#135/569 ●短編
★タイトル (PRN ) 03/12/21 18:50 (219)
風のプリズム 已岬佳泰
★内容
うす暗い廊下を私はゆっくりと歩いている。
前を静かに歩く中年の女。後ろには老年の巡査。ふたりとも黙りこくっている。
古い家だった。左手に閉ざされた木製の雨戸が続き、右手は色落ちした塗り壁。廊下
もまるで雨ざらしだったかのように痛んでいた。そのままお化け屋敷にでもなりそうな
くらいの暗い家‥‥さきほどこの家の玄関で、とおり一遍の挨拶を交わした。先をゆく
女は廣野幸恵。警察の話では地元の篤志家だという。つい最近、年老いた母を亡くし、
この家に一人暮らしだとも。
「だから他人事には思えんのでしょう」
S県警地域課の太った課長はそう言って笑った。しかし、私はそれを額面通りには受
け取っていない。
「警察にはわたくしの方からお願いしましたのよ。こちらでお預かりすると」
私の思いを察したのか、前を行く幸恵が突然そう言った。
「それは署の方で説明しておきました」
背後で老年の警察官、須崎巡査が取り繕うように低い声で補足する。紺の制服姿の須
崎はS県警から私をここまで案内してくれたのだった。
「どうもお手間をとらせました」
「それにしても」幸恵は前を向いたままだった。「まさか東京の方だとは驚きました。
てっきり近所の病院から抜け出して来た人かなと。この季節にしては薄着でしたし…
…」
私はどういう返事をすればよいのか分からなかった。
「申し訳ありません」
それしか出なかった。
ことの始まりは昨日だった。私が長い出張から帰るとマンションのロビーに妻の享子
が呆然と立っていた。寝たり起きたりだった母がいなくなったという。午後、享子が買
い物に出た間のことらしい。マンションの管理人も見ていないと言った。
「ほんとうですか」
私の詰問調の問いかけに、真面目そうな管理人は少し眉をひそめ、しかしきっぱりと
頷いたのだった。
「この午後はずっとここで出入りをチェックしていますが、見ておりません」
しかし現実に母の姿はマンションから消えていた。
「それほど遠くへは行ってないはず」と心当たりに電話をかけ、公園や川縁の散歩道を
車で見て回るうちに夜になった。母が起居していた部屋は布団はあげられ、きちんと片
づいていた。しかし、書き置きらしいものは見当たらない。事故か事件に巻き込まれた
のか。それともついに徘徊症状がでてしまったのか。
母は夜が更けても戻らなかった。そして今朝になってS県警から「母らしい」女が保
護されたという連絡がはいり、私はすぐさま電車に飛び乗ったのだった。
冬になるとスキー客で賑わうS県までは、私の住む東京からは急行でも1時間半はた
っぷりとかかる。国立公園の山麓に点在するスキー場は春から秋まで休業に入るが、そ
の中のいくつかは自然公園として衣替えして営業を続ける。スキーリフトから、ゲレン
デに咲き乱れる様々な草花を楽しんでもらおうというわけだ。そんな晩秋のスキーゲレ
ンデを老女がひとりで歩いていたという。たまたま散歩に来ていた廣野幸恵が気にして
事情を聞いたが、要領をえなくて警察に届け出て、それが昨日の夕方のことだったらし
い。老女は首にお守りを下げており、その中から小さく折り畳まれた紙がでてきた。そ
こに書いてあった電話番号が私の家のものだった。私も享子も母がつけたお守りはとも
かく、中にそんな紙が入れてあったとは知らなかった。おそらく、自分の記憶の頼りな
さをよく分かっていた母が自ら仕込んだものだろう。
年格好や特徴の説明を聞いて母に違いないと私は確信した。
「こちらでも、老人がふらふらと歩きまわるというのはよくあることですよ。家族みん
