#363/1159 ●連載
★タイトル (gon ) 04/11/06 02:44 (204)
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「命日」 久作
★内容
史料引用は、まだ続く。
◆
里見刑部少輔義実公の事
前略……義実公は長享二年戊申四月七日七十二歳にして逝去、杖珠院殿宝興公居士と号
す。白浜に葬る。
里見刑部少輔義成公の事
前略……永正二年乙丑四月十五日義成公逝去五十七歳也。慰月院大幢勝公居士と号す。
白浜に葬る。御在城は稲村也。
……後略(里見九代記第一)
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家基(足利刑部少輔)結城合戦討死
義実(元祖。足利刑部少輔)生国下野足利。杖珠院殿建空興公居士。長享二年戊申四月
七日薨、行年七十二、菩提寺白浜。
義成(第一。里見刑部少輔)生国房州安房郡白浜。慰月院大幢勝公居士、永正二年乙丑
四月十五日薨、行年五十八、菩提寺白浜。
……後略(里見代々記冒頭系図)
前略……同(文安)三年甲午正月廿七日大瀧の正木が城を押取巻昼夜攻戦終に城方敗れ
て正木降参したりける〈房総里見軍記では文安四年正月二十五日〉。夫より白浜へ引帰
り暫く事静になりければ義実公の給ひけるは、我十九歳にて当国へ渡り纔五六年も旅住
せし所に不思議の合戦起りしより当国を切随ひ今は上総迄手に入たり。可然者の娘を娶
らばやと仰ける。安西承上総国真里谷某が息女可然候とて押付迎取御前にぞ定たり。斯
て御添合睦かりければ御男子誕生ましましける。大将御悦かぎりなく千歳を祝ひ春若丸
と名付給ふ。月日来り過行程に今年十五歳にならせ給ふ。御元服の御祝ありけり。義実
公の給ひけるは、我足利を名乗とも元根は新田の三男里見也。其子足利なれば我父家基
末葉故足利を名乗給ひしぞかし。然ば先祖の氏里見を名乗ものなし。今日より汝元服せ
ば里見を名乗べしとて、里見刑部少輔義成とぞ名付給ひけり。近習外様に至る迄寿き祝
し奉る。御祝甚賑ひたり。かくて年月を経るほどに文明三年辛卯春大将刑部殿へ仰られ
けるは、足下にもはや廿五歳、軍大将にも立べき頃なりし。我は未五十余歳少も年の若
き内上総国を攻べきなり。いそぎ勢を催して打立ばやと仰せける……中略……義実公は
長享二年戊申四月七日七十二歳にて薨し給ひける。……中略……〈義成は〉後永正二年
乙丑四月十五日生命五十八歳にて薨給ける。安房の里見の初祖は此殿にてぞ在ける。
……後略(里見代々記)
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前略……
刑部少輔家基(鎌倉稚子春王丸殿安王丸殿に頼まれ結城に於て討死堀内是から出す)
刑部少輔義実(安房国白浜後合杖珠院。奥方真里谷入道道環娘)是中興祖也
刑部少輔義成(奥方萬喜左近将監頼久娘)……後略(房総里見軍記冒頭系図)
……中略……
巻之七
里見義実逝去の事。并義成へ遺言の事
前略……長享二年の初夏になりければ……中略……七日の朝には病脳しきりにして、も
だへ苦しみ給ひしが……中略……斯のごとく遺書を譲りたまふて長享二年戊申年四月七
日七十二歳にて逝去し給ひければ何れも涙にくれ死出の具を調度して白浜に葬送なし、
すなはち杖珠院建宝興公居士と法名し奉るなりこそ。
……中略……
義成卿病気にて仮初の床に付給ひしが定業にてやありけん、次第に病脳おもりて永正二
年乙丑年四月五日五十七歳にして逝去なし給ふ。是によつて照月院殿大腫勝公居士と法
号して白浜にほふむりけるとなん。(房総里見軍記巻之八生実御所里見所々城責の事。
并里見義成逝去の事)
……後略
前略……斯くて長享二年戊申四月七日里見刑部少輔義実死去し給ふ。御年七十二歳。簾
中は真里谷殿の娘なり。家臣木曾・堀内・安西ら別離を惜しみ徳を慕ひ悲泣の涙は袂を
