#407/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 12/05/27 23:55 (462)
飛井田警部の事件簿:コンプレックスな殺人(上) 永山
★内容 18/07/06 02:42 修正 第3版
外灯の下を男が通った瞬間、芦沢晋也(あしざわしんや)はそいつがターゲ
ットであることを確認した。夏の夜はゴミ出しのついでにぶらっと散歩するこ
とが常である、という事前情報に間違いはなかった。
(どういうネタで強請っているのか知らないが)
身を隠していた角から出ると、芦沢は息を殺し、自らの影や足音に注意を払
いながらあとを付ける。手には昔、防犯グッズショップで買った警棒。周囲に
は寂れた公園がある程度で、住宅もまばらだ。もう数十メートルも進めば、人
家が全くなくなるゾーンに入る。やるならそのときだ。
芦沢はほんの少し、身震いをした。今さら怖じ気づいたのではない。変に力
が入ってしまっただけだ。首を回し、リラックスを心掛ける。そして集中力を
再度高める。
(代わりにあの野郎を殺してもらうためには、全く知らない人間を殺すのなん
て、容易いことだ)
芦沢は距離を詰めた。手の汗を左右交互に拭ってから、改めて警棒を握り直
す。――今なら届く。絶好の距離とタイミングで、芦沢は凶器を振り上げた。
(喰らえ!)
芦沢は死体を見下ろしながら、どうしてこんなことになったのかを思い起こ
していた。
そう、あれは――いくつかの偶然の重なりがきっかけだった。最終に近い電
車に揺られ、誰も待っていない自宅マンションへと気持ちだけ急いでいた。さ
すがに乗客は少なく、芦沢の座っていた車両にも、他に三、四人程度しかいな
かった。それぞれ間隔をたっぷり取って座っているため、お互いの顔すらよく
見えない。全員が会社員風なのは衆目の一致するところだろう。
芦沢の気が急いていたのは、自宅で一人、計画をじっくり検討し、まとめ上
げたいと思っていたから。工藤小太郎をもうそろそろ始末しないと、我が身の
破滅だ。
大学四年の冬、車同士のちょっとした衝突事故を起こした芦沢は、相手側が
一時意識を失っていた間、同乗者で車の持ち主でもある工藤の申出を受け、身
代わりになってもらった。大手の保険会社に就職が決まっていた芦沢に対し、
工藤は家業の手伝いに収まることになっていた。俺の方はどうとでもなる、お
まえの将来の方が大事だ、借りは出世払いしてくれりゃいいなどと言われ、そ
の気になってしまったのだ。事故そのものは、相手運転手も飲酒していたとい
う負い目があると分かり、示談で済ませた。
事故から二年余が過ぎた頃、工藤から金銭援助の要求があった。言葉にこそ
しなかったが、身代わりの件を盾とするつもりなのは間違いなかった。それで
も少額だからと払ってきたが、際限なく続きそうな不安は感じていた。そして
ふた月前、工藤が金額の大幅な上乗せを求めてきたときに、決意は急速に固ま
った。縁を切るには、奴を亡き者にするほかない。
芦沢は手にした新書を開いた。書店で付けてもらったカバーのおかげで、ど
んな本なのか傍目には分からないだろう。鑑識を始めとする警察の捜査を解説
した書籍である。これを参考に完全犯罪を目論む。芦沢はメモを取りながら、
読み進めていた。
そのとき、珍しくも急ブレーキが掛かり、車両がほんの少し前傾したような
気がした。程なくして電車が停止し、しばしの間を置いてから車内アナウンス
が踏切事故の発生を告げる。この電車そのものが事故に関わった訳ではないよ
うだが、しばらく動けまい。
芦沢が深く嘆息し、時間を無駄にせぬため、ペンを取り出し、本を読み進め
ようとした。
が、開いたページに視線を落とすも、しおりを兼ねたメモ用紙が見当たらな
