#19/569 ●短編
★タイトル (paz ) 02/03/21 05:42 (100)
お題>お・ん・が・く …… パパ
★内容
私が妻を旅行に誘ったのは、何年ぶりのことだろうか。霞がかった記憶のベールの
中、思考の糸をのばしてもはっきりとは思い出せない。温泉が好きな妻を誘ってプラ
ンを練り、まだ食してもいない郷土料理に舌鼓を打ったのは、子供が生まれる前のこ
とだ。たぶん最後の旅行から十数年ぶりだろう。二十という数字には届かないはず。
もし人生をやり直せるなら、もっと旅行やキャンプに出かけて家族が触れあう機会
を作ってやるべきだったと思う。
もしやり直せるなら……この言葉を何度唱えたか分からない。
旅行の地に霞ヶ丘を選んだのには理由がある。この場所は私たちにとって失った想
い出を抱えている大地だったからだ。
上り傾斜になった国道から視界が開けると、湖が姿をあらわし、先に小高い丘が見
える。パーキングで車を止め、私たちは湿ったアスファルトに降り立つ。昔、訪れた
ときに開いていたドライブインは窓にベニアが打たれ、廃墟と化している。息子の悟
はここでソフトクリームを買い、はしゃいで落としてしまった。妻は顔を歪めたが怒
らなかった。売店の店員は笑いながら新しいソフトを継ぎ足してくれた。そのときの
笑顔はもう思い出せない。
年をとったと、私も思う。
駐車場と湖との境界線には木製の柵がこしらえてある。ペンキの剥げ落ちた柵に手
を置き、視線を遠方へと伸ばす。
丘の上には、ホテル『時雨』がある。
私は目を閉じて、過去に浸ろうとした。だが妻は袖を引き、私を促す。小さく頷き、
私たちは車に戻った。
国道から続くホテルへの砂利道は白樺林に囲まれていて、湿気の多いこの季節でも
爽快さを感じさせている。白樺の樹液に含まれた特殊な成分が関係しているらしいが、
ホテルで聞いた受け売りの言葉以上のことを、私は知らない。
笹の葉に滴がまとわりついている。小鳥が前方を横切る。田舎で見られるのどかな
風景も、ゆっくりと走る車の中からなら観察することが出来る。それも最初だけの特
権だった。道も半ばまで来ると急なカーブに急傾斜の上り勾配が続く。速度を出すこ
とは出来ないが、どちらにせよ急ぐ旅ではない。
森閑とした林が開けると裂け目からホテルが見えた。小川にかかったコンクリート
製の橋を越え、土のままの駐車スペースに車を止める。この場所は記憶されている映
像と同じだ。旅館といったほうが正しい、そう主張できるくらい萎びているのは、昔
も今も変わらない。
トランクから荷物を取り出していると、女将が挨拶にきた。記憶にある笑顔と同じ
かどうかは分からない。ただ白髪が増えているのが異なっている。
受付をすませ、荷物だけは部屋に運んでもらい、私たちは外へ散策に出ることにす
る。
夕食には時間が早いし、昼食はすませてある。女将は空を一瞥してから、私にコウモ
リ傘をもたせてくれた。
妻と肩を並べて橋を渡る。橋の途中で足を止め、落ちていた小石を拾いあげる。足
下の川に放り投げると、小さな水しぶきが上がる。
息子は石遊びが好きだった。妻は危ないから止めなさい、とよく怒ったものだ。や
んちゃな息子はふてくされてそっぽを向く。そうやってすねた顔も写真の中にしか存
在していない。記憶では曖昧にしか映し出すことができなくなっている。時間がたち
すぎたのだ。
それでも、あのときの事だけは忘れることが出来ない。
風船ガムを買おうとした息子は、横断歩道を渡るとき暴走した車にはね飛ばされた。
交通事故、といいきった警察には不信感を持ったままだ。交通殺人だと私は主張する。
もう一度、石を投げ落とす。水しぶきが上がり、空からの滴が頬を打った。
雨か。
妻が同意して頷く。妻に肩をよせ、コウモリ傘を開く。ホテルに戻ろうかと踵を返
したが、妻は前方に歩こうとする。私は諦めてさらに先に進むことにした。
雨足は早くなる。傘に大粒の雨が当たり、足下がぬかるんでいく。大きな水たまり
ができているが、妻は足を止めない。仕方なく、私は革靴のまま水たまりに足を入れ
た。泥水が跳ね上がる。妻は気にするふうもなく、さらに歩を進める。
妻の口元が動いてる。微かに歌声が流れる。聞いたことのある歌なのに、題名が思
い出せない。
子供を亡くしてから、妻の顔に表情はなかった。涙が枯れたとき、それは失われた
のだ。でもいまは能面の顔に朱がさしたように見える。
妻の身体は傘を抜け、雨に洗い流されていく。傘を閉じて、私も妻に会わせて口ず
さむ。
―ぴちぴちちゃぷちゃっぷらんらんらん―
息子が好きだった歌だ。
雨が好きだった。
水たまりが好きだった。
長靴で泥遊びをするのが好きだった。
そして私たちもそんな息子が大好きだったのだ。
水たまりを踏む妻の足が止まった。
振り返った妻は微笑んでいる。
妻は一度顔を伏せてから、私の顔を見つめた。私は笑顔を浮かべたが、きっと哀し
みは隠せなかったと思う。
雨がやみ、雲間から木漏れ日が差す。
キラキラと輝く陽炎の中に息子の悟るがいる。お気に入りの黄色い傘に、秘密戦隊
の長靴をはき、得意げにジャンプしている。泥が跳ねると、口を開いて笑う。
突然、真顔になると、手招きをした。妻はそっと近づいていく。
私も駆け寄ろうとした。だが足が動かない。見えない壁に阻まれたように身動きが
とれない。妻と息子はなかよく手を握り、私にむかって小さく手を振った。
そのまま振り返ることなく、姿だけが溶けていく。
気がつくと雨は一段と激しさを増していた。
息子が亡くなった後、妻は後追いをした。悔やんでも悔やみきれなかったのは私も
同じだ。それでも死ぬ勇気は持てなかった。彷徨うことしかできない妻の魂も、やっ
と解放された。自分で自分を許す事が出来たのだと、私は思う。結局、時間だけが全
てを薄れさせていく魔法の杖なのだろう。
名前が刻まれているが、息子の魂が存在していない墓。それを知っていながら離れ
なかった妻には、癒されるべき時間が必要だったのだ。
たとえ幽霊でも、妻がいることを心の中で喜んでいた。
たとえ幽霊でも一目息子の姿を見ることができて幸せだった。
いつか私がダビに伏したとき、もう一度、家族としてやり直すことができるかもし
れない。
私は息子の好きだった歌を友にして、ホテルへ戻ることにした。
雨はいつまでたってもやむことを知らないようだ。夕食を終え、露天風呂につかり
ながらでも雨は降り続ける。だが私にはそれが祝福のように思え、側に家族がいるよ
うな安心感を覚えていた。そしてあの歌を口ずさんでいる。
―ぴちぴちちゃぷちゃっぷらんらんらん―
『終わり』