AWC ノーポエム、ノークライム   永山


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#369/567 ●短編
★タイトル (AZA     )  09/07/20  22:42  (380)
ノーポエム、ノークライム   永山
★内容                                         11/08/04 23:51 修正 第2版
 娘の春香(はるか)を交通事故で亡くして以来、十五年と少し経った七月末、
永原千秋(ながはらちあき)は、犯人の顔を新聞広告に見つけた。
「小林卓治(こばやしたくじ)……」
 太字で“覆面作家、正体を明かす”と銘打たれたそれは、小説誌の広告だっ
た。鮮明とは言い難いが、三十前後とおぼしき丸顔の男性の顔写真は、千秋の
記憶にあるひき逃げ犯の顔にそっくり同じであった。
 十五年前、千秋は十歳になる娘を連れ、近所の店へ買い物に出掛けた。蒸し
暑い夜で、アイスクリームを買うためだった。途中、青信号の横断歩道を渡ろ
うとしたとき、国産乗用車が信号を無視して突っ込んできた。千秋は強い衝撃
で飛ばされるのを感じながら、娘の春香が自分よりもさらに遠くへ飛んで行く
のを見た。スローモーションのように映った。手を伸ばせば娘を掴まえられそ
うな気がしたが、実際にそんなことは無理だった。
 道路に叩き付けられたあとも、不思議と痛みを感じず、とにかく身体を起こ
し、春香を探した。すぐには見つけられない。
 代わりに、自分たちを跳ねた車が停止し、運転席から振り返る顔を見た。
 外灯にかすかに照らされ、どうにか認識できた男の顔を、千秋はほとんど無
意識の内に記憶に刻んだ。この時点では、当然、助けてくれるものと思ってい
たが、本能的にこの運転手を悪人だと判断したのかもしれない。信号無視をし
た事実を、判断材料としたのかもしれない。
 その若そうな男――少年と呼んでもおかしくない――は顔を引っ込めると、
おりてくることなしに、車を発進させた。千秋が「あ」と声を上げたときには
もう車は走り去り、尾灯もじきに見えなくなった。
 後に病室で、ナンバープレートに注意を向けなかったことを悔やんだ千秋だ
ったが、仮に覚えていたとしても捜査には役立たなかった。加害車両は乗り捨
てられているのを発見され、調べにより盗難車と分かった。
 娘を失い、自身は足を悪くした千秋に、犯人憎しの気持ちが募ったのは言う
までもない。完治しない内から警察の捜査に積極的に協力した。刑事の手によ
り完成した似顔絵は、千秋の見覚えた男の顔によく似た仕上がりになっており、
これなら犯人逮捕は間近だと考えたのは、千秋のみならず、捜査員達も同様だ
ったに違いない。
 ところが、現実はその通りには運ばなかった。近辺を縄張りとする暴走族や
不良中高生、その他素行の悪い若者に捜査の網が掛けられたが、犯人はその網
をすり抜けたのだ。範囲を広げ、ごく普通の中高生らにまで調べは及んだが、
似顔絵からぴんと来るような人物は見つからなかった。
 あっという間に五年が過ぎ、公訴時効を迎えた。千秋は春香を忘れられず、
犯人への恨みを大きくなるばかりだったが、夫は違った。五年を区切りとして
新しい一歩を踏み出そうという夫とは徐々に不仲になり、程なくして離婚した。
 そこからの十年は、暮らしていくだけでも苦労の連続で、気持ちとは裏腹に、
ひき逃げ犯捜しはまるで進展しなかった。かといって、交通事故遺族会の活動
に加わる気は、千秋にはなく、時効制度撤廃運動も今更遅いわと意識して冷や
やかな目で眺めていた。
 だが、そんな事態が今日、突然大きく動いたのだ。千秋は化粧どころか身な
りを整えるのもそこそこに家を出ると、くだんの小説誌を購入してとんぼ返り。
アパートの玄関をくぐってテーブルに着くのももどかしく、小林卓治の特集ペ
ージを開いた。
 記事によると、小林卓治は推理小説家で、現在人気を博しているらしい。元
元はライトノベル畑の出身で、高校在学中の十六歳のときに新人賞を受賞、デ
ビューを飾ったとある。
 以来、ずっと素顔を明かさないで来たが、今年は十月でデビュー十五年目に
突入する節目でもあり、ファンからの要望に応える形で公開するに至ったよう
だ。
 千秋は頭の中で計算した。十六でデビューし、今年で十五年目ということは、
十五年前はまだデビュー前の十五歳。千秋は続いて想像する。文学少年だった
小林は、賞への投稿を繰り返すも同じ数だけ落選を繰り返し、鬱々とした日々
を送っていた。受験を迎えた中三の夏、気晴らしのためにこっそりと出掛けた
小林は車を盗み、夜の町をスピードを出して走っていた。そして、事故を起こ
した……。
 当たっているかどうかは分からない。だが、千秋の覚えているひき逃げ犯の
顔は、間違いなく小林卓治だ。大人になっていても、面影は大変よく残ってい
る。
 でも、万が一にも、思い込みだったら。
 千秋の脳裏に浮かんだ不安は、次のページをめくったことで、簡単に払拭さ
れた。この小説誌はご親切なことに、小林のデビュー当時の顔写真まで載せて
いたのだ。
 千秋の長い爪が、ひき逃げ犯の顔を引っ掻き、紙を剥き破いた。

