AWC 【純文学】今夜一緒にいてーな 3


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★タイトル (sab     )  17/03/18  18:19  (456)
【純文学】今夜一緒にいてーな 3
★内容                                         17/04/06 13:54 修正 第2版

 その日も又メールを打った。
 To akiko_takahashi@rainbow_tool.co.jp
 Sub グッドウィル社員に関して
 レインボースタッフ殿 高橋亜希子様
 お世話になっています。
 昨日、業務に関して、グッド社員がいい加減だと相談しましたが、
 業務以外にも、掃除などに関してもいい加減で困っています。
 わざといい加減にして、こっちが見るに見かねて手助けするのを待っている感じ
です。
 その事でこっちがストレスを感じてるのも知っています。
 実際結構ストレスが溜まっています。
 どうにかしていただけないでしょうか。

 差出人:akiko_takahashi@rainbow_tool.co.jp
 件名:他社様スタッフに関して
 受信日時:2004/12/08 21:07
 有田様
 毎々お世話になっております。
 忙しくてなかなかそちらにも回れず申し訳ありません。
 近い内に訪問する予定があるので、表題の件神本様に相談してみたいと思います。
 ただ、個人的に思うのは、掃除まで言うのは箸の上げ下げかなーって気もします。
 人間が違うので、有田さんの手足の様には動いてくれないと思いますよ。
 犬だって真っ直ぐ歩かせるのは一苦労でしょう。
 とにかく憎らしがったら人間関係は上手くいきませんよ
 少しおおらかに、気楽に付き合ってみてはいかがでしょうか。

 次の日の朝は、初霜が降りていた。
 携帯工場の前の芝生も真っ白でグッドウィルの派遣社員は休憩していなかった。
 出荷場の奥の神本でタイムカードを押す。
 社食の脇を通り抜けて、工場に向かう。
 一階の軒下の男子トイレと喫煙所をスルーして、防火扉の前を横切って階段に上
ろうとしたら、なんと、その手前のパートタイマー用タイムカードを乗っけた台の
下に、猫の糞を発見してしまった。寒いので湯気が立っている。
 こんなの踏まれたら、この建物中、猫の糞の足あとが付くぞ。どうしたものか、
と腕組みをして、ジーっと見ていた。
 三々五々出勤してきて打刻するパートさんに、「あ、そこ、猫のフンがあります
から。踏まないで」などと注意喚起しつつ。
 やがて、加藤が来た。
「おい、そこに猫の糞がある」
「だから?」
「どうにかしないと」
「は? なんでおルぇが」と巻き舌で言ってきたが、すぐに諦めた様に溜息をつく
と、さっさと階段を上がって行ってしまった。
 俺は、男子トイレからペーパーを取ってくると、ナマコでも摘む様な手触りを感
じつつ糞を摘んで、大便所まで持って行って流した。
 ホースを引っ張ってきて床にこびりついた糞を洗い流す。
 しかも、流した水が薄氷となって通路の上に固まったので、誰かがすってんころ
りんするんじゃないかとしばらく見ていた。
 日が差してきたのでその場を去ったが。

