#2309/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 92/10/25 2:39 (174)
雨の向こうに 第11章 リーベルG
★内容
11
目覚めたのはアラームの音のためではなかった。
はっと気付くと、あわてて周りを見回した。阿部は、私が眠りについたときと同じ様
に窓際に座って外を眺めている。眠る前に点けておいたろうそくは消えていた。
時計を見た。午前2時42分。1時間ほど眠った事になる。
どうやら何もなかったようだ。そう考えた瞬間、心臓が止まった。
床に転がっていた筈の大宮の姿が見えない。
まさか…。
私の耳にかすかなうめき声が届いた。事務室だ。
私は事務室に走った。阿部は私を無視して、外を眺めていた。
入り口で私は立ちすくんだ。
ソファの上で、服を脱いだ大宮がのりちゃんにのしかかっていた。のりちゃんは口に
タオルを押し込まれてうめいている。身体をくるんでいた毛布は床に乱雑に捨ててあっ
た。大宮がのりちゃんの両足を裂けんばかりに押し広げて、腰を動かしている。のりち
ゃんは涙を流しながら弱々しく抵抗しているが、大宮はそれを楽しむようにうす笑いを
浮かべていた。
頭の中が真っ白になった。体験した事のない怒りと憎悪が沸き起こった。
無意識のうちに、机の上のガラスの灰皿をつかんだ。その音が聞こえたのか、大宮が
振り返った。うす笑いが急速に消えた。
私はその顔面の真ん中に、重い灰皿を叩きつけた。
「この下種野郎!」
大宮は声も出さずにのりちゃんから離れて、事務室の床に転がった。
「のりちゃん、しっかりして」口からタオルを取り除いてやると、のりちゃんはわっ
と泣き出して、私に抱きついてきた。
激しい後悔が、のりちゃんの泣き声と共に私の心を突き刺した。私が眠らなければこ
んなことにはならなかったのだ、と思うと自分自身を八つ裂きにしてもあきたらない気
がした。毛布をかぶせてやりながら、この少女に申し訳ない気持ちでやりきれない思い
だった。
ゴフッとせき込む音に私は振り返った。
大宮が身体を起こそうとしていた。鼻が完全につぶれている。前歯は全滅したらしく
口から数本の血に染まった歯がこぼれた。これからは女を口説くのに、さぞかし苦労す
る事だろう。
よろよろと立ち上がって私をにらみつけた。目がギラギラ光っている。明らかに正常
ではない。精神科医でなくてもわかる。あれは狂気の瞳だ。
「逃げなさい」のりちゃんを後ろにかばって、入り口の方へ押しやった。のりちゃん
は毛布を身体に巻き付けて駆け出していった。
大宮はそれに目もくれなかった。燃えるような怒りの視線は私だけを見ていた。
「ごのぐそっだれべ!」大宮はわめいた。「やっでやる!やっでやるど!」
「この下種!恥を知りなさい、恥を!人間のクズよ、あんたは!」
大宮は血を吹き出してわめいた。
「ぶるぜい!ごどじでやるがらな!」
「やれるものならやってごらん」
私たちはお互いを睨みつけた。大宮はゆっくり動いて、私が逃げられないように入り
口に立った。
私はジャケットの袖からハサミを出して、右手にしっかりと握った。
大宮が一歩踏みだした。
私が身構えた瞬間、大宮の顔にあっけにとられたような表情が浮かんだ。それはみる
みるうちに純粋な苦痛に変わった。
「うぎゃあああ!」
大宮は絶叫した。裸の左胸から鋭い金属が突き出していた。
それが引っ込んだかと思うと、今度は右の胸にそれが生えた。
大宮は後ろを振り向こうとして失敗し、私の前にどさっと倒れた。背中に長い刺身包
丁が刺さっている。血が噴き出し、たちまち床を真っ赤に濡らした。
入り口にはのりちゃんが立っていた。返り血を浴びた全身が、がたがた震えている。
おびえたような目で床の大宮を凝視していたが、ふっと電球が切れるようにその目が閉
じた。身体がぐらりと倒れかかる。私はあわてて駆け寄って、かろうじて抱き止めるこ
とができた。
のりちゃんは気を失っていた。この可哀そうな少女にとって、今日1日は充分に過酷
すぎたのだ。とりあえずソファに横たえ、毛布をくるみなおすと、気はすすまなかった
が大宮を見に行った。
確かめるまでもなく大宮の脈は止まっていた。のりちゃんの最初の一撃が致命傷だっ
たのだろう。同情の気持ちは全くわいてこなかった。殺さなければ多分、私ものりちゃ
んも殺されていただろう。
私はのりちゃんの身体をできるかぎりそっと抱き上げた。大宮の死体を迂回して、事
務室から出た。ドアを閉めて血の匂いを締め出すと、のりちゃんを寝かせる場所を探し
た。事務室からソファを持ってこようかと考えたが、もう一度あの部屋に入りたくない
ので諦めた。結局カウンターの内側に背中をもたれかけさせた。
息をついて、立ち上がった途端、阿部の姿が目に入った。再び、怒りが燃え上がった
。大宮がどうやってか知らないが、戒めを解いて、のりちゃんを襲ったというのに、こ
の男は止めようともしなかったのだ!