 時効が――仮に殺人を主張したとしても――成立していたが、警察に知らせ
るべきだろうと千秋は考えていた。弁護士やマスコミにも訴える必要があるか
もしれない。
 そんな思いは、小林卓治のプロフィールを知ると、薄れていった。気持ちが
ぐらついたのではない。無駄ではないかという疑いを持った。
 何故なら、記事にはこうあったから。『親類に警察関係者がおり、その点、
推理小説を書くに当たって、有力な武器となった』云々かんぬん。
 ひょっとして――千秋はつばを飲み込み、奥歯を噛みしめた――捜査に手心
が加えられたのでは?
 もし仮に、当時、公正な捜査が行われていたんだとしても、現在、千秋の訴
えを警察はまじめに取り合ってくれるだろうか。どうせ時効だし、うやむやに
済まされるのではないか。一度生まれた疑念は、急速に膨らみ、消しがたいも
のとなる。
 千秋の復讐心に明白な火が灯り、燃え上がったのは、このときだった。
 警察が当てにならないなら、マスコミを利用する手があったかもしれない。
告発し、バッシングし、社会的に死んでもらう……。しかし、それだけでは許
せない。
 本当の命で償ってもらうほかない。

 復讐のための殺人。無論、捕まっては意味がない。
 だが、今の千秋にとって、殺人という行為そのものが大変な難関であった。
というのも、精神的には決心ができていても、肉体的にハンディを抱えている
からだ。
 千秋には交通事故の後遺症が現在もあり、長時間の歩行は困難とされた。と
きには、立っていることすらままならなくなる。元来、体力のある方でなく、
体格は女性の中でも小柄なタイプ。そんな千秋が、鈍器やナイフを手に、男で
ある小林と対峙し、打ち負かすことができるかどうか。
 相手を酔わせるなり眠らせるなりできれば、いかようにも殺せるかもしれな
い。ただ、そのためには、ターゲットに接近し、ある程度親しくなる必要があ
る。ここでもハンディがあった。千秋は容姿は人並み以上であるが、緊張した
り興奮したりすると、頬の辺りが痙攣を起こした風に小刻みに震える。医者の
見立てでは、これは交通事故の後遺症ではなく、娘を亡くしたことを心的要因
とする症状という。この症状のおかげで、水商売で稼ごうにも敬遠されたし、
頼りにできる男を探すにしても、なかなかうまく行かないでいる。曲がりなり
にも売れっ子作家らしい小林が、癖のある自分に惹かれる可能性は高くはある
まい――千秋はそのような判断をした。
 小林卓治に近づけるとしたら、せいぜい、作家と読者の関係までだろう。そ
の場で取り押さえられてもよいのなら、サイン会にでも出向き、いきなり出刃
包丁で刺せば、多分、目的達成できよう。しかし、捕まる訳にはいかないのだ。
死んだ春香を、殺人犯の娘と呼ばせないためにも。
 千秋が最終的に辿り着いたのは、毒殺だった。非力で魅力にも欠ける自分が
男を殺すには、毒か爆弾に頼るしかない。どちらもおいそれと手に入る物では
ないが、爆弾を材料から調達してこしらえるよりは、毒を盗んででも入手する
方が成し遂げやすい気がする。
 千秋は様々な本をかじり読みし、薬物を扱う大学に何らかの形で働き口を見
つけるという手段を知った。ある程度の信頼を得たあと、目的にかなう薬物を
盗むのだ。数々の方法の中で最も簡単で、自分にもできると思えた。
 ところが、実際にやってみると、想像とは大きく違った。
 今の千秋ができるとすれば、清掃員か事務。この内、清掃員は難しい。先に
も記した通り、千秋は長時間の歩行が困難であるためだ。必然的に、事務に空
きのある大学を探すことになるが、意外に少ない。危険な薬物を保管してある
ような大学、という選り好みをするのだから当たり前だ。その少ない口に応募
しても、まずは面接ではねられる。はっきりとは言われないが、ひょいと出て
しまう顔面の痙攣が、よくない印象を与えるかもしれない。
 受けては落ちを重ねる間に、月日が過ぎる。小林卓治の評判も、時折目にす
る。正体を明かした当初ほどではないが、この作家は継続的に話題になってい
るようだった。といっても作品の評判はほとんどなく(仮に傑作だとしても千
秋自身は読む訳がないが)、小林個人のキャラクターやプライベートが取り上
げられるケースが多い。先週発売の雑誌に載った作家訪問のコーナーでは、小