 倉庫に行くと、元はオフィスだったので、既に暖房が効いていた。
 加藤がぬくぬくと、パイプ椅子にふんぞり返ってマガジンを読んでいた。
「おい。そっちは平気で座っているけれども、あの猫の糞があのままだったら、こ
こらへんにも、ニオイが広がったかも知れないんだよ」
「それ、俺に関係があるの?」
「関係あるでしょう。そんな事になっていたら、そっちだってそうやって呑気に漫
画なんて読んでいられないんだから」
「だからって何で俺が掃除するんだよ。この建物には二百人も居るんだぜ」
「じゃあ、ここらへんが、猫の糞の足あとだらけになっていたらどうしていたんだ
よ」
「そうなる前に誰か気が付いて、始末してくれたんじゃない?」
「誰が」
「だから、俺の亡妻とかあんたみたいな気にし屋が」
「は?」
「あんたは、自分に自信がなーい」突然、加藤が言った。「そういうあんたがこの
世界に居場所を見付けようとしたら、世界のダメな所を見付けるしかないんだよ。
それが猫の糞なんだよ。そうやって世界のダメさにつけ込んで、世界に居座るんだ
よ」と言うと、マガジンに目を落とした。
 何言ってんだこいつ、と呆気にとられた。
 しかし俺も椅子に腰を下ろした。
 …俺が、自分に自信がないからって、世界のダメさにつけ込むだって? 奇妙奇
天烈な事を言う奴だよなあ。
 俺が猫の糞が気になるのはそういう感じではない。それは、例えば、ちゃんと手
を洗わないで料理をしたらバイ菌が増殖していく、みたいな不潔恐怖に近い感じだ。
あと、電源ケーブルをちゃんと付けないと地方のコンビニで火事がおきるというの
は、自分の部屋のガス栓を閉めてきたっけ、という強迫神経症みたいな感じだ。
 そして、そういう作業を公平にやらなくちゃいけない、というのは、フロイト博
士の快感原則と涅槃原則で説明出来る。
 人間には快感原則と涅槃原則があって、人間関係が上手く行っている時には快感
原則だが、しくじると涅槃原則に陥って厳密な事を言い出す、という説明だ。
 涅槃というのは、原子の世界だから、幾何学的な秩序があって、手書きのビン
カードではなくてPCのエクセル、みたいな感じなのだが。
 快感原則というのは男女の関係みたいな肉と肉の関係で、有機体的な関係で、結
構適当なものだと思うのだが。
 でも俺みたいに非モテだと、そういう人間関係を上手くキープ出来ないから、つ
い厳密になってしまって、「2回って約束したじゃないか」となる。つまり快感原
則に涅槃原則が入り込む。
 仕事に関しても全てを公平にしないと我慢出来なくなる。
 しかし、ここって、会社だよな。家族でも恋人でもない雇用関係の場だよな。だ
ったら、厳密でいいんじゃないの? 涅槃原則でいいんじゃないの?
 涅槃原則の世界なのだから、それを取り仕切る人が必要だ。
 厳密さを取り仕切る上司がいないのが問題なんじゃないのか。上司さえいれば何
の問題も起こらないんじゃないのか。
「おい」と俺は加藤に言った。「分かったよ」
「何が?」
「上司がいないのが問題なんだよ。上司がいてちゃんと指示してくれれば、そっち
ともそんなに揉めなくて済むんだよ」
「あんた、おかしいんじゃねーの。二重ピンハネされている上に上司にこき使われ
たいなんて、マゾヒストかよ。或いは奴隷だな。奴隷はご主人様に命令されると喜
ぶっていうからな」
「ちがーう。俺が言っているのは、赤木の言っているみたいな、"国民全員が苦し
む平等"を実現する鬼軍曹みたいな上司なんだよ。ソクラテスだって悪平等が人間
にとって良い事だと言っているじゃないか」
「まぁまぁ、興奮するなよ、ヒヒッ、ヒヒッ」
 加藤は、緑のグラスの奥で上下三白眼を見開いて、ヒヒッと笑った。

 誰も居ない午前中の社食の自販機の前で、俺はメールを打った。
 To akiko_takahashi@rainbow_tool.co.jp
 Sub グッドウィル社員に関して(3回目)
 レインボースタッフ殿 高橋亜希子様
 一昨日より、他社派遣社員加藤に関して、仕事がいい加減、掃除がいい加減とい
う事をメールしました。
 そしてそれを小生がフォローしなければならないという事も書きました。
 更に、向こうは人のいいのにつけ込んで、こっちにやらせている感じがある事も
言いました。
 (更に、今日は、猫の糞の始末までしました)。
 そういう事に関して、高橋さんは、おおらかに付き合えとおっしゃいますが。
 しかし考えてみれば、私は契約社員としてここにいるのですから、友達とか家族
みたいに、おおらかに付き合う必要もないのではないかと思います。
 そして契約なのですから、ちゃんと履行されているかどうかをチェックする人、
つまり上司がいなくちゃいけないのではないでしょうか。
 そういう人が居ないのが諸悪の根源ではないでしょうか。
 そもそも、使用者が居ない職場に派遣するというのは、偽装請負にも絡んでくる
と思いますが。
 そこらへんは派遣元としてどう考えているのでしょうか。
 実際に、そういう職場で苦労しているスタッフがいる、という現実を忘れないで
下さい。