い。若干、焦りを覚える。あのメモには、使えそうな事柄以外に、標的とする
人物名を記しており、ご丁寧にも丸で囲って「絶対にやる!」と走り書きを添
えてあるのだ。
狼狽を浮かべた表情を自覚しつつ、早くメモを見つけようと足下の床に目を
移す。そこには、茶色をした革靴の先が見えた。
「落とされましたよ」
芦沢よりもずっと年上、五十前後と思しき男性が、眼鏡越しに目で微笑みか
ける。メモ用紙を拾い上げた手を突き出された芦沢は、一瞬遅れて立ち上がっ
た。
「あ、ありがとうございます」
「もしよろしければ、お手伝いをしたいのですが、いかがですかな」
紙を簡単には手放さず、男性は小声で言った。芦沢はメモ書きを読まれたの
だとコンマ数秒で悟った。この紙に書いてあることは冗談だ、あるいは、小説
の粗筋だとでも言えばごまかせるかもしれない。
そう考えた芦沢の心を読むかのように、男性は眼鏡の位置を右手中指で直し
ながら、「これに書かれた内容が冗談だろうが作り事だろうが、関係ない。実
現するために、私が力を貸しましょう」と囁いてきた。
「どういう……意味だ?」
やや語気を強め、しかし低い声で尋ねる。男性の返事は明快だった。
「交換するんです。動機を」
動機を交換――それはつまり、交換殺人?
察した芦沢だったが、すぐには口がきけなかった。相手が本気なのか否か、
皆目見当が付かなかったからだ。それに、乗客の少ない電車内とはいえ、人目
が気になる。
すると、相手の男はまたもや先読みをした。
「電車が動き出したあと、あなたに時間があるようでしたら、次で降りられま
せんか? どこかに腰を落ち着けて、じっくり話したい。防犯カメラのないと
ころでね」
「……あなたが警察関係者でなければ」
芦沢が言うと、男性は懐から名刺入れを取り出し、一枚を見せてくれた。
「このあと交換が現実のものとなったときのことを考え、名刺はお渡しできま
せんが」
殺人志願の中年男性は、阪東朝彦(ばんどうともひこ)という名で、大手薬
品メーカー部長との肩書きを持っていた。
そこからあとは、とんとん拍子に計画がまとまった。顔を合わせる機会は少
ない程よいだろうということで、三度の相談で全てを決めた。互いのターゲッ
トに関する情報を教え合い、それぞれがアリバイを確保できる候補日を挙げた
あと、どちらが先に決行するかを話し合う。結果、まずは芦沢がやることにな
った。
守るべき約束事も定めた。たとえば――万が一失敗し、警察に捕まったとし
ても交換殺人について口を割らぬ。事前に障害が発生して当日決行不可能にな
ったた場合はインターネット大手掲示板に立つ特定スレッドへ、合言葉を書き
込み、その直後に「誤瀑」と書き込む。ともに殺人を完遂し目的を達したあと
は決して連絡を取り合わない等々。
「期日を守ることに関して流動的な要素があるのは仕方がないとして、いざ決
行となると怖じ気づいてなかなか行動に移せないことはないかな。特に、あと
でやる方は。その、ターゲットがいなくなって、憂いは取り除かれた訳だし」
「あなたの懸念は尤もだ」
二度目に会ったとき、芦沢が肝心要の点を口にすると、共犯者(になる予定)
の阪東は嫌な顔をすることなく、何度か頷いた。
「ではこうしましょう。あなたの用意した凶器に、私の指紋なり何なりを付け
るのです。事後、凶器は、私が工藤氏をやるまであなたが保管する。会う回数
が増えるが、それだけのメリットはあるでしょう」
「いい考えだと思う。ただ、それだとこちらが有利すぎないかな。こっちも同
じように指紋を付けた凶器を、そちらに渡すのがフェアだろう」
「いいようにしてください。私は怖じ気づいたり、ずるをして逃げたりしませ
んよ」
阪東は落ち着いた様子で笑みを浮かべた。揺るぎない自信に溢れている。仕