林の執筆環境が伝えられていた。独身の小林は、ずっと父母との同居を続けて
おり、仲のよい家族と近所では評判らしい。住まいは両親と同居だが、執筆は
集中したいので、離れをこしらえ、そこに籠もってパソコンのキーボードを叩
く。のっているところを邪魔されたくないので、書いている間は人を近付けず、
食べ物や飲み物も自分で用意し、母屋からお盆に載せて運び込む。
 おかげで、小林卓治が作家だと公開するまでは、「いつまでも親のすねをか
じって……」とか「離れを建てるなんて、ご両親も甘やかしすぎ」等と、ご近
所さんに囁かれた――と、当人が苦笑混じりに語っていた。
(よいご両親なんでしょうけれど)
 喫茶店に入り、ページをめくっていた千秋は、奥歯を噛み締めた。ぐらぐら
と煮えたぎる嫌悪感を押さえ込みながら、雑誌を閉じる。面接にまた落ちた連
絡を受け、滅入る気持ちを吹っ切って家を出てみたが、書店に立ち寄ったのが
間違いだった。憎しみと焦りが増しただけだ。
(躾の方はまるで行き届かなかった。子を亡くす気持ちを、思い知るがいいわ。
あとで悔いても遅いのよ)
 敵(かたき)の情報を得るためとは言え、この雑誌にお金を払ったこと自体、
腹立たしい。
 足をさすり、具合がよいことを確かめると、伝票を手に立ち上がろうとした。


 そのとき。


 テーブルのすぐ側を通り掛かった男性が、上半身を傾け、小さな声で言った。
「失礼。もうしばらくお時間をいただけますか。私が悩み事の相談に乗りまし
ょう」
 千秋が返事をする間もなく、男は正面の席に座った。スーツ姿で、営業回り
のサラリーマン風。ただ、それにしては髪がやや乱れており、萎みかけたかぼ
ちゃの花のようだった。年齢は二十代とも四十代とも取れる。背格好はスマー
トで、人好きのする笑顔を差し引いても、二枚目で通る容姿だろう。
「あなた、何者ですか。何か売りつけるつもりだったら――」
「違います。あなたが望むのであれば、今欲しがっている物を、無料で差し上
げようとしているのですよ。つまり、人の命を奪う毒を、ね」
「……」
 千秋は何度か瞬きをした。耳の穴にも一度触れた。聞き違えたのではないら
しい。
「どうして分かったの」
「私には変な能力があるようでしてね」
 口元に笑みをたたえ、そう言った男は、次に声を一段と低くした。
「本気で人を殺そうとしている方の心の内が、たまに読めてしまうようなんで
す。あなたの反応からすると、今回もまた当たっていたようで、ほっとしてい
ます」
「……」
 千秋の目が見開かれる。奇妙なものを見る目だったのはほんの短い時間だけ
で、次いで、関心を持った、より多くを求める目になる。
「あなた、まさか、殺し屋?」
「違います。個人的には、自分は犯罪詩人だと思っています」
 聞き慣れない、いや、初めて聞く用語?に、千秋は顔をしかめた。例の痙攣
ではなく、単なるしかめっ面。
「申し遅れましたが、私の名は、飛馬彩刻(ひうまあやとき)と言います。本
名ではありませんけれどね」
 人を食った言い様に、何だ冗談かとの思いが千秋の脳裏を過ぎった。それを
読み取ったかのように、自称飛馬が続ける。
「冗談で言っているのではありません。犯罪に荷担することになる場合も多い
ですから、念のため、通り名を持つようにしたまで。犯罪詩人というのは、殺
人を無事遂行できるようお手伝いをする、サポーターのような存在と捉えてい
ただければ結構。もちろん、詩人と称するからには、真っ当なサポートではな
く、少しばかり不思議な力を用います」
「不思議な力というのが、さっきの……読心術?」
「まあ、それも一つです。もう一つ、私自身も説明不可能な、奇妙な力を発揮
することもありますが、そっちの方はあなた次第」
「私次第ってどういう意味なの」
 残っていたお冷やを飲み、千秋は小声で尋ねた。頭の中では、今のこの状況
をおかしく思う自分がいる一方、信じたい、助けを借りてでも小林卓治を葬り
たいというもう一人の自分もいた。
「説明が難しく、また、発動する確証もありません。なので、とりあえず、話
を進めてよろしいですか?」
「……お任せします。時間ならいくらでもあるから」
 腰を据える決心がついた。千秋はウェイトレスを呼ぶと、新たに飲み物を頼
んだ。