 昼休み、社食でかまど屋ののり弁を食っていたら、携帯が震えた。
「もしもし?」
「レインボーの高橋ですけれども。今大丈夫ですか?」
 偽装請負なんて言ったから慌てて電話してきたんじゃあないのか。
「大丈夫ですけど」
「今日、そちらに伺いたいと思うんですけど、定時後、有田さん、時間あります
か?」
「えっ。今日、神本の所長、居なかったですよ。入れないかも…」
「いえ、たまには様子を見てみたいので。外からでも。それに話しておきたい事も
あるんですよ」
「え、なんですか?」
「それは会った時に…。豊田駅のドトールに5時半頃、来られますか?」
「そのぐらいだったらちょうどいいと思いますけど」


 3

 定時後、車は駐車場に置きっ放しにして、T芝のバスで豊田駅まで行った。
 ドトールの入り口の所に、高橋さんは立っていた。
 黒いスーツに、インナーはひらひらの一杯ついたブラウスを着ている。ちょっと
見シミーズみたいに見える。素人の着ているものって、全然分からない。手にはダ
ウンのコートをぶら下げていた。
 店に入って行くと、「あれ、有田さん、車で通っているんですか?」と俺のナリ
を見て言ってきた。
 作業着の上に化繊ダウンで、スポーツバッグをたすき掛けに掛けていたので。
「電車ですよ。今、T芝のバスで来たんですよ」
「凄いですねぇ、作業着で通勤ですか。じゃあ、ドリンク注文しましょうか。有田
さん、何にします?」
「じゃあ、ホットで」
「じゃあ、ホットとエスプレッソ」とカウンターの店員に言った。
 高橋さんが金を払った。レシートを貰っていたから会社から銭は出るんだろう。
 高橋さんは、左手にトートバッグとコートを持ったまま、右手にコーヒーの乗っ
たトレイを持って、操り人形みたいによろよろと椅子の間をすり抜けて行った。
 タイトなスカートにヒールを見ていると、女の人って締め付けられているんだな
ぁと思う。
 席につくと、とりあえず、コーヒーにミルクと砂糖を入れてかき回す。
「お仕事色々大変みたいですね」
「あー、すみませんね。色々メールで愚痴っちゃって」
「どんな感じなんですか?」
「それがですね…」俺はメールに書いた事を蒸し返した。
 …とにかく、グッドの加藤がいい加減で、カメラの電源ケーブルの取り付けとな
ども全くいい加減で、それで現地で火を吹いても平気だと言っている。
 結局、心配性のこっちがやってやっているが、そういう私の性質を、レインボー
も神本も利用していて、それは、豚の習性を利用してトリュフを採る様なものだと
言っている。豚ですよ、豚。
 それだけじゃなくて、掃除とかもいい加減で、それも、こっちが見るに見かねて
手を出すのを知っていてやっている。共依存関係なぞと言っていた。こっちが自分
に自信がないから相手のダメなところを見付けて、居場所を見付けるのだ、とか。
それと同じ方法で、女房を酷使して殺して保険金を手に入れたと言っていた。
 他にも猫の糞を見て見ぬふりをするというのもある。
 そんな奴と仲良くやれと言われても困る。あいつは友達でも家族でもないし、あ
くまで業務でやっているんだから。
 誰か上長がいて、指示を出してくれれば、こんなに揉めないと思うのだが…
「神本はただのマージン取りだから相談出来ないし、高橋さんがT芝に文句を言え
るって立場でもないんでしょう?」
「そうそう、その事で言っておきたい事があったんですけど」と高橋さんが言った。
「今、レインボー、神本って二重派遣になっていますよね。それがなくなるかも知
れないんです。いや、なくなりますね」
「そりゃ又どうして」
「実はですね」と高橋さんは説明してくれた。
 某大手家電量販店で二重派遣があって、ああいう所は、耳にトランシーバーをつ
けさせられて、白物家電に行け、黒物家電に行け、そのテレビは幾らまでまけてい
い、とか、バックヤードから正社員が指図して、もう、コントローラーで動かされ
るゲームキャラみたいにこき使われるので、ノイローゼになったとか、派遣元から
