#265/566 ●短編
★タイトル (lig ) 05/04/30 00:24 (457)
お題>秘密 らいと・ひる
★内容 05/06/13 23:05 修正 第2版
僕の恋人でもある竹宮紅深(たけみやくみ)は少しだけ我が侭だ。
どれくらい我が侭かというと、毎日のようにプレゼントを要求する。ただ、
「少しだけ」というのは、そのプレゼントが高価な物でなくても良いというこ
とだ。極端な話、道ばたに落ちている小石でさえ、僕の手から渡されれば彼女
はそれを喜んで受け取ってくれる。
彼女とはもう一年にもなるが、付き合い始めに冗談であげた玩具の指輪から
始まってそのプレゼントの数は三百を超えた。彼女はもらったプレゼントをそ
の場で開けて、アクセサリ類ならばすぐに身に付け嬉しそうに笑うだけ。次の
日になるとそのプレゼントは家で大切に保管されてしまい二度と身に付けるこ
とはない。
だから、普通なら帰り際に渡すようなプレゼントも会ってすぐに渡している。
それが僕と彼女との付き合うスタイルであった。
彼女は言う。
「なくしたら勿体ないでしょ。だって、これはわたしだけの物なんだから」
そうやって本日も僕にプレゼントを強請ってくる。
そんな彼女の笑顔を見ていたいから、僕は今日も彼女にあげる物で頭を悩ま
す。
一度、食べ物をプレゼントにしようとしたことがあったのだが、彼女はそれ
をかわいい我が侭で拒んだ。
「食べ物はね。形に残らないから悲しいの」
「でも、かさばらないよ。きみにはたくさんの形に残る物をあげたんだから、
たまにはいいんじゃない?」
「わたしの部屋は広いから平気だよ」
「そのうち家とかプレゼントしなきゃいけなくなるかな」
「そんな贅沢は言わない。でもね、できればわたしの身体に付けられる物の方
がいいな。服とかアクセサリとか……もちろん、高価な宝石なんて望まないか
ら」
「きみがそう言うのなら別に構わないけど」
彼女の部屋はそのうち僕のプレゼントで一杯になる。
でも、彼女がとんでもないほどの金持ちのお嬢様だったらどうしよう。一部
屋十畳二十畳なんて当たり前の世界なのではないか? もしかしたら、金持ち
が故に高価な品物に拘らないのかもしれない。彼女が欲しいのは金で買えるも
のではないのだろう。形に残る物に執着するのも心に残る物を求めているから
なのだろう。
ただ、この『毎日プレゼントを渡す』という状況が時に奇妙な行動を彼女に
取らせる。
僕たちが付き合っているとは言っても、一緒に暮らしているわけではない。
彼女が大事といっても、さすがの僕にもいろいろと予定がある。例えば僕が
年末に実家へと帰省した。ところが会えなくなることを寂しがった彼女は毎日、
僕の元を訪れてプレゼントを要求した。まるで借金取りみたいだと大笑いした
こともある。そんな彼女は抱きしめてキスをして、プレゼントを渡すと満足そ
うに帰って行く。せっかく来たのだから泊まっていったらどうかと彼女に勧め
てみたが、家の事情で門限が決められているから外泊なんてもってのほかだと
断られてしまう。帰省していた4日間、新幹線で二時間ほどの距離を毎日通っ
てくれた。ここまで想われてしまうのは男冥利に尽きるのだろうか。相思相愛
の仲なのだから問題ないが、相手からの一方的な想いであればそれは恐怖を感
じるだろう。やっていることはストーカーと紙一重なのだから。でも、僕は彼
女に惚れている。だから世界一の幸せものなのだ。
その日の紅深も超絶なかわいさを誇っていた。謎めいた美少女の如く、ロシ
ア人のような白く透き通る肌に吸い込まれそうな褐色の瞳。時々、悪戯じみた
笑みを浮かべるのはいつもの事だけど、それがアクセントとなってさらなる魅
力を放っていた。
ここ一週間は給料前ということもあって、彼女へのプレゼントは貧相なもの
