#358/1159 ●連載
★タイトル (gon ) 04/11/06 02:39 (204)
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「天変地異」 久作
★内容
現在でも人間は、荒ぶる大自然の前で、余りにも無力だ。台風・旱魃・地震・火山噴
火……まぁ国際間の交易が現在程にまで拡大すれば、飢饉は即座に致命的な【災害】と
はならぬかもしれぬが(ってぇか、食糧自給率が低過ぎ)、前近代日本では深刻な問題
であった。飢饉で食い物がなくなったら、死ぬ。少しでも延命しようとすれば、死んだ
子供の頭割り脳髄掻き出し啜る……凄惨な情況が展開する。人が人として最低限の文化
程度を以て生きる環境を保障するが、国家の義務だ(「文化程度」の程度は時代によっ
て異なろうけども)。食料は確保されねばならない。八犬伝でも、飢饉は重大な転機と
なっている。抑も里見家所領地が飢饉に陥らなければ、隣の安西景連に付け込まれるこ
となく、ならば八房が凶暴な姿を見せる局面はなく、故に伏姫が八房と配偶することも
なくって、抑も話が始まらない。食糧問題(飢饉)は、それだけで国家の正当性に疑問
符を突き付け得る重要な問題であった。兎園小説でも馬琴は、「愈文豹吹剣録云、丙午
丁未年、中国遇之、必有災。謝肇■(サンズイに制)五雑俎載是言、曰亦有不尽然者、
粤放清王十槇池北偶談、又有其弁云、丙午丁未而盛、故陰極必戦元而有悔也……中略…
…解いはく天朝もいにしへより丙午丁未の年毎に、さるしるしのこりけるにや、いまだ
考索にいとまなければ見ぬ世の事は姑く措きつ。只予が親しく耳に聞き目に見しま丶を
もてすれば、天明丙午の火災洪水、丁未の飢饉にますものなし」(第十一巻「丙午丁
未」の項)。
「天明丙午の火災洪水、丁未飢饉」を、馬琴が生きた時代、最悪の禍であったと言っ
ている。丙午とは天明六(一七八六)年、丁未は翌年だ。特に後者は「天明の大飢饉」
として有名である。天明の大飢饉に至る三十年ばかり、日本は天候不順や火山噴火に幾
度となく悩まされた。其処等辺の事情を馬琴の友人/杉田玄白に語ってもらおう。玄白
は刑死した罪人を解剖して西洋医学の正確さに感動し、ろくな辞書もない時代に洋書を
翻訳した苦労を「蘭学事始」で著した。蘭学に姦した篤学者だ。一面で玄白は馬琴の家
を訪れ、「鼬憑きってのがあるけど、これは何?」と質問したりしている(馬琴は「そ
りゃ鼬ぢゃなく尾さき狐だろう」と答えている/「兎園小説」)。当代随一の蘭学者に
して「鼬憑き」が如何たら楽しそうに語っているからオチャメだが、ガリガリの唯物論
者でなかったことが知れる。そんな彼が記した【大江戸大災害略史】「後見草」を少し
く引用する。同書は三巻本で、上巻は明暦大火を伝える亀岡石見入道宗山「明暦懲■
(比のした必/ひ)録」を写したもの、中巻からが玄白のオリジナルだ。明暦大火は江
戸の大半を焼き尽くす被害を出したが、何といっても馬琴の時代より百数十年前の話
だ。割愛して、中巻から災害に関する記述を抄録することにしよう。
◆
鴨の菊太夫長明が方丈記に行水は絶えずしてしかも元の水にはあらず流れによどむうた
かたは且結び且消ると移り行世のさまざまを書あらはせしも宜なり予生れしより以来二
十四五年の間に重サ六七匁も有なんと思しき雹の降しこと龍の天昇せし由にて故の郡上
太守金森殿の長屋を引倒しけるより外に驚く事もあらざりしに宝暦九年の夏の頃より誰
云出すといふ事もなく来年は十年の辰の年なり三河萬歳の唄へる末禄十年辰の年にあた
れり此年は災難多かるべし此難を遁れんには正月の寿きをなすにしくことなしと申触た
