#510/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 90/ 7/11 20:35 (164)
地球になった男<いるみさきヴァージョン>
★内容
ある日突然気がついてみると、彼は地球だった。
みょうに体がちりちりとするなと思っていたんだが、それが太陽光だという
ことに思い当たるのにそう時間はかからなかった。
それになにやら彼の体表でうごめく生き物がせっせと彼の回りをとりまくオ
ゾン層を破壊するので、そのためよけいに体がちりちりと痛むのが彼には不快
だった。
その生き物は彼の体を汚し、空気を汚し、海を汚し、そして自らの存在さえ
おびやかすものをつくりながらもそのあくなき欲望への執着を捨てず、何かに
憑かれたように破滅への一途を着実にたどっていた。それは手段としての道具
が彼らの知識をはるかにこえてしまったからだ。
だがそんなことは彼にとっては何の意味もなさなかった。−−彼らはそのう
ちほうっておけば滅びるだろう。それまで好きなようにさせておけばよい。
それよりも、いまの彼にとってちょっぴり重要だったのは、なぜ彼は地球な
のかということである。
だがそれもそんなに珍しいものでもなかった。実際、彼はそれをすんなりと
受け入れ、そんなものかなと思った。G・ザムザだって、ある朝目を覚ますと
一匹の巨大な甲虫になっていたというではないか。それにザムザには人間とし
ての名前があった。つまり人間であったという証拠なのだ。だが彼には自分の
名がどうしても思い出せないのだ。もともと名前なんかないのかもしれないし、
またそれでいいと思った。−−なにしろ彼は地球なのだから。
それともうひとつ、『母なる地球』という言葉が彼の頭にひっかかっていた。
というのも、『彼』は男であったからだ。アレがついているかどうかは分か
らないが、彼は自分が男であることを確信していた。では『父なる地球』はど
うかというと、何度もくりかえしつぶやいているうちにまんざらでもないと彼
は思ったのであった。
こうしてすべてを認め、ありのままの運命を受け入れ、そうして彼の地球と
しての人生がここに始まった。
* *
退屈だった。
そして苦痛だった。
最近のことなのだが、彼がちょっとかゆかったので背中を掻いたらイランと
かいう国がその振動で大被害を受けてしまったのだ。これで地震というのがプ
レートの摩擦でひきおこされるのではなく、実は地球が体を掻くからおこると
いう事実をその身で体験できたのだが、これでうっかり体を掻くこともできな
くなってしまい、彼は困惑した。
はたして、彼はその日からぴくりとも動かなくなった。いくら彼にとって塵
のような存在であっても彼らを傷つけてしまうのはさすがに気がひけたのだ。
でももしこのあと大きな地震で多大な被害を受けたとしても、それは彼の寝て
いるときにうっかり掻いてしまうのであって、なんら悪意はないので、そのへ
んは許してやってほしい。
やはり……やはり退屈であった。
何もできない、何もしちゃいけない。−−それがどれほどの苦痛であるか、
あなたには想像できるだろうか、いやきっとできないだろう。
彼は何度チョモランマをちょっとつまみあげ、それをインド洋に沈めてやろ
うと思ったことか。
いったい何度体をゆすって大津波を起こし、海岸に隣接する都市をその水圧
で押しつぶしてやろうと思ったことか。
でもそのたびに彼は非常な自制心でもってなんとかそれを抑えてきた。
それは地球としての当然といえば当然すぎる自粛行為であった。
だが、そのはけ口を失い強烈な魅惑で彼の加虐的行為を誘ってはやまぬ、欲
求という悪意なき精神的達成恍惚感に対する内面的葛藤は、彼の神経をすり減
らしすり減らし−−そのため彼は衰弱していった。
そして彼の衰弱した脳は、ある日突然に歪曲した。
* *
ここアメリカNASA中央管制局は、緊張と、ついで驚愕の渦につつまれる
こととなった。
「局長! た、大変です……!」
天体観測部の若き計器観測員が叫び声をあげた。
「何事だ、いったい。……ボイジャーに異変が起きたのか?」
「た、大変です……! し、信じられません……」
「だからいったい何が大変なのか、現状を報告しろ!」
「地球が……、地球がたったいま軌道をはなれました……!!」
* *
そのすこし前−−
彼は悲壮感にうちのめされていた。
これほど地球であることが苦痛きわまりないことであったのかと。
(そういえば……)彼は思った。(すべての星々は無限とも思えるほどの永い
永い年月のあと、あるものは大爆発してその身をあたりにまき散らし、そして
あるものはしだいにしぼんでいき−−その生涯を閉じるという。きっとみんな
その永い−−永すぎる生に耐えられなくなるんだ……きっとそうだ。そしてあ
るものは発狂し、あるものは衰弱する。それはすべて永い間、その身を燃やし
続けてきた結果だ。−−だが、わたしは惑星だ。未来永劫、この広大無辺の宇
宙が存在するかぎりわたしは生き続けるだろう−−いや生き続けなければなら
ないのだ。なんという苦痛、なんという試練……おお、神よ、主は我に何を望
み給う……!)
