AWC 「迷える仔羊」(2)     ニーチェ


        
#1461/3137 空中分解2
★タイトル (NJF     )  92/ 2/22   0:14  (195)
「迷える仔羊」(2)     ニーチェ
★内容

−3− 田口という仔羊

 そいつはただ、僕より年を取っているだけのように見えた。表札
と同じようにやはり神経質であることを隠そうともしない、その仔
羊には似合いの眼鏡をかけていた。
 実はもっと目が悪いくせに、それだけには気を使ったらしい薄め
のレンズの中には、蝋人形のような小皺が目立った。
 扉を開けたとき小さな声で、やっと絞り出したように息だけで、
はいと言った。
 「下に越してきた渋木といいます」
 彼は終始おどおどしていた。世の中のすべてにおびえているよう
に見えた。突然訪れた狼の来襲に驚いたのでなく、彼は明らかに迷
える仔羊だった。僕の言う言葉に続けて、彼は同じように息だけで、
はいと言った。何かに怯え、何かに媚びているように返事をするこ
の男に似たやつを、僕はどこかで見たことがある。テレビドラマの
中だったかもしれない。
 彼には取り付く島もなかった。何を言っても、はいとしか答えな
かった。
 「高校の先生だそうですね」
 「はい」
 「教科は国語か、何か」
 「はい」
 「高校生は大変でしょうね」
 「はい」
 「最近は恐いから」
 「はい」
 「授業とかやりにくいでしょう、特に男子は」
 「はい」
 「共学ですか」
 「はい」
 「女子はいかがですか」
 「はい」
 「男子よりはましかな」
 「はい」
 「でも中学生と比べたらね」
 「はい」
 「中学生の方が素直だから」
 「はい」
 「でも構内暴力とか言われてますね」
 「はい」
 「高校ではいかがですか」
 「はい」
 「目立ったことはないかもしれないけど、高校になるとやる時は
派手だから」
 「はい」
 言いながら僕は、こいつなら真っ先に張り倒されるに違いないと
思った。彼には、何も気に入らないことがないという理由で嫌がら
れるような雰囲気があった。いつもおどおどと、相手の気に障るこ
とがないように努めながら、本当に気に障ることが何であるのかま
ったくわかっていなかった。
 彼の蝋人形のような額を見ているうちに、また頭が痛くなってき
た。だいいち、僕は何を一人で言っているのだろう。まるで生命保
険の勧誘に来たのに、知らないうちに人生相談でも始めてしまうよ
うなものだ。
 汗が流れてきた。体の奥に原子力発電所を内蔵したアンドロイド
のように、いかれて抑制の利かなくなった熱源が汗を流すのだった。
 意味がないとわかっていて、同じように汗の吹き出している腕で
額を拭った。
 「今日は暑いですね」
 「そうですか」
 彼は最後に一言自分の意志らしい言い方をした。天候の状況につ
いては絶対に譲れないというように、まるで人生で一番大切なこと
のように、断固として彼は言った。
 僕は恐ろしかった。とたんに汗が引いていくのを感じた。
 「ええ、暑いです」
 すると彼は、小さな声で何かを諦めたように下を向いて、そうで
すか、ともう一度言った。僕は幻覚を見ていた。幽霊を見ていた。
妖怪を見ていた。魍魎を見ていた。
 今度は冷たい汗が流れた。突然太鼓の音が大きくなった。喉が渇
いていた。何か言う前に、このままでは掠れた声しか出ないことを
恐れて生唾を飲み込んだ。
 「それじゃ、よろしくお願いします」