事の上でこんな顔をしてもらえたら、部下はさぞかし頼もしく思えるだろう。
――芦沢の無意識の内から来た回想は、不意に聞こえた物音で途切れた。同
時に手も止まる。今し方殺したばかりの相手の衣服や皮膚に、芦沢自身の痕跡
が残っていないか、チェックはまだ終わっていないが、とりあえずその場を離
れ、公園内の物陰に身を隠す。
およそ一分間、息を詰めて気配を窺ったが、誰も何も通り掛かりはしなかっ
た。さっきの音は気のせい、もしくは野良猫の類がどこかの植え込みをくぐっ
ただけなのかもしれない。
芦沢はそれでも用心して左右を確認し、死体そばに戻る。最終チェックを済
ませて素早く立ち去る。一度だけ振り返り、自身の憂いを早く取り除きたいも
のだと強く思った。
週末の終業時刻を迎え、工藤小太郎は印刷所を早々に出ると、コンビニエン
スストアに向かった。いつものように煙草とガムを購入し、そのまま駅に徒歩
で向かう。事故を起こした(ことになっている)彼は、今でも車を持たせても
らえない。仕事でハンドルを握ることはあるが、まずたいていはお目付役が助
手席にいる。
当人はそれを不満に感じてはいなかった。車がなければ不便なほど田舎では
ないし、おかげで貯金も増えた。一時、ギャンブルにのめり込んだが、大きな
ぽかをやり、穴埋めに四苦八苦したのを教訓にほぼ止めた。今では麻雀をたま
にやるぐらいである。芦沢に対して援助額のアップを言ったのは、その穴埋め
のためだった。そして一回限りのつもりだったのに、相手がずっと増額したま
ま出してくれるものだから、黙って受け取っている。
月に一度の割合で、駅で落ち合い、金を直接受け取る習慣になっていた。今
月分を受け取るまでには、まだ約二週間ある。だから、今夜の“軍資金”は少
し寂しい。
バスに揺られること十五分、定時より若干遅れて駅前のロータリーに工藤は
降り立った。何気なく見上げた駅の時計で、到着がいつもに比べて早かったこ
とを認識する。車の流れがスムーズだと感じてはいたが、五分以上早いとは。
誰と待ち合わせしている訳でもないが、すぐには動き出す気になれなかった。
煙草を吸って、時間を調整する。喫煙所を出ると、馴染みの麻雀店に向かって、
ぶらぶらと歩き始めた。
雑居ビルの三階にある店へは、建物内にある細くて急な階段を使うしかない。
老齢の麻雀打ちが最近姿を見せなくなったのは、エレベーターがないせいだと
いうのがもっぱらの噂だ。
(俺もいつか、階段が辛くなる日が来るんだろうな。そうなるまでには、ギャ
ンブルからすっぱり足を洗いたいもんだ)
薄暗い明かりの下、どうでもいい未来をふと想像した工藤。
その想像が脳裏から消えるか消えないかの刹那、背中に鈍い痛みを覚えた。
痛みの源に手を宛がおうと、身体をねじる。だが、届かない。それよりも一
気に痛みが増して、身体から力が抜けそうになる。階段を踏み外さぬよう踏ん
張り、わざと前のめりに倒れた。
「いてぇ」
声を出すと同時に、第二の痛撃があった。今度も背中だ。何かを差し込まれ
る嫌な感覚。間髪入れず、同じような激痛が走る。
工藤は振り返ろうとしたが、そこへ第三の攻撃を喰らった。目から火花が飛
び散ったような錯覚に襲われる。そしてまたも痛み。頭が割れる、いや、割ら
れたのかもしれない。
右手の指を額に持って行き、ぬめっとした感触を確かめた。流血したんだと
意識する間もなく、続けざまに頭部を何かで殴打された。遠のく意識の中、そ
れでも工藤は相手の顔を見ようと、腕で防御をはかりながら懸命に振り返ろう
とする。助けを呼ぶという発想がなかったのは、死ぬほどではないと感じたせ
いかもしれない。だが、現実には出血の多さと頭部への衝撃とで、立ち上がる