なで注意しないとね。ま、大きな怪我もないようだし、とにかくすぐに連絡が取れてよ
かった」
須崎巡査がそう言った。私は「どうも申し訳ありません」と頭を下げる。スキー場を
母は右足を少し引きずるようにして歩いていたという。診察した医師によると、足や腕
に打撲痕があったがいずれもそれほど深刻なものはないらしい。
「東京からはるばる電車に乗っておいでになったのかしら」
幸恵だった。
「さあ」
私は正直に首を傾げた。
母が歩いていたというスキー場は、鉄道駅からはかなり離れていた。寝たり起きたり
の母に大した現金の持ち合わせなど無かったはずだ。だからタクシーやハイヤーなんて
論外だった。久しく外出もしていないから、自分で切符を買って電車やバスを乗り継い
だというのも考えにくい。
それにもっと解せないことがあった。いったいどうやって母は自分の部屋からでるこ
とができたのかという問題だった。
日頃は穏やかな母だったが、自分の記憶がときおり曖昧になることは自覚していた。
それで母は自分の部屋に鍵をつけさせた。そうすることで、母いわく「たとえ自分の行
動に責任が持てなくなっても、他人に迷惑をかけるようなことにはならないでしょ」。
鍵を持っているのは享子だけで、享子が買い物とかで母をひとりにするときは、鍵を持
って出る。母は鍵のかかった部屋で一人静かに過ごしているわけだ。
ところが昨日は違った。鍵がかかっているはずの部屋から母はいなくなり、見つかっ
たのは電車で1時間半のS県。しかもマンションの管理人は母が出てゆくのを見ていな
いという。
「いったいどういういきさつだったか、それは母に直接尋ねてみないと」
私はそう言うしかなかった。
母屋から屋根のある渡り廊下を歩くと、こじんまりした藁葺きの庵があった。木戸を
引くと布団の上に肩を落として座っている小さな背中が見えた。私は静かに息を吐き、
気持ちを整えてから声をかけた。
「母さん、迎えに来たよ」
幸恵と須崎巡査に勧められ、私がまずひとり庵に入った。母は向こうを向いたままじ
っと動かない。続いて幸恵も入ってきた。
「息子さんがお見えですよ。よかったですね」
じっと固まっていた母の肩が少しずつ震えはじめた。しゃがれた母の声が庵に流れ
る。
「どうか、享子さんを責めないでね。あたしのわがままなのだから」
穏やかな母のいつもの口調だった。
「突然いなくなったから、心配するじゃないか。享子なんか、すっかり体調を崩して寝
込んでしまった。ほんとは今日もいっしょに来たがったんだけどね」
母は背中を見せたまま動こうとはしない。
「ごめんね、本物の鋸岳を見たいと思ったの」
そう言うと母は私の方へと振り向いた。母の目は澄んでいた。その目が私に妻との会
話を思い出させた。
「お義母さんが近頃、屋上に出たがって困るの。ちょっと目を離した隙に自分であがろ
うとするのよ。山がよく見えるからって。でもここのマンションの屋上って柵もないし
危険でしょう。心配で目を離せないわ。もっとも勝手に上がれないように屋上へのドア
には鍵がかかっているからいいんだけど」
そんな話を妻の享子から聞いたのは、出張に出る前だったから、もう二週間くらい前
のことだったか。その時は気にもしなかったけれど、でもどうして急に山なんかを見た
くなったのだろう。それに鋸岳って。
「あんまりあたしが頼むものだから、とうとう享子さんは根負けしたらしいわ。昨日、
昼ご飯のあとでしぶしぶ屋上に連れていってくれた」
「ふーん、でもどうしてそんなに屋上にこだわるわけ? 母さんの部屋だって三階で、
まあ見晴らしは悪くないと思うけど」