ばかりだった。ゲームセンターで獲得した景品のぬいぐるみや繁華街の道ばた
で売られているアクセサリ等々。
昨日などはあげるものに困っていると、「これでいいよ」と彼女は僕のジャ
ケットのボタンと引きちぎった。そして、それを愛おしそうに握りしめる。さ
すがの僕もそんな彼女の姿には心が痛んだ。だから今日は奮発して彼女に服を
ってあげようと思う。今までもマフラーやら手袋だの帽子などをプレゼントし
たことがあるが、今日はまるごと一着のコーディネートを考えていた。
駅前のいつもの場所で待ち合わせた僕らは、すぐにそのままショッピングモ
ールへと向かう。プレゼントは僕が選んで買ったその場で渡すことが多かった
が、今回はサイズ等の問題があるので、実際に彼女に試着してもらってから購
入することになる。
よくドラマや映画でこういうシーンを見かけるが、実際に自分がやるとなる
と少々照れてしまう。
「給料入ったばかりだし、今日は服を一着プレゼントするよ。それに着替えて
デートしよう」
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに顔を綻ばせ「うれしい」と笑顔
で答えた。
普段の彼女はとても地味な服装だ。通販で売っているような白いワンピース
に白い靴。白が好きらしいというのはわかるが、一年と通してほぼ似たような
服装である。袖の長さによって季節感を感じられる程度であった。
「お気に入りのブランドとかないの?」
女性のファッションにはあまり詳しくはないので、選ぶのは彼女に任せたか
った。
「ううん。あんまり興味ないから。でもね、サトシに買って貰えるならなんで
もいいよ」
「それは困ったな。僕はあんまりセンスがあるほうじゃないしね」
「それはお互い様だよ。あたしだってほら、こんな安物で満足してるし」
そういってくるりとその場で回る。膝下まであったスカートがふわりと膨ら
んだ。
「だったら、今日は少しくらいお洒落に行こうよ。多少はいつもより高価でも
構わないからさ」
ショッピングモール内の店をいくつか回ってるうちに、ある店舗の前で彼女
の瞳が吸い寄せられるようにガラス越しのショーケースへと注がれる。
中に飾ってあったのは、純白のドレス。それを着ているマネキンはブーケを
抱えていた。
「なんか憧れるよね」
それはウエディングドレスを扱っている店であった。安い物でも桁が六つ程
度あるが、今の僕にも買うことのできる金額だ。ただ、物が物だけにこれを着
てそのままデートを続けるわけにはいかないだろう。
「今日は買ってあげられないよ」
「だよね。結構、値段するし……」
「今日は、って言っただろ」
「え?」
「プロポーズもしてないのにまだ早いかもしれないけど、きみがどうしても着
たいっていうなら僕はそれくらいプレゼントするよ」
彼女は言葉に詰まったかのように一瞬固まったような表情をすると、なぜか
涙をぽろぽろと流し始めた。
嬉し泣きかなと自惚れそうになったが、彼女の涙は止まる気配がなかった。
なぜか彼女の悲しみが伝染したかのように僕の心にもじわじわと哀しみが押し
寄せてくる。
言いようもない不安に襲われ、僕はとっさに彼女へと言葉を投げかけた。
「どうした? 僕、なんか変な事言ったかい」
「ううん、サトシは悪くない。悪くないの」
胸に抱き寄せた彼女を泣きやむまでずっとその髪を撫でてあげる。でも、彼
女は涙のわけを話してくれなかった。かといって、こちらから聞くのは憚られ
るような雰囲気だった。
数分後、泣きやんだ彼女は元のちょっぴり明るくミステリアスな(矛盾した
感はあるが実際にそうなのである)女性に戻り、いつものような日常が再開さ
れた。
結局プレゼントしたのは、ウエディングドレスほどの豪華さはないが、それ
