AWC 毀れゆくものの形 五−2     直江屋緑字斎


        
#911/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ     )  88/ 3/13   8:38  ( 98)
毀れゆくものの形 五−2     直江屋緑字斎
★内容

 戦後暫くして第五外科に戻ることができた矢継青年は、再び有木
教授の助手を務めるようになった。だが、青年は、すでに正気を恢
復(かいふく)しつつある戦後の、その向こうに約束されている
平々凡々と過ぎゆく静謐(せいひつ)な日常に、心底飽々している
に違いない自分の姿を思い描いていた。青年は、まるで逼塞(ひっ
そく)でもしているような教授に、頻りと「海馬体仮説」の研究続
行を促しつづけた。青年は、いきなり老け込んでしまった教授の内
奥で、実験への抑えきれぬ執着と暗い情熱が燠火(おきび)のよう
に熱を帯びているのを嗅ぎつけていたのだった。
 矢継助手は教授の研究資料に目を通すうちに、戦時中に行われた
人体実験の全貌をほぼ掴んでいた。その事実が明るみに出されれば、
教授はGHQの追及を免れえなかっただろうが、教授の決断を促し
たのはそのことのためばかりではなかった。海馬体が情動の原因で
あることを立証し、「海馬体仮説」の正しさを証明するには、あと
数回の実験が必要だったからだ。そしてその実験は、戦争目的でも
なく、それゆえに国家からの保護も命令も受けることのない、純粋
に学問的な行為であるという自己弁護も試みたに違いない。けれど
も、本当は実験に対する執念でしかなかった。有木教授はその誘惑
に屈し、実験を秘密裡に再開した。
 戦後の混乱をよそに、有木教授と矢継助手の二人だけの開頭手術
が数年の歳月をかけて行われた。被験者には、大学病院に収容中の
重度の精神疾病患者、頭部損傷患者からピックアップされた数人が
充てられた。そして充分な検討の結果、意外な事実が判明した。そ
れは、脳内から視床下部だけを摘出した場合、術後の情動反応では
完全に無反応となるにもかかわらず、海馬体のみの切除では、強い
情動反応は失われるが、微妙な反応曲線は完全には消えないという
ことだった。このことは、教授の「海馬体仮説」が成立しないこと
を示していた。また、次に明らかになったのは、海馬体の海馬支脚
だけの切除によっても反応曲線に変化が現われ、その切除の箇所と
量に応じて術後反応の度合が異なってくるということだった。つま
り、情動の原因が視床下部にあり、海馬体は制御的な役目を果たす
という結論を導き出す。
 しかし、教授は、この結果に悄然(しょうぜん)としたわけでは
なかった。依然として大脳辺縁系が情動を生み出す部位であること
に変わりはなく、海馬体が情動と不即不離の、きわめて枢要な組織
であることを実験的に確認できただけでも満足だった。
 この数度の手術と反応分析は昭和二十五年頃まで続けられたが、
海外でP・D・マクリーンによって「大脳辺縁系は内臓活動を支配
する内臓脳であり、これは個体維持や種族保存に大きな役割を果た
す」という学説が発表されるに及び、有木教授は、海馬体と視床下
部が表裏一体の関係をなすように、情動に限らず、大脳辺縁系全体
の諸活動に海馬体が大きく関与するのではないかと考え、海馬体の
重要性を改めて痛感した。
 また、被験者の一千例に及ぶ資料を検討し直した結果、新たな事
実も発見された。それは、殺人犯の多くに海馬体の異常肥大がみら
れたということである。その肥大は支脚方向に顕著であって、海馬
傍回を圧迫し、脳全体を後頭葉方向に押し出しているのだった。

「この部分です」
 矢継院長は再び廻転椅子をめぐらし机上のスクリーンに向き直る
と、褪色(たいしょく)したレントゲンフィルムの一部分を指し示
した。
「あのとき先生は、骨格異常説や外傷性異常説の介在を嫌い、頭蓋
の変形については触れようとはなさらなかったのでしたね。先生は、
海馬体の肥大の原因が頭蓋の変形によって導き出されることはあり
えない、と言われた。脳は水中に漂う豆腐のようなものである、だ
から外部からの圧力に関しては何処でも均等の影響を受け、それゆ
えコントルクーのような現象が生ずるのであって、ましてや中枢部
に骨格からの影響が現われるはずはない、そう説明された。しかし、
情動反応の過度なサンプルほど明瞭に頭蓋の骨格異常が現われてい
るということは看過できなかったわけです。「「我々は、海馬体が、
情動に限らず内臓の機制においても主要な部位であることはつきと
めました。けれども、頭蓋の変形という現象的事実につきあたりま
した。先生も、そのことに目をつぶるわけにはいかなかった」
「そのとおりだ。だからこそ、君の提案したあの忌わしい実験に同
意したのだ」
 老人の声は、わななくようなふるえを帯びていた。何か、よほど
辛いことを思い出しているのか、老いた顔にありありと苦渋の色が
泛(うか)んでいた。
 「「深い皺(しわ)が刻まれている有木老人の顔を、闇の中を飛
び交い、漆黒そのものに溶ける獣のように、高窓の外に貼りついて
覗き見る双眸(そうぼう)こそ、矢継早彦のものであった。けれど
も、夜の研究室から滔々(とうとう)と流れ出る矢継院長の言葉が
暗い声音を引き摺(ず)っているのに少年が気づいていたかどうか
は窺(うかが)いようもなかった。早彦の位置からはみえない院長
の顔が、老人とは対蹠(たいしょ)的に、何ものかの火照りに煽ら
れて赤らんでいた。早彦の父親もまた、思い出すのもはばかられる
おぞましさに囚えられていたに違いないのだ。そして、それゆえに、
彼は熱狂者の姿をとっていたのかもしれない。
「私は第五外科で秘密に保管されていた頭蓋骨や記録、資料などを
ここに運び込み、それから十年余、詳細に研究いたしました。そし
て、頭蓋後部の突起、すなわちこの角がラムダ状縫合の上部にしか
見られないことを確認したのです。「「先ほどは骨格異常と言いま
したが、この頭頂骨と後頭骨を分かつ部分の突起は、力学的にみて
まったく自然であり、何ら異常ではないのです。つまり、骨の外部
からは異形のもののように見えますが、これを裏返して骨の内部、
脳の側から見るとき、この変形した頭蓋は実にぴったりとした容れ
物だということです。私が推理しまするに、海馬体の肥大によって
大脳の頭頂後頭溝が下部へずり落ち、その結果内側に引っぱり込ま
れることで溝の上部が突出し、その運動の影響によって頭頂骨の縫
合部が盛り上がるのではないか……。それに気づいたとき、我々の
発想が結果の方ばかりに向き、発生の過程にまで及んでいなかった
ことに思い当たったわけです。異常は、この発生の時期に遡らねば
ならなかったのです。「「私が注目したのは、脳細胞の増殖の第二
のピークといわれるシナプス形成期でした」






前のメッセージ 次のメッセージ 
「CFM「空中分解」」一覧 直江屋緑字斎の作品
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE