AWC 頬   已岬佳泰


        
#2/569 ●短編
★タイトル (PRN     )  01/11/25  20:53  (144)
頬   已岬佳泰
★内容
■頬   已岬佳泰

 目の前に一枚の稚拙な絵がある。A4のレポート用紙に濃い鉛筆で描かれた女の絵
で、殺人未遂容疑で現行犯逮捕された男(住所氏名年齢など不詳)が、刑事に促されて
取調中に描いたものだ。
 女を右斜め後ろから見た構図で、描かれているのは頭から首にかけての部分だ。正面
にやや大振りな耳、無造作に伸びた髪の毛がその耳の後ろで捻れ、そこから肩に真っ直
ぐに落ちている。女は顔を背けており、その表情は分からない。たた、目から顎にかけ
て、肉の落ちた頬のラインが曲率の大きい緩やかな円弧となっている。その部分だけが
やけに筆圧が強いのが気になった。
「絵を描くのが好きなのか」
「へえ、好きというわけではないだけど、なんとはなしに」
 男に、悪びれた様子はなかった。

 今朝の8時過ぎ、その男は東*林間駅にふらっと下りた。茶色のチノパンにギンガム
チェックのシャツ、その上にフェイクレザーのハーフコートを着た男は、しかし、その
時は手ぶらだったらしい。男は朝食代わりに駅前のコンビニで菓子パンをふたつと紙パ
ック入り牛乳を買い、そこから約200メートル離れた柿木坂公園でそれを食べた。
「朝、早かったんで、公園には誰もおらんかった」
 しかし男はすでにその時点で不審者として目撃されていた。
 犬の散歩で通りかかった近所の主婦、佐伯香奈恵(45歳)が、柿木坂公園に見慣れ
ない男がいたことを、交番に届けている。東京から急行電車で1時間かかり、駅から数
分歩くとすぐにじゃがいも畑になってしまうという林間地区であった。駅前こそ、都心
に通うサラリーマン所帯のためのマンションやコンビニ、書店などがあり、それなりに
賑わってはいるが、一歩その区域外にでると人気の少ない田園地帯で、古くからの農家
が点在している。そんな中に出現した見知らぬ不審者は目立ってしまうのだ。
 朝食を終えた男はそこから奇妙な行動をとる。

 駅前のコンビニに戻った男は、刺身を作りたいからと包丁を売ってくれと店員に言
う。店員にも不審な男という印象を与えただけで、男は望んだ包丁を手に入れられない
ままにあっさりとコンビニを去る。
 次に、男は駅から徒歩で20分はかかるドリーム幼稚園に現れる。幼稚園は門を閉ざ
していたが、男は金網越しに園内広場で遊ぶ園児と保母たちを2時間ばかり眺めてい
た。気味が悪くなった保母のひとり勝村ユキ子(26歳)が、男に何か用かと尋ねてい
る。男はこう答えたらしい。
「エミコが、オレに隠れて、どんな働きぶりかを見てみたかったんで」
 ドリーム幼稚園にエミコという名前の保母はいない。それは警察でも確認している。
しかし、取り調べで刑事にこの点を問われても、男は「エミコを見ていた」としか答え
なかった。

 昼近くになって、男はようやくドリーム幼稚園から姿を消す。保母たちは一様にほっ
としたと言っている。男は保母たちにかなりの警戒感を植え付けたと思われる。この幼
稚園では、園児たちをバスで送り迎えしていた。送り届けも通常は所定の場所で園児を
下ろしてゆくだけなのだが、その日は念のために母親が引き取るところまで確認してか
ら、バスを出発させた。

 ドリーム幼稚園と駅を結ぶ旧道沿いに、古くからの店が数軒並んでいるが、男に包丁
を売ったのは、そこの1軒である伊勢崎商店であった。応対した店主の伊勢崎孝吉(6
1歳)によると、「刺身用の包丁がほしい」と、駅前のコンビニと同じようなリクエス
トだったらしい。伊勢崎が何種類かの包丁を見せると、ちょっとだけ思案したあとで、
中ではもっとも小振りな包丁を男は買い求めた。代金2780円を支払うと、箱はいら
ないと言い、包丁を紙袋に入れている。箱がいらないという客は伊勢崎にとっては別に
珍しくなかったが、紙袋に直接入れて手に提げたときは、ちょっと変だなと思ったとい
う。
「男が紙袋の上から包丁の柄を掴んで、包丁を後ろ手にするような格好で、イッチニイ
ッチニと出ていったんですよ。あやや、あれじゃ危ないなーって、そこが気になりまし
た」
 伊勢崎は男の真似をしてくれたが、まるで兵隊のように手を振る度に包丁が後ろに突
き出された。確かに「危なくてしょうがない」。

 林間駅は都心へ通うサラリーマンのベッドタウンだが、ひとつだけ大きな会社が事業
所を構えている。株式会社センチネルという東証2部上場の会社で、コンピューター用
ソフトウェアの開発で近年業績を伸ばしているらしい。本社は東京八重洲にあるが、エ
ンジニアの大半は閑静な林間地区にある開発センターに勤務させていた。
 今回の被害者、篠村理枝(26歳)は、この開発センターでプログラマーとして働い
ている。ただし彼女はプロジェクトごとの請負契約社員であり、勤務時間も完全フレッ
クスで、この日は前の日からほぼ徹夜でテストしていたプログラムの目処が付いたの
で、午後3時には開発センターを出て、林間駅に向かっていた。
 同僚2名も一緒にセンターを出たのだが、タクシーを使った彼女たちに対して「今日
は歩いてみるわ」と篠村理枝は辞退したという。開発センターから林間駅までは徒歩で
20分くらい。通常はタクシーか1時間1本のシャトルバスを使うことが多かった。し
かし、気分転換に徒歩で通う者も少なくはない。たまたま、午後3時という中途半端な
時間がまずかったということか。

 開発センターから駅へは、ジャガイモ畑を両側に見ながらの一本道である。昼日中に
歩くには別に危険を感じるような道ではない。途中に植えられた防風林代わりの松や杉
の林を除けば、見通しも悪くない。だから、篠村理枝がまったく警戒心を持たなかった
としても、それは篠村の落ち度とは言えないだろう。ただ、男が刺身包丁を持って、杉
の木陰で息を潜めてさえいなければ。

 杉の木に寄りかかっていた男は、気づかずに通り過ぎた篠村理枝を背後から襲った。
杉の木陰から飛び出すと、気配に気づいた篠村が振り向くより先に、首に腕を回して締
め上げた。パニックに陥った篠村が暴れると、刺身包丁を顔に押し当てた。「エミコ、
おまえどうしてオレから逃げるんだねん」男はそう言ったらしい。篠村は「やめて、や
めて」と絶叫した。その声の大きさが男を逆上させた。「あとは何がなんだかわからん
ようになって」と、男はその時の心境を刑事に説明している。
 男は後ろから首回した腕に力を込めて篠村を昏倒させると、その頬を刺身包丁で切り
取った。

「エミコの頬がいけないんや。あれがなければ他の男を誘惑できんから、そしたら、オ
レから離れないから」
 なぜ頬を切り取ったのかと問われて、男はそう言った。理解に苦しむ言葉である。駅
前で逮捕されたとき、男は切り取った頬肉を紙袋に入れて持ち歩いていた。血の付いた
包丁の方は、じゃがいも畑に遺棄されていた。発見されたとき、出血多量で意識の無か
った篠村理枝は、幸い、一命を取り留めた。今、都内の病院で頬の形成手術を受けてい
る。

 犯行現場を逃走した男は、午後5時には身柄を警察に拘束された。林間駅前に戻って
きたところで、警戒していた駅前交番の巡査から職務質問を受け、あっさりと犯行を自
供している。「エミコが畑に倒れているから、救急車を頼みます」と言ったらしい。不
審に思った巡査が、男が手にした紙袋を開けさせようとしたが、これには男は相当抵抗
したという。
 それにしても、この男の言うエミコなる女(たぶん、女だろう)はいったい何者なの
か、それに何処にいるのか。それが大きな疑問だった。男は県警の取調室に座っても、
自分が持っていた(紙袋に入った)頬はエミコのものだと主張して譲らなかった。

 目の前の絵。
 エミコという女の素性を問う刑事に「絵なら」と男が描いたものである。嬉々として
男は描いたが、紙の上のエミコは、どうにも特徴のない女だった。なにしろ顔を斜め後
ろから見ているのだから、肝心の目や口元など、人相を特定するものが描かれていな
い。頬の線だけがやけに強調されているだけだ。正面から描けと言われても、男は「こ
れがエミコだなんや」と引かなかった。
「お前が襲った女性は、エミコという名前ではない。そんな簡単なことに気づかなかっ
たのか」
「なーんも。あれはエミコでしたってば」
 男の奇妙に安定した表情に変化はなかった。しかし、その顔がひどく歪んだのは、被
害者の篠村理枝の顔写真が取調室に届いた時だった。
「嘘じゃ。エミコはこんなんでねぇ。嘘じゃ」
 男の絶叫の余韻が今でも耳に残っている。苦い唾と一緒に。

 男の取り調べはそこで中断された。身元や名前すら聞き出せない状態での、まったく
の失態であった。急に便所へ行くと言いだした男は、そのまま、こともあろうか、県警
本部から遁走したのである。それまで従順な態度であったため、付き添った警官が虚を
つかれたらしいが、そんなことは言い訳にはならないだろう。県警では1000人規模
の緊急配備をして、男の行方を追っている。林間駅では職質であっさりと捕まったよう
な男だから、案外簡単に捕まるだろうという期待はあった。しかし、気になることがひ
とつある。
 目の前の絵。男がエミコだと言って描いた絵だが、どうもその構図が気になるのだ。

 取調室で男が座っていた椅子に腰を下ろしてみると、そのことがよく分かる。男が顔
を上げると取調室のガラス窓が見える。そこには取調中、男の背後で記録を取っている
若い警官の姿がうっすらと写っていたはずなのだ。若い警官は野北玖美子(24歳)と
いった。刑事課の新人刑事である。男は野北刑事の後ろ姿を描いてみせた、とも思える
のだ。つまり、ここですでに警察は男におちょくられていたのではないか。

「課長、ガイシャがもうひとり出ました」
 若い刑事が開いた取調室のドアに立っていた。
「野北じゃないだろうな」
 刑事の眉がつり上がった。
「どうして、課長がそれを。やっぱり、頬をざっくりと切り取られています」

 長い夜になりそうだった。 

(終わり)





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