に近い形の煌びやかさを持った白いワンピースだった。スカートには段々のレ
ースとフリル、胸元には薔薇の模様があしらわれ、裾のひろがった袖口に腰の
後ろ部分にはかわいらしい大きめのリボンが付いている。彼女はそれをたいそ
う気に入ったらしく、それからはずっと笑顔が崩れることはなかった。
別れ際でさえ満面の笑みを浮かべ、そしていつものように手を振って僕を見
送る。
次の日、彼女はデートの待ち合わせの時間を十分過ぎても現れなかった。こ
れまで遅れたことなど一度もなかったので心配になる。彼女は携帯電話も持っ
ていない。約束は必ず守るし、何があっても一日一度は顔を合わせていた。そ
れは僕がどんなに遠くへ行こうが関係などなかった。だから不都合はなかった
のだ。
一時間経っても二時間経っても彼女は現れなかった。事故にでもあったのだ
ろうかと不安になる。会えることが当たり前のように思っていたために、連絡
が取れなくなった時の事など考えていなかった。前に一度だけ彼女の家の最寄
り駅まで送って行った事がある。そこに彼女が本当に住んでいるとすれば、少
なくとも来られない事情を家族の誰かに聞けるかもしれない。もしかしたら風
邪をひいて熱を出しているなんてオチも有り得る。
居ても立ってもいられなくなった僕は、記憶を頼りに彼女の家へと向かうこ
とにした。
電車に揺られること四十分、無人駅を降りると民家はほとんど見えない。寂
しげな駅の周辺にはコンビニすらなかった。
前に来たときはここで彼女と別れた。
「家はどこなの?」と聞いた僕の問いかけに彼女は近くの山の中腹に建つ洋
館を指さした。ここからでは歩いて一時間以上はかかりそうな場所だった。
心配だから家まで送るという呼びかけに、「車で迎えが来るから大丈夫。そ
んなに心配してくれるんだ」といつもの悪戯じみた笑顔で答えられ、だったら
その迎えが来るまで一緒に待っていると言った覚えがある。
あれ以来、デートが終わるとすぐに迎えの車が近くまで来ていてそれに乗っ
て帰って行くようになった。なんだかデートを終始監視されているようで初め
は嫌だったが、彼女が安全に確実に家に帰れる方法だと考え、安心してそれを
見送れるようになった。
今日は、ここから徒歩で彼女の家まで行かなくてはならない。彼女が嘘を吐
いていないのであればあの洋館が目的地だ。
欧風の大きな建物まではほぼ一本道だったが、車一台が通れるくらいの道幅
でしかも道の片側は山の急な斜面となっている。どうやって車同士はすれ違う
のだろうと思っていたが、洋館に着くまで、僕を追い抜く車も前から向かって
くる車を見ることはなかった。
道の終端はそのまま洋館への大きな黒い門へと続いている。もしかしたら、
この山自体が彼女の家の持ち物で、僕が歩いてきた道も私道なのかもしれない。
威圧感を感じさせるような背丈の倍以上はあるその黒き鉄製の門。
その門の脇に、控えめにインターホンが設置されていた。デザインとして溶
け込むように埋め込まれているので、それに気付くのに少し時間を要した。
表札はない。
彼女とはまったく無関係な家だったどうしようかと、そんな考えが一瞬頭を
過ぎる。ここまで来ておいてボタンを押すことを躊躇ってしまうのも馬鹿馬鹿
しい。こんな大きなお屋敷なのだからお手伝いさんか誰かが対応して「お嬢様
は只今体調を崩して寝ております」と答えるのだろう。もし違ったのならその
時に考えればいいのだ。ピンポンダッシュするにはちょっとばかり不都合であ
るが。
思い切ってボタンを押してしばらく待つ。
応答がないのでもう一度押す。あたりには虫の声すら聞こえない。
もしかしたらボタンを押している間だけ、声が中に通じるのかもしれないと
「すみません。紅深さんはご在宅でしょうか」と問いかけるも、まったく応答
