#358/567 ●短編
★タイトル (GSC ) 09/05/06 14:33 (182)
爽やかウォーキング 『刈谷市』 竹木貝石
★内容 09/05/08 07:54 修正 第3版
JR主催の爽やかウォーキングで、刈谷市を歩いてきた。
東海道線はいつ乗っても懐かしい。別の随筆にも書いたことだが、私が
小学3年生頃、各駅停車の駅名は、名古屋→熱田→笠寺→大高→大府→刈谷→
安城だったのに、現在は、名古屋→尾頭橋→金山→熱田→笠寺→大高→南大高
→共和→大府→逢妻→刈谷→野田新町→東刈谷→三河安城→安城、と大幅に
増えている。
東刈谷駅 = 2.2キロ → 昌福寺 = 0.3キロ → 野田八幡宮
= 0.1キロ → 南部生涯学習センター = 1.2キロ →
フローラルガーデン(依佐美送信所記念館) = 1キロ → ミササガパーク =
1.4キロ → 交通児童遊園 = 1.6キロ → 刈谷市駅北交差点 =
3.2キロ → 東陽町 = 1キロ → 刈谷駅。 合計12キロ。
今日は足腰が全然痛くなかったので、前半は私がリュックを背負い、弁当を
食べた後は妻が背負って歩いた。それにしても、前半6.2キロの歩数が
1万5千歩に対し、後半5.8キロの歩数が八千五百歩だったのは変だ。
参加者はいつもよりやや少な目だが、子供も何人かいて、三河弁がちらほら
聴こえる。道々かぐわしい花の香りが漂い、季節のせいなのか、この街が
特別そうなのか、つつじやチューリップやジャスミンに似た花々が生け垣
などに咲いていて、空気が大層爽やかだ。
私は刈谷市の生まれながら、本日のコースは故郷の中手町と正反対の方角
らしく、野田町、高須町、住吉町、大手町、寿町、新栄町、大正町、東陽町
等の名前をほとんど知らない。むしろ妻の方が、車で通って道筋に見覚えが
あると言う。
元々私は地図が苦手だから、刈谷、大府、知立、豊明、安城、高浜などの
位置関係を全然把握していないし、鉄道の経路や最寄り駅の場所もまるで
分からない。これらを是非拡大して触知地図にしてほしいものだ。
寿永山昌福寺は三河25霊場の17番札所。
「浄土宗鎮西派に属し、阿弥陀如来を本尊とする。応永15年(1408)
栄専(文字不明)により創建され、当初は真宗高田派の寺であったが、正央
元年(1652)浄土宗に改宗した。境内に、フェライトの父 加藤与五郎の
墓がある」
4段と7段? の石段はコンクリートでなく本物の石で作られ、山門の木も
新しく、境内には楠木・松の木・ソテツなどの大木がある。砂利は小豆粒
よりも細かく、靴で踏むのがもったいないほどだ。
綺麗に細工した小型の賽銭箱に、50円硬貨を入れて手を合わせた。
境内の横、本堂に向かって左側に観音堂があり、各地区を代表する観世音
菩薩の座像が並んでいる。第1番は紀伊の国那智山、第2番が紀伊の国
紀三井寺、第3番が紀伊の国高麗川、第4番が和泉の国、第5番が河内の国、
第6番は壷阪寺…となっており、他に六角堂、清水寺、谷汲山など多数
あって、ここにある菩薩像が元の寺とどう関連付けられるのかについてはよく
分からない。
寺の横を通り抜けて次の寺へ行く途中に、加藤与五郎の墓があり、私は
この人を知らなかったが、碑文には次の説明がある。
「明治五年七月二日、愛知県碧海郡野田村、今の刈谷市野田町に生まれ、渡米
して勉学し、東京工業大学教授などを勤め、昭和八年 電気化学協会初代会長に
就任。自然科学研究所や化学振興会を設立して、多くの人材を育てた。弟子の
竹井健との共同研究による世界的な発明 フェライト(酸化物磁性材料)の他、
アルミニウムの新製錬法などの特許は250に上る。昭和四二年八月一三日
永眠、享年96歳。刈谷市の名誉市民など、叙勲や称号は多数。」
砂利道の傍らには矢車草が咲き、大きな鯉のぼりも上がっている。
寿福山教栄寺(真宗大谷派)の入り口に四角い石があり、点字で
『きょーえいじ』と書いて貼ってあった。
「弘長3年(1263)の創建で、寿福山大徳寺と称し、天台宗の寺であった
と伝えられる。天文年間に火災で消失した後、永禄12年(1569)に
現在の地に改めて寺を建て、真宗高田派の教栄寺として再興、寛文5年
(1665)に、真宗大谷派に変わった。」
寺の宗派が変わるものとは知らなかったが、いったいどういう事情でそう
なるのだろう?
