AWC 静寂の時間                   木村ガラン


        
#1629/3137 空中分解2
★タイトル (AJC     )  92/ 4/30   2: 4  (177)
静寂の時間                   木村ガラン
★内容

 僕らは線路添いの道をどこまでも歩いていく。後方から山手線がやってきた。その列車には笹川さん達が乗っていた。笹川さんは窓から身を乗り出して、僕らに手を降っている。僕はそれに気が付いて驚いた。彼はなんということをするのだろうか。そんなことをしたら、車両内が水浸しになってしまうではないか。

 くぁ、ゃうゅ……

 この奇妙な音は僕の口から発せられたものだ。僕は彼に声をかけようとしてしまったのだ。僕はここが水中なのだということを忘れていた。まだ僕の肺の中に残っていた最後の空気が、一固まりの泡となって遥か上方の水面にゆっくりと昇っていった。その向こうには今でも太陽が輝いているはずだ。とにかく、水中にいる僕には、言葉を発するなんてできない事だった。仕方がないので、僕は大きく手を振って彼の愚行をたしなめようとした。今ならまだ間に合うはずだ。

 すると、笹川さんは窓を閉めずに、逆に、更に勢いよく手を振った。その様子はひどく楽しげだった。どうやら、彼はなにか勘違いしているようだ。

 僕はさらに別のジェスチャアを試みようとした。だが、列車の速度はいくら水中とはいえ、やはり、かなりのものだった。だから、僕らになにかをする時間はなかった。上機嫌の笹川さんは大きく唇を動かして、僕らになにかを伝えようとしている。

 きみは読唇術ができるかい、と僕は振り返って、君に尋ねた。口には出せないので、目による意志疎通だ。つまり、僕はそう考えながら君を見たんだ。
 君は僕の目を見返した。冷ややかな君の目は無機質なガラス玉の様だった。僕はそれを、とてもきれいな球体だ、と思う。それはオパールの原石のように水中でしか輝かない宝石だ。地上に居たときよりもずっと綺麗な君の瞳だった。虹色に輝いていた。

 そうだね、と僕は頷いた。僕らは読唇術ができない。だけど、できる必要もない。そう君の瞳は言っているように思えた。

 振りかえると、まだ、笹川さんは大きく口を動かしてなにかを言おうとしていた。
 えーと、…オ…ズ、いや、オ・ゾ…、かな、ふっ。

 僕には、やっぱり、よく分からなかった。笹川さんには気の毒だと思うが、彼の表情がおかしくて、僕は少し笑ってしまった。だが、彼は僕の笑顔で安心したようだ。僕らに自分の言いたいことが伝わった、と思っているのだろうか。僕はもう少しだけ笑って目を伏せた。

 そして、笑顔で手を振る笹川さんを乗せた山手線は、そのまま、僕らの横を通りすぎていった。車窓からはすごい勢いで海水が車両内に流れ込んでいた。きっと車両内では大きな音がしているだろう、と思う。だが、意外なことに車両内の乗客たちはそのことに関心がないようだった。

 濁流が流れ込んでいっても、北本さんは手にしたスポーツ新聞から目を離さなかった。水位が上がって、膝の上に来たとき、新聞の端が濡れた。北本さんは、ちっ、と小さく舌打ちをして新聞を少しだけ持ち上げた。
 加藤さんと、神崎さんは若いお母さんたちだ。どちらも可愛らしい赤ちゃんを抱いている。二人は楽しそうにおしゃべりをしている。海水が流れ込む濁音がうるさいので、その声はだんだん大きくなっていく。二人のふっくらと膨らんだ胸の辺りまで水面が来ている。淡い色の柔らかい布で包まれた赤ちゃんはその下になっている。だが、二人ともお喋りに夢中でそのことに気が付かないようだ。
 石川さんはシートに持たれかかって眠っている。水面は彼の口の上のところまで来ていた。だが、熟睡した彼は、目を醒ましそうになかった。
 その他にも、たくさんの乗客たちがいたが、一様に、このことには関心がないようだった。

