#1553/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (PMD ) 89/ 5/10 1:48 (103)
『秋の風景』 その1 柊
★内容
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『秋の風景』
【交点】
玲子が札幌を訪れたのは、秋空のきれいな9月のはじめだった。
*
高級住宅が建ち並ぶ円山のマンションに友人を尋ねさえしなけれ
ば、僕は彼女と知り合わなくて済んだのかもしれない。しかし、今
となってはそんなことはどうでもいい。世界の歴史に、「もしも」
の仮定形が存在しないのと同じように、思考が過去に向って逆行し
現実と違った未来を想像したところで、何ひとつ変わりはしないの
だから。たぶん、気休めにもならないだろう。
*
玲子は化粧をほとんどしなかったが、わずかにウェーヴのかかっ
た長い黒髪、愛らしいつぶらな瞳、形のよい小さな唇・・・・・ど
れもが彼女の魅力をたたえていた。そして、何よりも、現代人が捨
て去ってしまった、裸の心を彼女は持っていた。
*
知り合ったその日、僕らは友人と玲子の連れ二人とともに、小樽
方面に車を走らせた。友人は車を持っていなかった。それで、代わ
りに僕が道内を何ヵ所か、案内することになったのだ。僕は、玲子
たちとは一面識もなかった。数日前、友人が案内役を頼んできた折
りに、以前、同じ職場にいた娘たちだ、と話してくれた。それだけ
だ。
道すがらの車のなかは、さながら玲子たちの談話室だった。仕事
のこと、上司のこと、恋愛のこと、家族のこと、将来のこと、おま
けに近所にいた犬のペロのことまでよく喋った。女は動物にたとえ
たら何になるだろう? ひばり、それとも鴫か。とにかく驚くほど
よく喋った。しかし、それによって彼女たちの輪郭も、より鮮明に
なった。
いい娘達だ。
*
夜の倉庫群。
時を越えた生の営みが感じられる。そこは、時の流れのまったく
存在しない、過去と未来が共存している世界だ。
僕が初めて小樽の倉庫群を訪れたのは五年ほど前のことになる。
その頃、僕は二十歳そこそこで、希望に満ち、恐ろしいほどに屈託
が無かった。
夜の小樽の街をぬけ、倉庫群にたどりついたとき、不意に、得体
の知れぬ、どっしりとした重いものを感じた。目に見えぬ、混沌と
した中に、人々のせめぎ合う声まで聞いたような気もした。
煉瓦倉庫・・・・かつて人々が汗を流し、笑い、涙したであろう
赤茶けた冷たい無機質の物資安置所。
青白い月の光りに照らされた、古びたその壁の表面には、幾重に
も、人々の人生が刻み付けられている。悔恨だの、嫉妬だの、とい
った人の暗に属する部分が、そして、情熱だの、感動だの、挑戦だ
の、といった明に属するひたむきな部分が、何十年も経た今なお、
脈々と息づいているのだ。
二十年の歳月をかけて、こつこつと作り上げられてきた明るい未
来像。それが、一瞬のうちに白濁し、そして、消えた。
「人生の尊厳は、その重みによってささえられている。」
僕を二十歳の原点に帰した言葉だ。そして、その後の僕の思考は
この言葉のフィルターを透過して形成された。
夜の小樽倉庫群では、時を越えて共存している慟哭と歓喜を目の
当たりにすることができる。そしてそれが、小樽倉庫群の真の姿な
のだと思う。
僕たちは小樽の北一ガラスで小一時間ほど休憩し積丹に向った。
やはり小樽は、夜の倉庫群がいい。
*
小樽はどんよりした曇り空だったが、海岸沿いの、九十九折りの
道路を積丹に向うにつれて、空色は徐々にぬけるような秋空に変わ
ってきた。
余市港を右手に見ながらシリパラインを美国に向って南下してゆ
くと、海にぽつんと突き出たツノのような岩が見えてくる。ろうそ
く岩である。なんで岩がそんな形になったのか、僕には明確な答え
は見つかりそうにないが、地層の隆起と波浪による浸食・・・・た
ぶん、そんなところだろう。
「ねえ、あの岩、凄いわね。誰かが削って造ったみたい。こんな
景色を好きなときに見られて羨ましい。やっぱり北海道ね。」 そ
のろうそく岩を見ながら、玲子が嬉しそうに言った。
「ほんと。嫌なことでもみんな忘れられちゃいそうね、この景色
見てたら。」と、玲子の連れの知的でお淑やかな紘美。
[あっ、あれ!」と玲子が突然、右手の海を指さした。
と、同時に皆いっせいに海の方を見た。僕は、ふとパブロフの犬
を連想した。あまりにも見事に反応したからだ。彼女たちが、はと
バスに乗ったらガイドさんに誉められるに違いない。 はとバス優
等生。いい響きだ。
右手の海には、濃青色の水平線とさざなみだった白い飛沫を背に、
太陽の光を受けてきらりときらめく無数の小さな反射体があった。
飛び魚の群れだろう、と僕は言った。
みんなは、へぇ、とか、ふーん、とか口々に呟きながら暫くの間
その光景に見入っていた。おそらく、初めて飛び魚を見たのだ。