り是によりて或は雑煮を祝ひ蓬莱をかざり都鄙一統の事とはなりぬ。其年も暮れ明る十
年の辰の年には将軍家右大将に任じ給ひ御年もたけさせ給ふとて大納言殿に政務を御譲
ありて其身は二丸に移らせ給ふ大納言殿新将軍の御祝を二月四日に定めらる在江戸の大
小名の御家にて此事祝し奉るとて其前夜よりさざめきあひたり然るに刻斗の赤坂今井谷
といふ所のあやしき稗官の家より出火長坂通り一本松小山あたりへ火移り次第に風はげ
しくなり南は品川八ツ山辺まで焼出北は田町と云ふ所にて火は止ぬ……中略……同じく
七日には御府内の町人に此度の御祝ひの猿楽見せ給ふとて又宵よりさ丶めき合たり扨此
夜いかなる時にやありけん戌刻斗に神田旅籠町に有ける五社の神の祠に一明専明といへ
る悪党有て火を放ちたり折節辰巳の風はげしく吹て忽火さかんになり次第に移り行くほ
どに柳原佐久間町はいふに及ばずさしも瓦をならべし江戸の町千町斗も一時の焔ともえ
あがり武蔵下総の境と聞えし両国川を越深川に飛火して神社仏閣一宇も残らず一ぺんの
烟となり……中略……又此夜増上寺と云寺より出火同時にもえ揚り其火も移り行程に先
の日焼止し田町と云所迄行々て移るばき家居もなく北東は大海ゆへ火はむなしく焼止ぬ
八代将軍家御仁愛の余り江戸中の家居土蔵作りといふ者に作り建られしより後凡四五十
年以来か丶る大火はなかりしにより四民ゆたかに侍りしが今度の災にか丶り人々の財宝
はいふに及ばずふるき文まで数を尽し失しこと実惜むべき事なりともの知れる人の大息
し給ひぬるこそことわりなりけれ何者か祝しかへて読たりけん
左右よりひの出をあふぐ右大将
けるおほやけの御代ぞめでたき
宝暦も申の年に改元ありて明和元年とはなりぬ今年は新将軍家を祝し奉るとて朝鮮王国
より遠く我国へ使して吾妻迄来聘す公の警固大方ならず殊に火事は第一なりとて辻々小
路々々に番屋を建少しのすきもあらざりしに此時も又いかなる家より出しけん二月二十
日の夜神田あたりより火出室町辺にて焼止ぬ其使帰るさ摂津国迄罷りしに道の守護は対
馬の大守宗殿なりしが其家のおとな古河大炊が下部茂市といへる者財宝を奪はんため彼
使の中官戴天宗といふ者の寝所へ忍入天宗を刺殺し其場より迯失けり其死骸のかたはら
に我国の鑓の穂にて作れる懐剣の落有しより事あらはれ一旦遠く隠れすみしも尋ね出し
異国人の前にて首をはねられたり是もためし少き事のよし又同年の暮武蔵国秩父郡八幡
山の土民公に訴へごと有とて同所の神流川といへる大河の辺りに寄集り鯨声を揚ければ
近郷近村はいふに及ず上野下野の土民共同じ様に徒党をなし我先にと駆集る五郡の人数
合せて二十余万人鴻巣大宮さして押来る蕨の駅まで至りぬと聞えしかば……中略……扨
此事も明る二年の正月十日あまり漸静りければ……中略……此邪法の根元は小細工次郎
兵衛とやらんに初り新吉原町の近江屋権兵衛といふ者に其法伝り斯は其徒ふへける由同
じく四年の春山縣大弐藤井右門と云る者恐れ多くも斯治れる御代を乱し奉らんと上もな
き事ども工み企る由宮崎隼雷櫻井兵馬なんど云る者公に訴へ出ければ是やすからぬ事な
りとて其徒に組せし沙汰ある者罪あるも罪なきも時を移さず召捕給ひ様々に責問玉ひし
かはてはあとなき事なれど時を譏り上を蔑にし奉るとて大弐は首を刎られ右門は鈴ケ森
にて獄門にさらされたり……中略……又同年の夏水無月十六日の夜の事と覚えたりはた
丶神夥しく鳴て竹橋といへる所の軍器籠置給へる宝蔵へ落たりしにより是が為に焼失ひ
ぬ又同じ年秋の頃と覚えたり髪切といふこと時行りぬいかなる故といふ事を知らず是は
男女の差別なく美しく結ひたてたる髪の元結際より剃刀以て切るやうに何者か切て落す
事なりただ襟元ぞと寒気立と覚えし迄にて別に怪しき事もなく老たる人は少くして若き
