#1346/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (TCC ) 89/ 1/13 16:36 ( 96)
『熱帯魚』(2) 栗田香織
★内容
(2)
美佐子は半年前、島野良夫と結婚した。島野は彼女より十二歳年上で、三十五歳、
そして十歳になる哲夫という息子がいる。前妻の恭子は交通事故でその一年前に亡
くなっていた。
前妻の一周忌が過ぎるのを待っていたようにして後妻に入る。おまけに一番やり
にくい年頃の子供までいる。美佐子は相当の覚悟をしなければならなかった。
だが、そんな不安も、島野の妻の座を得るという喜びに比べたら些細なことだっ
た。そこは美佐子が夢にまでみた場所なのだから。島野は美佐子の上司で、もう三
年も不倫の関係に甘んじていたのだ。
三年間、島野は優柔不断に二人の女の間を泳いでいた。恭子は夫に愛人がいるこ
とに気付いていたらしいが、取り乱して騒ぎ立てるようなことはなかった。ただ、
四、五日続けて無言電話がかかってきたことがあったが、あれはたぶん恭子だった
んじゃないかと美佐子は思っている。取り澄ましてはいたが、あんがい陰険なタイ
プだったのかもしれない。
男が妻以外の女と夜を共にしようとするとき、必ずといっていいほど口にするの
が『妻とうまくいってない』『妻とは別れたいと思っている』という台詞だ。島野
もまったく律儀にそのパターンを踏襲した。
そして付き合いが長くなってきて、そろそろ美佐子が結婚を夢みるようになると、
『妻が離婚を承諾してくれない』『妻を刺激すると話がこじれるから、けりがつく
まで騒がないでくれ』という決まり文句を聞かされて、またずるずると愛人関係が
続く。
美佐子はそんな島野のいいかげんさに腹を立てながらも、いつかは自分を選んで
くれるというはかない希望にすがりついていたのだった。
だが結局、美佐子を選んでくれたのは島野自身ではなくて、運命の方だった。
美佐子が不倫の泥沼に踏み込んでから三年目の春、恭子は雨の中で暴走車に跳ね
られ、濡れた道路に叩きつけられた。即死だった。
初めて美佐子が島野の家を訪れたときが、哲夫との初対面だった。
「哲夫君のいいお母さんになれるように頑張るから、よろしくね」
と、美佐子が声をかけたとき、哲夫はだまって熱帯魚に餌をやっていた。
もちろん、哲夫が二人の関係を知っているはずはなかったが、美佐子はそのかた
くなな背中を見たとき、感づかれていると直感した。
新しい生活が始まってからも、哲夫の態度は変わらなかった。反抗してくれるの
ならまだよかった。それなりに対応の仕方もある。だが、彼女を住み込みの家政婦
くらいにしか思ってないような冷たい視線に、美佐子はだんだんと自信をなくして
いくのだった。
哲夫との中がしっくりいってないことは、美佐子と島野との夫婦間にも微妙な感
情のスレ違いをうむことになった。
美佐子が妊娠に気が付き、当然夫も喜んでくれると信じて報告すると、
「子供が出来たことは嬉しいけど、これでますますおまえと哲夫との仲がまずくな
るような気がしてな……」
と、憂欝そうな表情で言うのだ。
「わかったわ。あなたはこの子を中絶した方がいいって、そう言うのね。私たちの
赤ちゃんを始末しろって、そう言うのね」
美佐子は思わず、高ぶった感情を島野にぶつけた。
「そんなことは言ってない。もちろん、子供は産んでもいい。だが、哲夫の母親に
なろうとする努力は怠らないで欲しいっていうことさ」
「そんな努力は今までだってしてきたし、これからだってするわ」
美佐子はそう言いながらも、あまり自信はなかった。今の状態のまま、赤ちゃん
を産んだとしたら、その赤ちゃんに夢中になってしまう自分しか想像できなかった。
(やっぱり、産まない方がいいのかしら……)
いまだに自分を他人の目でしか見ない哲夫のことを考えると、美佐子の気持ちは
搖れに搖れていた。
そんな哲夫と自分との間の大きな壁の正体を、美佐子はつい最近知った。
その日、外出から帰ってきたところを伊沢真智子に捕まった。真智子はいい獲物
をみつけたというような顔つきで駆け寄ってきて、さっそくお喋りを始めた。
「奥さん、お宅、熱帯魚を飼ってるでしょう?」
「え、ええ。哲夫がとても可愛がっているわ」
「そう、哲夫君が……やっぱり、あなた何も知らないのね」
「何も知らないって?」
「いえね、うちの伸一が哲夫君に聞いたっていうんだけど……あ、こんなことあな
たには言わない方がいいのかしら……」
美佐子は真智子のこういうところが大嫌いだった。本当は話したくてうずうずし
ているくせに、思わせぶりにこちらの反応をうかがっている。
「何かしら、聞かせて」
美佐子が遷儒閧フ期待通りの誘い水を向けると、真智子は待っていましたとばかり
に喋りだした。
「あの熱帯魚ね、亡くなった前のお母さんからのプレゼントだそうよ。一昨年の哲
夫君の誕生日に二人で買いに行って選んだんですって。それがほら亡くなるほんの
前だったでしょう。だから思い出が強烈に残っているんじゃないの。伸一にね『こ
の熱帯魚は僕の一番大事な宝物だよ』って、そう言ったんですって」
「ああ、そのことなら聞いていたけど……それが?」
美佐子は精一杯の去勢を張りながら、そう答えた。
「それがって、別にそれがどうっていうわけじゃ……あなたが知ってるんならいい
んだけど。じゃあね」
真智子はばつの悪そうな顔で行ってしまったが、その話が美佐子に与えた打撃を
知ったなら、小踊りして喜んだに違いない。
そういえば、哲夫はよくぼんやりと熱帯魚を眺めている。そんなとき、亡くなっ
た母親を偲んでいるのだろうか。
この家に来てから二カ月目くらいだったか、哲夫と熱帯魚のことで話したことが
あった。
「ねえ、哲夫君。この熱帯魚、哲夫君のお部屋へ移せないかしら。ここに陶器を飾
りたいんだけど」
美佐子は趣味で珍しい陶器類を集めていた。熱帯魚のいわれなど何も知らなかっ
た美佐子は気軽にそう言ったのだ。
「だめだよ。だってお父さんはめったに僕の部屋へはこないもん」
「あ、そうね。お父さんにだって熱帯魚を見せてあげなきゃね」
「そうじゃなくて、熱帯魚がお父さんに会えなくなるとかわいそうだからだよ。こ
の熱帯魚はお父さんのこといつも見ているんだ」
美佐子はそのときの会話を思い出して、全身が粟立つのを感じた。つまりこの半
年間、この家の中には常に恭子が存在していたのだ。哲夫は水槽の中の恭子に語り
掛け、恭子は水槽の中から夫を見つめていた。
美佐子が、恭子の化身である熱帯魚に殺意を感じるようになったのは、そのとき
からだった。