靴を脱いで木の段を上がり、賽銭箱に硬貨を入れ、畳に座って合掌した。
境内の砂利はここも細かい。
山門を出て、民家の間の静かな路地道を進むうち、歩きながら煙草を吸う
人がいて、その煙がもろに襲ってくるのには閉口した。
「日本のエジソン」加藤与五郎の生家の跡が公園になっていて、くちなしに
似た花が良い香りを立てている。
国旗を掲げた大きな家のそばには空豆が成っており、その名の通り、鞘の
先端が上の方を向いている。
野田八幡宮の鳥居は、石の太い柱で、長い参道の砂利はさらさらと細かい。
「天武天皇の白鳳5年(676)に創建と伝えられ、今留明神、物部氏の
祖神、後に八波多大神を合わせ奉った。……」
賽銭を上げて鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝する。ここの神鈴はカランカラン
とよく響き、かしましいほどだ。
神木はいちいの木で、触ることはできないが、二抱えはあるらしい。それと
もう一本の神木はクロガネモチで、古木のため「外科手術」を施してある。
境内で、美味しいお茶と米はぜの菓子を振る舞ってもらった。
左手の薬指の爪が割れたので、バンドエイドを貼ったが、またまた「指を
間違えた」のにはほとほと呆れるやら笑えるやら…。
ひとつばたごについて、「木犀科。明治神宮で名前が分からず、なんじゃ
もんじゃと言われて有名になった」と書いてあり、細長い花弁が4枚で一つの
花になっている。
溝に鉄板をかぶせた狭い道を少し行き、森前川(二級河川)の双葉橋を
渡ると、右側に水の落ちる音が聴こえる。
このへんの車は三河ナンバーで、表札には小原、神谷などの名字が見られる。
今日は風がなく日差しも弱いので、歩くには絶好だし、あまり込み合わない
から、自分のペースでゆっくり歩ける。
苗代やジャガイモ畑の続くのどかな道は、そこここに雲雀のさえずりが
聴こえて懐かしい。
依佐美(よさみ)送信所跡は広い公園になっていて、休日のせいもあり、
人出が随分多いのに驚いた。
半円形の噴水を過ぎると、ラベンダーの花壇があり、杜若も見事に咲いて
いる。池を巡って木道が作られ、愛知万博を思い出す。遊園地は子供達の声で
にぎやかだ。
「依佐美送信所は、昭和2年7月に着工、4年3月に完成した。ドイツ製
テレフンケン式長波送信装置と、当時としては東洋一の高さを誇る250
メートルの鉄塔8基、それに架けられた壮大なアンテナが設置された。空中線
電力700キロワットは、長波として世界最大の物であった。8基の鉄塔は、
2列(間隔500メートル)4基ずつ(間隔480メートル)に並び、相
対する鉄塔間に張られた4本の架線に、逆L形アンテナと呼ばれる長さ約2千
メートル 16本のアンテナが釣り下げられた。建設に要した資材は7万トン。
それを運ぶために、小垣江(おがきえ)から建設地付近まで臨時の引き込み線
が敷設された。完成後は、わが国とヨーロッパ間の直接通信が開始され、
これは外交上および通商上の画期的な躍進であった。第二次世界対戦中は専ら
日本海軍の運用にゆだねられ、終戦を迎えた。昭和27年からは米軍に提供
され運用が再開されたが、平成6年8月、東西冷戦の終焉により全面変換と
なる。平成9年3月、アンテナ・鉄塔などの撤去を完了した。こうして70年
に渡り三河平野にそびえ立ち、地元の象徴として親しまれてきた鉄塔も、その
使命を負え姿を消した。ここに往時の雄姿を留める物として、実物を十分の一
の高さ(25メートル)に短縮し保存する。」
目の前には、1メートルくらいの土台の上に、3本の鉄骨が三角柱状に
立っていて、下側がとがっているそうだ。3本の柱と柱の間は、斜めの鉄で
ジグザグに連結してある。
記念館の前の説明文には、「長波に続いて短波施設も強化され、日本の