女子にことに多かりけりすべて此怪の行はれしは皆夕暮方の事也世の人飯綱の法修する
者の所為なるよし申触侍りしより湯島大根畑に住せし大善院を初として名た丶る修験の
数々公に捕へられ様々に尋問し給ひしが彼等が業にもあらずとて後はゆるされたりもし
かの黒青の類にやと申人も侍りき同じ年の夏の末秋の初に至り帚星とやらん怪しき星東
北の方にあらはれ根は細うして末ひろく大きなる草箒の形のごとし此星次第に長くなり
後は数十丈に及び天の半にも至りぬと見ゆ二タ月斗も毎夜に見えたりしが北へ北へと下
りて終に見えずなりぬ是も古き文に記せる迄にして誰見しと云事をきかず此時何者か狂
歌しけん
天中に怪しき物ありて絵にかける屁の如しと云前書して
君が代はくさきもなびく帚星
天下太平ぶうん長久
とぞ詠てけり又同年八月二十六日の事なりしか未の刻ばかりに辻風俄に吹起り御府内の
人家夥しく吹破り或は板庇を飛し垣を倒しさしも丈夫に作り建し深川洲崎の三十三間堂
を地より高く吹上て微塵にくだきはたしてけり……中略……扨其九月に至感冒盛んに行
はれ……中略……同七年の夏孛とやらんいへる星天中に現れ其形さだかに見えず四辺く
まどりたる様にて大サ一尺斗も有なんと覚ゆ是火星にて凡地にあるほどの水気此星の為
に吸取るなりさればこそ其夏より秋に至り次第に旱し雨絶て降らざりしにより四民是が
為に苦しみ農事のいとなみならず……中略……是より後三年程毎に旱してあくまで人の
難儀とはなりたり此秋の事なりき日は忘れたり戌の刻ばかりに天俄に赤気立終宵見えた
りしが京地にては北国方の火事なりといひ江戸にては下総常陸のあたり大火事にてあり
なんと申人も多かりき何の故といふ事をしらず惣て日本国中見えぬ国はなかりし由同八
年は鶴亀の毛生ひたる馬を献じ又打続きたる旱にて海のさま違ひたるにや東海の魚北海
に生し南海の真名鰹東海に揚り凡有べき物其地にはなくあるまじきもの其地に生し海魚
河にて揚り中にも■(虫に票)蛸といふもの上総国に集り九十九里といへる所にては海
の色も見えずなりけるとなりか丶ることも聞に稀なることの由又同年夏の事にて侍りき
時の老職上州安中の太守板倉殿のおはしける櫻田の御屋敷に怪しき事の沙汰しけるは下
部の多く集り住ける所へ如何なる化生ともしらず其寝所に忍び入彼者の能寝入たる吭も
とを一度に強くしむると覚え唖と云声して互に目覚けるとなり夜毎にかくの如きこと侍
りしが……中略……明れば九年今年は明和九とて言葉の縁あしきと人々兼てより申居侍
りしに二月二十九日の朝より西南の風烈しく吹出烟天を覆ひ日光さだかならず皆人火事
の油断ならず抔申合たり然るに午の上刻頃目黒行人坂大圓寺といへる小寺へ長五郎坊主
真秀といへる悪党有て火を放ちたりしに……中略……果は千住骨ケ原迄焼出て夜はほの
ぼのと明たりけり又其夜の亥刻ごろ本郷菊坂より火出東北さして焼けるが昼の火と二ツ
に別れ谷中三崎へ移り行東叡山を取巻て家なき方迄焼出たり明れば三月朔日にぞなりぬ
されども火は猶止もせず……中略……奉行へ訴へしも四百余人と聞えたり或は堀河に身
を沈め大名の屋形内に焼焦れ果たる者其数計知るべからず……中略……凡此度の火災に
か丶りし所幅一里に余り長さ六里に足らずとなりさしもに広き江戸の中三分の一に過た
る由……中略……又文月二十六日武蔵国茨木郡石河郡と云所の土民孫左衛門といへる者
両頭の亀をとらへ由……中略……同八月二日の早朝より雨しきりに降申の刻斗に至り南
北の風強く吹起り日の暮ほど猶はげしく物すさまじく……中略……丈夫に作り建たる家
蔵までたやすげに吹潰せり本所深川なんどいふ地卑の方へは潮さし入床の上まであふれ
みつ……中略……また同じ月十七日是は朝より北風強く通し二日の風雨の如くいとすさ