潤し袖を浸し哀愁限りなし。されどもかくて有るべき事ならねば、房州白浜村菩提所に
て葬礼の儀なり。杖珠院建宝興公大居士と号し追善の仏事を営みけり。(巻の一、真里
谷の入道父子降参の事)
……中略……
所々開城の事
前略……永正元年四月義成五十七歳にて逝去し給ふ。慰月院殿大幢正公庵主と号した
り。……後略
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小倉本里見家系図
前略……
長享二戊申年四月七日卒す。七十二才
元祖杖珠院殿建室興公居士 足利刑部少輔 義実
白浜在城
尼丘院殿■(翔のツクリに良)雲慶朗大姉 室 真里谷娘
里見
家門丸に二引 左巴
勅許菊門 五七桐
二代成義(改)里見刑部太輔 房州上総領之 白浜城住
……中略……
永正十四丁丑年六月廿八日行年七十八歳里見刑部太輔
慰月院殿大幢勝公居士 成義
妙光院殿貞室梵善大姉 室 萬喜娘
……後略
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東照宮大権現縁起
傳聞いにしへ溟潦の蒼海に三輪の金光有て浮浪す。天地ひらけ陰陽わかる丶に至て三輪
の金光同く三光の神聖と成て其中に化生す。此故に神国たり。神世萬々人皇千々にいた
り一刹利種系連禅譲していまだかつて移革せず。相胤も亦しかなり。閻浮界の裡、豈か
くの如く至治の域あらむや。されば日域を根本として印度支那を枝葉とせる事、良有以
哉。抑本朝帝皇の苗裔姓氏あまたにわかれし中にも第五十六代水尾帝の御末の源氏はた
けきいきほひありて、君を守り国を治ること世に超過せり。ことさらに当家の祖神に祝
ひたふとび給ふ東照大権現の名高き世のほまれは言説にも述がたく筆端にもつくしがた
し。今この本縁を顕すも巨海の一滴九牛が一毛のみならし。そのかみ彼慈父贈大納言廣
忠卿、若君のなきことを歎き、北の方もろともに参州煙巌耶麻鳳来寺の医王善逝に参詣
ありて、丹誠を凝し、諸有顕求悉令満足の誓約を深くたのみ給ひき。
ある夜、北のかたあらたなる霊夢を蒙りたまふ。夫夢は六のしな四のわかちありといへ
ども、瑞夢■(テヘンに曷)焉して御身も唯ならずおはしませば、まさしき卜筮の者に
とはせ給へば、孕にいまするは宿植徳本の男子十有二月にて平安に誕生あるべし。是十
二神将擁護の故なりと考へけり。
誠に占かた掌をさすが如く十二ケ月にあたり天文十一年壬寅十二月廿六日易産の紐をと
き給ふ。御骨法非常して乳母湯母備侍り養し奉り、蟇目の儀式碁手のかけ物など調へつ
とめて、三日五日の夜の祝ごとども本所はさらにもいはず、こなたかなたの御養産不可
勝計、此君襁褓のうちより風姿岐嶷に幼して雄略義気いましければ、御家族の反映行末
たのみ有て、国人皆天壌と、きはまりなからんことをねがひよろこびあへり。
……中略……
源君の仰に云く、当家は神武天皇より五十六代清和天皇第六の王子貞純親王の六孫王経
基始て源の姓を賜り多田満仲頼信頼義八幡太郎義家義国の嫡子義重新田の祖也。次男義
康足利是也。惣じて源平両家は宝車の両輪の如く天下を補佐し違逆を退治す。其職にあ
たれり。保元平治の乱の時、平家世を取て廿余年、寿永元暦のころ平家を追罰し、源氏
日本惣追捕使征夷大将軍に任ぜらる。其後同姓なりといへども、新田足利確執す。武勇
に勝劣なしといへども聖運によつて足利世をとる。中間に千変万化すといへども時のよ
ろしきに随ふ所なり。敢て其職にあらず。我今将軍となり氏の長者となる。且は先祖の
素懐をとげ、且は累代弓箭の耻を雪む。宿因の催す所、天道のあたふる所なり。倩清和
天皇の御即位を案ずるに恵亮なづきを砕しかば二帝位につく併法力也。義貞、山王権現
に鬼切をさ丶げて、子孫の征夷大将軍を祈る。神慮感応有て、予其職に昇る。是神徳
也。現在の願望すでに満ず。豈後世をしらざらんや。然ば則八萬の聖教に通達すといへ