超短波通信設備として重要な役割を果たした。平成18年に建物も全面解体
され、その産業遺産を残す目的で、依佐美送信所記念館を建設した。」
とある。
記念館に入ると、鉄塔の写真やジオラマ(ミニチュア)があり、次の各種
大型機械類が展示・説明されていたが、まるでちんぷんかんぷんだ。
主直流機励磁用電動発電機、水抵抗器、主誘導電動機・直流発電機、主直流
電動機・高周波発電機(心臓部)、高周波塞流線輪、信号用磁気誘導変更器、
蓄電器(コンデンサー)、周波数変更器(トリプラー)、バリオメーター型高
周波コイル、ローディング型高周波コイル(直径3メートルの円筒状の木枠に
リッツ線が23回巻かれている)
思えば、東洋一の高さと言われた送信所が、自分の郷土刈谷市にあることを
私は知っていたが、長い年月つい忘れがちで、一度も見に来たことが
なかった。いよいよ取り壊しになると聞いて、「何も壊さなくたっていいじゃ
ないか」と、急に名残惜しくなるのが人間の勝手かも知れない。けれども、
このようにきちんとした形で歴史の跡を残してあれば、一応納得することが
できる。
送信所を後にして、ミササガ公園に向かう所で、ICレコーダーの電池が
無くなり、以後の記録は簡略になる。
猿渡川の…橋を渡り、川幅こそ矢田川より狭いが、水量は多いと言う。
ミササガ橋、ミササガ通りを経て、昼前に公園に着いた。
あやふやな記憶だが、刈谷町が愛知県で11番目の市に指定されたのは、
私が小学6年生の時だったと思う。刈谷市政50周年、および、カナダの
ミササガ市との姉妹都市20周年を記念して作られたのがミササガ公園で、
万博で使ったカナダパビリオンのモニュメント(楓の葉)が立っている。
芝生に敷物を広げて、握り飯とミカンとゆでた空豆を食べた。ゆでた空豆は
妻の大好物だが、確かに美味しい!
ここからが長い距離になるので、覚悟を決めて歩き出した。
高齢者センター、生涯学習センター、身障者福祉会館、住吉小学校、交通
児童遊園などの施設が集まっているこの辺りは、Y兄の家に近いようだ。
兄は今頃何をしているのだろう? 子供の頃は喧嘩をしながらもよく一緒に
遊んだものだが、今やその兄も父と同じくアルコール依存症になって
しまった。
JR刈谷駅の横を通り、踏切やガードを過ぎて、名鉄刈谷市駅の商店街を
抜けると、広小路通りに入り、前述した町々の名前を記憶・復唱しながら
歩いた。
街が静かで車もあまり通らないのは、まもなく始まる大名行列に備えて、
通行止めしているからだろう。
やがて遠くから太鼓の音が聞こえ、ついにその行列のそばまで来た。まだ
行進は始まっていなかったが、なかなかの大人数で、山車も数台出ており、
ときどき指揮者の号令一過、若者達が一斉に綱を引いて山車を1廻転させる。
少女腰元隊、少年足軽隊、奴隊の行進と毛槍渡し、於大の方(家康の母)・
お富の方・お上の方の乗った輿など、まことに華やかだ。この大名行列は、
十万石の格式を持つ秋田出来守という架空の殿様が、神社の神輿を警護すると
いう形を表しているとのこと。
コースを歩き終え、刈谷駅前で、係りの人に新しく歩行者カードを作り替え
てもらって解散した。
駅および周辺は地形までも大幅に改変され、子供の時の名残が跡形もない
のは残念だが、時の流れは致し方ない。
ところで、JR中央線の駅は、例えば、千種・大曽根・新守山など、建物を
綺麗に補修した後、たぶんペンキのせいだろう、加齢臭のような嫌な臭いが
立ちこめていて不快だが、今日の刈谷駅はむしろ上品な香りが漂い、花なのか
香水なのか、ふっと 幼い頃への郷愁を誘われた。
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(以上、内容並びに文字の誤りが多いことをお断りしておきます。)
[平成21年(2009年) 5月3日 竹木貝石]