#2314/3137 空中分解2
★タイトル (DRB ) 92/10/26 1:22 (161)
「随筆」ああ人妻ゆえに くり えいた
★内容
ああ人妻ゆえに
エレベーターである。三階で乗ってきたのは彼女だった。彼女は私に
ちょっと眼をやったが、すぐにドア近くに壁を背にしてもたれる。髪を
短くしたのか。私はというと奥の壁にもたれるようにして両手をポケッ
トに入れる。他には誰もいない。階を示すオレンジ色の掲示板の数字に
じっと眼をやる彼女の横顔は少し丸みを帯びて、痩せ気味だった以前よ
りずっと愛らしい。私もただただ数字を見つめる。何が彼女に変化を与
えたのかを考えると奥歯がきりりと痛んだ。エレベーターの動きが遅い
と思う。私は静かに大きく息を吸い込んで彼女の空気を呼吸する。でき
るだけゆっくりとゆっくりと吐き出す。
恋の話である。ここで質問。AとBなる男性がCなる女性に恋をし、
最終的にC嬢はAと結婚をした。さて、この恋の勝利者は誰だ。
こういう場面を想定しよう。AはCを見せびらかすために自分の庭園
でお披露目の屋外パーティーをやる。会場にはAの取り巻き連中が沢山
出席している。そのパーティーの席上にはAに従う者の一人としてBも
いる。そしてAはBの兄でもある。紫草が一面に咲き匂うこの庭園はま
さに一触即発である。
【人妻Cの言葉】
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
ムラサキノ シメノ ノモリ
(万葉集巻一20)
【弟Bの言葉】
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
ムラサキ イモ
(万葉集巻一21)
【兄Aの言葉】
……………… (記録になし)
これでは何の事か現代人には一読してわからないので、一応参考まで
にオーソリティーの解釈による大意を付けてみよう。さて貴方はこれを
読んで彼らの言わんとすることが理解できるだろうか。
【人妻Cの言葉】
紫草の生えている野、御料地の野をあちらこちらにゆき・・・まあ、野
守が見はしないでしょうか、あなたは、そんなに袖などお振りになって。
【弟Bの言葉】
紫草のように美しいあなたが憎いのなら、すでにあなたは人妻だのに、
何で私が恋などしましようか。 (日本古典文学大系・岩波書店)
ううむ、現代語にしてもらってさえ、私など何度読んでもよくわから
ない。特にBの言葉がわからない。いったい何が言いたいのか、この変
な日本語を読んですぐわかる人がいたらお目にかかりたいものだ。「あ
なたが憎いから、人妻だから恋はしませんよ」という意味だろうが、は
っきり言ってしまおう。私はこのBの歌の現代語訳を誤訳だと思う。だ
から意味がよくわからない。心に響かない。いや、どうしてこれが万葉
に載っているのかがわからないのである。天下の岩波書店日本古典文学
大系にけちをつけてしまおう。私はこれを書いた学者がどんな偉い人だ
か知らないが、きっとらくだのももひきをはいているに違いない。笑う
とお昼に食べたニラの切れ端が歯にくっついているに違いない。きっと
見合結婚で初夜に恥をかいたに違いない。
話をもとに戻す。「人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」の「ゆゑに」を「だ
のに」「なのに」の意味にとったための誤訳である。「人妻だのに」と
意味をとると、その後には「恋などできるもんですか」という実に陳腐
な文句しか来ようがないではないか。それではあまりに当たり前すぎて
どうしてこんな歌をわざわざ残したのかよくわからない。我思う。「ゆ
ゑに」は素直に「ゆえに」でいいではないか。「ゆゑに」というのは昔
は「だのに」の意味だったのかしらんと辞書を開いてみれば、ちゃんと
古事記にも「ゆえに」「だから」の意味で使われている。
「人妻だから恋は御法度。それが正しいではないか」などと言うなか
れ。確かに肉体関係は限りなくもちづらい。だが「恋」というのは肉体
関係だけではないのだ。それでも恋は恋なのである。松山千春も歌って
いる。私はカラオケでよく歌う。話をもとに戻して彼らの歌の意味を考
えよう。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
ムラサキノ シメノ ノモリ
人妻Cの歌であるが、「あかねさす」は「紫」にかかる枕詞、特に意
味はない。でも奇麗な言葉だ。紫は天皇をシンボライズした色でもある。
「紫野」はムラサキの花を栽培する庭園である。ここは個人の所有なの
でしっかりと誰のものかわかるように囲いがしてある。これを「標野
