AWC お題>引退   麻村帆乃


        
#262/566 ●短編
★タイトル (hem     )  05/02/25  12:02  ( 54)
お題>引退   麻村帆乃
★内容
 その村の小高い丘にその木は立っている。ずいぶん昔からあるため、
かなりの巨木となっている。遠くからも見えるその葉の色は少し青みが
かった緑色で、この辺りに生えているほかのどんな植物の色とも違って
いた。
 そのため村人はその木を特別なものを扱うようにとても大切にしてい
た。

 その日の仕事を終えて家路につく中年の夫婦が木の側を通りかかる。
「まだ元気がないねえ」
 ふう、とため息をつきながら女が呟く。
「ああ、あの音がしないとなんだか物足りないよ」
 風に吹かれて微かな音を立てる木の葉を見上げる男。
 木はここ数日、元気がなかった。その葉は色あせて見える。そして何
よりも、いつもは風に吹かれると鈴がなるような不思議な音がするのだ
が、今は普通の木と何も変わらないさわさわと言う音がするばかりだ。
「早くもとに戻ってほしいねえ」
 夫婦はそこで木の側にたたずむ年老いた女に気づき、軽く会釈してそ
の場を後にした。

 美和は木の側に立ち、手招きしている年老いた女に気づいた。自分が
一人で歩いているのは知っていたが、それども周りを見回し、間違いな
く自分が呼ばれていることを確認する。確か雅と言ったか…。顔と名前
を知ってはいるものの、特別親しい間柄ではない。何の用だろうか。思
い当たることがなく、不安に駆られる。
 雅がもう一度手招きする。
「ちょっと頼みたいことがあってね」
 思い足取りでやってきた美和を安心させるようににこりと笑う。
美和の雅に関する知識は数年前に夫を亡くしたこと、この木の側で歌っ
ている姿をよく見かけることだけだ。
「難しいことではないよ。少しここで歌を聞かせてもらいたいだけ。と
てもいい声だからね」
 思ってもみないその言葉にどきりとする。美和は作業する際には小声
で歌を口ずさんでいる。だけどそれを誰にも知られていないと思ってい
たのだ。
 ぱっと顔を赤くする。美和が口数の少ない娘であることを知っていた
から、人前で歌うことがどれほど勇気のいることか想像することができ
た。雅は促すように微笑み、歌を口ずさみ始める。
 それは子守唄や皆で力をあわせて作業する際の掛け声になるものなど
美和もよく知る調べだった。
 気がついたときには自然に歌い始めていた。雅の落ち着いた声と、美
和の高い声はすばらしい調べとなって辺りに響いた。
 歌が終わったその直後、木の葉が揺れ、たくさんの鈴を一斉に鳴らし
たような不思議な音が聞こえた。それは演奏に対する拍手であるように
しばらく続いた。
「やっぱり思った通りだった。本当にいい声だもの」
 音が止むと雅は何のためにここで歌っていたかを話し始める。
 木は歌声を栄養にしていた。最近木の元気がなかったのは、雅の歌か
ら十分な栄養が摂れなくなってきていたから。数日間村中を探し、美和
の声を気に入って木に引き合わせたのだと言う。
「あなたを木が認めた。これで私は引退します」
 優しい笑みを浮かべる雅。けれどその顔は少し寂しげだった。


                                        終





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