#910/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 91/ 4/10 14:58 (143)
「さち子」 浮雲
★内容
1
階段をのぼり終えて自分のクラスの前に来たところで、
「えっ」
さち子は、もしかしたらと思いながら振り返ってみた。さっきから誰かが自分
を呼んでいるような気がしていたのだが、でもまさかと振り向かずにいたのだっ
た。四組の木村達夫だった。
なんとなく落ち着かない様子でさち子に近づいてきた。そして、あたりに眼を
配りながら、
「これぇ」
口の中で言いながら何か赤いものをさち子の前にさし出した。その時になって
やっと、さち子は「ああ、やっぱり私は誰かに呼ばれていたんだ」などとのんき
なことを考えているのだった。
「これっ」
怒るようにして達夫がそれをさち子の顔のところに突き出した。つられて、さ
ち子はそれを受け取ってしまった。それは、おもちゃやなんかの絵の描いてある
赤い包装紙で包まれていた。
さち子はしんとしてそれを見つめてしまった。いつのまにか達夫はいなくなっ
ていた。
さち子は、それをなんとなくからだの横で隠すようにして、そっと教室にすべ
りこんだ。机の中につっこむと、そっと撫でてみた。
(ノ−トとエンピツ?)
さち子はのどの奥で小さく声を上げた。その時誰かが注意して見ていたら、ふ
にゃとしたさち子の顔を見ることが出来たはずである。
次の休み時間、ねちっとした我慢ならない視線がさち子に投げかけられていた。
それも二つ、三つと。高野美枝子たちだ。とくに美枝子などは薄い唇をきっと閉
じ、いまにも奥歯からキリキリという音が聞こえてくるようであった。
そんなことなど知る訳もなく、さち子はのんきに机の上のいたずら書きなどを
ぼんやり見ていた。
「ガタン」
突然、前の方で大きな音がした。さち子はそっちの方に眼をやった。そして、
思わず高野美枝子の眼と眼が合ってしまった。
(しまった)
なぜかさち子は余計な事をしてしまったように、後悔するのだった。頬がサラ
サラ冷えていくのがわかった。それほどに美枝子の目は冷たく心の中に突き刺さ
った。
さち子が小さくうつむいたとたん、下品な笑いが美枝子たちの席で起こった。
さち子の手が紙包を探して静かに動いた。
2
家に帰るとすぐに、さち子は赤い包をていねいに開いた。包の中は、思った通
りノ−トとエンピツだった。
「お見舞いありがとう」
と大人の字で書かれた紙きれが入っていた。
(えっ、ああそうか)
そうなのだ。もう二週間ほど前のこと、木村達夫が盲腸で入院したのを母親と
二人で見舞いに行ったことがあった。その時、なんだかつまらないものを持って
いった覚えがある。
家が近所で、三年の時同じクラスだったせいもあるが、何しろ母親同士が以前
同じ会社で働いていた仲良しというのが見舞いに行くことになった理由なのだ。
ただそれだけのことだった。
(そうか、お見舞いのお礼か。ふふ)
その時のさち子の顔といったらなかった。
(包装紙もとっておこおっと)
そして、きょう学校でのことだ。さち子が国語かなんかの教科書をカバンから
出そうとしたとき、例のノ−トがカバンからこぼれ、床に落ちた。
「あっ」
大きな声を出してしまった。さち子は自分の声にびっくりするやらあわててノ
−トを拾うやらもたもたしながらそれをカバンに押し込んだ。
「なに、それ。見せて」
(しまった)
高野美枝子だ。いつの間にそばに来ていたのだろう。さっきからずっと、さち
子の方を窺っていたのに違いない。
「えっ、わたし。なにが」
さち子はいっそうあわててしまった。
「ばぁか、何うすらとぼけちゃってんのよ。いまカバンに隠した赤いノ−トよ」
「赤いノ−ト? なにそれ、ないわよそんなの」
「意地悪しないで見せてよ。へるもんじゃないし。見るだけ」
ほらほら、という具合いに美枝子は右手をヘラヘラ動かした。さち子はどうし
