#2618/3137 空中分解2
★タイトル (NEA ) 92/12/28 6:48 (123)
ろくじゅうにのにーさんよんぜろ(1) ほりこし
★内容
早く貴史に会いたかった。
車は「さくら通り」から「東通り」の交差点まで止まったまま動かず、渋滞は
その先まで続いているようだった。
いつもはこんなではないのに……これなら裏通りを通った方が良かった、そう
思いながら美菜子はふうとため息をついて、車の窓から顔を引っ込めた。
12月にもなるとあたりはすでに暗くなり、車のテールランプ赤く光って並ん
でいた。車のデジタル時計は5時40分を表示していた。6時前までになんとか
青葉町まで着かなければ……美菜子の気持ちが、あせりからイライラに変化して
いくのが自分でも分かった。
今朝、別れた時、貴史は熱っぽい顔をしていた。そのことが美菜子をさらにイ
ライラさせる原因にさせていた。
風邪をひいたのではないだろうか、兎に角、貴史の身体が心配だった。美菜子
の実家は同じK市内にある。保育園を休ませて実家の母にあずければ良かった、
美菜子はそう後悔した。
青葉町には「若草園」というK市立の保育園があり、毎朝、出勤前に貴史をそ
こにあずけてから仕事に行き、5時15分に看護学校の講師の仕事が終わったら
6時までに青葉町に貴史を迎えに行く、この生活はここ1年間変わらない毎日の
日課だった。
貴史のことを考え始めると、まだ、夫の伸郎のことをつい思い出してしまう。
不思議なもので、最近、この二、三ヶ月、貴史の事を考えるたび伸郎のことを
思い出す事が多くなった。それは、一種の美菜子の癖のようなものだった。それ
は、貴史の顔つきがだんだん伸郎に似てきたせいかもしれなかった。
伸郎とは美菜子がまだ看護婦だった頃、自転車でころんで骨折して入院した患
者として出合った。
美菜子はどちらかというと男性にもてるタイプではなかったのに、よく伸郎の
方から声を掛けてきたとものだと、今でも感心する。たぶん、男ばかりの部屋に
毎日訪れる唯一の女性だったからかも知れない。それから、患者と看護婦という
関係から、二人の男女関係に進展するのにはそれほど時間はいらなかった。
それから、二人はほどなく結婚し、貴史が生まれた。
その頃、K市立病院では看護学校を作る事になり、美菜子は看護婦から看護学
校の講師として転職した。
収入は看護婦よりも少なくなるが、夫婦共働きの家庭にとっては夜勤のないこ
とは美菜子たちにとっても都合のいい事だった。
幸福といえるかどうかは知らないが、平凡な家庭生活が続いた。
それが、不幸のどん底に叩きのめされるきっかけになったのは、伸郎のたった
一言のセリフからだった。
「この頃、なんだか胃が重いなぁ」
そう言って伸郎は胃薬を常用するようになり、美菜子が病院で見てもらうよう
勧めても、なんのかんのと理由をつけて仕事に行き続けた。
それが、自分から病院に行くと言い出し、医師に診察してもらうと、手遅れの
胃癌だと分かった。
それから、美菜子は夢中で看病したが、時間はあっと言う間に過ぎ、伸朗は他
界した。
それが1年前の事だった。悲しむ余裕などなく、貴史との生活をどうして続け
ていくかで、頭がいっぱいだった。実家に帰ることも考えてみたが、美菜子たち
のいる場所などあるはずもなかった。
過去を振り返って見ると、伸朗と出合から死まで、あっと言う間の夢の中の出
来事だったようにも思えて来る。それが、貴史を迎えに行き、貴史の顔を見るた
びに、現実にあったんだなぁ……そう、実感するのだった。
赤いテールランプの列が動き始めた。渋滞が解けたようだ。
美菜子はギアをローに入れ、アクセルをふかし、車をゆっくりと進めた。
美菜子のイライラは貴史と伸郎の事を考えているうちにすっかりと消えていた。
ほどなくして「若草園」に着いた。
車を園舎の前の遊び場の一角に止め、美菜子は車を降りた。
冷たい空気が吹き付けて、美菜子の身体を一瞬キュッと引き締めさせた。
髪のれを押さえコートの衿を立てながら園舎に向かうと、コウコウと明かりの
ともった部屋が目にとびこんで来る。そこが貴史のいる遊技室だった。
美菜子はいつものように遊技室の窓から中を覗き込んでみる。
中では、保母さんの「高橋先生」の前で、まだ迎えに来ないのだろう二人の女
の子と貴史が何かゲームをしるらしかった。
美菜子が耳をすますと、貴史たちの声が聞こえて来る。
−ポンポコ山のたぬきさん、オッパイ飲んでねんねして、
−オンブしてダッコして、またあした!