 千秋は喉を時折湿しながら、今、自分の抱える悩み事に関して、全て――小
林卓治の命を奪いたいことや、その理由等を話して聞かせた。
 飛馬はメモを取ることなしに、たまにふんふんと頷きながら聞いていた。話
し終えるまで、質問は一切なかった。
「――終わりましたね? なるほど、あなたが本気なのは、よく伝わってきま
した。お気持ちも理解できます」
「じゃあ、毒をくださるの?」
 思わず、身を乗り出す千秋。右手がグラスに触れて、残っていた氷が音を立
てる。
 飛馬は首を横に振った。
「まだです。これからいくつかお尋ねしますので、そのお答え次第になるかと。
では……毒を首尾よく手に入れたとして、あなたはどうやって、相手の作家に
飲ませるつもりですか」
「え?」
 そんなことを聞かれるとは予期していなかった。
 が、毒を飲ませる段取りを考えていなかった訳ではない。
「愛読者のふりをして、毒を入れた食べ物か飲み物かを贈るつもりでいるわ」
「一般的に考えて、今の世の中、面識のない自称ファンからのプレゼントを、
簡単に受け取るものですかね? ましてや、食べ物を口にするなんて」
「それは……」
 指摘され、初めて穴に気付いた。毒の入手に躍起になるあまり、毒を飲ませ
る段取りに関しては、軽く考えてしまっていた。雑誌などに載るプロフィール
において、小林の居住地は大まかな住所だけが記されていた。電車で十分あま
りで行ける距離だったので、毒さえ手に入ればどうにかなると思っていた。
 飛馬の指摘を受けて、他の方法を探ってみる。が、何ら妙案は浮かばない。
時間がないから思い付かないというよりも、手詰まり感が脳裏を占める。
「今から、他の方法に変えられますか?」
 問い掛けに、首を右、左とゆっくり振った千秋。
「……他の方法なんて、あるの? 自分がどうなってもいいのなら、あるわ。
だけれど、春香のためにも、殺人犯として捕まる訳にはいかない」
「たとえば、銃をお渡しすればどうです」
「そんな、扱い方のよく分からない物なんて。当てる自信がないし、当たって
も確実に死ぬかどうか……」
「口径にもよりましょうが、どんな素人でも、近距離から何発か撃ち込めば、
ほぼ確実です」
「近付かなくちゃいけないのなら、だめよ」
「放火はどうでしょうか」
「銃よりも不確実じゃないの? それに他の人の命まで奪いたくない。同居の
母親には思い知ってもらうだけでいいわ」
 飛馬はこのあとも事故死に見せ掛けるやり口などを提示してきたが、そのい
ずれもが千秋にとって何らかの不具合があった。二人の着いたテーブルを、沈
黙が支配した。
 それを嫌うかのように、飛馬がグラスを手に取り、からからと音を立てる。
「では、こうするとしましょう。この薬を――」
 彼は胸元に手をやり、内懐から白い物を取り出した。人差し指と中指とで挟
まれたそれは、薬包らしかった。
「――あなたにお渡しします」
「な、何の毒なの?」
 早口で尋ねる千秋に対し、飛馬は空いている手の人差し指を自身の唇に当て、
静かにするよう促す。
「何も聞かず、これを三日間、持っていてください。肌身離さず、です。あな
たのなそうとしていることを、天に判断してもらうんです」
「天に?」
 急に宗教がかってきたと感じた。訝る気持ちが表に出たのだろう、千秋に飛
馬は言葉を補う。
「仮に天ということにしておきます。私にもよく分からないので。あなたがお
気に召すのであれば、神様で仏様でも、あるいは大いなる“意識”でもかまい
ません」
「……三日経ったら、どうなるというのかしら」
「必ずしも三日後とは限りません。三日の間に、何かが起きる。天があなたを
後押しするか、邪魔をするか、そのどちらかになるでしょう」
「曖昧で、分からないわ。邪魔をするって、どうなるの? 私が死ぬ?」
「申し訳ありません、分からないのです」
「天のすることは、全て分からないのね」
 千秋の口調が、皮肉なものになる。飛馬は素直に認めた。
「ええ。ただ、これまでの経験から言って、決して悪い判断は下されません。
判断を受ける人物――あなたの立場に該当する人が命を落とす等の酷い目に遭
ったことも、今のところ一度もなかった。こう聞いて、安心されるかどうかは
あなた次第ですが」
「……一つ、教えてちょうだい」
「何でしょう」
「もしも天の判断を待たずに、私がその毒を使ったら、どうなるのかしら。あ
の作家に飲ませる方法を、何か思い付いたとして」
「かまいません。それ自体、天の判断なんですよ、きっと。あなたがよい方法
を思い付いたとしたら、それこそが天の後押しなのかもしれない」
 答えた飛馬の表情は、やけに晴れやかだ。
 千秋は彼の手元にある薬包を見つめ、しばらくしてから言った。
「いただくわ」
「そうですか。信じていただき、ありがたく思います」
 答えながら、薬包を持つ手を、千秋の方へと差し出す。受け取る仕種をする
前に、千秋は尋ねた。
「いくら払えば……」
「料金のことなら、ゼロです。私は“これ”を仕事だと思ってはいません。趣
味でもありませんがね。そもそも、ことの大半は天任せなのですから、私が報
酬を得るのはおかしい」
「……その言葉、そのまま信じていいのね」
 対して、小首を傾げる飛馬。質問の意図を測りかねた風だが、芝居のように
も見える。千秋は駆け引きをしても仕方がないと、率直に尋ねることにした。
「報酬はいらないというのは、お金以外に何かを要求してくることもないと受
け取ってかまわないのね? 目的を達成したあとになって、脅迫されるのはま
っぴら御免」
「そこは信じていただくしかありません。尤も、あなたが脅迫されるようなこ
とを起こすかどうかについて、まだ確定事項ではない。先程言った通り、天の
判断を経て、決まります。お忘れなく」
 そう言って、飛馬は薬を千秋に握らせた。
「分かったわ」
 飛馬の手が離れると、千秋は拳を開き、薬包を一瞥すると改めて握り直した。