はなかった。
仕方がないので門に手をかけて引いてみる。もし、開かないのであれば皆出
かけてしまっているのだろう。その場合は出直すしかない、そう思っていた。
だが、扉は重くはあるが手前にゆっくりと動いた。
「あれ?」
もしかしたら外のインターホンは壊れていて使われていないのではないかと
考える。
中に入ると門から建物までは三十メートルほどあった。中庭は噴水こそない
がまるで公園のようだ。色とりどりの花が植えられており、いわゆる庭園とい
った感じだ。
玄関に辿り着くとそのドアをノックする。インターホンの類は確認できない。
するとがちゃりと鍵が開き、その扉が開いた。
家主がいるならば半分は目的が達せられたとほっとしたのもつかの間、扉は
わずか十センチほどの隙間を空けた状態で止まってしまった。
呆気にとられて数十秒の間、その状態で固まってしまう。僕としてはそれ以
上開けてくれるのを待っていた。だが、なかなか開こうとはしない。仕方がな
く、その扉を手前に引こうと手をかけたところでギョッとする。下の方の扉の
隙間から血のようなもので染まった手が見えたのだ。
思わず驚いて一歩後退してしまう。しばらくその手を眺めていたが、小刻み
に震えるだけでそれ以上動く気配はなかった。誰かに悪戯をされているのだろ
うか。そんな風に考えてなんの危機感も抱かずに扉を開けてしまう。
中には白衣のような物を来た初老の男性が倒れていた。背中は真っ赤に染ま
っており、破れたようなほつれたような複数の穴が窺える。まさか銃で撃たれ
たのだろうか?
「どうしたんですか?」
驚いた僕は男の顔に近づきそう問いかける。
「……わりじゃ」
「何がですか?」
「……ゆめのおわ……」
男はそこで事切れたように動かなくなった。念のため首筋に手をあてるが、
脈拍は止まっていた。
ここで僕が取る行動には二つの選択がある。
一つは警察に連絡した後に、到着するまで安全な場所に待避する。
もう一つは警察の到着を待たずに建物の中に侵入する。
普通なら後者を選ぶことはないだろう。でも、彼女が中にいる確率は高い。
もし銃器を持った犯人がいるのなら、彼女に危機が迫っている可能性がある。
携帯を取り出し警察に連絡を入れようとするが、ディスプレイには圏外と表
示されていた。そういえばここまで登ってくるだいぶ前の場所で、もう繋がら
ない状態になっていたことを思い出す。だとすればこのまま邸内へと上がり込
んで中の電話を使わせてもらうしかない。それゆえに今は躊躇などしていられ
る場合ではなかった。
入ってすぐのホール部分には二階へと上がる階段が見える。これだけ大きな
家の娘だ。部屋は二階というのが基本であろう。僕はすぐに階段を駆け上がる。
上がってすぐの部屋から片っ端に扉を開けていく。犯人が隠れていて自分が
撃たれてしまうなどということは、この時は考えもしなかった。そんなことよ
り彼女を捜す事の方が優先されていたのだ。今すぐに無事な彼女の姿を確認し
たい、そんな思いで一杯だった。
二階にあった五部屋はどこも外れだった。部屋というよりは書庫といった感
じで、そこで生活している気配はまったくなかったのだ。
階段を駆け下りて今度は一階を調べる。ホールの隅に電話があったので、受
話器を取るがまったくの無音状態だった。たぶん大元で電話線が切られている
可能性が高い。
一階を探索するとリビングでは三人の若い男が死んでいた。いずれも胸や額
を撃ち抜かれたように血を流して冷たくなっていた。台所というより厨房に近
い部屋では四人の女性が死んでおり、一階にあった私室に使用していると思わ
れる十の部屋のうち、二部屋ではひとりずつ死体が収まっていた。残りの八部
屋には誰もいなかった。
彼女はどこにいるのだろう?