暴力をふるわれたとか。
 別に二重派遣だからそうなった訳ではなくて、派遣元がこわーい会社だったのか
も知れないけど…。
「とにかくその煽りを受けて、うちも二重派遣は原則しないって事になったんで
す」
 なんでそんな事を俺に聞かせるんだろう。日野工場はまだまだマシだとでも言い
たいのだろうか。
「じゃあ、神本が派遣元になるんですか? それともレインボーから直接T芝に派
遣されるんですか?」
「現状、なんとも言えないんですが。でも、レインボー、T芝だったら、現場でト
ラブルがあっても、こっちからもT芝さんの主任などに言ってあげられるんですけ
どね」
「だったら、レインボー、T芝でお願いしたいなぁ」
 俺は梱包場の奥の事務所でふんぞり返っている元暴走族の所長を連想した。
「あの所長は気に入らないんですよ。机のビニールの下にシャコタンの車の写真と
か入れているし。あと子供の七五三の時の写真とか、沖縄の成人式みたいだし。あ
りゃあdqnですよ。あんなのに使われるぐらいだったら辞めますね。…つーか、
私でも生産管理の主任とか購買の担当者とか知っている人がいるから、私からお願
いしてみましょうか」
「えー、有田さんにそんな事出来るんですか。でもいいですよ、そんな事してくれ
なくって。あっ、でも人脈の情報だけはお願いします」
 そういえばレインボーのスタッフの心得にも、派遣先のキーパーソンを見付けて
レインボーに報告、とか書いてあった。
 高橋さんはエスプレッソのカップを薄い唇に付けた。ゴクリと飲み込む。そして
上唇についた泡をピンクの舌の先っぽでぺろりと舐めた。
 見た感じ、綾瀬はるかに似ていて、真面目な感じ。あのファッションヘルスのす
れっからしとは大違い。
 高橋さんはカップを皿に戻すと大きく溜息を付いた。
「疲れませんか?」突然聞いた。
「疲れますね。もう、脚とかパンパン」
「高橋さんって、どこらへんまで回っているんですか?」
「多摩地区は吉祥寺、三鷹辺りから日野、八王子までですね。東西は南武線の鹿島
田辺りから、西は北朝霞辺りまで」
 レインボースタッフは元々は地域密着型の派遣会社だったのだが、今では吉祥寺
にも事務所を構えて、テリトリーを拡大していた。
「どこに住んでいるの?」
「八王子の寺田町」
「へー、じゃあ、私のアパートの近くだ。北野なんですけどね。何でまた寺田なん
かに」
「大学の関係で」
「法政?」
「いえ、家政学院大学というのがあるんです。小さい大学なんですけど」
「引っ越しすればいいのに」
「まだ一年目だし」と高橋さんは言った。
 そういえば、リクルートスーツみたいな感じがする。
 高橋さんは又エスプレッソに口を付けた。
 この人もこき使われているんじゃないか、と思う。でも、今はくつろいでいるに
違いない。今も仕事の延長で、ビジネスライクに済ませる積りだったら、適当に
「ブレンド」とかを飲む筈だ。それをわざわざエスプレッソなんて好きなものを頼
むのは、おざなりに済ませようっていうんじゃなくて、くつろぎの時間を俺と共有
しているんじゃないのか。
「そうだ」と言うと、高橋さんはバックからシステム手帳を出して、ページの間か
らチケットの様なものを取り出した。
「これ、今日の明日で急なんですけど」
 言うと、何やら黒地に赤青黄色で印刷されたチケットをテーブルの上を滑らせて
きた。
『レインボー多摩地区クリスマスパーティー&忘年会 ハウス・テクノナイト D
J名無し 12/17FRI 17:30〜23:00』
「本当は6ケ月以上在籍した人対象なんですけれども、有田さんももうすぐ半年に
なるし、よかったらどうですか?」
「いやー、こういうお洒落なのは」
「全然お洒落じゃないですよ。多摩地区の集まりですから。みんな普段着で来るし。
作業着じゃあこないけど」
「高橋さんも行くんですか?」
「そりゃあ私はホストというか」
「ふーん、面白そうだなあ」
「ぜひ来てくださいよ。ストレス解消にもなるし」
「そうですね」

