#405/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 12/04/27 23:58 (465)
そばにいるだけで・リフレインその1 寺嶋公香
★内容 17/04/26 16:34 修正 第2版
水曜日、小学校から帰った碧は台所に直行した。母が在宅していることは確
認済みである。
「次の日曜、クラスメートの家に行くね」
用件を伝えてすぐに自分の部屋に行こうとした。そんな娘を母の純子は振り
返って呼び止めた。
「待ちなさい、碧」
「ん、何?」
碧も足を止めて振り返る。包丁をまな板に置いて、手を拭こうかどうしよう
か迷っている。そんな風情の母が目に映る。
「気になるじゃないの。わざわざ断るところをみると、何かあるのかなと思っ
て」
「――私、いっつも、断らずに友達の家に行ってた?」
「そんなことはないけれど……。あ、クラスメートという言い方は、今日が初
めての気がするわよ」
違和感の正体に気付いたとばかり、母が表情を明るくした。碧はかなわない
なと内心呟きつつ、どう説明するかを素早く考えた。
「実は、男子の家に行くの」
ストレートに答えた。どうせごまかせない。
「ふうん」
母の反応は碧が予想したのと違い、淡泊だった。
「お母さんは子供の頃、男子の家に行くのって珍しくない子だったの?」
「どうしてそう思うの」
「だって普通、小学六年生の娘が男子の家に行くと言ったら、もう少しびっく
りするとか、わけを聞こうとするもんでしょ」
「びっくりしてるし、わけも聞きたいわ。あなたがそんな言い方をするという
ことは、一人で行くのね?」
母の注意力にはよく感心させられる。父はこれに輪を掛けて、観察力も分析
力もあるから、隠しごとをしづらいったらない。
碧が黙って首肯すると、母は重ねて「もしかして、ボーイフレンド? 好き
な男子という意味の……」と尋ねてきた。最早、料理の下ごしらえは完全にス
トップしている。
「全然」
碧は首を激しく左右に振った。ポニーテールが揺れる。
「小和田はどちらかと言えば……喧嘩相手じゃないけど……競争相手? 今度
行く羽目になったのだって、勝負して負けちゃったからで」
「小和田君というのね、その男の子。何だか面白そうな経緯があったみたいだ
けれど」
「面白くない。ここのところ、女子と男子に別れて、ドッジボールをやってて
さ。女子チームがずっと連勝していたのよ」
「暦も前に似たような話していたわ。六年生になって、身長で逆転されたせい
だって」
「そうそう。クラスで背の高い人も、ベストスリーまで女子だもの。それで、
私じゃないんだけれど、調子に乗った女子が何人かいて、男子を見下したよう
なことを言ったのかな。いつの間にか、罰ゲーム付きでドッジボールをするこ
とになってた」
「ところが今日、思わぬ敗戦を喫したと。罰ゲームが男子の家に一人で遊びに
行くこと?」
小首を傾げる母。碧は「遊びに行くんじゃないよ」と否定した。
「半日間――正確に言うと朝の八時半から夕方五時まで、召使いをするの。何
でも言うことを聞かなきゃならない」
「メイドさんみたいなものね」
「どうかなあ。体操着を持ってこいとか何とか言ってたけど」
「罰ゲームは、碧だけ? 他の子は?」
「それそれ、そこなの!」
不満の溜まっている碧は、声に思わず力がこもった。
「勝ったチームの中で、退場させた人数の一番多い人が、負けたチームの中か
ら一人を選んで召使いにするって決めてたのよ。それで負けが決まってがっく
り来たけど、でも私じゃなくて、男子を見下してた三、四人ぐらいから選ばれ
ると思ってたら――」
そのときの悔しさと驚きが甦り、拳を握る碧。
「あいつ、何故か私を選んだ。わけが分からない」
「理由、その場で聞かなかったんだ?」
「ううん。何でよってすぐに聞き返したら、『おまえが女子のリーダーだし、
委員長だし』とか何とか、またわけの分からないことを」
「……女子が調子に乗ったのは、リーダーに全ての責任があるということかも
ね。あなた達の年頃では、珍しい考え方かな」
「でしょ? 普通、恨みのある当人を選ぶものなのに」
「恨みって」
苦笑いを浮かべた母は、思い出した風に両手を合わせた。
「おやつ食べないの? 暦はもう持って行ったわよ」
「腹が立ちすぎて、忘れてた」
そう言って、お腹に片手を当てる碧。腹が立ちすぎているせいではないだろ
うけど、あんまり空いていない気がした。
小和田龍斗の家がどこにあるのか知らなかった碧は、双子の弟の暦から住所
を聞いた。
「あいつが転校したての頃に何回か行ったきりだけど、変わってないはず」
「そりゃそうでしょ」
住所を見て、頭の中で地図を思い描き、だいたいの見当を付ける。これなら