もしかして彼女は嘘を言っていて、ここはまったく別の家なのだろうか。そ
んな考えが浮かんでくる。
一階の奥には遊戯室とかかれた扉があり、そこを調べればこの屋敷には他に
行ける場所などなかった。
僕がこの家を訪れたとき、玄関は鍵がかかっていたはずだ。鍵の外れる音が
して、初老の男が扉を開けた。窓などから逃げていないのであれば、犯人はこ
の部屋しかあるまい。それは同時に別の可能性も打ち出していた。この部屋に
いるのは一人か、それとも二人なのか? それについては今はあまり考えたく
ない。
僕は慎重に扉を開けることにする。この時点で、当初の無謀な行動がどれだ
け自分を危険に晒していたかに気付く。犯人がどこかの部屋に隠れていたなら
ば自分も殺されていたかもしれないと考えると恐ろしくもなる。
手をドアノブにかけ、身体はそれと平行に壁へと付ける。ゆっくりと回し、
少し開いたところでそれに勢いを付けて向こう側へと押す。すぐに手は引っ込
めて中の気配を探る。
物音もしない。誰かが息づいているような気配すら感じない。
僕は慎重に、部屋の中を覗く。左側部分には何も確認できない。赤い絨毯が
ひかれ、だだっ広い空間が見えるだけだ。右側はドアが邪魔でよく見えなかっ
た。
念には念を入れ、廊下にあった花瓶を持ってきてそれを部屋の中へと転がし
てみる。ちょうど下が盛り上がった形なので、そのまま部屋の奥へと転がすと
円を描くように右へと転がる。誰かがいればもしかしたら反応するかもしれな
い。
ほどなくして花瓶が壁のようなものに衝突したかのような硬い音が響く。こ
れで安心ができるというわけではない。素人考えの気休めにしかならないだろ
う。ようは覚悟を決めるための儀式に近いのかもしれない。
僕は床に転がるように、中へと突入した。いざとなったら長いストラップを
付けた携帯を振り回して武器にすればいい。部屋を探索したときに武器になる
ようなものを探しておけば良かったと少し後悔する。こんなもので拳銃に勝て
るわけがない。
運が良かったのか悪かったのか、部屋の中は無人だった。思わず気が抜けて
膝から崩れ落ちる。張りつめていた緊張感の影響か、身体ががくがくと震え出
す。突入する前だったら格好が悪かったなと苦笑いした。
しかし、十二畳ほどの部屋は見事なまでに空っぽだった。花瓶がぶつかった
側の壁に本棚が一つあるだけなのだ。いったい犯人は何処に行ったのだろう。
考えられる事としては、最初に会った初老の男が犯人で最後に自殺をした。
いや、それよりも邸内で争いが起こり銃撃戦となった。そして当方が共倒れと
いうほうが納得が行く。
だが、倒れていた男たちは拳銃を持っていただろうか?
否、誰一人としてそのような物は持っていなかった。だからこそ、遺体は銃
で撃たれたようであって、銃で撃たれたと確信が持てたわけではなかった。そ
う、犯人どころか、凶器すら見つかっていない。
そんなことを考えていて、ふと違和感に気付く。
僕が入ってきたこの部屋はなんだ?
立ち上がって、扉に書かれたプレートを確認する。
『遊戯室』
部屋を見渡すと、そこには何もない。本棚が一つあるだけだ。そして、この
家は明らかに自殺とは思えない死体があって、犯人らしき人影も凶器すら見つ
からない。
何がおかしいのか?