こともままならない。攻撃してくる相手の腕を掴もうとしたが、うまく行かな
かった。顔はよく見えない。革手袋をしているのがどうにか分かった。
次の瞬間、視界が歪んだ。一気に危険の度合いが上がったと察した工藤だっ
たが、叫び声を上げるには遅かった。全身から力が抜けていき、身体が階段を
滑り落ち始めた。ここで初めて、襲撃者が慌てたように飛び退いた。
工藤はステップに血の跡を残しながらずり落ち、狭い踊り場に身体を折り曲
げるようにして横たわった。虫の息の彼に襲撃者は近付くと、枕元にしゃがみ
込んだ。懐からワイヤー状の物を取り出し、工藤の首に回す。そして力を込め
て締め上げた。
絶命を確認すると、黒革手袋の襲撃者は足音を殺して階段を駆け下りた。外
に出ると、駅とは反対方向に、やや足早に歩き出した。
* *
警部の飛井田は、朝から欠伸を連発した。事件続きで、ここのところろくに
眠れていない。複数の捜査班で対応しきれないほど殺しが増加・頻発している
と思うと、憂鬱な心持ちにさせられる。そんな感情を面に出しはしない飛井田
であるが、妻にだけは見抜かれることが多い。そしてそれを理由に、刑事なん
て危ない仕事は辞めるか、せめて内勤に配置換えを希望できないのという話に
なる。注意しなければいけない。
「今分かってることを教えて」
現場に到着した飛井田は、二度ほど一緒にやったことのある若い捜査員を掴
まえ、名前を呼ぼうとしたが、ど忘れしていた。しょうがないので用件だけ伝
えた。
「これは警部、お疲れのところを。ああ、前の事件は鮮やかでしたね。アリバ
イ写真に映った木漏れ日が、日食のそれではないと看破されて」
「過去を振り返るのもいいが、今の事件を早く」
「被害者の名前は工藤小太郎、二十八歳。**にある親の自宅を兼ねた印刷所
勤め。土曜の夜は、この辺を遊び歩くのが常となっていたとか」
「この辺て、このビルは……金貸しにスナックに雀荘か」
「雀荘によく顔を出していたそうです。尤も、今晩はまだ現れていなかったと
いいますから、恐らく、来る途中、階段で襲われてこうなったかと。――あ、
すみません。今のは推測です」
「かまやしない。他には?」
「えー、まだ始めたばかりですが、目撃者はなし。防犯カメラの類もなし。物
音などを聞きつけた者すらなしと」
「階段を転げ落ちたように見えるけど、物音を聞いた者がいなかったのかねえ」
狭い階段を見上げる飛井田。
「はあ。古めかしい建物ですが、案外、防音はしっかりしているようで。それ
に麻雀なんかやってたら、外が多少うるさくても気にしないもんでしょう」
「ふうん。それから?」
「えっと、財布や腕時計など、貴重品類は手付かず。凶器は未発見ですが、刃
物状の何かと紐状の何か、二種類を用いていることからしても、殺害自体が目
的だった、つまり怨恨の線が強いかと、個人的に推測します」
「自分も同意見だ。被害者はここまで、車か何かで来たのかな? それとも電
車かバスで駅まで来て、あとは徒歩か」
「バスで駅に到着後、気分次第で行き先を決めてたようです。今日も同じ流れ
だったかと」
「駅やその周辺には防犯カメラが設置されてるだろうから、被害者の行動はあ
る程度把握できそうだな。不審者が映ってるかもしれんし。すぐに押さえとい
てくれ」
「了解です」
「ああ、遺体そのものの情報は、何も聞いてないんだな?」
今にも走り出しそうな岡林――やっと思い出した――刑事の背中に、念のた
め聞いた。「はい。飛井田警部ご自身でお願いします」と返事があった。
飛井田は次に、馴染みで古株の鑑識課員に声を掛けた。
「なーんもない」
遺体の近くにしゃがんで下を向いたまま、相手は応じた。首を横に振った彼
を見下ろしながら、飛井田が促す。
「何もってことはなかろう」