 たまたま近くを泳いでいたグレンフィッシュたちが、うねる水流に巻き込まれて、クルクルと回転した。だけど、列車が通過してしまうと、彼らは何もなかったかのような澄ました顔で、どこかに泳ぎ去っていった。

 僕らは線路脇に細長く続く土手に腰を下ろした。笹川さんたちがどうなったのか興味があったので、またその環状線を走る列車がやって来るのを待つことにしたのだ。

 僕らが腰を下ろしたこの辺りの土手一面には、黄色い草花が咲いていた。僕は君にその名を尋ねてみた。君は少し意外そうな顔で教えてくれるだろう。そのほっそりした首をちょっと傾げているかもしれない。ああ、僕は花の名前をよく知らないんだ。まあ、これは菜の花よ。こんなの誰でも知ってるわ。そうかなあ、僕は不覚だったなあ。そして、僕らは少し笑いあうことができるはずだ。そうなんだ。君に何かものを尋ねるのは楽しいことなんだ。

 君の二つのオパールには虹色に光る菜の花が映っている。その君の瞳の色が素朴な花の色を複雑なものに変えているのだ。

 菜の花、そうだね。僕は納得する。そういう名前だったね。

 ゆらゆらと揺れる菜の花には、もう、蜜蜂はやってこない。代わりに小さな熱帯魚たちが集まっている。彼らの体は、ときどき、尾をひねった時日光を反射して、ビカリビカリと光った。

 水中に沈んで初めて、菜の花は本来の美しさで咲くことができるように思われた。だけど、それよりも更に、君の瞳に映したこの花の方がきれいだと思った。だから、しばらく僕は君の瞳の中ばかりを覗いていた。そこには歪んだ菜の花と一緒に、僕の顔も映っていた。僕の顔も、やっぱり不思議な感じがした。しばらくの間、僕は君の頭を両手で軽く抑えて、菜の花と熱帯魚たちと僕の姿を見ていた。君はその間、一度も瞬きをしなかった。
 どうして君は、僕は瞳で尋ねた。瞬きをしないんだい。

 君は動かない。その瞳はあくまで涼しく、青色や、銀色や、緑色なんかが複雑に絡み合った菜の花を映している。

 なんだ、そうだったのか。僕は納得した。水中だから、目が渇くことはないんだな。
 この会話は菜の花を見ているのとまったく同じ状態で行なわれた。

 菜の花はゆっくりと揺れている。水中にも風のようなもの吹いているんだ。その風を受けるのは僕らも同じことだ。僕らも一緒にゆらゆらと揺れている。

 僕は立ち上がった。さあ、行こう。そして、僕は君の手を引いた。僕はズボンに付いた芝を軽く落とした。君の後ろを見る。
 君は大丈夫だね。何にも付いてないよ。
 君はちっとも汚れてなんかいないからね。

 水中をゆっくり漂い始めた芝の破片は、遠い日の光を反射して、キランキランと光った。その光り方は植物というよりは、金属に近いような気がした。

 いいかい、僕は君に言った。これは銀の鳥の削りかすなんだ。
 君の瞳は、今度は、ゆらゆらと日光を反射する芝の破片を映しはじめている。やっぱり、その銀の芝は、さまざまな青色や、さまざまな緑色で光っている。僕はいろんな話を即興で作っては、君に聞かせることも好きなんだ。あのさ、