「屋上からは北側の山がよく見えるのよ。とくにその中にひとつとても尖った山があっ
て、それが小さい頃に眺めた鋸岳によく似た山でさ。三階の部屋からはわずか切れっ端
くらいしか見えないのだけど、屋上からはすっかりよく見えたのよ」
あそこから見えるとするとなんだろう。高尾山なら標高は低いが歩いて登るとけっこ
う傾斜のきつい山である。
「鋸岳というと夏冬関係なく登山される方が多いんですよ。ちょうどこちらから見える
んじゃないかしら」
幸恵はそう言うと庵の障子をからんと開いた。途端に、紅葉で燃えるような森が広が
り、そこに覆い被さるように急峻な山が迫っていた。背景の青空を切り取る稜線は絵葉
書で見覚えのある形をしている。
「ほう。今日はまた鋸岳がずいぶんと近所に見えますな」
庵の入口に遠慮気味に腰をおろした須崎巡査だった。目を細めて、障子の向こうに突
然現れた鋸岳を見上げている。
「母さんは東京生まれの東京育ちじゃなかったっけ……」
子供の頃からそう聞いていた。
「戦時中は学童疎開でずっとこっちだったのよ。とくに鋸岳は強く覚えてて、あの頃は
他に楽しみもなかったからかしらね。子供みんな集まってはお年寄りの話をよく聞いて
いた。そしてお年寄りは決まって鋸岳の話をしてくれたものだった」
初耳だった。母は話し続ける。
「自分でも分かっていたの。この頃だんだんと物忘れがひどくなるし、ひどいときには
自分が何をやっていたのかもわからない。いよいよお迎えが近いのかもしれないと思っ
たら、不思議なことにその頃聞いた鋸岳のことを思い出したのよ」
そこで母は目を閉じた。
「ははあ。それはひょっとしたら有名な鋸岳楽園伝説ですかね」
須崎巡査が膝を叩いた。
「そんな話があるのですか」
幸恵が須崎に問う。その口調が妙にせっぱ詰まっていた。唐突に口をつぐんだ母に代
わり、須崎が話し始めた。
「ここらでは、みんな七〇歳になったら山に帰ると言い伝えがあったのです。私も小さ
い頃にそんなことを聞かされました。どうやら鋸岳のどこかにお年寄りだけが集う楽園
みたいなものがあって、七〇歳になるとそこを目指してみんな夜のうちに、家人に知ら
れないようにこっそりと家を出るというんですね。家では除け者にされる老人たちが、
そこでは畑を耕し生計をたてている。幸せな余生を送れるから、一度家を出た老人は絶
対に戻らないとも」
須崎の説明に幸恵がほうっと長いため息をついた。
「そうだったのですか。私は母が病気で寝込むまでずっと他の町で暮らしていてそんな
言い伝えがあることをまったく知りませんでした。そう言えば私の母が数えで七〇でし
た。今年の夏に亡くしましたが、母は病床から抜け出して家の前で倒れていました。そ
れが母がまるで私の看病から逃げようとしていたみたいでひどくショックでした。以
来、とても気になっていたのです。でも、ひょっとしたら、母も鋸岳楽園を目指したの
かもしれない。そんな風に考えると少しだけ気が休まります」
「でもまあ、それは言い替えれば棄老伝説みたいなものでしょう」
私がそう言うと母が腰を浮かせた。
「あたしも鋸岳に行くと決めたの。享子さんに連れられて屋上から北の山を見たとき、
そう決めたんだ。享子さんには悪いと思ったけどね。あんたは知らないだろうけど、あ
のマンション裏にはバス停があってね、毎日あたしが窓から見おろしていると、午後三
時すぎにこっち方面行きのバスが通るのさ」
「まさかそのバスに乗ってここまでやって来たというわけ?」
母は頷いた。
「でも部屋には鍵がかかっていたろう。マンションの管理人も母さんを見ていないって
言っている。いったいどうやって、外に出たんだい」
母の目がちょっと遠くなった。記憶を呼び戻そうとしているらしい。