今僕がいるのは何もない遊戯室。ビリヤード台もなければ、どこぞの温泉に
でもありそうな卓球台すらない。室内でスポーツをやるには狭すぎる部屋。そ
して、わざとらしく置かれた本棚。
明らかに怪しげではある。
隠し部屋があるに違いないと、僕はその本棚を調べてみることにした。
「あった」
上から三段目の右隅の本はダミーだった。途中までしか引き抜けず、側面の
窪んだ部分ににはボタン式のスイッチが付いている。
妙な興奮を覚え、そのボタンを押してみた。
すると、本棚が自動的に横方向へとスライドし、地下へと続く階段が見える。
今度こそ犯人と出会えるかもしれない。僕の心はなぜか躍っていた。さっき
まで震えていたというのに何か変だ。それが単純な恐怖でない理由を僕は知っ
ているだろうか。
地下の階は空気がひんやりとしていた。そして、微かな匂いが僕の嗅覚を刺
激する。それは血の匂いに近いものだった。
数メートルほど進むと目の前に大きな鉄の扉が見える。扉には赤い文字で右
から『紅深』と書かれていた。
背筋がぞくりとする。だが、同時にそれがまるで快楽のようにも感じてしま
う。
僕がドアについたパイプのような取っ手に触れると、重々しい鉄扉は横方向
へと自動的にスライドした。
開くと同時にもわっと血の匂いが濃くなっていく。それでも息苦しさは感じ
なかった。もしかしたら感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。
鉄扉を入ると、中にもう一つ同じような扉があった。二重構造となっている
のだろうか。僕はもう一つの扉に触れる。
重々しい扉は、同じようにスライドした。
今度はもっと濃密でむせかえるような血の匂いがする。
その部屋の内部は薄暗く、奥の壁が見えないほど部屋と呼ぶにはあまりにも
広大な空間だった。入口から百メートルくらい先の場所に青白いスポットライ
トのようなものが当てられている。そこにはこちらに背を向けて椅子に座った
人影が見えた。
僕はそこまで行こうとして、数メートル歩いたところで何かに躓き倒れてし
まう。ついつい奥の人影に気を取られ、足下にある物体に気が付かなかったの
だ。
転んだ拍子に左手が何かを掴んだ。そして、顔の目の前に白っぽい塊が見え
る。
あまりにも精巧過ぎていて、最初は作り物だと思った。だけど、この部屋に
ただよう血の匂いは、あまりにもリアリティがありすぎた。
僕はそれが人間の頭蓋骨だと理解できるまでしばしの時間を要する。
あまりの異常事態に感覚は麻痺していた。僕は冷静に周りを見回し、目をこ
らして薄暗い部屋の足下に転がっている他の物体を確認する。
そのほとんどが白骨化した人間の死体だった。一体だけではない、部屋中に
その死体は散らばっている。周りの物体がすべてが屍であれば、もしかしたら
数百体に上るのではないか。
何がどうなっているか理解できなかったが、こんな部屋に無闇に入ってくる
なんてあまりにも愚かな行為だということだけはわかった。
ふいに沸き上がる恐怖心から、急いでここから逃げ出さねばと本能が告げる。
だが、なかなか身体が思うように動かない。握りしめた手にはじっとりと汗
が滲んでいる。ふと左手の違和感に気付いた。そういえばさきほど何かを掴ん
でいたことを忘れていた。得体の知れない物をなぜ咄嗟に握りしめてしまった
のかと、自分でも不思議に思う。
左手をゆっくりと開く。それは小さな金属のリングだった。
どこかで見たことがあると思い、裏に刻まれた文字を薄暗い中必至に読み取
る。
『Lien d'Amour』
僕はこれと同じ物を紅深にプレゼントしたことがある。でも、なぜこんな所
に?
もう一度辺りを見渡す。白骨化した死体の間に間に、見覚えのある帽子やら
手袋やらブレスレッド等のアクセサリの類も見つかった。
どういうことだ?