私は足音も荒く阿部に近付いた。
「ちょっと、一体何をしてたのよ!あんたのせいで…」私は不意に阿部の様子に奇妙
なところがあるのに気付いて言葉を切った。
阿部は外の一点をじっと見つめていた。もちろん外は闇が広がっているだけである。
ガラスを通して、雨の音がかすかに聞こえる。自然のであれ、人口のであれ全く光が存
在しない。私なら数秒間見つめていれば飽きるだろうに、阿部は裸の美女が立っている
とでもいうような熱心さで闇を見つめている。私が近付いた事に気付いた様子もない。
「何を見てんのよ!」私は半ば怒りで、半ばは得体の知れない恐怖に駆られて大声で
怒鳴った。阿部は全く反応を示さなかった。
私はそっと阿部の肩に手を触れた。今度は反応があった。それも期待以上に。阿部は
まるで熱湯でもかけられたかのように飛び上がったのだ。
「貴様か」阿部はぞっとするような低い声でうなるように言った。「貴様か」
「な、何をいってるのよ」私の声は震えていた。突然、説明のできない恐怖が心を占
め、私は無意識のうちに後ずさりしていた。
「蜂め。もう一度おれを刺そうというのだろう」阿部は右手を広げた。中心が真っ赤
に腫れていた。まるで、そう、まるで蜂にさされたあとのように。大宮が、阿部が子供
の頃手のひらを蜂に刺されたといっていたことを思いだした。しかし、私は阿部にコー
ヒーを渡すとき、右手を見たのだ。その時は何ともなっていなかったはずだ。
「その前におれが殺してやる!」いきなり阿部は飛びかかってきた。反射的によけた
ものの、テーブルに足を引っかけて派手に転んでしまった。
「蜂め!蜂め!蜂め!」阿部は呪文のように繰り返しながら私に両手を伸ばした。こ
んなに可愛い蜂がどこにいるのよ!と怒鳴ってやりたかった。
私は床を手探りした。何かの瓶が手に触れた。それはフタの取れかかった醤油の瓶だ
った。必死で掴むと中身を阿部の顔面に浴びせかけた。
真っ黒な液体に目と鼻を襲われて、阿部は息をつまらせた。私はその隙に阿部に体当
たりして、そのまま逃げだした。阿部はよろけたものの、すぐに顔を拭うと私を追って
きた。完全に私を蜂だと思いこんでいるのだ。どういう神経をしているのだろう。眼鏡
を外すと、人間と昆虫の区別もつかなくなる程に乱視なの?
私は二つのことを考えながら逃げた。のりちゃんが眠っているカウンターの方へ行か
ない事、反撃できる武器を探す事である。
鬼ごっこには到底広いといえない店内で、第1の条件を守るのは不利だった。おまけ
に暗闇の中である。阿部が元の半分でも冷静だったら、あっという間に追いつめられて
しまっただろう。幸い阿部は律儀に私の通った後を正確に追いかけてくるだけだった。
第2の条件はさらに困難だった。走りながら椅子をつかもうとしてみたが、その度に
追いつかれそうになって断念した。小太りの体型の割には阿部は足が速かった。私は学
生時代、陸上部だったのでかろうじて阿部と同等以上のスピードで走り回る事ができた
が。
危険を冒して一瞬だけ振り返って見ると、阿部は機械のように無表情な顔で私を追い
かけていた。憎悪をむき出しにされた方が、よほどましだ。心の底からぞっとした。
いくつもテーブルを倒し、椅子をはねとばしながら、無言の追いかけっこが続いた。
自分でも善戦したと思うが、とうとう床に転がったソースの瓶に滑ってしまった。大き
くバランスが崩れ、倒れた椅子の上に叩きつけられた。背中をいやというほどぶつけ、
一瞬呼吸が止まった。
阿部が襲いかかってきた。私の手をかいくぐって、太い指が首にかかった。力がこも
るのがわかった。すぐに気管が圧迫され、呼吸が困難になってきた。
私は必死で両手を伸ばし、手あたり次第に阿部の顔を引っかいた。阿部は意に介さず
私の喉を押しつぶす事に集中していた。口の中で呟きながら。
「蜂め!死ね死ね死ね死ね死ね!」
目がかすんできた。肺が空気を求めて過熱しているようだ。心臓がうるさいくらい激
しく打ち続けている。意識が遠くなりそうだ。私の左手は力なく床に垂れ、右手が阿部
の髪の毛に引っかかっているが、もはや抵抗する体力が消えかけていた。
ピー!ピー!ピー!