「よく覚えてないけど、たしか、ティッシュを使ったかな。ほーら、あたしの部屋の鍵
も屋上の鍵もオートロックって言うのかな。そこにティッシュを挟んでおいたから鍵は
かからない。それで、享子さんが買い物に行っている間にあたしひとりで屋上まであが
ったのさ。あそこには非常階段におりる鉄梯子がついていて、そこからマンションの裏
手におりることができたんだと思うわ」
私は唸りそうになった。こういう思考の冴えと記憶の混沌が同じ人間の頭の中で同時
に存在できるのだろうか。それとも、日頃見せている老人ボケは母の演技に過ぎないの
かとさえ思ってしまう。
母は少し思案顔になった後、幸恵の方を向いた。
「もし幸恵さんさえよろしければ、もう少しこっちにいたいのですが」
幸恵の顔がほころんだ。
「わたくしの方は問題ありませんよ。この庵でよろしければ、いつまでもどうぞ。私は
なんだか母が帰ってきたみたいで……、でも息子さんのお立場もありますでしょう」
もちろんである。私は慌てて立ち上がった。
「何を言ってるんだ母さん。いっしょに東京に帰ろう。そのために来たんだから」
母は表情を変えない。
「あたしは鋸岳が見えるところにいたい。もう東京には帰りたくない」
なんてことを。
「ま、こっちのほうがのんびりできるって言うのならいいじゃないですか。東京からだ
って電車いっぽんでぴゅーっと来られますし。体調をこわしたという奥さんもいっしょ
に連れてらっしゃい」
須崎巡査までが母を応援する。どういうことだ。
「そんな、困ります」
このまま母を置いては帰れない。寝込んだ妻の享子もそれでは納得しないだろう。し
かし、なぜ母はここに残りたがるのだろうか。幸恵の親切がうれしいのか。それともほ
んとに鋸岳に郷愁をそそられているだけのことなのか。
眠くなったのだろうか。母が小さくあくびをした。口に持っていった手もとで袖がめ
くれ、細い腕が見えた。私の視線はその腕に吸い寄せられた。それからゆっくりと須崎
巡査を見て、廣野幸恵を見た。ふたりともこわばった顔でうなずき返してくる。脇を冷
たい汗が流れた。
彼らの「誤解」を悟ったからだ。
袖口に見えたのは赤黒い打撲痕だった。スキー場で保護された老女は体中に青あざが
あったと診断した医師は関係者に伝えたらしい。須崎巡査は「大きな怪我もなく」と私
に説明したが、本当はそれで私の反応を見ていたのだろう。玄関で挨拶してからのしば
らくの沈黙。その意味をようやく理解できた私だった。
彼らは、私たち息子夫婦がこの痴呆気味の老母を虐待していると思っているのだ。あ
われな母親はそんな生き地獄から逃げ出して、鋸岳楽園伝説を頼りにここまでやってき
たというわけだ。
彼らの誤解を訂正すべきだろうか。しかし、どうやって?
母の青あざは自傷の痕だった。母は自分を失うと壁を打ち、ドアを蹴り破ろうと暴れ
る。それを抑えようとして、妻の享子はそれ以上に青あざだらけだった。享子が今日、
こっちへこられないのは母の失踪で張りつめた気持ちが、発見の報でいっきょにゆる
み、立てなくなってしまったからだった。
「享子さんを責めないでね。あたしのわがままなのだから」
母が繰り返した。その声の強さに母の決意が滲んでいる。結局、須崎巡査がいう鋸岳
楽園伝説も、棄老伝説の変形にすぎない。そして母は自ら望んで鋸岳に来たのだ。ここ
は母の気持ちを大切にして、黙って帰ろう。たった一時間半の距離だ。享子といっしょ
にまた来ればいい。そう決めて私は母に頷いた。
「ありがと」
開いた障子窓から冷たい風がさあっと吹き込んできた。私は安らかになった母の顔か
ら目を離せずにいた。
(終わり)