 飛馬が店を出てから十五分が経過した。
 もういいだろうと思い、千秋は席を立ち、レジで支払いを済ませた。飛馬の
言に従い、待っていたのだ。彼が、「先に出るので姿が見えなくなるまで待っ
てほしい」と言ったのは、お互いにあとをつけたりつけられたりをしないため
だった。
 待つ間、千秋は尋ねておきたかったことが一つ浮かび、後悔を覚えた。これ
までにどんな天の判断があったのか、例を知りたかった。知っていれば、ある
程度の心構えができたんじゃないかと思う。
 喫茶店を出ると、空模様は崩れ始めていた。いや、今まさに急速に崩れ、強
い風が黒雲を次々と運んで来ている。
 おかげで、千秋の感じた非日常さは、失われないでいた。手の内にある薬包、
その中身は間違いなく人を殺せる毒なのだと信じられる。
 落とさぬよう、どこかへ仕舞おうと、手のひらを開いた。
 その刹那、風が――つむじ風が走り抜ける。
 街中にいるというのに、砂粒が飛んでくるのを感じた千秋は、思わず目を瞑
った。ほんの数秒後には風が去り、静かになる。目を開ける。
 下り坂の空模様が奏でる低い音を聞きつつ、感触の変化に気付いた。
「え?」
 手のひらにあった薬包が消えていた。
 どこに行った? 立ち止まり、きょろきょろと見回す。確実に挙動不審と見
なされよう。せわしなく瞬きをし、地に視線を走らせる。だが、見付からない。
 まさか……と、千秋は空を見上げた。
 遥か彼方を、小さな小さな風の渦が、ごみや落ち葉などを巻き上げているら
しい様子を捉えることができた。
「まさか」
 今度は声に出る。
「薬もあの風に巻き上げられたっていうの?」
 力が抜けた。無意識の内に、その場にしゃがみ込んでしまう。
 これが……天の判断?