「足跡がいくつかあるが、発見者他多人数の分が乱れていて、判別が困難だ。
仏の身体の上に何本か髪の毛が見つかったんだが、これも通報者が最初に見つ
けて覗き込んだときに、落とした可能性が高いようだ」
「そういえば、第一発見者ってのはどんな人だい? 会えてないんだが」
「俺も会っちゃねえが、茶髪の女だと聞いた。知り合いの男に連れられて、初
めてここに来たそうだ。はしゃいで階段を駆け上がろうとした途端、死体と出
くわして腰を抜かし、足を挫いたとか言ってるのを耳に挟んだ。で、今、病院」
なるほど。発見者がこの場にいない理由が分かった。
「犯人につながる手掛かりかどうか別にして、気になることはない?」
「見つけてたら言うよ。被害者はよほどの不意を突かれたらしいな。まともに
抵抗できていない。防御で精一杯、それも効果はなかったとしか言えん」
「犯人との体格差が大きかったということかな?」
「かもしれんし、違うかもしれん。こんだけ狭い場所なら、不意を突かれりゃ、
まともに反撃できない内に終わってしまう可能性、大いにありと思うね、俺は。
さあ、何もないってのが分かったろ。今はあきらめて、ちゃんとした報告を待
っといてくれよ」
「分かった。だが、何もないってのは嘘だな」
飛井田が意味ありげに言い、笑みを作っていると、鑑識員は怪訝そうな半眼
で振り返った。
「はあ? 何か掴めたというのか?」
「ああ。確実に言えるのは、犯人は超肥満体型ではないってことさ。狭い階段
をスムーズに動けないからな」
「――確かに」
呆れたとばかりに嘆息する鑑識員だったが、その口元には笑みが浮かんでい
た。
工藤小太郎の死亡推定時刻は、土曜の午後六時前後と見立てられた。死因は
窒息死だが、絶命前に負った刃物傷も相当深く、仮に首を絞められなくとも、
助けが来なければそのまま失血死を迎えていただろうと推測された。
駅及びその周辺に備え付けてある防犯カメラの映像について、この午後六時
前後を中心に、チェックが行われた。結果、被害者はバスを降り、真っ直ぐに
雀荘へ向かったと思われた。そして被害者を付ける怪しい人物は……見当たら
なかった。少なくとも、防犯カメラの映像には、不審者の姿はなかった。
動機面を当たることになった飛井田警部は、すぐさま一人の男に着目する。
芦沢晋也だ。被害者と同じ大学の同じサークルに属し、それなりに親交があっ
た等の関係が判明するのは、後のこと。最初に芦沢の名を知ったきっかけは、
工藤が残した備忘録めいたノートの一文だった。そこには、工藤が芦沢の起こ
した交通事故の身代わりをし、それと引き替えに金を定期的に受け取っている
旨が書いてあった。
「――とまあ、かようないきさつで芦沢さん、あなたを訪ねたんです。ロビー、
出ましょうか」
「え、ええ」
勤め先の自社ビル、一階ロビーで刑事の来訪に応じた芦沢だったが、飛井田
が話す内にそわそわと落ち着きがなくなった。飛井田が場所の移動を提案する
と、すぐに飛びつき、近くのホテルのレストランに向かった。
「もうすぐ昼休みで、他の社員が利用するのでは?」
「いえ、ここは高いから、多分、誰も来ないでしょう。それよりも刑事さんは、
私を交通事故のことで捕らえに来たのですか?」
「あなたが望むなら、そうしてもよいですが、幸か不幸か、工藤さんのノート
には何年前の事故なのかは記されてなかった。本腰を入れて調べればすぐに特
定できるとは思いますが、今、我々が抱えているのは殺しでして、優先順位は
自ずと決まってくるというものでしょう」
「私をお疑いですか? 工藤に金を渡してきたことは認めますが、曲がりなり
にも感謝の念からです。あいつを殺す気なんて、これっぽっちも持ってません
よ」
「どのぐらいの額をお渡しになったのか、聞いてみませんとね」