まじく吹けるに其勢をくらぶれば先のあらしにはおとりしかど北よけにて助りし家居の
分南の方へ倒れし也惣て両日の嵐にて吹潰れし家居御府内は数しれす伊奈殿の支配し給
ふ関東筋の土民の家四千余軒と聞えし也……中略……明和八年の春より伊勢皇大神宮の
難有御利生ありと申触侍りしにより畿内近国を先として物の弁へしらぬ女童八歳九歳の
小児まで我一にと語り合主親の目を忍び抜参りといふことをなし或は乳喬子を抱き御乳
めのとに至るまで其身斗か飼馴し犬猫をも率連ておとらじまけじと詣しなり後は七道の
国々残る方なく雲霞の如く打群て日毎日毎に参りし程に太神宮の長官より人一人に剣御
祓といふ物を一ツ宛分ちさづけ与へしが五月五日六日の頃は其数一日に二十四五万に及
しと也宝永年中か丶る事ありしよしは聞伝へしが其後いまだ其沙汰を聞ずいかなる事の
御利生にや覚束なし唯好事もなきにはしかしと申侍るは無為にこそあらまほしけれ(後
見草中終)
前略……扨明和も九年に改元ありて安永元年とはなりぬ今年より世中あらたまりよろづ
目出度なりぬべしと申侍りぬ然るにいまだ大火の後なる故させる替りも見え侍らざりし
により何者かしたりけん
年号はやすくながしとかはれども
諸色高じきいまに明和九
と読出したり是は四民の心易からざる所よりおこりぬと見えたり又其年のことなりと覚
ゆ日光の宮薨し給ひ幾程なく凌雲院覚応院信源院の三僧正公に召捕られ極悪人を見るが
如く獄屋の中に囚れ給へり是大乗小乗とやらんいへる法儀の上の事なるよし無程ゆるさ
れ給へども東叡山を追払はれ無官の僧となり給ひぬ……中略……其年の冬より同二年の
春に至り疫癘天下に行れ就中東海道は甚しく死しける人々多しと也……中略……別て遠
江国日坂の宿などにては人種も尽る計に死けるよし江戸にても余りに人の死ける故公よ
り御救として人参といふ薬を賤しき者に給りたり此年閏二月より同五月晦日まで葬具商
ひしこといか斗りありしと棺屋のかぎりよび出し時の奉行の問せ給へば凡十九万ばかり
と答へ申侍りき此病ひ中人以上は病む人少く下賤の者のみ多かりき……中略……同しく
三年の冬例よりは寒気強く所々の入り口氷厚く船路絶て来る正月に松はやすべき便りも
なし……中略……又同四年のことなりし飛騨の国の土民共公に訴へごと侍りとて数十万
人徒党をなし高山の陣屋とやらんへ押寄強訴する由聞えしにより美濃の大垣殿同国郡上
殿岩村殿越中の富山殿此四人の殿達に仰て其党人をしづめらる中にも郡上殿の御人数一
番に馳付とある森の片蔭に徒党の者共打集り朝飯くらひ居し所へ鉄炮の筒先揃へ微ぢん
になれと打ける由此勢ひに胆をけし徒党の奴原さわぎ立互に押合ひ踏倒し右往左往に迯
散て忽ち此事静りけりされ共此騒動に或は深手浅手を負死せし者も多しとぞ今の御代治
りて後鉄炮を以て土民を殺し侍る事此時を初めと聞……中略……同五年の春の末より麻
疹といふ病ひ流行三十以下の人々の病ざるものは稀なりし此病二十五ケ年以前行れしが
其時とくらぶれば今年は殊にはげしと也……中略……又同年(八年)日光山大嵐して其
土地の御役人山口平兵衛とか申せし人父子とも中善寺普請の小屋に居て其夜吹倒せし大
木の枝に打貫れ即座に命を失れしと也いかなる神の御咎にや昔より此御山には大小の天
狗数多ありて少しも邪の心有ものは必害にあゆ由也まぎれ無きことにや覚束なし又去年
の年の暮より今年の秋に至り伊豆国大島と云島のおのづからに焼出夜毎夜毎に西南の方
鳴動し江戸中に響渡り其筋に当る所戸障子襖の類ひまで倒れし事多かりきまた一日空打
曇り細き灰風につれ都下一面に降たり日を経て後に聞ぬれば薩摩国櫻島といふ所是も同
じく焼出し其国は云に及ばず近国までも鳴響き恐れぬ者はなし……中略……又同九年の