 結局今日の用事は二重派遣解消の事と吉祥寺のクラブのお誘いか。
 ドトールから出ると、「それじゃあ明日吉祥寺で」と小さく手を振って、高橋さ
んは豊田駅方面に消えていった。
 俺は、夕食を買っていくから、と言って、その場で別れたのだが。しかし、車は
置いていっても、北野まで電車とバスでご一緒した方がよかったか。いやいや、あ
んまり長い時間一緒にいて白けてしまったら元も子もないない。短時間で複数回盛
り上がった方が好印象を与えるんじゃないか。

 アパートに帰ると即厚木に電話した。
「吉報だよ、吉報」
「なに?」
「派遣元の女と喫茶店に行ったんだけれども、俺の目の前でエスプレッソの泡を舐
めたんだよね」
「ほんとかよ、すげーな」
「しかも明日は、クラブでのイベントに誘われたんだよね」
「だったらやっちゃっていいんじゃないの?」
「えー」
「だって2回だろ。普通2回誘われたら、もうOKだぜ」
「しかし、両方とも仕事絡みだしなあ。事務所がないから喫茶店で話しただけだし。
それにクラブのイベントは忘年会みたいなものだし」
「うちの会社でも社内恋愛なんて、大抵は二人っきりで残業して、とかなんだぜ」
「へー」
「それに、これ見よがしに泡を舐めたなんていうのは、サインを送っているんじゃ
ないの? 女は絶対にやらせるとは言わないからなぁ」
「そうだよなあ。劇場の女だってそうだものねえ」
「まして、素人の女だったら、絶対にやっていいとは言わないからな。もう、本当
に森本レオ並の図々しさで迫っていかないと永久に素人童貞だぞ」
 森本レオ? 何故か脳裏に高橋源一郎の顔が浮かぶ。
「何で、強引に行けないのかなあ…」と俺は呟いた。
「そりゃあ、俺達はさ、病める時も健やかなる時も死が二人を分かつまで、という
感じにはなれないからなぁ」
 これは、病める時の自分になんて何の価値も無い、だから前金で払って…、とい
うんじゃない。病める時も健やかなる時も、という変化がダメなのだ。常に病んで
いるのなら、それなりの女を探す事が出来る。つまり原子の様に自分の状態が固定
していればいいのだ。そういうのがアフラックの契約とか2回やらせろ、なんだけ
ど…。
「厚木くん、この前、2回やらせる店とか教えてくれたけれども、酷い目にあった
よ」
 俺は、これこれこういう訳でやらせなかった、という顛末を語った。
「いや、その時だって強引にいきゃあ、やらせてくれたんじゃないの?」
「うーん」
「素人だったらますます強引に行かないとダメだぞ。
 こうすればいいんじゃない? 現地解散ならNGだが、そうでなければOKで。
明らかにOKだろう。現地解散じゃなくてどっかに行くんだったら。そう思わな
い?」
「そうだよなあ」


 4

 翌日、加藤とは一言も喋らないで、業務をこなした。
 定時になったら、すぐに4階のロッカーに行って、体中をギャッツビーのウェッ
トティッシュでごしごしやった。
 シャツは、黒いサテンのデザインシャツで、お兄系というかホストとかバーテン
みたいな感じ。
 仕上げに、昔ドンキで買ったジバンシー、ウルトラマンを脇の下だの頸動脈だの
に噴霧すると、ジャケットを羽織った。
 背後で、「おっ、デートかあ」というオッサンの正社員の声がしたが、答えない
で、キシリトールのガムを口に放り込んだ。
「お先にっ」

