#2551/3137 空中分解2
★タイトル (RMM ) 92/12/18 18:32 ( 92)
隠れ家 椿 美枝子
★内容
愛なんてどこにもなかった。知っていた。人が私達を何と呼ぶか知らない、側
に居なければならない、そこに居場所があると信じた。人恋しいだけの、二人の
二十歳がそこに居た。
切り落とした友人達がさえずる五月の昼下がり、いたたまれない大学の土曜日、
必修科目がなければ来る筈もない、そうして私は彼を訪れる。そうして彼は私を
迎えた、西向きの部屋は、初めて得た隠れ家。薄暗い隠れ家。
文学を語り、音楽を語り、言葉の裏で値踏みする。距離を計り、定義をし、思
い込めば全て幸せだった。それはわからないという事と等しかった。わかる事は、
怖かった。
彼の夏の帰省を前に距離を縮めていく二人が、一つだけ知っていた事があった。
どんなに距離を縮めても、距離のなくなる事はないと。隠れ家は秋まで私のもの
になった。主の居ない隠れ家で、私は彼の肖像画を組み立てようとした。その部
屋にある本を読み、レコードを聴き、そして気付いてしまった。
私は彼を、覚えていない。顔と声は覚えていても、言葉のかけらを覚えていて
も、心の動きを覚えていない。そう、気付いた。
主の居ない隠れ家の、卓上にぽつんと詩集があった。
それは、私への伝言なのか、それともただ置いてあるだけなのか、そんな事も
わからなかった。彼が、どう考えどう行動するかを、私は、ちっとも理解してい
なかった。
その時思った、秋になれば彼を見つけ出せる、と。
秋になって戻って来た彼に、私は頻繁に連絡を求めた。彼は怒り易くなった。
どんなに二人が過ごしても、時は虚しいだけだった。
ある事柄で、二人の意見は対立した。私は光の子だった。彼は闇の子だった。
光のささない隠れ家で、私は闇を払いのけた。彼は闇を擁護した。私は幾度も光
を語った。その度に、彼の闇は濃くなり、私の光は増してゆくだけだった。
その頃から私は相談相手を見つけた。何浪もして大学院に進んだ先輩、私と彼
の共通した知人。書斎のようにきれいな陽当たりのいいマンションに住む、酒浸
りの癖に勉強家で気分屋なくしゃくしゃの巻毛に会う度、堕天使、という言葉を
思い起こす。この巻毛が堕天使なら、彼は死神。巻毛の堕天使は己の苦しみの為
に酒を飲み己を壊しながらそれでもきちんと論文を書くだろうけれど、死神の彼
は己の苦しみの為に世界を道連れに壊してしまう事を辞さないだろう。私は彼の
心の動きを覚えていなかったけれども、それだけはわかっていた、対立する議論
はそこにあった。
巻毛の堕天使に会いに、私は酒を買ってゆく、それが通行証。紳士的なその堕
天使と会って話す事は彼の事。彼の相談から雑談を経て、また彼の相談に戻って
いる。結論などないただの愚痴、しまいに酒の切れた先輩が少し不機嫌になって
そこですかさず、お邪魔しました、と私は帰る。堕天使の主張はただ一つ。
「釣り合わない。別れちまえ。」
それでも彼とは三年間も、同じ様な事を繰り返していた。一向に私は、彼の心
の動きを覚えていなかった。時折、奇妙に思える。どうして彼の薄暗い隠れ家に
私が居るのか。何故、訪れてしまうのか。会う度、議論か諍いになる二人が、三
年間も続いた事は惰性だったのか奇跡だったのかわからない。私が光を唱えれば
唱えるほど、彼の闇が深くなる。最早、彼は強い闇、私は強い光だった。
薄暗い隠れ家で、とうとう、私は刃を向けた。彼はそれを払いのけた。
卒業論文の頃だった。私は彼への、卒業試験をしたかったのかもしれない。
本当に私は光の子なのか、知らない。私の持った刃は私に向けたものだった。
彼はそうは思わなかった。彼に向けられたと思った。
本当に私は私に向けたのか、知らない。どちらでも、同じ事だった。多分壊し
たかったのは二人の居るやりきれない場だったのだ、と後で思った。
家に帰ると、留守番電話のメッセージ。誰の声か私にはわからなかった。わか
る事を拒絶していたのかもしれない。泣いていたのだ、と、後で思った。
「もうお会いする事がないと思います。論文で忙しいと、言っておいた筈です。
まだ何か話があったら、手紙にして下さい。それでは、さようなら。」
涙が出ない事が、不思議だった。ほっ、としたのは、真実だった。とうの昔に
別れていたのかもしれない、と、後で、思った。
数ヶ月後、彼が犯罪者になったという事は、巻毛の堕天使から聞いた。
彼は闇の方法に従ったのだという事は、すぐにわかった。
あの時彼に刃を向けなければ、彼は死神にならずにすんだのか、それとももっ
と何年も前に刃を向けていれば、互いに傷が浅かったのか。巻毛の堕天使は酒を
喰らいながら、あいつはそういう奴だったのさ、と言う。馬鹿馬鹿しい、考える
なよ。そんな言葉に救われながら、私は巻毛の堕天使が相変わらず紳士的な事に
安堵する。
巻毛の堕天使が、突然言う。
「扉を開けて待っているから。」
私は、思わず、聞き返す。
「お前の世界がそこで終わって、そこから俺の世界が始まるから、扉を開けて待っ
ているから。」
くるくると巻毛をかきあげながらそう言う堕天使に、私は、ここが新たな隠れ
家だった事に、そしてこれからもそうだという事に気付く。
愛なんてどこにもない。知っている。人が私達を何と呼ぶか知らない、側に居
なければならない、そこに居場所があると信じる。人恋しいだけ、けれど、それ
は始まりだと信じればいい。
信じればいい。
1992.12.16.24:00
1992.12.18.16:50
終
楽理という仇名 こと 椿 美枝子