突然、甲高い電子音が、私と阿部の荒い呼吸をかき消して鳴り響いた。
どちらがより驚いたかはわからない。とにかく阿部はおびえたように手を緩めた。呼
吸をする間もなく、私は渾身の力を振り絞って阿部を突き飛ばした。阿部はあっけなく
後ろに転がり、私は立ち上がってむせかえりながら、新鮮な空気を飢えた肺に送り込ん
だ。首がひきつっている。あざになったかもしれない。
電子音は私の右手首から発していた。午前3時にセットしておいたアラームだった。
このアラームはもともとそういう設計なのか、単なる故障なのか、とにかく音が異常に
大きいことで、私の知人の間で有名だった。なまじの目覚まし時計ではかなわないほど
甲高い音をさえずるのだ。一度セットしたのを忘れていて、客先で鳴り出したときなど
そのフロアの全員の注視を浴びてしまい、穴があったら入りたいくらいだった。何度か
新しい時計に替えようと考えたが、そうしないでよかった。
阿部は私が深呼吸している間に立ち上がろうとしていた。私は周りを見回した。壁に
消化器が置いてあるのが目に止まった。私は走った。
壁にたどりついて消化器を外した。中身を阿部に浴びせかけてやろうと思ったのだが
振り向いた途端に、無表情な能面のような顔がすぐ近くに迫っていることに気付き断念
した。代わりに赤い消化器そのものを力一杯叩きつけてやった。
阿部は消化器を受け止めた。しかし、そのはずみでバランスを崩し、床にこぼれてい
たソースで足を滑らせて倒れた。空中で身体が反転した。反射的に受け身をとろうとし
たのだろうが、自分の身体で消化器を床に叩きつける結果となった。
短い噴出音とともに、消化器が作動した。レバーを押しつけてしまったのだろう。白
い粉末が噴き出し、阿部の顔にまともに浴びせかけられた。ノズルの先端がちょうど正
面に位置していたのだ。
消化器は10秒ほど粉末を吐き出して、唐突に止まった。阿部の上半身は真っ白だっ
た。一夜で年をとったように髪の毛も白く染まっている。うつ伏せに消化器を抱きしめ
るような格好でぴくりとも動かない。
消化剤が漂う中をおそるおそる近付いてみた。気を失っているようだ。足を伸ばして
つま先で阿部の身体を転がした。阿部の大きく開かれた口の中は消化剤がぎっしり詰ま
っていた。鼻の穴も同じである。
このままでは窒息してしまうだろう。まだそうなっていないとしてだが。私は阿部の
頭を抱え込むと後頭部を思いきり叩いた。
ぶほっ!阿部の口から消化剤がひと塊吐き出された。同時に呼吸活動が再開したらし
く、阿部は苦しそうに咳きこんだ。その度に唾液に混じった消化剤が床を汚した。
私はその間に立ち上がると、転がっている消化器を拾い上げた。そして気付かれない
ように背後に立った。
ようやく正常に呼吸ができるようになったらしく、阿部は大きく深呼吸した。その瞬
間を選んで、私は消化器を阿部の脳天に振り降ろした。死なない程度に加減したつもり
だったが、私の力では気絶させるにも足りないかもしれない。そう考えて、第2撃のた
めに再び消化器を持ち上げたが、阿部はあっさり意識を失ってくれた。
私はそれを確認すると、大急ぎで阿部の手足を縛りつけた。タオルだけでは抜け出さ
れた実績があるので、電話のコードを包丁で切り取ってきて、それも使った。さらに周
囲からガラスの破片などを完全に取り去った。
阿部の手のひらは何の痕跡もとどめていなかった。私はどこかで読んだ話を思いだし
た。十字架に架けられたキリストと同じ部分に、釘を打ちつけられたような痕が現れる
という、熱心な信者の話だ。聖痕と呼ばれている。精神が肉体をコントロールするので
あって、その逆ではないというわけだ。
ようやく一息つける。カウンターに崩れるように座り、缶コーヒーを開けた。その途
端、忘れていた疲労が急速に襲ってきた。口をつけないまま缶を押しやって、私はカウ
ンターにつっぷした。猛烈な睡魔に身を委ねることにしたのである。
願わくば悪夢をみませんように。