(しめの)」と言う。ここにはムラサキグサを引っこ抜いたりする盗人
が入り込まないように番人がちゃんといる。これを「野守(のもり)」
と言う。そう、これは現在の彼らの居る場所、A所有のムラサキグサ匂
う庭園での出来事を歌っている。知ったような事を言っているが私が見
たわけではない。岩波本の解説に書いてある。
「野守」とは誰か。言わずと知れたAである。さてここで気になるの
は時の最高権力者Aを「野の番人」などと呼び捨てていることである。
夫Aは結婚してみれば、ただの管理人に過ぎなかったのだ。何の管理人
か。ムラサキグサである。ムラサキグサとは人妻C自身である。君とは
誰か。Bである。この席でも人妻Cは「袖振る」Bより未だ醒めやらぬ
恋情をひしひしと感じるのである。だからハラハラするのである。管理
者たる夫Aの手前であるから。人の畑に入り込んで袖を動かしていれば、
つまり手を動かしていれば、それは泥棒と間違えられても仕方がないか
らである。
読めば読むほど技巧の凝らされたうまい歌だと思う。さぞや名のある
歌人に違いない。さてBはこれに対して何と答えたか。
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
ムラサキ イモ
どうか何度もこの歌を声に出して読んで欲しい。素直に読めば自ずと
Bの心情が見えてくる。古典を読んだことはないが恋をした人ほど見え
てくるはずである。見えてこない人はラクダのももひきはいてなさい。
ちょっとだけ解説しておくと、最後の「めやも」は「め」が意志、希望
を表す助動詞「む」の已然形、「やも」には二通りの意味があって「反
語」を表す場合と「詠嘆」の意を表す場合がある。岩波本は「恋をする
だろうか、いやしない」と反語で意味を取っている。どちらにとるかで
意味が全然逆になる。これはさっき述べたように「人妻ゆゑに」の「ゆ
ゑに」を「だのに」ととるか「だから」ととるかにも関係している。え
えい、イライラする。「恋をしよう」なのか「恋はするまい」なのかど
っちなんだ。私は「ゆゑに」を素直に「だから」として「恋する」とと
る。なぜならそちらの方がこの歌が私に語りかける力が大きいからだ。
よくわかるからだ。さて以上の観点から私の中の奥深い所にもあるBの
心情を代弁してみよう。前述の岩波本の大意はいかに学会の定説であろ
うとひどい誤訳であるから、これをことさらに無視する。
「随分久しぶりだね。この紫草の庭園で兄とたたずむ君を見ていると
今まで以上に奇麗だ。紫は兄貴の好きな色だけど、そのあかねさす紫に
すっかり染まってしまった今の君を見ていると、かつて見たことがない
ほど光輝くばかりだ。そんな君を見るのは死ぬほど悔しいけれども、も
し僕がそんな君を恨み続けられるならば、これからも君を忘れないでい
られるだろう。君を忘れないでいられるならば、君が人妻になってしま
ったからこそ、手の届かないものになってしまったからこそ、僕は君へ
の恋心をこれから先も今まで以上に燃やしていくんだ。おそらく永遠に。
ああそれは人妻ゆえに。人妻ゆえに……」
そう、「人妻ゆえに」さらに恋は純化して深まることもあるのだ。手
が届かないゆえにますます恋が燃え上がることもあるのである。手に入
らないから彼はこれから死ぬまで彼女への恋を持続できるだろう。死ぬ
までその恋は自分のものである。たとえ会えなくなったとしても。海を
隔ててあちらでは三百年ほど前にシラノという男が従妹のロクサーヌと
いう女性に恋するあまり、自ら友人と彼女を結び付けてしまうという話
があるそうだ。この千三百年も前の我が国のこの歌、たった二行を見る
だけで矛盾ではないことがわかる。
「恋を終わらせるには干し草を牛に食わせるより簡単である。結婚し
てしまえばいい」とはよく言ったものだ。誰が言ったのかというと私で
ある。
さてここで再び質問である。AとBなる男性がC嬢なる女性に恋をし、
最終的にC嬢はAと結婚をした。さて、この恋の本当の勝利者は誰だ。
「人生の勝利者」ではない「恋の勝利者」は誰だ。「本当の恋」をつか
んだのは誰だ。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
ムラサキノ シメノ ノモリ
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
ムラサキ イモ
「失恋者」ならぬ「得恋者」諸氏よ
そういうものなんですかと問うなかれ、そういうもんなのである。
黄葉の過ぎかてぬ兒を人妻と見つつやあらむ戀しきものを
モミヂバ コ
(万葉集巻十2297)
青木得恋者無常氏に捧ぐ・くり えいた