだ」
書類に残りの事項を書きなぐると、当番学生に押しつけて、荷物を引きずり廊下
に飛び出す。
「提出よろしく!行くぞレックス」
「トランク開いてるぞ。ベルト止める力が弱かったんじゃないか」
厳重に閉めたはずのトランクが、ぱっくりと口を開いていた。
「ああっ、なんてことだ!見てないで手伝え、レックス!」
あわてて荷物をかき集める。
「そこの学生!」
「はいっ!」
「レックスに、適当に着る物と装備見繕ってきてやってくれ。武器はなんでもいい。
僕の『従者』だからな。典礼部だぞ」
「承りました。すぐに馬車までお届けします」
駆け出す学生を背にして、のんびりとレックスがたずねた。
「つまんないこと聞くけど」
「なんだ。名前の由来なら後にしてくれ」
「いや。前に持ってた杖あるだろう。あれは、もう持たないの?今は、何を武器に
してるわけ?」
せわしく動く小さな腕がぴたりと止まった。
「飛び道具のいいのがあるとか。新しい得物があるとか」
次の瞬間、トランクはレックスに押しつけられた。
「あと頼む。あの杖いるんだ……!」
ルースは部屋に駆け戻る。
残されたレックスは、残り諸々を手早くトランクに納めると、きっちりとベルト
をかけ直した。
廊下の隅にそれを置き、静かな足どりでルースの部屋へ向かう。
大音響でもなかったが、杖を探すにしては大きな音がしたのだ。そして彼女は見
た。
開け放たれたドアを開くと、彼女の背よりも高い、青銅の壷に押しつぶされたル
ースを救う。
「杖を探してて、どうやってこんな羽目になるのかな」
その問題の杖を握りしめ、彼女の主となった少年は立ち上がった。
精一杯の威厳を込めて、せいぜいしかめつらを作り、出来る限り重々しく。
「さて、依存がなければ、レックス」
受ける彼女は、腰などかがめ女優のように丁重に、彼の手を取る。
何か言おうとするのを、廊下の彼方から響く鐘の音が遮った。
定期馬車の御者が時間を知らせている。乗車の受け付けが始まったのだ。
「時間だな。行くか」
皮袋に収められた杖は、ルースの背でくぐもった音を立てた。
「急ごう」
たった今、レックスと名付けられた彼女は、妙にとぼけて答える。
「どれくらい?」
「そりゃもう全速力で」
と、床を蹴った少年の身体は宙を浮いた。
「おわあっ!」
背の鉄杖を掴まれ、一瞬でレックスの肩までかつぎ上げられる。
「何をするんだお前は!」
「全速力」
右の肩に少年、左脇にトランクを抱え、言葉の通りに全速力で彼女は走り始めた。