 ずっと昔、ヒマラヤの麓のラジャスターンという町に、ムハメド・ジャイプールという男がいました。当時のこのラジャスターンという町は銀製品の加工でたいそう栄えてました。たくさんの銀細工の職人がいましたが、ジャイプールはその中でも腕のいい職人でした。彼は家族に囲まれて楽しく毎日を送っていました。そんなある日、バラモンからお使いがきました。
   世界でいちばん美しい銀の鳥を作ってみよ、褒美は望み次第じゃ。
 ジャイプールは困りました。巨万の富は欲しいけれど、
   作ることあいかなわぬときは、その命貰い受けるぞよ。
 妻も子供も反対しましたが、ジャイプールはこの仕事を引き受けることにしました。莫大な報奨金も魅力でしたが、彼は、そんなことよりも、
   ああ、私は世界一のものが作ってみたい。それを作ることができるなら、
   私は死んでもかまわない。
 ジャイプールは作業場で、大きな銀の固まりにのみをふるい始めました。たがねに削られた銀の屑が宙に舞っていきます。ジャイプールの命懸けの作品から出る銀の削り屑は、大きな太陽の光を受けて、光ります。

 それが、この銀なのさ。
 君の瞳のなかで、まだ、ゆらゆらとジャイプールの魂は光っている。それを餌と間違えた小魚たちが集まってきている。
 ああ、結末かい、僕は答える。どうなったんだろうねえ、何しろ遠い遠い昔のことだからね。そんな鳥の置物を僕は見たことないけど、どこかのお寺の奥深くに閉まってあるのかもしれないね。

 小魚たちはそれが、餌でないことが解って、またどこかに泳ぎ去っていった。
 閉まってあるといいね。そうさ、それは、きっとどこかに大切に閉まってあるはずさ。
 だが、僕には討ち首にされて転がるジャイプールの首が、ありありと見えるようだった。

 しばらくの間、僕らは浮遊感を楽しみながら歩いていった。そして、駅にやってきた。カバンは向こうに置いてきてしまったから、僕らは二人ともお金を持っていなかった。だけど、念のために探った僕のポケットの中には、古い切符が入っていた。僕はそれを握って改札を通り抜けた。改札口には誰も居なかった。駅員の帽子が窓口の機械のスイッチに引っ掛かって、揺れていた。そして、僕らはプラットホームに上がって列車を待ち始めた。

 構内に貼られたポスターはほとんど剥がれてしまっていたが、幾つかはまだ壁面でその役割を果たしていた。「白河郷温泉ツアー 二泊三日 お一人様36800円より」左上の角を止めていた画鋲がないので、ポスターの角が垂れ下り、残りはよく読めなかった。出発はいつだったんだろうか。彼らは間に合ったんだろうか。

 やがて、電車はやってきた。どうやらこの車両しか走っていないらしく、さっきと同じものだった。車両内には笹川さんたちがきちんとシートに座っていた。彼らは、腐乱した水死体となっていた。あの時からどれくらいの時間が経ったというのだろうか。それとも、時間には関係ないのだろうか。

 ドアが開いた。だが、降りる者は居ないようだった。だから、それは僕らを待ち受ける乗車専用のドア。

 もう、安心だね。僕は笹川さんたちの変わり果てた姿を見て、君に言った。もう二度と、彼らは窓から手を降ることはないからね。すると、僕の君は優しく微笑した。

 ジリリリ……

 発車のベルが鳴り始めた。ここは音のない世界なのに、確かにどこかでベルが鳴っている。その音は遥か遠いところから聞こえてくる。

 僕らはベンチを立った。きっと、そこでは大きな太陽が強く輝き、銀の鳥が高く羽ばたいているのだろう。

 僕らは電車に乗り込んだ。開いているシートに君を座らせ、僕が笹川さんの隣のシートに座った。その時、笹川さんの体に触った拍子に、僕の左腕は付け根からもげてしまった。僕が右腕で肩口を押さえようとした時、ドアが閉じた。乗務員の居ないこの電車は再び静かに動き出した。その小さな振動で、君の顔から眼球がこぼれ落ちて、車両内を静かに漂い始めた。もう動くことを止めた僕は、それを黙って眺めている。そして、僕らは、いつまでも、この街を巡り続けていく。
                                 終




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