 この時間帯、上り線は空いていた。
 裏道を通って、新奥多摩街道に出るとすぐに甲州街道に至る。府中付近で東八道
路に入って、多磨霊園を超えれば三鷹周辺はすぐだった。
 吉祥寺通りに入ると、だんだん気分が高揚してきて、多分こんな曲がかかるんじ
ゃないかなーと思って、劇場のハウス・ミュージック掛けた。♪ライト・イン・
ザ・ナーイと
 吉祥寺の街に入ると多少道が混んできて、俺はゆっくりと流した。丸で地元を流
すジモティーの様に。
 ショップのショーウィンドウや歩道を歩くお洒落な女達が、シートにふんぞり返
っている自分の目線の高さで流れて行く。 
 雨がポツポツ降ってきた。街路樹や街灯にはクリスマスのLEDが蔦のように絡
まっていて、フロントグラスの油膜に滲む。
 俺は更に興奮して、カーステのボリュームを上げるとハンドルを叩きながら運転
した。
 やがて右手にターゲットと思しき、虎マークみたいな黄色地に黒でロゴの描かれ
た看板を発見する。あの近所だったな。
 吉祥寺通りが五日市街道にぶつかったら、クランク状に周って戻って来る。
 反対側のパーキングビルに車を突っ込んだ。
 街に出ると、やっぱり学生が多い感じ。あちこちに男女がたむろっていて、どこ
の居酒屋に入ろうか相談している。
 ティッシュやピンクチラシを配っているあんちゃんもいた。
 人々の間をスケボーに乗った男が高速で走り抜けていった。カラカラカラーっと
いうローラーの音がアーケードにこだました。
 すぐに目的のビルは見付かった。
 ビルに入って、目的の階でエレベータを降りる。
 もぎりの店員は一瞬俺の顔を見て怪訝な表情を浮かべる。しかし、チケットを出
すと、にーっと笑って、入り口に向けて、いらっしゃ〜いのポーズをして招き入れ
る。

 一歩中に入ると、既に宴たけなわで、暗闇の中ミラーボールがクルクル回ってい
て、ハウス・ミュージックがガンガンに鳴り響いていて、ミニスカの女子がカウン
ターの上で踊っていた。
 劇場のチープなスピーカーと違って、天井のあちこちにBOSEのスピーカーが
ぶら下がっていて、フロアの角には冷蔵庫ぐらいのJBLが設置してあって、Ru
nーD.M.C Like Thatみたいな曲が、どんどん地響きの様に響いて
くる
 俺は雰囲気に圧倒されて、壁にへばりついた。
 と、フロアの群衆の中から、高橋さんが現れた。ブカブカのカーゴパンツにTシ
ャツといういでたち。
「きていたんですか」
「えー?」
「きていたんですかー」と耳元で怒鳴る。
「あー、今」
「もう、ビンゴ大会とかイントロ当てクイズが終わっちゃったんですよー」
「あー、そーうですか」
「ドリンクは?」
「えー?」
「ドリンクっ」
「ジンジャエールでも」
「飲まないんですか?」
「下戸なんですよ」
 高橋さんは、バーカウンターに行くと、マッチョな外人からジンジャエールと自
分用の瓶ビールを貰って戻ってきた。
 ビールの飲み口には火炎瓶の様に何かが突っ込んであるのだが、あそこからチ
ューチュー吸うのかと思ったら、それはレモンで、瓶の中に押し込んで飲むのだっ
た。
 とりあえず瓶をぶつけ合って、かんぱ〜い。
 そしてビールをカウンターに置くと、
「踊りましょうーよ」と言ってきた。
「いやー 踊り方が分からない」
「ほら、こうやって、音楽に合わせて体を動かせばいいんですよ」と言って両手を
取って揺すってくれる。
 そうやって、ノリノリで体を揺すりながら、くるくる回る。
 暗いので視線は気にならなかった。音楽がガンガンにかかっているので、踊りな
がらも繭の中に居る感じ。
 ライトが胸元にあたると、体の曲線が分かるのだが、のぞき部屋で覗いているよ
うな感覚。
 しかし、くるくる回ったら、群衆の中に誰かを見付けたらしく、
「ちょっと、あっち行ってきますねー」と言って、フロアの群衆の中に混ざってい
ってしまった。
 俺は手をにぎにぎして、感触を反芻した。素人の手って、カサカサしていなくて
しっとりと柔らかい。他の部分もしっとりしているんだろうなぁ。おっぱいとか、
陰部とか…と想像していたらにわかに勃起してきた。
 やばいと思って、顔を上げる。
 踊る人の群れは、踊るというよりかは、神輿でも担いでいる様に、全員で上下に
身を揺らしていた。
 音楽もハウスからトランスに変わっていて、音楽というよりかはサイレンか雷鳴
に近い感じ。
 場内真っ暗で、ストロボがチカチカしていた。踊る群衆のスケルトンがコマ送り
の様に浮き出る。
 しばらく見ていたが、見ていても面白くないし、いくら劇場で鍛えているとは言
っても、耳が痛くなってきた。
 ドリンクがなくなったところで、とりあえず退避。