夏幾日ともなく大雨降り利根川荒川戸用川をさきとして関東の大河のかぎり水溢れ堤崩
れ武蔵下総一面に地卑の方に洪水せり……中略……御府内第一と聞えたる両国川の水は
やく矢をつくよりも甚しく永代橋新大橋も一時にくだき落したり……中略……安永も十
年の春に改元有て天明元年とは成にけり……中略……公よりの御沙汰として上野国より
出せる■(イトヘンに旨)一匹毎に銀二分五厘目といふ運上を定めらる一国の民是を歎
き大勢打群徒党を結び要訴するよし聞えければ直に其事許されたちされどもこの事召れ
よと何某等が申出し侍りぬと誰いふとなく触ければ名におふ上州者のならひにて気あら
き者共寄集り五百三百打連立此家彼家押込て土蔵をこぼち戸を破り衣類調度のゑらびな
く引裂ては投出し踏砕きては取てすて狼藉至極に振舞たり後には盗人立交り物盗て其為
に鬢をかけて童となり一番に躍入又危と見る時は引かなぐつて袖にかくし富豪の家を撰
み指図してこぼちにこぼちし由……中略……総て近来のならはしにて上に訴訟ある時は
土民必党を結び狼藉を振舞故領主地頭の勢ひは何となくおとろへて下に権の落るに似た
り実に季世のありさまと嘆息しぬる人もありその年もくれ明る二年の春より海上の波あ
らく何がしの浦何がしの沖船とも数多破れし事何百艘とも知れざるよし凡此年一年の間
の溺死せし人数しれずわづか極月十七日の一日さへ七百人死せしとなり……中略……又
同年春より夏に至り雨多く降けるにより所々洪水の訴しげく中にも伊豫土佐の地は甚し
く田畠もあれ損し人馬数多魚の腹に葬られしと也……中略……
◆
数年に一度は起こる大火災や大嵐・洪水に翻弄される江戸の人々、そして何か不吉の
兆なのか巨大な彗星が接近する……。書き始めるに当たり玄白は、「自分が生まれて二
十四五年の間は殆ど無事に過ごしてきたが、宝暦九年の夏頃から不穏な空気が漂った。
翌年は三河万歳で不吉とする『十年辰年』に当たるからだ」と後二十七年の間、天変地
異が続くことを予告する。しかも、詠人知らずの狂歌を借りて、江戸幕府十代家治の将
軍就任が異変の時代を幕開けたと暗示している。次々に江戸を襲う災厄に、幕府はじめ
人々は無力だ。そして庶民を襲うは自然現象だけではない。支配層が自分たちの無能の
ツケを庶民に回し税や社会保障負担を重くする……現在でも繁く見かける現象だが、遂
に大規模な暴動が起こる。上州絹一揆と呼ばれる税負担減免闘争には二万人が参加し
た。標的は、公権力そのものではなく、公権力に媚びて擦り寄り「庶民に運上(税金)
を払わせりゃ良いぢゃありませんか」と献策する奸佞な富豪であった。地縁としても階
級としても【仲間】であるべき者が裏切ったから、制裁を加えるとの感覚だ。此の感覚
は後に江戸で勃発する未曾有の大暴動「天明の打毀」にも表れる。玄白は絹一揆に関連
し「総て近来のならはしにて上に訴訟ある時は土民必党を結び狼藉を振舞故領主地頭の
勢ひは何となくおとろへて下に権の落るに似たり」と述懐してもいる。中世以来の住民
(農民)自治の伝統を基盤に、いや支配層も成長するけれども、共に育った住民/農民
の意識に依って、住民・支配層両者の力が拮抗しつつ鬩ぎ合う様が、目に見えるよう
だ。とは云え、幕藩権力の確立時期には、当然ながら支配層(武士)の力が強かった。
しかし江戸も後期となれば、支配層と被支配層の相対的位置関係に再び変化が見られ出
したのだ。合間々々に保守的言い回しが纏わり付いてはいるが、これは単なるレトリッ
クだ。打ち続く地異は、まるで幕藩体制の天命が薄れることを告げているようだ、との
隠微な表現である。流石、馬琴の友人だ。此の一種の史観もしくは世界観が、次回に引
用する部分から、より強調されてくる。(お粗末様)