 翌日の朝、千秋はのろのろと食事の準備を始めた。八時を回ったのは、昨晩
よく眠れなかったため。
 私の元から毒薬を持ち去ることが天の判断ならば、それは殺すなという意味
なのか。どうしてあの非道な男を殺してはいけないのか。復讐なんて馬鹿な真
似はやめろということなのか。自分にとってこの復讐は、成し遂げねばならな
い使命のようなものなのに。
 そんな風に自問自答(問い掛けが圧倒的に多かったが)を繰り返し、寝付け
なかった。たまにうつらうつらすると、ごく短い悪夢を見せられ、目が覚めた。
 そのような最悪な朝の迎え方をした千秋は、朝食準備を中断した。再度、洗
顔する。腫れぼったい目をどうにかすっきりさせ、無理にでも気持ちを前向き
にしようと試みる。家の中が静かすぎると気づき、リモコンでテレビをつけた。
ワイドショーのにぎやかな声が、部屋に広がった。
 気を取り直し、とにもかくにも朝食を。おなかがとてもすいている訳ではな
いが、日常のルーチンに没頭すれば、今、心を占める嫌な感じが、ひとまず薄
まると思えた。
 千秋のそんな思いを断ち切る情報が、テレビからもたらされる。
 だがそれは……彼女にとって嫌な感じを増幅させるものではなく、その正反
対。大げさに表現するなら、勝利を告げる祝福のファンファーレ。
<――今朝は訃報からお伝えせねばなりません。作家の小林卓治さんが昨夜遅
く、心不全でお亡くなりになりました。先頃、正体を公表して話題を振りまい
たばかり――>
 また調理の手を止め、テレビに吸い付けられるように走った。このときばか
りは、足の具合など関係なかった。
(間違いない。あの男が死んだ。娘の命を奪った小林が。でも……どういうこ
となの、一体?)
 もしかすると、飛馬が手を下してくれたのかという考えが浮かんだ。しかし、
死因は心不全と言っていた。医者でもない飛馬に、病死に見せかけて人を殺す
なんて芸当ができるのだろうか。いや、もしも医者だとしても、健康そのもの
に見えた小林にどう接近するというのだ。
 分からない。
 次に閃いたのは、突拍子もない考え。だからこそ、千秋は声に出していた。
「ひょっとしたら、これこそが天の判断? 昨日、毒を私の手から持ち去った
のも含めて、すべてが天の判断の結果だとしたら」
 復讐に取り憑かれた私を哀れに思い、手を汚さぬよう毒を取り上げた。その
上で、代わりに小林を罰してくれた。
 それが合っている気がする。犯罪詩人を自称する男が持ち込んできた話には。

           *           *

 小林卓治は母屋の勝手口に立ち、ドアを開けた。それを待っていたかのよう
に、雨がしょぼしょぼと降り出す。
 軽く舌打ちをする。
 いつも通り、執筆に取りかかるべく、離れに向かうところだった。手はお盆
でふさがっている。軽食をつまみながらと思い、サンドイッチとコーヒーが、
覆いなしに載せてあった。
 今から台所に引き返し、ふきんかラップをかける手間が面倒だ。そんなこと
をすれば、せっかく盛り上がった書こうという意欲が減退、いや、きれいさっ
ぱり失われてしまうかもしれない。
 彼はそのまま離れに向かうと決めた。なに、たいした距離じゃない。元々、
少々の雨粒が食べ物を濡らそうが、気にするような性格ではないのだし。
 小林は気持ち、急ぎ足になって、軒先を離れた。

 そのとき、小林の頭上彼方では、風がその勢いをなくす寸前であった。
 あの薬包を巻き上げ、ここまで運んできたつむじ風が。

――終わり





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