AWC 「遠い春」(「童文学の人人」より)  浮雲


        
#520/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ     )  90/ 7/18   6: 7  ( 90)
「遠い春」(「童文学の人人」より)  浮雲
★内容
   1
 天保六年(1835)二月の深夜、**郡遠野村の西、六角牛山の山かげから一す
じの狼煙がゆっくりと立ちのぼった。三日前から降り続いた雪もやっと止み、久
しぶりに天空にかかった満月が、一帯を青白く照らしていた。
 八幡郷に住む百姓・太市の妹で十二才になるお光がその狼煙を見たのは偶然の
ことであった。いつもは寝床に入る前に用を足すのに、その晩は朝からの雪下ろ
しですっかり疲れ、遅い晩めしを腹に入れると、いつのまにか寝込んでしまった
のであった。そんなことで深夜、どうしても小便が我慢できずに震えながら起き
だしたのだった。
 いつも見慣れているはずの庭先は、全体がすっぽり凍てつき、ガチガチと空気
が押し会う様は、お光に寒さを忘れさせるほどであった。納屋の陰にある便所ま
で歩かなければならなかった。
「いってぇ」
 あまりの寒さに、土間の隅っこで用を足そうと家に戻りかけ、なんともなしに
六角牛山の方に眼をやったその時、ゆらりともしない狼煙を見たのだった。
「んっ」
 お光は、何事かをすぐ理解した。
「とうとう・・・」
 苦い様な甘ずっぱい様なものが喉の奥からこみ上げて来た。お光は、なんの用
で庭先に出てきたのかも忘れ、すごすごと土間へ上がっていた。
 寝床に戻ると、それまで奪い合う様にして布団にもぐり込んでいたはずの兄た
ちが、黒い影を凍てつく様な暗闇の中にうごめかしていた。
「どうした。なに、寝ぼけてんだ」
 次兄の市次だった。
「ははぁん、寝小便か」
 長兄の太市が笑った。
 お光は、兄たちの明るさにかえって反発を覚えた。
「そでねぇ、そでねってば」
 外の凍てつく青さと、家の中の吸い込まれそうな暗闇と、明るく振舞う兄たち
の間には何の連絡もなく、お光の気持ちはどうにもまとまりがつかず、それでな
おのこと、口に出る言葉はトゲのあるものになるのであった。
「ちがうってば」
「あははは、分かった分かった」
 兄たちは取り合ってくれなかった。お光は足で布団をはね上げると、わざとド
タバタさせながらもぐり込んだ。温かかった。吸い込まれて行くようだった。
「したけど、まちがいねべか」
「うむ」
 お光は、二人の兄のはなし声にはっとして布団から顔を出したが、その時はも
う二人の後ろ姿は、土間の向こうの暗闇にとけ込んでいた。
 お光は戸口に走った。こんな雪の深い夜更けに、二人の兄たちはどこへ出かけ
て行くのか。お光は、狼煙など見なければ良かったと思った。
 しっかりした足取りで雪道を遠のいていく兄たちを、お光は寒さも忘れて見送
った。
 太市は肩に何か担ぎ、市次はムシロを脇に抱えている様であった。お光の後ろ
に誰かが立った。母親であった。しわだらけの顔は何の変化も見せてはいなかっ
たが、身じろぎもせずに真っ黒なしわだらけの握りこぶしを、ぷるぷる震わせて
いたのを、お光はいつまでも忘れることが出来なかった。
 六角牛山に上がった狼煙は、いつのまにか消えていた。
   2
 天保五年、その年東北には夏は来なかった。言われてみれば、異変の兆しはす
でに春にあった。いや、冬にその兆候はあったのだ、と古老の一人は語った。
 なるほど、おかしな事だらけであった。前の年、十二月だというのに、早池峰
山はまだ初雪を知らず、その頂は黒ぐろとしていた。まるで三月か四月を思わせ
様な陽気が続き、野には菜の花が咲き乱れた。
 いや、そればかりではなかった。あちこちの竹薮で竹の子が顔を出し、明けて
も暮れても稲妻が天を走った。
 加えて遠野村を治める鍋倉藩の城主がその秋に変わったばかりであった。お家
騒動のあげくに何人かが殺され、猿ケ石川に流されたらしいとの噂がこの頃にな
ってささやかれ、いっそう人々の不安と焦燥を煽った。稗貫郡の方では娘買いが
歩き回っているらしい、との噂も流れとりわけ農民たちの眉を曇らせた。
「何も起こらなければ良いが」
 古老たちは寄るとその事ばかりを口にした。

 大晦日が近づいたある日、お光は母や兄たちを野良に残し、一足さきに家に戻
った。洗濯物が山ほどたまっていたし、夕食の支度をしなければならなかったか
らであった。
 小道を登って納屋を回ろうとした時だった。近所の幼子たちが声をかけてきた。
「姉さ、菜の花摘みに行ってけろ」
 歩いて十分ばかりの所に用水路の堰があり、そこら一帯に菜の花が咲いていた。
そこに行こう、と言うのである。
 小一時間もあれば幼子たちを満足させて上げられるだろう。それに、夕食に菜
の花のおひたしを添えて、母や兄たちを喜ばせて上げたい。お光は、幼子たちの
手を引いた。
 西の空の片隅にポツンと湧いた黒雲が思いも寄らない早さで広がって行くのを
、幼子たちと一緒に駈けだしたお光が気がつく筈もなかった。
   3
 菜の花を摘み終え、誰かが「帰ろう」と言ったのを待っていたかの様にポツポ
ツ、と大つぶの雨が落ちてきた。いつの間にか、お光たちは黒雲の下にいた。
「あっ」
 お光が小さく声を上げた。あわてて幼子たちの手をひったくる様に掴むのを合
図に、ザ−ッと土砂降りになった。
 二、三分で一人残らずびしょ濡れになった。幼子たちは、よほど嬉しい事にで
も出会ったようにはしゃいだ。冬だというのに妙に暖かい日が続いており、雨に
濡れても風邪をひく心配などなかった。そうではなく、お光が心配したのは雷だ
った。
 と、そんなお光の気持ちを試す様に彼方で稲妻が短く走った。しばらくしてか
ら、ゴオゴオと空が鳴った。雨足がいっそう早くなると、土の臭いが鼻の奥をつ
いた。
 お光は予感した。
                                 つづく




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