AWC 異郷のふるさとの一本の樹   やまもも


        
#1927/3137 空中分解2
★タイトル (LYJ     )  92/ 7/ 5  14:22  ( 53)
異郷のふるさとの一本の樹   やまもも
★内容

 風に吹かれて波打つ稲穂の群のずっと向こうに小高い丘があり、そのてっぺ
んにぽつんと一本立っている松の木。そして、その上をトンビがのんびりと輪
を描くように飛んでいる。そう、それが私の原風景なのかもしれない。

 私は無性にこの懐かしい風景のなかに立ち戻りたいと思った。幼い日の思い
出に優しく包まれて、心の傷を癒したいと思った。そうしよう。夫の浮気、醜
い言い争い、そして離婚…。そんな忌まわしい過去をきれいに忘れ、新しい旅
立ちのために、家の前の丘に立っていたあの一本松に会いにいこう、あの懐か
しい場所に戻ろう。私が2才から7才までの幼ない時代を過ごしたあの土地、
あのふるさとだけが私を優しく迎えてくれるに違いない。

 私は見知らぬ駅に一人降り立った。駅前の賑やかな商店街も、私の思い出の
ふるさとの情景とは無縁のものであった。私は途方に暮れてしまった。この大
通りのどちらに歩いていけばいいのだろうか。私は異郷の街に迷い込んでしま
ったのだ。私は駅前の一軒のたばこ屋さんで小学校へ行く道をたずねてみるこ
とにした。ふるさとさがしの手懸かりになるものは、幼い頃に通った小学校ぐ
らいしかなさそうであったから。たばこ屋のおばさんの話だと、その小学校は
ここからかなり距離があり、バスかタクシーに乗って行った方がよいとのこと
であった。

 タクシーは、コンクリートで固められた4階建ての大きな小学校の正門に横
付けされた。私が通ったあの懐かしい木造校舎など影も形もなかった。運動場
の周囲の桜並木も校舎の前の大きなプラタナスの巨木も消えていた。

 だが、タクシーの運転手さんのの話では、この小学校はこれまで一度も移転
したことがないという。私は周囲の人家を見渡した。全く見覚えがない。しか
し、学校の正門が昔通りの位置ならば、ここから左にずっと行けば大きな川が
あり、そこに懸かっている橋を渡ってから、さらに左に曲って川沿いの道をず
っといけば私の昔の家にたどり着くはずである。私は記憶をたどって歩きだし
た。しばらく行くと、河岸をコンクリートで固めた小さな川と小さな鉄の橋が
見えてきた。私は橋を渡り、左に曲った。しかし、依然、私は見知らぬ土地を
歩き続けねばならなかった。どこを向いても人家がぎっしりと建ち並んでいる
ばかりであった。モダンな造りの家が多かった。

 だが、私は前方を眺め直してはっとした。あったのだ、道の左手に楠の大木
があったのだ。この楠のことは、なぜかすっかり忘れていたのだが、しかし、
そうだ、確かに小学校への通学路に大きな楠があった。あの樹に違いない。私
は駆けるようにして樹に近付いていった。

 大きく葉を繁らせた楠の大木。確かにこの樹だ。周囲の風景はすっかり変わ
っており、私の昔の家があったと思われるあたりにはアパートが建っていた。
丘も一本松もなかった。しかし、この楠だけは私を待っていてくれたのだ。

 そうだ、雨の日の帰り道、ここでよく友達と雨宿りをしたっけ。小学校の行
き帰り、いつも楠は黙って道の端に立っていた。父に連れられて近くの神社の
宵祭に出かけたときに、先を歩いていた父がこの樹の影に隠れて私を驚かせた
こともある。父の姿が見えなくなって、不安になって泣きながら駆け出した幼
い私は、この楠の木の大きな根っこにつまずいて転んでしまったものだ。あの
とき、私を助け起こしてくれた父の大きな手。その暖かい大きな手の感触。神
社の笛や太鼓の音までが鮮やかに蘇ってきた。あの優しかった父はもうこの世
にはいない。私は楠の大きな幹の木肌にそって手をあて目を閉じた。





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