ども、後世をしらざるは愚者也。一文句章に不及といふとも後世を識知するは智者也。
肆に諸宗の知識をめすに雲の如くあつまり、星の如く列なる。源君内には諸宗の奥義を
つたへ、外には朝暮に論議決択せしむ。諸仏の化導を観するに但本在因地未離我執時各
別発願各修浄土各化衆生如是等業差別不同矣仏すでに因位の我執をはなれず我亦各執本
習而入圓衆なれば太子は厭離穢土求浄土欣の思ひ乗して子孫をつがず我は現世安穏後生
善処の文に依て家門を繁昌せむ。造次にも思惟し顛沛にも観察す。有事我常在此娑婆世
界説法教化の文に当て忽然として大悟し累刧の妄情已にはれたり。重て思惟すらく若迷
於根源則増上濫乎真証若香流失緒則邪説混於大乗只恨らくは師傳なき事を。故に諸宗に
あふて是を尋ぬ時に山門碩学の中に相承あり。山王神道是也と云々。爰にを以て朝には
三千三観の窓に向ひ夕には山王の神道を観ず。我願既満じ衆望またたりぬ。後陽成院の
宸筆にも新田大相国家康公者好勇恢武天下之名士也加之研精於文学発志於経論而極諸宗
奥秘抜而以寔惟之則胸励戒定恵之三業止観圓頓漸之一念難行苦行累月累年云々。僉曰若
種姓高貴の家に生れては自在の威勢に誇て則恣に罪業を造り若貧窮下賤の身を受ては官
位福禄を求て鎮に悪念をおこすといへり。貴も賤も諸善を知るといへとも行ひがたきは
道なり。奇なるかな妙なるかな、源君忝も前代未聞の観を凝し還帰本理の成道を唱へ東
照大権現とあらはれて廣く衆生を度し別しては家門繁昌にして氏族永くさかえむ守護神
と成たまふ萬歳々々萬々歳ならくのみ。委は真名縁起の如し。権現因位の御時常にのた
まはく。虎斑は見易く人斑は見がたし。然といへども予知見する所あり。嫡孫に至て家
風彌吹興さむとのたまへり……後略
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前略……清康君後の北方(華陽院殿御事なり)いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設
給へる御女あり(傳通院殿御事なり)。定吉はじめ酒井・石川等のおとなどもの計ひに
て、この御女をむかへとり 廣忠卿の北方となし奉る。天文十一年十二月廿六日、此御
腹に 若君安らかにあれましける。これぞ天下無疆の大統を開かせ給ふ当家の 烈祖東
照宮にぞましましける。その程の奇瑞さまざま世につたふる所多し(北方鳳来寺峰の薬
師に御祈願ありて七日満願の夜薬師十二神将の寅神を授け給ふと見給へしより身重くな
らせ給ふなど日光山の御縁起にも記されしこと多し)。石川安芸守清兼蟇目をなし、酒
井雅楽助正親胞刀を奉る。御七夜に 竹千代君と御名参らせらる……中略……○(慶長
十年四月)十六日勅使広橋大納言兼勝・勤修寺権中納言光豊卿等二條城に参向あり。右
大将に征夷大将軍を授られ正二位内大臣にあげ給ひ淳和・奨学両院別当源氏長者とせら
れ牛車にて宮中出入の御ゆるしまで御父君にかはる事ましまさず。御所は此時より大御
所と称し奉り、しばし伏見の城にゐましけるが、おなじ九月十五日、伏見を出まし十月
廿八日、江戸に還御なる……後略(東照宮御実紀巻一)
前略……(慶長十年四月)○十六日勅使広橋権大納言兼勝卿・勤修寺権中納言光豊卿等
二条城に参向あり。右大将殿に征夷大将軍を授られ正二位内大臣にあげ給ひ淳和奨学両
院別当源氏長者とせられ牛車にて宮中出入の御ゆるしまで御父君にかはる事ましまさ
ず。御所は此時より大御所と称し奉り、しばし伏見の城にゐましけるが、おなじ九月十
五日伏見を出まし十月廿八日江戸に還御なる……後略(東照宮御実紀巻十)
◆
はっきり言って、里見義実の命日が四月十六日であることを積極的に肯定すること
は、かなり困難な情況だ。しかし馬琴は、これらの史料を、根拠なく否定する。即ち…
…
◆
里見の旧記は其写本坊間になし。只吾知る所をもていはば、里見記・里見九代記・房総