こうして彼の精神は耗弱し、突然とんでもない行為を生んだ。その状況下で
は、あるいはよくあるふつうの突発的行為であったのかもしれない。
とにかく彼はある日突然、何を思ったか、えいとばかりに跳躍したのだった。
* *
まずその勢いに、月はついてこれなかった。
月は主人を失った犬のようにふらふらとさまよい、そしてゆっくりと太陽に
引きよせられていき、断末魔の声をひきずりながら−−太陽にのみこまれてい
った。
彼は月のなんてこったい、というふうな叫び声を聞いたような気がした。彼
は月に何度も詫びた。
(いつもいつも一緒だった月よ、さようなら……。わたしは君のことを、生涯
忘れないでおこう。君の死はむだにしない。わたしはがんばるぞ)
なにをがんばるんだかしれないが、ここでのポイントは、もうそのときには
彼の体に巣くった生き物たちの運命は決まってしまったということだ。
彼がそろそろ火星の軌道を通過しようとするころ、しだいに肌寒く感じてい
ることに気がついた。
−−当然のことだった。彼はずっと太陽の発する熱を受けていたのだから。
そしてさらに、宇宙というところは限りなく絶対零度に近いのである。
そしてさらにさらに、あなたは知っていただろうか、太陽系内には、恒星は
太陽たったひとつだけであり、いちばん近い恒星でも光でさえ5年かかる距離
にあるということを……
これがいったいどういうことか。
たちまち地球は寒波に襲われた。それはけっして寒波というだけの代物では
なかった。
すべての生き物は何もできないうちに−−もっともどうしようもなかっただ
ろうが−−凍りつき、凍死した。
こうして世界はその原型をとどめたまま滅亡し、ノーマンズ・ランドと化し
た。
彼は寒さに身を震わせながら、絶望の絶壁にひとりたたずんでいた。
彼の脳は、もはやその機能の半分も動いてなかった。彼は今、何も考えては
おらず、何も思ってはいない。
だが死ぬこともできないので−−
彼は、眠った……。
* *
いったいどれくらいの、果てしなく、永い、年月がたったのだろうか……
百億がそれぞれ百億を数え、またそれぞれが百億を数えたよりもさらに多い
年月が過ぎたとき−−彼はしだいに、意識が戻っていくのを感じた。
(明るい)
彼はまず、目をあけられないほどの明るさに戸惑った。
それでも彼は目をあけ、その明るさにようやく慣れたとき−−自分が太陽の
まわりを回っていることに気がついた。
いや……そうではない、彼の目にうつる赤々と燃えさかる恒星は、太陽では
なかった。
リゲル−−彼は理由もなく、それがリゲルであることを確信していた。
(心地よい……)
永い間休養していたので、彼の精神はしごく正常だった。
(とても……あたたかい)
彼はその体いっぱいにリゲルの光を浴びて、ゆくりとその軌道上をまわって
いた。
やがて彼の地表が、そして湖が、海がとけはじめた。
しばらくすると、世界は地球がその軌道を離れる前とすこしも変わらぬ情景
となった。ただひとつだけ違う点は……何ひとつ、生命体が存在しないことで
あった。
そしてまた……気の遠くなるような永い永い年月が過ぎた。
* *
彼の海の中で、何かが生じた。
それは生き物とは呼べぬほどのごくごく小さな細胞であったが、この世界で
唯一の生命体には違いなかった。
そのとき彼の顔はちょっぴり微笑んだように見えた。
そしてまた……気の遠くなるような永い永い年月が過ぎた。
* *
彼の海の中で生まれた細胞はしだいに進化しはじめ−−動生物となった。
そのころにはその個体数はかなり増え、それぞれが微妙に違った進化をとげ
て−−あるときその一派が陸へその生存空間をひろげることとなった。
(もうすこしだ)と彼は思った。
さらに永い年月が過ぎれば、またあのこざかしい生き物の原型となる生物が
その姿を現わすに違いない。そのとき−−そのときあの生物はどういう成長を
しめすだろうか? また果して、その姿を現わすのだろうか? 何しろあの生
物の残していった文明世界がそのまま遺っているのだから、きっとまた異なっ
た進化をとげるに違いない。彼にはそれが楽しみだった。
そしてまた……
気の遠くなるような永い永い年月が過ぎる……
[完]