 ロビーに出てきてもまだもモワ〜ンと耳鳴りがしていた。
 これじゃあ口説くどころじゃないな。クラブっていうのはひたすら踊るところな
んだなあ。
 しかし、廊下の壁に背を付けて見ていると、カップルになった男女が連れ添って
出てくる。
 あの大音響の中でどうやってひっかけたんだろう。それとも最初っから出来てい
たのか。
 そして、エレベータで降りて行く。
 時計を見ると、9時だった。
 どうすっかな、もう帰ろうかなぁ、と思案していたら、ダウンのコートを着た彼
女が出てきた。
「あれ、有田さんこんなところにいたんですか?」
「いやあ、中はうるさくて。もう帰るんですか?」
「9時からは、フリータイムだから」
「僕も帰ろうかなぁ」
「コートは?」
「車で来たんですよ」
 エレベータに乗ると気まずい雰囲気に包まれた。
「まさか会社にも車で通っている訳じゃないですよね」
「いやあ、今日は雨だったから」
 通りに出ると「雨、ふってないかなぁ」と独り言の様に言って、手のひらをかざ
した。
「送っていってあげようか」
「えー」とこっちを見ないで言うと、さっさと駅の方に歩き出した。
「どうやって帰るんですか?」
「西八からバス」
「西八から寺田までバスっていうのは信じられないなぁ」
 俺は丸でキャッチセールスの様に横にべったりとくっついて行った。嫌がられて
いるんじゃないかと思う。そっちはそっちで帰って下さい、と言われる前に自分か
ら引き下がった方がいいかも。いやいや、それがいけないんだよ。
 ところが、ロフトの少し先の雑居ビル入り口で、何やら揉め事が起こっていて、
2、30人の群衆が車道にまではみ出していた。その周りを、赤のトレーナーに赤
のベレー帽の集団が数珠つなぎに囲んでいたので、群衆が目立って見えたのだが。
「あれ、ガーディアン・エンジェルスじゃないの」
「えっ。あ、そうだ。何かあったんですかね」と高橋さんはトークしてきた。
 真ん中の方で揉めているらしく、その周りで押しくらまんじゅうの様に人が群れ
ていて、更にその周りをガーディアン・エンジェルスが取り囲んでいる。
「ちょっと見に行ってみようか」
「いや、止めた方がいいですよぉ。あっち側から行きましょうよ」と反対側の歩道
を指差す。
 そしてなんとなく共同歩調みたいな感じになって、二人して道路を渡って行った。
「やっぱ、物騒だから、送っていってあげようか」
「えー」
「だってどうせ僕、北野まで帰るんだし」
「じゃあ」








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