#313/566 ●短編
★タイトル (yiu ) 07/03/11 21:57 ( 49)
お題>鍵> shura
★内容 07/03/11 21:58 修正 第2版
新参者が勝手にやっていいのだろうかとドキドキしつつ……楽しそうなのでやってしま
いました。
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鍵
見上げれば空しか見えないようなとても大きな広場には、古風ながらも洒落たベンチ
が広場の周囲をぐるりと囲むように一列に置いてあり、その一つに若い一人の女と、彼
女よりは十ほど年嵩に見える男が半人分の距離をあけて同じベンチに隣同士に腰かけて
いた。女は明るい色のレンガで舗装された広場を行き交う人々にじっと目を向けていた
が、男の方はそんな彼女のことを何やら物言いたげな様子で見つめている。
いくつもあるベンチには、しかし何故か他に誰も座っていなかった。
自分達以外に聞く者がいないことに安心したわけでもないのだろうが、やがて男は意
を決したのか、おずおずと口を開いた。
「ねえ、さっきから気になっていたんだが、僕はもしや君に、結婚指輪を渡すのを忘
れてしまっているんだろうか?」
そう言って彼は女の白い手を見やる。彼女の細く長い指には結婚指輪どころか、安物
やおもちゃの指輪すらはめたような跡はなく、大理石のようになめらかだ。
「僕は、その……最近物忘れが激しくてね。大事なこともついうっかり、忘れてしま
うんだ――君も承知してくれているとは思うけれど。」
言い訳と呼ぶには珍妙な理由を述べてうなだれている男の方に女は目をやり、瞬きほ
どの逡巡のあと、
「確かに私、あなたから指輪を戴いたことは一度もありませんわ。」
と答えた。すると男は「ああ、やっぱり!」と大声で叫ぶ。
「大変だ、どこへやっただろう?あれは大通りの――君のお気に入りの店で買って…
…それから……?」
「ポケットに入れてはいませんの?」
慌ててベンチから立ち上がり服をはたいていた男に、彼女はさり気なくそう教えてや
った。
「ズボンのポケット。何か入っているようですけれど?」
なるほど、確かに彼女の指差す男のポケットは中にある何かでふくらんでいる。
「何だって?」
と男がポケットに手を突っ込み、中の物を引っ張り出すと、出てきたのはじゃらじゃ
らと音をたてる鍵の束だった。男はそれを見て、先ほどよりもいっそうかん高い驚愕の
声をあげる。
「しまった、僕は家の玄関の鍵をかけずに出てきたような気がするぞ!それとも君が
かけたっけ?」
「私はかけてませんわ。」
「そりゃあ大変だ、ちょっと見てくるよ。――ああ、君はここにいてくれ、僕がすぐ
に走って見に行ってくるから。」
「そう?気をつけて。」
彼女はそう答えて、大慌てですっとんでいく男の後ろ姿をベンチに腰を下ろしたまま
見送った。それから、去っていく彼と入れ違いにこちらへとやってくる若い男がいるこ
とに気付く。彼女は微笑んで優雅にベンチを立った。
「今、おれの隣をずいぶん急いで走っていった男がいたけど、君の知り合いかい?」
「いいえ、全然知らない人よ。」
彼女はにっこり笑って隣に立った男の腕を取り、楽しそうに言った。
「彼は物忘れが激しいんですって。きっと奥さんの顔も忘れてしまったのね。」