「月数万。微々たる額で現在の安寧が保てるのだから、高いとは思っていなか
った」
「金額の明細というか記録、付けてないですかね」
「そんなこと、するはずがないでしょう。工藤だってしていなかったはずだ。
金の受け渡し行為そのものをノートに書いていたとは予想外でしたけど」
芦沢の返答に飛井田は頭を掻き、質問を変えた。
「アリバイを聞かせてください。犯行時刻、芦沢さんはどこにいたのか、それ
がはっきりすれば疑いは即晴れますよ」
飛井田は質問を投げたあと、すーっと黙ってみせた。しばらく経ってから、
芦沢が「……いつですか、工藤が死んだのは」と尋ね返してきた。芦沢が犯人
だとしても、さすがにこんな古典的な罠には掛からないようだ。
「先週土曜の午後六時前後とでています」
「先週土曜の夜六時頃なら……会社は休みだから、どこかに……ああ」
急に表情を明るくした芦沢。ジャケットのポケットを左右とも探り始めたか
と思うと、左ポケットからマッチ箱を取り出した。赤と白の縞模様に、青い片
仮名何文字かが横方向に踊っている。
「“アンデス”という名のバーですか。当日の六時前後、この店にいたという
証拠はありますか?」
「夕方の五時過ぎから入り、八時頃までいた。飯も頼んだし、店の人が覚えて
いると思う。バーテンダーが一人いたきりで、他に客はいなかったと記憶して
いる」
「馴染みの店ですか」
「いや、初めて入った。外からは古びた感じだったが、中は結構明るくて、居
心地はよかった。あ、思い出した。電球を取り替えてやったよ。店を入って右
手奥のやつ」
「ほう」
「バーテンダーが腰を悪くしているとかで、頼まれましてね。代わりに、何だ
ったか、つまみを一種類サービスしてくれた」
「腰を悪くしたのなら、店を休めばいいのに、仕事熱心ですなあ」
嫌味を効かせて飛井田が言うと、芦沢はややむっとした顔付きになり、「疑
うんなら、直接行って調べてみればいい」と吐き捨てるように言った。飛井田
は鷹揚にうなずいた。
「無論、そのつもりです。あっと、マッチ箱もお借りしてよろしいでしょうか
ね」
「どうぞっ。差し上げますよ」
追い払いたい一心の表れか、芦沢は甲を上にして手のひらを前後に振った。
スナックバー“アンデス”のオーナー兼バーテンダーは、保田大聖(やすだ
たいせい)といった。四十九歳になるらしいが、身体は痩身ながら筋肉質で、
継続的に鍛えているようだ。若い頃はかなりもてたであろう顔立ちに、いらっ
しゃいと出迎えた声も渋い。店構えにしても、趣味のよい内装をしている。駅
からやや離れているものの静かに過ごせると考えれば、もっと流行っていてよ
さそうな店だ。
「確かにこのお客さんでしたよ」
「間違いない?」
芦沢のアリバイ確認のため、その写真を見せた飛井田は、念押しした。
「ええ。初めての方ですが、料理を多めに摂られたことと、電球を取り替えて
くださったこととで、よく覚えています」
如才ない受け答えというのだろうか、保田は滑らかな口調で言うと、左手で
一つのライトを示した。芦沢の言っていた、入って右奥にある電球だ。
「あそこの電球です」
飛井田は無言で首肯し、同行の鑑識員に指紋の採取を頼んだ。
「結構高い位置にありますね。当日、芦沢さんは踏み台か何かを使ったんでし
ょうか」
「確か……そちらの席の椅子のどれかをお使いに。もちろん、靴を脱いで」
バーテンダーが指差した先には、複数のテーブルとそれぞれ二脚ないし四脚
の椅子が並んでいた。
「どの椅子だったか、分かりますか」
「いえ、さすがにそこまでは。それに刑事さん、指紋をお調べになるつもりで
したら、無意味だと思います。椅子やテーブルは営業時間終了後、きれいに拭
くことにしていますから」