僕は危険だという本能が麻痺してしまったらしい。何かに惹きつけられるよ
うにどんどん部屋の奥へと向かって歩いていく。
部屋の奥へ行くにしたがって、匂いはきつくなり、死体には腐りかけた肉や
皮が付いているのも確認できた。うつぶせに倒れているので顔は見えないが、
そのほとんどが女性の遺体だろう。
そして、椅子に座っている人影まであと少しという所で衝撃的な光景を目に
する。
見覚えのある白いワンピース。
そう、昨日彼女にプレゼントしたばかりのものと同じ服を着た女性が床に倒
れていた。
駆け寄ってその顔を確認して、涙が溢れた。
「紅深!」
彼女はもうすっかり冷たくなってしまっている。死に顔はとても安らかだが、
もう笑顔を作り出すことはなかった。
間に合わなかった。僕は自分の無力さを痛感する。
そして今一度周りを確認した。無造作に並べられた屍は何も語ることはない
が、その無念さは伝わってくる。
ここは異常だ。死体を収集して部屋に並べている。紅深も殺してこの部屋の
コレクションにしたつもりなのか?
「おまえが殺したのか!?」
彼女が死ななければならない理由が知りたかった。彼女の笑顔を奪ったその
人物が憎かった。
椅子に座った女性はゆっくりと立ち上がる。そして、こちらに振り返りなが
ら言葉を発した。
「サトシ」
目の前の女性は紅深そっくりだった。いや、顔だけではない。声もそして悪
戯じみた笑顔も。
「おまえは誰だ?」
「わたしは竹宮紅深よ」
目の前の女性が紅深なわけはない。もし紅深だと言い張るのなら、この胸に
抱いている冷たくなったこの女性は誰なのだ。
「そんなわけがあるか。この服は僕が昨日プレゼントしたものだ。彼女はもら
った物をとても大切にする子なんだ。他人に渡すはずがない」
「そうよ。わたしたちはもらった物は誰にも渡さない。たとえそれが自分であ
ろうと」
顔が似ている人間が存在することは別に不思議な事ではない。他人のそら似、
いや一卵性の双子ならそっくりでもおかしくはない。
「どういうことだ? まさか紅深は双子だったとでもいうのか」
「そうね……今からわたしがする話を信じるか信じないかはサトシの自由。こ
の話はもしかしたらただのお伽噺かもしれない」
「何の話だ!」
「ある処にね、孫娘をいたくかわいがる老人がいたの。その孫娘はいつしか成
長し、恋人ができた。プレゼントをもらってとても喜んでいたわ。でも、その
喜びもつかの間、彼女は急死してしまうの。先天的に異常があったことも老人
は承知していたのね。事態を予測していた彼は自分が研究していたことを実行
に移した。それは今の倫理では許される行為ではなかったの」
「まさか、クローンでも作ったっていうのか?」
「お伽噺だから話半分で聞いていて。それでね、老人は娘の細胞をコピーして
急速に培養する装置を作ったの。だけど、研究は完全じゃなかったのね。コピ
ーはたしかに孫娘が亡くなるる直前くらいまでの肉体を再現できたけど……で
もね、それには重大な欠陥があったの」
「まさか……」
僕の中の彼女との想い出が再生される。そして、常々疑問と思っていたこと
がある。毎日プレゼントを強請るということ。厳しい門限があって送り迎えが
きちんとしていること。昨日、見せたあの涙。普通の女性であれば別に気にも
留めない疑問は、お伽噺に当て嵌めると残酷な結末が予想できてしまう。
「コピーはね、一日しか生きられないの。正確には二十三時間。コピーが死ぬ
と、次のコピーが生まれる。三十分かけて急速に培養され、三十分かけて記憶
が再現される。もちろん、前のコピーからも記憶は受け継がれ足されていく」
「だから毎日プレゼントを強請ったのか。だから「わたしだけの物」なのか」
彼女の我が侭はとても哀しみに満ちたものだった。