 彼は答えず扉を閉じた。僕はその前で立ちつくしていた。じっと
していると中から笑い声が聞こえてくるのではないかと思った。
 壊れた足を引き摺って、僕は自分の小屋に戻った。とてもじゃな
いが、ここにはいられないという気がした。他の仔羊達は、あんな
化け物と同じ屋根の下によく住んでいられる。僕はしばらく、部屋
の真ん中で丸くなっていた。
 大岡川に垂れ流れる下水の音と、祭りの笛が重なって、森厳なシ
ンフォニーを奏でた。ホワイトノイズだ。あらゆる靴音、あらゆる
衣擦れ、あらゆる物音を含んだホワイトノイズだ。
 安らいでいられた。すばらしい音楽を聞くことはとてもいい。僕
はいつのまにか眠ってしまいそうだった。
 シッダールタは仏陀になったんだっけか。すると釈迦と仏陀は同
一人物ということになる。それとも彼は仏になりそこねたんだった
か。あの川は何という川だったかな。ガンジス川だったかユーフラ
テス川だったかもう忘れている。インダス文明ができた頃は誰が仏
になったんだろう。それとも仏になったやつは一人もいなかったん
だろうか。神様になったやつぐらいはいそうなものだ。キリストが
神様になったぐらいだからな。いや待て。キリストは神様にはなっ
ていないな。すると神様になったのは誰だったかな。一人ぐらいは
人間から出世したやつがいるはずだ。そうでなければやっていけな
い。夢も希望もなくなっちまうじゃないか。モーゼはどうだった。
モーゼは神様になったか。モーゼが死んだなんてことは聞いたこと
がない。だいいちモーゼのように完璧な善人が神様になれるはずが
ない。アフロディーテを見てみろ。あんな性悪女が神様だ。彼女が
浮気をして捕まった相手は誰だったかな。裸でくっついたままひっ
くくられたんだったな。相当破廉恥だ。神様っていうのは猫みたい
なものだろうか。頭のいかれた猫は質が悪い。普段は寄りつきもし
ないのにごろごろ喉を鳴らして体を擦りつけてきやがる。あの静電
気の起きそうな毛が嫌いだ。まだ犬の方がいい。猫と違ってお手を
覚えるからな。どっちにしても頭がいかれたらおしまいだ。頭がい
かれてしまったら神様どころじゃない。だいいち頭がいかれてしま
ったら音楽もゆっくり聞けない。神様も音楽を聞くんだろうか。聞
くとしたらやっぱりショパンかな。それともリストか。ラカンパネ
ラを初めに作曲したのはリストじゃなかったはずだ。民謡だったか
な。どこの国だったか忘れてしまった。ハンガリーだったか。ハン
ガリーハンガリー。首都はブダペストだ。小学生の頃覚えたのにま
だよく覚えている。けっこうだ。ブダペストにはウグイスがいるん
だろうか。いるとしたら梅が咲いたりもするんだろうか。梅の花じ
ゃ神様は落ちつけないかもしれない。やっぱり蓮の葉がいい。蓮は
仏様の方だったか。すると神様の方はイチジクか。よく思い出せな
い。煙草の吸いすぎかもしれない。一本につき単語2個忘れると聞
いたことがある。あまり吸うとしまいには馬鹿になっちまうぞ。煙
草ばかり吸わないように笛でも買ってこようか。どうせならヘビ使
いの笛みたいな立派なやつがいい。インドのヘビ使いが吹いている
ようなやつだ。インドから来た留学生がいたな。一度ぐらいシッダ
ールタのことを聞いてみればよかった。
 想像もしなかったことだが、この小屋には西日が射した。小屋の
西側にある刑務所のような小さな窓だ。僕はとても落ち着いてきた。
しばらくは我慢して暮らせそうだった。
 いつの間にか祭り囃子は止んでいた。