「でしょうな。電球は拭いてないでしょうね?」
急に不安に駆られ、飛井田は聞いた。つい、天井を指差す。
「はい。電球を拭くのは、二週に一度程度の割合でしょうか。ライトの傘は、
最低でも週に二度は拭いていますが」
「ああ、そうでしたか……」
あからさまに残念がる飛井田。電球に被せてある傘にも、芦沢の指紋が付い
ていることを期待していたのだ。
「当然、グラスや箸なんかも洗うなり、処分されるなりしたんでしょうな」
「そうなります」
「ボトルを入れる、なんてこともしてないと」
「次の機会にとおっしゃっていました」
保田は答えてから、「差し支えなければ、あの男性がどんなことで疑われて
いるのか、教えてもらえませんか」と聞いてきた。今日、警察が訪れることは
事前に連絡を受け、店を開けて待っていたが、その詳細はまるで知らされてい
ないのだ。
「殺人事件なんですが、まあ、芦沢さんの無罪を証明するための証言ですから、
あなたは気にすることなんて全然ありません」
「殺人なんですか。早く無関係であることが証明されるとよいですね。ほんと、
あの人はよい人でしたから」
事情を飲み込めてすっきりしたのか、バーテンダーの保田はほっと息をつい
た。それから腰に手を宛がい、うんうんと唸りながら伸ばす動作をする。
その様を見て、飛井田は思い出した。
「そういえば、腰を悪くしていたとか。店を営業時間外でも開けてもらえると
言うから、もう治っているのかと思ってましたよ。どうもすみませんね」
「いやいや、そんなに酷くはないんですが、慢性化していましてね。気を張っ
ていればどうってことありません。ただまあ、今日も開けるかどうか、迷って
いたのは事実です」
「というと? ああ、座ってかまいませんよ」
鑑識の作業を見守りつつ、会話も続ける飛井田。保田は手近の椅子に腰を下
ろした。
「この芦沢というお客さんが来た翌日から、調子が悪くなって店を閉めていた
んです。先ほど言った、ライトの傘を拭いたあと、本格的に……」
「では昨日までの三日間は、閉店状態だった訳か」
これが事実だとすると、事件後に芦沢が店に来て電球を取り替えるなどした
(日付はバーテンの勘違い)という線は、あり得ないことになる。芦沢の来店
翌日から店を閉めていたとの記憶は、まず間違いないだろうから、事件前の記
憶と勘違いしている可能性もない。
飛井田は芦沢のアリバイ成立を感じ取りつつあった。
バーの電球から採取された指紋は、芦沢晋也のものに相違なしと証明された。
指紋の付着具合も、電球交換時に付いたと見なして何ら不自然ではなかった。
芦沢に容疑をかけ続ける理由は最早、他に有力な容疑者が見当たらない、それ
だけでしかない。
細かな疑問点を挙げることは可能だ。偶然の過ぎるのだ。工藤殺害の時刻に
たまたま初めてのバーに入ったところ、たまたま電球の取り替えを頼まれる等
して印象に残り、アリバイが成立。
「締め上げたいのなら、昔の交通事故の件で引っ張れなくはない」
上司や同僚の中にはそんなことを言い出す者もいたが、別件逮捕は飛井田の
やり方ではなかった。被疑者をコントロールする材料として用いることはあっ
ても、直接的に別件逮捕し、尋問を延々と続けるのは性に合わない。
捜査会議後、岡林とともに凶器捜しの応援に回るよう言われた飛井田だった
が、まだあしざわについて執着していた。廊下に出たとき、俯きがちになって
いた彼に、知り合いの声が届いた。
「苦戦しておるようだねえ」
「何だ、深水(ふかみず)か」
面を上げた飛井田は、昔からの同僚にため息をこぼした。深水とはそりが合
わない訳ではないが、二人とも様々な可能性を思い付き、追う傾向が強い。飛
井田と深水を組ませると際限なく捜査しなきゃならなくなる、と言われたほど
だ。
