#1044/1850 CFM「空中分解」
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老人の門下生 ひすい岳舟
★内容
今から20年程前だったが、僕が大学生の頃、下宿していた隣近所に変わった老人が
いたのを覚えている。覚えているなんてとぼけた表現をすると、知っている奴は笑うに
ちがいない。僕はその、得体のしれない老人の門下生だったのだ。
門下生といっても、何を教えてくれるわけではない。ただ、そのみすぼらしい邸宅に
行くのである。先輩の話だと、老人は一人の門下生しかもたず、従って順調にいけばの
話、4年に1度のサイクルで門下生が入れ変わる。ところが世の中そうはいかないもの
で、“先代門下生”は8年いたという。
あれは雨の日だったか。ボケーと、窓より降り頻る雨を見ていたら大声で呼ぶ声がガ
ラスに当たった。そこでガラガラと開けてみるに、隣の老人が、白髪をクチャクチャに
してのどのしわを伸ばしきって、君は今忙しそうだな、と言った。
いえ、そんなことはありませんよ。馬鹿を言え。人間は止まっている時ほどめまぐる
しく頭が回転していることはないんだ。人がどうしようと、勝手でしょうが。ああ、勝
手だ、だがそうやって気付かずのうちに人間は愚物になってゆくのだ。別にいまさらあ
なたに馬鹿と言われなくとも、何度も言われていますよ。ほほう、じゃあ見込みがあり
そうだな。なんですか!おい、ちっと来てみろ、茶ぐらい飲まさせてやらぁな。
雨が烈しかったけれどもいきりたっていたから、えいやとばかりに隣に駆け込んだ。
するとさっきの老人がすぐ現れ、上がれという。上がるためにきたのだから、言われな
くとも………
である。もっとも、これは対した意味は無い。何故ならば、時間という概念を飛び越え
たところに真の物があるからだ。
私はいきなりだったので目をパチクリした。老人の言葉かとは思えなかったのである
もっとも、良くみるとその老い方は普通の人間と違う。目の辺りは窪んでいるが眼光は
黒々と輝いている。少しばっかり残っている頭をトルネード状に取り巻いている白髪は
ボウボウであったが、それからは不潔とは思えなかった。口はもはや赤みは消えていた
が薄いそれの間からは、意思の強そうな歯が時偶覗いた。鼻は鷲鼻で珍しい形をしてい
た。老人にはこれを右手の薬指で、会話中にさする癖があった。
御前、俺の門下生にならねえかェ。……はぁ?どうせ、浮世のいう暇人、俺のいう忙
がしい人間なんだろう、あそこにいたってここにいたってそう変わるもんじゃあるめぇ。もっとも御前さんが、あそこで頬杖をつかなくては死んでしまいます、とか、故郷にお
いてきた父との約束があってこればっかりは守らなくてはならない、とか、何とかとい
う宗教上の理由で駄目とかいうんなら、俺はいいがね。
「別にそういうのはありませんが………しかし、少々可笑しくはありませんでしょう
か?」
「何が。」老人はそう言って、茶を飲んだ。
「ですから、あなたを知らないのに………こうやっているのも………その門下生という
のも………それに私はそんなにいい玉でもありませんし………」
「ちいとは理屈をいうね。しかし君、それじゃあ、一歩も前には進めんぜ。これから、
会社入る時にもそんな調子かい?」
「………しかし、これとはケースが違うと思うのですが………」
「どこが違うってぇんだ。ここで頬杖をつくのも、あそこでつくのも変わりはあるめぇ。緯度経度だってそうは変わるめぇ。だったら、ここでやったらどうだ、というのだよ」
「しかし………」僕はその時、ひらめいた。「そうだ。ここもあそこも変わりない。で
はあそこでついていてもいいではないですか」
僕は老人の意表を付いたつもりだった。しかし彼は面白そうにニヤっとしただけであ
った。
「そうだね、その通りだ。」
「………」
まぁ、いいや、お帰りよ。話は終わったのだから。
そう言うと彼は奥に入ってしまった。僕は半時ばかり何故かそこにいたが出てこなか
ったので、頃合を見てそこから撤退した。
翌日の事だったろう。虹が出来上がっているのをまぶしく見ながら、大学の帰り。
なんとなく、老人の家の門を潜った。そうすると老人は昨日のように出てきて、まぁ
あがれやと言った。僕のほうもへんな意地なしに、その通りにした。
それから門下生になったのだ。もっとも、別に学問を教えるというのではない。ただ
この世の不条理やからくり、SF的な話をする。本当、別に糧になるわけでもないのだ
けれども、何故かやってきてしまうのだ。最初の時、何故か来てしまったように。
今、考えると老人は何もかも見抜いていたのかもしれない。いや、そうだ。それでず
るいことに、言葉を選んでああいうふうにしくんだのだ。
老人は自分の事を、ひすい岳舟と名乗った。1971年1月26日生まれというから
94歳である。もっとも、彼の歳は17歳の時94と言い放ってから変わったことがな
く、これからも無いということだ。なんという偶然か、門下生になった年がその境目だ
ったのだ。
彼は自分よりも凄い奴はもっとゴロゴロしていたという。自分はむしろ愚鈍な方で、
だからこうやって御前となんか話しているんだ。俺の知っていた奴なんてスパスパと見
抜く奴もいた程だ。それから、喧嘩を目の前でみたいと思ったら、指で宙を回すだけで
その前にいた奴らが大喧嘩させられるという奴もいたよ。
「そんなぁ〜」
「なにがそんなか!原理さえ知っていれば、簡単なのだよ。御前らは機械は分かっても
世の中のからくりは見えないから奇術に思えるのだ。」
「先生はどうなんです。」
「俺は馬鹿だから、見えるだけさ。しかし、世の中にはすげぇのがいるぜ。御前がただ
横を通っただけだったら風采の悪いサラリーマンにしか見えないような奴が、世の中の
綱を握っていることもあるんだ。」
「はぁ…」
僕の場合4年だった。とある商社に入ることに決まって別れを告げに言ったら、一緒
に酒を飲んでくれた。いいか、御前は弟子の中ではすこぶる馬鹿だったが、なんかいい
ようのないものがある。それがこれからの人生にどう影響するかはわからねえ。あの時
を覚えているだろう、雨の時だ。はい。あれと同じよ。ゴウゴウ降るときもあるが、次
の日に虹がでるほどに上がるときもある。御前に色々言ったが、世の中は呼吸が肝心だ。と、言っても、金持ちになれとは言ってねぇぞ。
「はい、分かりました」
「何が分かりましただ、てめぇなんぞに分かってたまるか」
そういった、得体のしれない老人の目の窪地には大きな雨雲があった。
そして20年。ついにいった、という知らせを風のたよりに聞いた。僕はその時会社
で窓際族と呼ばれる人間になっていたのだが、どうも窓から眺める雨雲に彼が乗ってい
るように思えて仕方なかった。
あと、10年くらいしたら、俺も門下生をとってもいいなと思った。
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