−4− 綾子という仔羊

 季節を見つけるのは難しい。特に秋を見つけるのは。葉が色づき
始めたからといって、僕はずっと汗をかいている質だったし、それ
がなくなるといつの間にか吐く息が白くなっている。
 僕は秋を見つけられない。きっと死ぬまで見つけられないだろう。
べつに悲しいことでもない。むしろ僕は電気ストーブが好きだった。
 しかしこの日に限って、今日は夏だろうかそれとも冬だろうかと、
頭がいかれていくのを感じないわけにいかなかった。
 最後の伝道に歩く時間だった。半袖のTシャツ一枚では僕の魅力
は半減してしまうかもしれない。
 その扉の上には表札がなかった。中から女王の組曲が聞こえた。
この曲なら知っている。そして僕の予感はまさしく的中した。僕が
自分の素性を明かすと、彼女はその瞬間に僕を愛していた。
 彼女は、ことわりでもしたら泣いてしまうぞというような調子で
頼んだ。ずかずかと上がり込み、勝手に四角いテーブルの上座に腰
を下ろした。
 「幼稚園の保母なんですよ」
 と、彼女は聞きもしないことを話し始めた。
 「短大に入った頃からずっと、この部屋に住んでいるんです。う
ちは兄弟が多いので、自分の勉強部屋代わりに使い始めたんです。
自分のところのアパートに住んでいるなんて、おかしいですか。で
もアパートって言っても、そういうわけでしたから、始めは兄弟で
使ってましたの。わたしの他はみんな男なので、働き始めるとよそ
へ出て行ってしまって。わたしは今更向こうの家に帰るより、ここ
の方が落ち着けていいからずっと居続けてしまいましたの。でもそ
のうち追い出されてしまうと思います。あの、お茶がよろしいかし
ら、それともコーヒーかしら。あら、わたしもコーヒー党ですのよ。
幼稚園でも、暇な時はいつもコーヒーばかり飲んでいますの。カフ
ェインてあまり体に良くないらしいけど、本当なのかしら。でもや
っぱりコーヒーがないと落ち着けないんですよね。あら、これって
中毒みたいなものかしら。男のかたが煙草を吸うのと同じようなも
のですわね。渋木さん、煙草はお吸いになるの。でもごめんなさい。
わたし煙草のあの匂いって駄目なんです。だからどなたがいらして
も、灰皿を用意したことがないんです。はい、コーヒー。あら、渋
木さんもお砂糖なしですの。わたしも。気が合いそう。べつに太る
からとかいうわけではないんですよ。甘いものには反対に目がない
方なんです。この間もね、お友達とおいしいケーキを食べさせてく
れるお店があるからって言うんで、三人で行ったんです。その時な
んて、一人4つずつ食べたんですよ、すごいと思いませんか。でも
さすがに、あのあとはもうしばらくはケーキなんていらないって思
いましたけどね。渋木さんは甘いもの、お嫌い。そう。じゃ、お酒
とか。やっぱり。お国はどちら。九州。そう、やっぱり。それはわ
かりますわ、話し方とかで。九州のかたって、お酒強いんでしょう。
嘘うそ、強いってお顔ですもの。わたしなんか、ビールをコップ一
杯も飲んだら、もう駄目。すぐ顔に出てしまいますもの。ええ、色
白ですって。そんなことありませんわよ、もう、お世辞がおじょう
ずなのね。さぞ、女性にもてるんでしょう。渋木さんハンサムだし。
お勤めは。それじゃエリートなんですのね。余計女性にもてますわ。
コーヒーもう一杯いかが。そうですか。もうお帰りになる。またい
つでもいらして下さいね。今度はわたしがおじゃましようかしら。
うれしいわ。それじゃ、失礼致します」
 自分の小屋へ鼻と口を抑えて戻り、中に入ると布団の中に顔をう
ずめて僕は大笑いした。とても興奮していた。ほとんど彼女を愛し
ていた。しばらく笑いが止まらなかった。
 落ち着いてくると、ゆっくりと彼女のことを思い出すことができ
た。年は僕とあまり違わないだろう。好き嫌いが激しいせいか異常
に赤毛が目立つ髪を、まるで六本木を徘徊する中学生のようにポニ
ーテールに結んでいた。口を開かずじっと座っていれば、彼女を迷
える仔羊だと思うやつは一人もいないだろう。少なくとも気分を害
すような容姿ではなかった。
 たった一人になっても、ああおいしいと呟きながらコーヒーを啜
るだろう。たとえ世界中で彼女一人になってもだ。僕はそう想像す
ると再び笑い出さずにいられなかった。
 彼女は恐れも不安も迷いも悩みも喜びも悲しみも男も女も宇宙も
時間も流れも停滞も、そして快感と苦痛、彼女自身さえ知らなかっ
た。ただ生き方を知っているにすぎなかった。僕が彼女を愛した理
由は、たった一つしかない。彼女には、綾子という名をつけた。

                                                  (つづく)




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