#1052/3137 空中分解2
★タイトル (NJF ) 91/ 7/19 19: 8 ( 66)
「氷の中の紅い蜘蛛」 ニーチェ
★内容
バラバラにされたピースをひとつずつ並べて組み立てられていく。
あるいはたったひとつだけが、何処かへ消え失せてしまったかもしれ
ないジグソーは、もう長い時間放り出されたままだった。濃い青なの
か、それともまったくの闇なのか、自分には判断する材料がない。目
を凝らして見つめようとすれば、空間全体がゆっくりと揺れ始める。
やがて、自分の中の光さえ外側の空間に吸収されていくような悪寒を
覚えるようになる。それさえ、何ひとつ感情を動かそうとする要因に
もならない。いつまでも変わらない、どうでもいいような時間が、鏡
の中の季節と同じように積み重ねられていく。
時々不安になる。膝を抱えたまま生き続けることが、ひょっとした
ら歩行能力を退化させるぐらいの変化は与えるかもしれないという不
安だ。特別何かを待っている訳でなく、日が昇り日が沈むという繰り
返しに期待している訳でもない。
煙草の匂いの充満した部屋では、テクテクと繰り返す時計だけが確
実な生き物だ。満月の夜でさえ、首を巡らせなければ暖かみの残る空
気に触れることもできない。心の中を占める海はずっと同じ色のまま
だった。コバルトブルーでもセルリアンブルーでもなく、混じりっけ
なしのブルーだ。自分の頭の中にしか存在しないことに気付いている。
誰か、何処かの他人に頼み込んで捜し回ってもらうことにも意味はな
い。何億年も太古の、まだ脳髄さえ形成されない巨大な巻き貝が動き
回っている。直視に堪えない光景だ。
台風は長いことおさまることを知らなかった。続けざまの飛沫にむ
せながら、死ぬ思いで泳いでいる。何処かへ行こうとしていた。目的
の場所が何処なのか、考えもしなかった。何処かの海の底では、忘れ
去られた過去が眠っているはずだ。見つける気も起きない。神と崇め
られた男は、思い荷物を背負ったまま山から帰らなかった。捜索が順
調だったのか難航したのか尋ねた覚えがない。何処かの岩からぶらさ
がったまま息絶えたのでなければ、本望だったに違いない。彼はその
ためにその場所へ向かったのだ。まったく関連性のないイメージを追
い続ける。そうして、知らぬ間に何処から歩き始めたのかさえ、よく
わからなくなってしまった。
何処からか、あるリズムが届く。肉体の存在を肯定するような否定
するような、単調な低いリズムだ。自分の中で造り出されたものなの
か、それ以外の別の意志で生成されたものなのか。ふと神経が震える。
機械仕掛けの電子計算機のように、長い間埃を被って埋もれていた細
胞の髭が壁を抜け出して接続されていく様子が手に取るように分かる。
それから、体中の毛穴から生暖かい血液が流れ出すような、自分が内
部から溶けていくような、気味の悪い感覚に耐えられなくなり、再び
全ての思考を停止してしまうことだけを願う。
おそらく、明るい場所を求めている。しかし自分が動くことはあり
得ないと信じ込んでいる。何も願いはしない。何も期待しない。だか
ら、何も起こりはしない。
瞬きの向こうで、人形に埋め込まれた水晶の瞳が光った。筋肉の収
縮に合わせて繰り返す鼓動で、光はイルミネーションのように様々の
色を見せる。そういった波長を生み出すホワイトノイズが、いったい
何処から届くのかわからない。彼あるいは彼女は、何かを考えようと
しているのかもしれないし、何処かから逃れようとしているのかもし
れない。涙さえ流すことのない彼あるいは彼女の水晶には、痛みが宿
っている。彼あるいは彼女の瞳が見つめるのは、おそらく自分自身の
デカダンだ。
もっと自由を失ってしまえ。誰かが言う。海の底に眠るアンモナイ
トかもしれない。あるいは根雪の深いクレバスに眠る神かもしれない。
あるいは恒星のような螢光を放つ瞳を持った彼あるいは彼女かもしれ
ない。あるいは、止むことのない単調なリズムを刻む音源を内蔵した
自分自身かもしれない。追究する必然など有りはしない。
《一部抜粋》