治乱記・里見軍記あるのみ。這内中、里見軍記は坊間に写本あれども就中疎鹵にして且
訛舛も尠からねば考証に備るに足らず。里見記といふ物四五本ありと聞しかど吾異本を
いまだ見ず。この余は北条五代記・甲陽軍鑑及本朝三国志などいふ俗書に里見の事を載
たれども他郷の人の筆なれば、聞僻めたる事なきにあらず。只近曾、上総国夷■(サン
ズイに旡ふたつ下に鬲)郡臼井郷長者里人、中村国香の著せし房総志料五巻あり。いま
だ全豹を見に足らねども房総の地理及里見の旧跡なども粗載て且編者の考へあれば吾這
著編の栞とす。(回外剰筆)
本伝の作者按ずるに里見軍記に義豊を義通の弟として実尭と確執の事なし。且実尭を世
代に載せず、又義弘を義尭の弟とす。并に訛舛甚し。同書に義実は長享三年四月七日に
卒す、法号献珠院殿建宝興公居士、義成法号は庁月院殿大憧勝公居士とあれども、延命
寺の過去帳に据にあらざれば真偽いまだ詳ならず。(第百八十勝回下大団円)
◆
「四月十六日」説を積極的に肯定する史料を提出できぬまま、里見関係の軍記は信憑
性が低いと言い募り、果ては「延命寺の過去帳を見ていないから真偽は判らない」と逃
げている。いや別に馬琴を責めてはいない。馬琴は稗史作家であり、八犬伝は史書では
ない。馬琴が、なりふり構わずトンチンカンなイーワケをせねばならぬ情況をこそ、批
判すべきだ。恐らく、「四月十六日」説を否定する動きを、馬琴の主観が感じたからこ
そ、妙なイーワケをしているのだろう。稗史を、其の表記を根拠づける史料がないから
と言って、「それは間違いだよ」と言いたがる卑しい心性をこそ、批判すべきだ。間違
いも何も、八犬伝は大衆小説なんだってば。史実と思われる事柄とズレているからと言
って、価値を減ずるものではない。確かに馬琴は八犬伝を書くに当たって、(自分の都
合の良いときには)各種史料を引いて、表記に正当性もしくは説得力を与えている。だ
からこそ、史実と思われる事柄とズレている部分に関しては、苦しいイーワケをせねば
ならなかったのだろう。けれども、そりゃ単にリアリティーを与えるための方便であっ
て、全体として八犬伝は史書ではないのだから、いくら史実と重なる部分があったとて
八犬伝を史実を語る典拠としてはならぬと同時に、史実と違う部分があっても責めるべ
きではない。元々稗史とは、作者の思想・論理によって事実を捻じ曲げズラし或いは創
造するものであるが、此の暗黙の了解を読者に忘れさせて高いリアリティーを感じさせ
ることを以て感情移入させ、自らの魅力を高めようとするものでもある。「暗黙の了
解」を読者に完全に忘れさせたなら、其れによって責められ苦しめられても、実は馬琴
の手柄である。妙なイーワケの仕方からして馬琴は気に病んでいるようにも思うが、そ
りゃ甘受せねばならないだろう。黙って気に病んでろ、馬琴。但し八犬伝ほど長きに亘
って名作とされるものは、虚構ではあっても、人のココロの真実に訴えかける力を持っ
ている……筈だ。即ち八犬伝が何等かの「真実」を語っているとするならば、其れは事
実の表層レベルではなく、精神的なもの、もしくは史実ではなく史観レベルのものだろ
う。馬琴が近世の人気作家であり、現在に至るまで評価され続けていることが、八犬伝
の論理的(故に倫理的)強靱さを物語ってもいよう。
ところで確かに里見関係の軍記も、事実を歪曲し創造している疑いが濃厚だ。が、まぁ
【取り敢えず】の史実としては、批判した上で、認めねばならぬ箇所もある。だいた
い、「房総志料」だって、馬琴が非難している各種軍記を典拠としてるんだから。
話が横道に逸れるが、旧制安房中学校の斎藤房之助先生が明治四十年代に発行した
「安房志」は、けっこう滅茶苦茶を書いている御茶目な本だ。いや斎藤先生が滅茶苦茶
なのではなく、引用史料が滅茶苦茶なんだけど。
次回は、とにかく愉快な安房・金丸(八犬伝の金碗)氏に纏わる記述を紹介しよう。
(お粗末様)