ても見せたくなかった。そのくせ美枝子が薄い唇をぴくぴく歪ませているのを見
たとたん、
「もしかしたらあれかな。でも、つまんないもんだし」
などと弱音を吐いてしまうのだった。
(もうっ)
「美枝子どうしたの」
いつの間にか美枝子のグル−プの女の子たちが二、三人集まってきていた。「
ねえ、」といった具合いにお互いに眼で合図をすると、ねちっとしたうす笑いを
浮かべながらさち子をとり囲んだ。伊藤一恵や野村ひとみたちだ。
「早くっ」
我慢の限度だ、とでも言うように美枝子が怒鳴った。それでもさち子が動かず
にいると、一恵がさち子のカバンを両手で持ち上げ、逆さに振った。同時に、誰
かがさち子の肩をぐっと抑えた。
カバンの中味がばらばらと机の上にちらばった。その一番上に赤いノ−トがの
っていた。
3
「あっ」
さち子はさっと赤いノ−トに手を出した。しかし、それよりも早く美枝子はそ
れをひったくっていた。一恵たちがホオ−ッと喚声を上げた。どうしたの、とい
「これなのね、四組の木村くんからのプレゼントって」
美枝子はみんなに見えるように、ノ−トを頭の上にかざした。
「いいわねぇ。お父さんがいないと。ノ−トやなんか恵んでもらえんだ」
伊藤一恵が声を大きくした。
「わあ、すごい」「いいぞ」
汚いヤジが飛んだ。
「愛するさち子さんへ、なんて書いてない」
こんどは、野村ひとみだ。すかさず、わっと下品な声が上がった。
「美枝子、どお。中も見せてもらったら」
もちろんよ、という顔で美枝子はノ−トをめくった。さち子が「うっ」と喉を
鳴らした。
「あら、何も書いてないじゃん。そうか、見せびらかすために持って来たんだあ
。あっそう」
美枝子は一呼吸おくと、
「ねえ、ノ−ト一枚くれる?」
そう言うなりびりっと一枚破りとった。あっと言う間もなかった。とつぜんの
ことに、さち子は声もでなかった。
「これは、一恵の分」
美枝子はもう一枚びりっと破りとった。そして、すぐには一恵には渡さずにこ
れ見よがしにさち子の目の前でヒラヒラさせた。さち子は、身動き一つせず、表
情も変えなかった。美枝子にはそれが、自分に対する挑戦的な態度としか見えな
かったのに違いない。
「なによ、そのふてくされた態度は。ノ−ト一枚ぐらいで」
美枝子は、破りとったノ−トを床に叩きつけると靴で踏みつけた。そうじゃな
いのよ。喉まで出かかっているのにどうしても言葉にならなかった。さち子は、
美枝子の目尻がピンクに染まっていくのを知り、いっそう身を固くした。
「私にはくれないの」
「うるさいっ」
ひとみの間の抜けたタイミングの悪さと、甘ったれた言いぐさに美枝子のいらだ
ちがいっきに爆発した。
一瞬、美枝子の顔から血の気がひいた。そのくせ目尻だけが赤く染まり、キリキ
リと歯ぎしりの音がしたかと思うと、
「何よ、ばかにしないで。こんな、こんなのは」
美枝子の叫び声に、教室中の目が集まった。そして続いて起きたことを誰もが
夢の中の出来事のように思ったに違いない。
美枝子は、「う−む、う−む」と気味の悪い声を出しながら、さち子のノ−ト
を破り出したのだ。
そして、二度、三度と引き裂くと床に叩きつけ、上履きでぎりぎと踏みつけに
ぶるぶる体を震わせている美枝子を一恵とひとみがこわごわ連れて行った。さ
ち子は、ぼろになったノ−トを拾うと静かに席に着いた。そして、ゆっくり机の
上を片付けると、ノ−トの破片を並べそれをじっとみつめた。
いつの間にか、次の授業が始まっていた。さち子はどうしたろうか。うつむい
たままだ。両手で何かやっている。先生が「さち子どうした」と言ってそばまで
寄って行ったが、さち子の手元を見たとたん「くわばらくわばら」とでも言うよ
うな顔すると、あわてて黒板のところに戻っていった。
いったい、何にをしているのだろう。
さち子は、ぼろになった赤いノ−トの切れっぱしを一つ残らず、もうこれ以上
細かくならないというまで小さく小さく引き裂いていたのだ。びりっ、びりっと。
おしまい
1991/03/19