貴史の顔も笑っている。
良かった……貴史の具合は大丈夫のようだ。美菜子の胸に安堵感が広がった。
伸朗の死以来、美菜子は病気に敏感になりすぎていたのだ。とりこし苦労をして
いた自分が滑稽にも思えて来るのだった。
「明日、保育園やすんでいい?」
貴史にそう言われた時、ハッとして美菜子は食事の後片付けの動きを止めた。
保育園で見せた笑顔は、ただ遊んでいるから元気だったのであって、本当は、
風邪をひいているのだろうか。
「熱でもあるの?」
そう言って、貴史の額に手を当ててみて、自分の額にも手を当ててみる。どち
らの熱も特別変わらないようだった。
「ううん」
「じゃあ、お腹でも痛いの?」
「違う……」
「だったら、どうしたの? 急に休みたいなんて言い出して……友達とでもケ
ンカしたの?」
今度は貴史は何も答えなかった。貴史は自分に似たのか普段からものをはっき
り言う方ではない。だから、保育園で子供同士のケンカがあったとしても、すぐ
報告するような子ではないのだ。
美菜子は一応熱を計ってみることにし、食器棚の上にある薬箱の中から体温計
を取り出して、貴史の脇の下にはさませた。そして、食事の後片付けを続けた。
しばらくして、貴史が声を掛けて来た。
「お母さん、ピッピーって鳴ったよ」
貴史の声に促されて、体温計を取りだし、表示された数値を見てみると、36
度2分、貴史にしては平熱だった。
どうして保育園を休みたいと言い出したのだろう。普段は友達と遊べるからと、
喜んで出かけるのに……やはり、友達とケンカでもしたのだろうか。美菜子には
いくら考えてもその訳はわからなかった。
「ねぇ、どうしてなの? 理由を言わないと休む訳にはいかないの。本当に休
まなくちゃいけないんだったら、お母さん、保育園の先生に電話しなくちゃいけ
ないでしょう」
貴史はそれには答えず、困ったように考えているふうだった。
「理由を言わないんだったら、休むわけにはいきませんからね」
そう、釘を刺して、食器を流しにはこび続けた。
貴史が言葉を話すようになってから、今まで一度も聞いた事に答えないという
ことはなかった。美菜子は貴史が話さないということにとまどっていた。
食事の後片付けが終わった頃、貴史は言い出す時期を考えていたのか口を開き
始めた。
「あのね……」
「どうしたの?」
「電話番号」
「電話番号がどうしたの?」
「保育園でね、毎日、みんなの前で一人ずつ、自分の家の電話番号言うんだ。
それがね、あしたは僕の番なんだ。僕、電話番号、言えない……」
「それで休みたいって言い出したの?」
「うん……」
たぶん、保育園の先生は子供が迷子になった時、電話番号を言えればすぐ連絡
がとれる、そうすれば安心なのだ。だから、子供に電話番号を覚えてもらおうと
いうのだろう。
しかし、美菜子は勉強の事は小学校に入ってからでもいいと考えていたので、
貴史に自宅の電話番号は教えていなかった。
数がようやく90まで数えれるようになったばかりで、まだ4歳になったばか
りの貴史には読み書きは教えていない。
貴史はこれから明日の朝までに、自分の家の電話番号を言えるようになるだろ
うか……それとも、貴史のいうように休ませてしまおうか……美菜子は困ってし
まった。
(つづく)