AWC 「流れ雲」         浮雲


        
#2585/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ     )  92/12/24   5:57  ( 78)
「流れ雲」         浮雲
★内容
   *
 槍、常念、穂高を背にして、「あずさ32号」は定刻通りに松本駅をすべり出
た。
 冬の信州は、とっくに夕闇に包まれてしまっていた。
 車掌の多弁な車内放送をうとましく感じながら窓の外に目をやっても、そこに
あるのは、いくつかの弱々しい灯りと、疲れ果てかさかさと乾いた音を立てる自
分の顔ばかりであった。
 10分たらずで塩尻に着いたとき、雪子は、わたしはここで降りるべき人間な
のだ、そんな脅迫観念に襲われ、少しも暖房のきいていない車内で、ぶるっとか
らだを震わせた。
 塩尻駅から中央西線に乗り換えれば、あの上松に行ける。

   *
「あはは、あはははは」
 ああ、うらやましい。ママが、口をおさえるのも忘れて笑うのを見て、それが
自分であったならどんなに楽しいことだろう。わたしは、いつになったら、こん
なふうにわれを忘れて笑いころげることができるのだろう。
 雪子は、下唇をぎゅっ、と噛むと、あごをひいた。
「どうして男の人は、すぐそこに結びつけるのかしらね」
 わざと眉をひそめてみせた。
「おほ、さっちゃんのおとぼけがはじまったよ」
 馴染みの片山が、どろりとした眼で口をひんまげた。
「それにしてもよ。男のは゛あれ゛で、女のは゛あそこ゛っていうだろ。変だよ
な、うん」
 たばこの煙の向こうで、黒田が、頭を振った。
「ばかね、出ているのと、へこんでいるのとの違いよ。あははは」
 ママがそう言うと、一同、大きくうなずいたからたまらない。
 雪子は、いつだったか、三浦のなんとかマリンパークで見た、「魚の学校」の
ことを思った。スピーカーから流れる女の子の声に合わせて、右へ左へといっせ
いに動く小魚の群れは、それは、たしかに「学校」そのものだった。
 上松の駅から歩いて3分たらずのうす暗い露地裏に、月の明りを避けるように
して建っている「来夢来人」は、その「学校」であり、わたしはそこに群れる小
魚に過ぎないのかも知れない。雪子は、自分を笑った。

   *
 塩尻からは、雪子の座った2号車には、わずか2人しか乗ってこなかった。
 雪子は、首を巡らすと、乗客の数を数えてみた。始発の松本では、禁煙車であ
る2号車には、自分を入れて7人しか座らなかった。
 あたりまえだが、どう数えても9人までしか数えることが出来なかった。
 雪子は、だれかが、どこかでこの車両を監視していて、乗客の数が少ないもの
だから、それで暖房を止めているのだ、だからこんなにも車内がうすら寒いのに
違いない、そう思うとなんだかおかしくなった。
 仕事帰りのサラリーマンはいい。缶ビールやワンカツプを開け、つまみを口に
放り、くつろいだ旅行気分を味わうことができるのだから。
 それに比べて、雪子にできるのは、窓に映った輪郭のあいまいなうすらとぼけ
た顔をにらみつけることだけであった。
 岡谷を過ぎ、上諏訪を出たとき、雪子は、右ななめ前の席に、小さなバックを
ひとつ膝の上に置いた黒いコートの女を見つけた。そのうしろ姿は、2年前の自
分のそれに瓜二つで、雪子は、息をとめて驚かなければならなかった。

   *
 もうどのぐらい彼女の背をにらみつけていたことだろう。それなのに、その女
は、ぴくりとも動かなかった。
 ねえ、わたしはさっきからこんなに見つめているよ。それを感じないはずがな
いでしょ。少しぐらいからだを動かしなさいよ。
 しかし、雪子が、どんなにいらだってみせても、その女は、ちょっと首をかし
げたままの姿勢を、これっぽっちも変えようとはしなかった。
 なんなのよ。ほんとは、何も考えてなんかいないくせに。だったら、その構え
たような格好はやめてよね。なによ、人の同情を引きたいってわけ。へん、誰が
あなたのことを気にとめているやつがいるというの。ごらんなさいよ。ろくに暖
房もきいていないこの車両に、あなたがいることだって、ひとりも気がついてな
んかいないのよ。ねえ、もうやめなさい、その首を変に曲げるのは。

   *
 茅野を出て、次の小淵沢では、リュックを背負った連中が乗り込んできた。
 彼らは、電車の中も旅程の一部であるかのように、大声を張り上げ、われ先に
座席を取りに走った。
 あっ、。雪子は、リュックの連中に気を取られ、うっかり女から眼を離してし
まったのだった。そのすきに、女の姿は消えていた。

 ねえ、どうしたっていうの。どうすんのよ、こんな時間にこんなところで降り
て。何もありゃしないよ、ここは。わかってるの。わかっていてそうしたの。
 雪子は、窓に向かってからだをねじった。そして、そこに映ったかさかさに乾
いた見も知らぬ女の顔に、口汚いののしりのことばを浴びせ続けた。

                 −おわり−
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