大丈夫、迷わずに行けると確信した碧は、メモした紙を仕舞った。それから少
し考え、弟に聞いてみた。
「小和田君て、どんな性格?」
「姉さんだって、割と学校で話してるじゃん」
宿題をとうに終え、絨毯の上で俯せになって本を読んでいる暦は面倒臭そう
に応じた。碧はそんな弟のぶらぶらさせている足をいきなり掴んだ。
「わ、何するっ」
「男子の間でしか出さない面もあるでしょ。そういうのを知りたいの」
「……日曜の対策で、少しでも弱点を掴んでおきたいってこと?」
「そういう気持ちもゼロじゃない。でも、それ以上に何でよりによって私なの
か気になるし、性格が分かれば明日どんなことを命令されるのかも、多少は見
当が付くかなと思って」
「命令ねえ」
読書をあきらめた暦は本を閉じた。身体を起こし、ともに床に座った姿勢で
改めて話し出す。
「小さい弟や妹がいるはずだから、相手をさせられるんじゃないかな?」
「だったら、もっとふさわしい女子がいるわ」
何人かの名前を挙げようとした姉の口を、暦は押しとどめた。
「まず言っておくと、というか前にも言ったように、姉さんは男子の間で人気
がある」
「それ、疑わしいのよね。本当に今でも?」
自覚するようにはなっていた。だが、罰ゲームの対象に指名されるという憂
き目にあったあとだけに、甚だ疑問に感じてしまう。
「今もだよ」
弟は呆れ口調になった。
「小和田は女子に関心ないみたいな態度を取るから、好きな女子が今いるかど
うかは分からないけれど、少なくとも姉さんを嫌ってはいない。だから多分、
意地悪な命令は出さないよ」
「そうかなあ」
「宿題関係とエッチなのはNGってその場で決めたんだし、だったら他にどん
な嫌なことがあるっての?」
「……変な顔を写真に撮られるとか、秘密を言わされるとか……」
「姉さんに秘密があるなら僕もぜひ聞きたい」
「あるわよ、秘密の一つや二つ。でも教えない。あ、同じ秘密でも、暦の秘密
を教えろって命じられたらどうしよっか?」
いいことを思い付いたと言わんばかりに、にんまりする碧。暦はわずかでは
あるが、動揺を表面に出した。
「な、どんな秘密を知ってるってんだよ」
「さあ? 少し前までは、好きな女子の名前だったんだけど、もう知れ渡った
ようなもんだし、そうなると暦が初めて書いたラブレターの中身――」
「知ってるのか? 何で?」
慌てて言葉を被せてきた弟に、姉はすっくと立ち上がって表情を緩めた。
「言わないわよ。他の男子が興味あるとも思えないし。まあ、知ったら知った
で、面白がるでしょうけどね」
朝八時半には着いていなければいけない。距離だけなら自転車で十分掛から
ずに行けるはずだけれど、碧とって初めての場所。念のため、彼女は朝八時に
自宅を出た。前籠には、薄いピンク色のスポーツバッグを入れてある。中身は
体操着やタオル、ブラシその他諸々。
(お泊まり会に行くみたいじゃないの)
自分の想像がおかしくて、噴き出した。笑いを堪え、覚えた道順を急ぐ。す
ると案の定、早く着いてしまった。ヘルメットを取り、バッグと入れ替わりに
前籠へ。それから髪の乱れを直してと、時間を潰すのも五、六分が精一杯。
「さぁて、どうしよう……」
道路を挟んで反対側から、小和田龍斗の家をちらちら見やる。二階建てのな
かなか大きな家屋ようだ。角度の緩やかな屋根のおかげか、広そうに見える。
駐車スペースがあるが、今は空っぽで、脇に自転車が三台、置いてあった。碧
が乗るのと同じぐらいのサイズが一台に、小さめのが二台。
(そういえば、三人兄弟と言っていたわ。一つか二つぐらい下と思ったけれど、
あの分だと小学一、二年生かな)
当たりを付けた碧だったが、ふと今の自分の有り様を客観的に捉え、気恥ず
かしくなった。他人の家をじろじろ見て、家族構成を想像するなんて、時間潰
しにやることではない。これなら、早く到着したことを伝えた方がまし。
そう思い、自転車を押して玄関先に向かい始めたところ――その玄関のドア
が勢いよく開いた。
赤のサスペンダースカートを着た、女の子が飛び出して来た。
「あ。この人? ねえ、この人?」
碧の方を指差しながら、後ろを振り返る女の子。足下への注意が疎かになっ
ているようだが……。奥には小和田龍斗がスニーカーを突っかけ、少々ふらつ
きながら出て来ようとしていた。と、彼が面を起こすのと同時に、女の子が転
びそうになった。
「あっ」
小山田と碧が揃って声を挙げた。すでにそばまで来ていた碧は両腕を伸ばし、
女の子を支える。重心が高いせいか、案外押された。しゃがんでしっかり受け
止めてから、「大丈夫?」と尋ねた。相手はびっくりしたみたいに、目を真ん