「そんな顔をするな。おう、岡林。こいつと組んで、勉強になってるだろ」
岡林が「はい」と返事するのももどかしいとばかり、深水はまた飛井田に話
を向ける。
「関係あるかどうか知らんが、ちょっとした情報を持って来たんだ。ありがた
く聞けよ」
「聞いてやろう」
「おまえがこの間、話を聞きに行った保田ってバーテンな、少し前にやっぱり
捜査一課の刑事が話を聞きに行ってるんだよ」
「本当か? 初耳だ」
目を見開く飛井田に対し、深水は面白そうに目を細めた。尤も、深水の目は
小さいので、細くしているのかどうか、非常に分かりにくいのだが。
「知らなくて当然。管轄は同じ署でも、別の殺人事件でのことだからな。三週
間ぐらい前に発生した、まだ捜査中の吸血殺人さ」
「ああ、あれ。吸血ってのは大げさだ。被害者女性の腕から、注射器で血液を
少し抜き取った痕跡が認められたってだけだろうに」
「分かり易かろう。その被害者、食堂経営の女が、保田って奴とは元男女の関
係にあったため、話を聞いたようだ」
「で、保田への嫌疑は晴れたんだな」
「殺すような動機があったのかは知らんが、アリバイが成立したんだと。事件
が発生した日は、常連客数人とクルージングに出掛けてたとさ。何でも、馴染
み客の一人に土建屋のおやじがいて、大型クルーザーを所有できるくらい儲か
ってるとかいう話だ」
「当然、殺人は陸で起きたんだな。……常連客の中に、芦沢晋也がいたとかだ
ったら、話は楽なんだが」
実際のところ、いくら調べても芦沢と保田が以前から知り合いであった形跡
は出て来ない。
「でも、何だか変だな。あのバーテンダー、三週間ほど前に別の事件で刑事の
訪問を受けたなら、そのことを口にしてよさそうなもんだ」
「触れられたくない何かがあるんじゃないですか」
黙って聞いていた岡林が、気負い込んだ口ぶりで言った。
「たとえば、実は連続殺人であるとか」
「しかし、保田にはアリバイが――ああ、そうか」
飛井田は自分の表情が明るくなるのを感じた。情報をもたらしてくれた深水
の肩をぽんぽんと叩き、「ありがとよ」と礼を言う。
「閃いたか。そりゃよかった」
深水が立ち去るのを見送ってから、今度は岡林にも労いの言葉を掛ける。
「おまえさんの意見が参考になった」
「そうですか? アリバイは……」
きょとんとする岡林。目をしばたたかせる様が、愛玩犬のようだ。
自分で言っておいて、信じていなかったのか。飛井田は呆れつつも、辿り着
いた仮説を披露してやった。
「この件、交換殺人かもしれん」
* *
芦沢は跳ね起きると、寝床で荒い息を吐いた。心臓がどくどくと脈打ち、胸
が勝手に上下する。大量にかいた汗で、寝巻きが肌に張り付いていた。
枕元の時計を見ると、時刻は午前三時過ぎ。こんな夜中に目が覚めたのは、
ここしばらく繰り返し見る夢のせいだ。
「もう何度目だよ……」
それは、芦沢にとって悪夢としか言いようがなかった。
交換殺人の共犯である阪東が、顔を真っ赤にして「早く殺せ、早く殺せ」と
要求してくる。夢の中の阪東は、最初こそサラリーマン然としたスーツ姿だが、
すぐに異形の姿に転じ、まるで蘇った死者のごとく血をまとい、おぼつかない
足取りでゆらりゆらりと芦沢に迫ってくるのだ。
最後に出会ったときのことが思い起こされる。ともに紺のスーツに身を包み、
もし第三者の目があったとしても、ビジネスマン同士のやり取りに見えたであ
ろう。その記憶が、悪夢という名のフィルターを通して、赤く染まる。
「殺しは……交換殺人終わったのに、どうしてこんな夢を見なくちゃならない
んだっ」
吐き捨てた芦沢は、毛布を被って寝入ろうとしたが、依然として興奮が続い
ており、眠れそうにない。あきらめて再び身体を起こすと、寝床を離れ、浴室
に向かった。
――続く