AWC お題>「レモンの皮をめくると海が見えた」 /えびす


        
#1495/3137 空中分解2
★タイトル (SEF     )  92/ 3/ 6  21:47  (124)
お題>「レモンの皮をめくると海が見えた」 /えびす
★内容

   「レモンの皮をめくると海が見えた」

                              えびす

「レモンの皮、めくってみたことある?」
「は?」
 ぼくは読みかけの漫画雑誌から顔を上げた。
 校正用の赤鉛筆をいじりながら、部長の楠木さんが頬杖をついて面白そう
にこちらを見ている。彼女の前には来週発行予定の校内新聞の試し刷りが置
いてある。
 学校の中でおおっぴらに漫画が読めるというので入った新聞部。ぼくの通
っている高校では、一年生は必ず部活に入らなくちゃいけないから、ぼくは
しかたなくここを選んだ。運動は苦手だし、どうせ一年でやめてしまうつも
りなんだから適当にたらたらやっていられる部がいい。この部でのぼくの担
当は漫画評だけれど、月に四〇〇字詰めで三枚書くだけだからたいした量じ
ゃない。
「ある? レモンの皮、むいたこと」
 もういちど楠木さんが言った。彼女は時々、ぼくに唐突な質問をして楽し
む。たぶん今回もその類の遊びなんだろう。この人、男みたいな短髪にして
たりして変わってるな、とは以前から思っていたけど、まあ文芸かぶれの新
聞部女部長ってのは案外みんなこんな感じなのかもしれない。
 部員五人のうち、部長一名、幽霊部員三名、おまけに顧問の先生はたまに
しか来ない……ぼくはまだましな方だ。漫画評以外はみんな部長の楠木さん
がひとりで書いている。独りでこなすには膨大な量だが、それでも彼女は毎
月きっちり校内新聞を発行している。
 彼女のこの情熱はいったいどこから来るのだろう。
「レモンの皮……ですか?」
「そう」
 レモンの皮をむいたこと……あっただろうか? 添え物としてはたいがい
輪切りになって出てくるし、ぼくは喫茶店や飲み屋でバイトした事はないか
ら。丸のままのレモンは、へたをすると手に持ったことすらないんじゃない
だろうか。
「たぶん、ないと思いますよ」
「あ、そう。やっぱりね」
 そう言って楠木さんはふたたび校正をし始めた。しばらく待ってみたけど
レモンの皮についてそれ以上話が進展することはなかった。

「ねえ、レモンの皮、むいたことある?」
 映画館を出てしばらくして、亜希子が言った。
 ぼくがまあまあのレベルのこの大学に入ったあと、すぐにできた彼女だ。
もう付き合って半年くらいになるだろうか。
 亜希子は変わった子だった。彼女、一浪してからこの大学に入ったのだけ
れども(もっとも、ぼくは二浪した)、浪人中は暇をみつけてずっとダンス
のレッスンを受けていたそうだ。昔『ガラスの方舟は南へ向かう』ってアメ
リカ映画があったけど、ダンサーになってあんな映画に出たい、とか言って
いた。今でも週に三回、一回につき六時間くらい練習しているらしい。ミュ
ージカルのオーディションの類なんかもちょくちょく受けたりしているよう
だが、まだいちども採用された事はないという。
 しかしまあたいした情熱だ。
「どうして?」
 とりあえずそう反応しておいた。たしかに亜希子は少しぶっ飛んだ思考を
する子だけど、ここまでいきなりなのは初めてだと思う。レモンの皮? さ
っき観た映画にレモンでも出てきたのかな? 思い出そうとしたが、めんど
くさいのでやめた。そんな事よりも、この後どういう展開でホテルに入るか
って事の方がぼくにとっては重要な事だ。
「べつに。なんとなくそう思っただけ。で、どうなの? レモンの皮、めく
ってみたことある?」
「さあ。たぶんないんじゃないの」
「そっか。たぶんそうだとおもった。――でも、あたしはあるわよ。いちど
だけ、ね」
「ふうん」
 レモンに関する話はそこでなんとなく立ち消えになった。だいたい、レモ
ンがどうしたこうしたなんてのは、いちいち覚えていられないくらいのどう
でもいい事だ。
 この後、ホテルはやめて結局いつものように自分の下宿で亜希子を抱いた。