「記憶は引き継がれる。孫娘は恋人と出会ってから一年、その事のほとんどを
覚えている。ううん、覚えているんじゃない。知っているだけ。だからこそ、
自分だけの確かな想い出が欲しい。引き継がれたお仕着せの記憶なんかじゃな
い確かな証拠が欲しいの」
「……それがプレゼントを強請る理由か」
「でもね、そんな繰り返しにも空しさを感じるようになったの。お伽噺の孫娘
はね、恋人にプロポーズみたいな事を言われたんだって。嬉しいけど、でも悲
しいよね。毎日顔を合わせていても、毎日一緒に居られるわけじゃないんだも
んね。それでもその子は願ったのよ。自分のオリジナルの記憶の中で恋人の顔
を次の日も見てみたいって。それがどんなに空しい願いかはわかるよね」
「……」
「だからね、その子は終わらせたかったの。この狂った輪廻を。神を冒涜した
罪を償いたかったの。システムを壊して、管理者を殺せばもうコピーは生まれ
ない。罪を犯し続けることもない」
「それでも……その恋人は彼女には生き続けて欲しいと願うと思うよ。たとえ
神へ背こうが世界を敵に回そうが」
「そうね。でもね、その子が一番気にしていたのは、神への冒涜というより、
恋人への裏切りだったと思うよ。一番重要な秘密を打ち明けられない。それは
イコール彼への裏切り行為なの」
「僕は裏切りとは思わないよ」
「気付いてる? その孫娘が恋人へと抱く愛情も、実は受け継がれた後付の記
憶がもたらすものだって事を。彼が愛していたオリジナルの彼女はもうこの世
にはいない。彼女の記憶を引き継ぐ事は彼を欺いている事と同じなの」
「だから終わらせたかったのか?」
「孫娘の頭の中には、オリジナルだけじゃない、部屋に散らばる三百六十四体
分の記憶も受け継いでいる。いつしかコピーは気付くのよ。コピーが自分だけ
の記憶を生み出すことに。そしてその記憶はけして自分の物にはならない。他
のコピーへと受け継がれていくだけ。これまでのコピーはプレゼントをもらっ
てそれを自分だけの物とする事によって、自分自身の記憶の存在を曖昧にして
いたの。でもね、物なんかより実際に自分で体験する事の方がどんなに大切か
ってことを気付いてしまったの」
彼女の話はあまりにも荒唐無稽で、それでいて心に訴えかけるような哀しみ
を秘めていた。
「でも、そんな……クローンなんて本当に今の技術でそこまでできるのか?
急速な培養で成長した肉体を再現するってのはいいとしよう。でも、記憶の再
現って……」
僕は科学者ではないから今の科学力がどこまで進んでいるのかは正確にはわ
からない。でも、あまりにも幻想じみた話に現実味が持てないのも事実だった。
「ほんと、まるでお伽噺よね。だからね、信じられないのなら現実的に考えて
くれてもいいのよ」
彼女がいつものように悪戯めいた笑みを浮かべる。それは謎めいた微笑み。
表面的には茶目っ気で塗り隠されているが、所々に哀しさも見え隠れし、何か
を企んでいそうな不思議な表情でもある。
「今の話は嘘だというのか?」
嘘だというのなら、どうやってこのオチを付ける気なのか。
「信じられないならって事。今度は譬話。現実的に考えるのなら、わたしは
紅深の双子の片割れ。わたしは死体を収集するのが趣味で、紅深は恋人からの
プレゼントを収集するのが趣味。だけど、時々入れ替わってあなたと会ってい
た。わたしはいつしか幸せな紅深を憎むようになる。そして、欲張りなわたし
は紅深を殺しそのコレクションを独り占めするばかりか、あなたを部屋に招き
入れて新たなコレクションに加えようとしている。そう、わたしの名前は深紅
(みく)。この部屋の扉の文字は本当はどちらから読むのかしら」
「きみは……」
視界がぐにゃりと歪んだような気がした。現実がとても曖昧な気がした。
「ねぇ、あなたはどっちが真実だと思う? そもそも、わたしは誰?」
了