「課長、レモンの皮をむいたこと、あります?」
 僕が煙草を一服していると、隣にねそべっている裸の良子が思い切り伸び
をしながら言った。いつもながらの色っぽい声だ。ぞくぞくする。もっとも、
妻には内緒の不倫だから、という事もぞくぞくする原因のひとつなのかもし
れないが。
「それがどうかしたのかい?」
 良子が上半身を起こす。
 僕はベッドわきのテーブルの上にある灰皿で煙草をもみ消した。良子自身
は煙草は吸わない。僕はこの灰皿を自分のために買って良子のマンションに
置いた。週末にはここに必ず来るから。
 灰皿のそばにはワープロが置いてある。少し古めの機種だった。
 どうやら良子は小説を書く事を趣味にしているようで、いろいろなところ
に投稿もまめにしているらしいのだがまだいちども原稿が採用された事はな
いという。没になった原稿は、合計すると四〇〇字詰めで千枚は越えている、
というような話を彼女から聞いた。この量には少し驚いた。まあ女っていう
のは夢見がちな生き物だから、という事のあらわれではあるのだろうけれど
も。
 しかしこれはなかなかの情熱だとは思う。
「いいえ、たぶんないんじゃないかな、って思ったから」
「どうしてそう思えるんだい」
「口では説明しにくいわ」
 裸のまま、良子はシャワーを浴びにすたすたと行ってしまった。
 変な奴。まあ、身体の方は最高だからべつに性格が多少悪かろうがどうっ
て事はない。女なんてのは抱き心地さえ良けりゃ、それでいい。人形みたい
なものだ。女に対して、他に何を望む必要がある?
 一服し終えると、激しい運動の疲れからか、うとうととしてきた。もちろ
ん、眠りにつくころにはレモンの皮の話などどうでもよくなっていた。


 ――そろそろ臨終だ、というのは自分でも分かった。息をするのがめんど
うになってきたからだ。まあ畳団の上で死ねるのだからよしとする。人生、
可もなく、不可もなく、むしろたいがいの人よりはいい生活をしてきたつも
りだ。
 人生……自分が送ってきた人生の事を考えたとたん、何故だか酸っぱい物
が食べたくなった。死ぬ間際、酸っぱい物が食べたくなるなんて変だろうが
食べたいものは食べたいのだからしかたがない。息子の嫁にそう言うと、彼
女はレモンをひとつ持ってきた。
 それを見た瞬間、あッ、と思った。
 レモン。
 酸っぱいものっていうよりはレモンが欲しかったんだ。レモンじゃなきゃ
あだめなんだ。ああ、ぎりぎりのところで思い出しちまったなあ。
 嫁が果物ナイフでレモンを輪切りにしようとしたので、慌てて止めた。
「待った、それは自分でやる。まるごとくれ」
 嫁は怪訝そうにレモンを渡してさっさと向こうに行ってしまった。冷たい
嫁だ。
 干からびた手でレモンの皮をめくってみた。案外、力が要った。ぺろん、
とはがれた黄色い皮の下を覗く。
「ほう」
 皮の下にあったものをみても、出た言葉はたったのそれだけだった。しか
しいまわのきわでなければもっと違った感情をおぼえていた事だろう。まっ
たく惜しい事をしたもんだ。ほんとうにもったいない事をしたもんだ。
 とえあえず、苦笑してから死のうと思う。
 どうしたらいいか、他に何かいい案があったら教えてくれるか?


                           【おしまい】





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