丸にしてこくりと頷く。後ろから小和田が追い付いた。
「悪ぃ、窓から見えたんで、来たっていったら、飛び出していって止める間が
なかった。――って、何でスカート履きなんだ?」
「何でって」
いきなり妙な質問をされた碧は、女の子――小和田の妹に違いない――の手
を取ったまま、すっくと腰を上げた。そして右肘に掛けたバッグを、前に出す。
「体操着なら持って来たわ」
「……ちゃんと聞いてなかったな。体操着でも何でもいいから、動きやすい格
好してきてくれって言ったんだ」
「……ごめん、聞き違えた。あのときは罰ゲームの対象にされて、動転してた
のよ」
頭を下げた碧。つられたか、女の子までお辞儀している。
「ま、いいや。碧さんでも間違えることあるんだな」
「私って、どういう風に見られてるわけ?」
「そりゃあ――おっと、もうすぐ八時半だ。油を売ってないで、しっかり働い
てもらおうかな」
「あと五分ぐらいあるじゃない」
「着替える時間だよ。でも弱ったな。着替える場所、考えてなかった」
言葉をぽんぽん交わす“年長者”二人の間で、女の子は視線とともに首をせ
わしなく振り、やがて待ちくたびれたように声を上げた。
「ねえ、龍斗兄。紹介してよ、ねえ」
「そうだった。えー、同級生の相羽碧さん。昨日、罰ゲームに負けて、じゃな
かった、ドッヂボールに負けて罰ゲームとして今日半日、小和田家の……メイ
ド? 違うか。まあ、そんなところだ」
かなりいい加減な紹介と説明だわと、内心呆れる。小和田は碧に向き直り、
逆方向の紹介を始めた。
「こっちが妹の千鶴子で、二年生。あっちが――」
と示そうとして、小和田は首を傾げた。その対象が不在であることに、今初
めて気が付いたらしい。
「おーい、鷹! 鷹彦、どこ行った?」
弟は鷹彦というようだ。呼ばれても姿を現さなかったが、ふと視線を感じた
方角に目をやると、玄関戸の蝶番側にできた隙間から、外を窺う小さな子の姿
が見え隠れしている。
「何してる」
小和田が小走りで行き、弟の手を引いて出て来た。
「こっちが鷹彦、やっぱり二年」
「二人とも二年生っていうことは、私と暦みたいに双子?」
「ちょっと違うんだな、これが」
碧が言うのへ、気付いてくれたかと嬉しそうに答える小和田。
「鷹は四月生まれ、千鶴(ちづ)は年が明けて三月生まれなのさ」
「へえー、一年経たない内に、二人の子を産むなんて、珍しい気がする」
「だよな。親父達が頑張ったんだ」
「――下ネタ?」
「ち、違うっ」
漫才かコントめいたやり取りを通じて、碧は小和田の性格を何となく理解し
ていった。
と、そのとき、しばし入り込めなかった千鶴子が、我慢できなくなったとば
かりに割って入ってきた。
「ちゃんと挨拶させてよ、龍斗兄。――はじめまして、小和田千鶴子、二年二
組です」
そして元気よく言い放った。
浴室に隣接する脱衣所で着替えたあと、まず命じられたのは、掃除だった。
「ほんとに、召使いか使用人扱いなのね」
「だってしょうがねえだろ。他に思い付かねえんだし」
「小和田君の部屋も片付けちゃっていいの?」
碧が腕まくりをすると、小和田は腕を前に突っ張り、大慌てで両手を振った。
「それは困るっ。つーか、そんなに汚れてねーし」
「じゃあ、千鶴ちゃんや鷹君の部屋は、どうすれば……」
「うーん。本人達に聞いてくれりゃいい。とにかく、やって欲しいのは廊下と
階段と、あと俺達が共同で使う遊び部屋」
「いいなあ、子供達だけの遊び部屋があるなんて。ところで、さっきから気に
なってるんだけど」
箒とバケツと乾いた雑巾を渡された碧は、三角巾の収まり具合を気にしつつ、
振り返った。
「ご両親は?」
「あ? 仕事でいない」
当然のように答える小和田。碧は念のため、「二人とも?」と質問を重ねた
が、返答はやはり“応”であった。彼女の家庭でも、両親とも仕事で不在とい
うことはあるので、特に驚きはしない。ただ、小さな弟や妹がいると、一番上
の子は大変かもしれない。
「何時頃お帰りになるの?」
「夕方になる。罰ゲームが終わる五時よりも遅いに決まってるから、関係ない
だろ」
「……お昼はどうすればいいのよ」
少々むすっとして、食事のことを持ち出す。
「お昼って、昼飯だよな。ついでだから言っとく。頼みたいことの本命は、昼
飯なんだ」
「ひょっとして、料理も作れって?」
「ああ。休みの日って、親がいないと自分達で昼飯用意しなくちゃいけない。
俺だと、インスタント麺とレトルトの繰り返しだから……たまにはその、千鶴
と鷹にまともな昼飯を食べさせてやらないとかわいそうだと思って」
話す内に恥ずかしさを覚えたか、どんどん早口になった小和田。顔を逸らし、
続けて言う。
「この間、何で碧さんを選んだのか、不思議がってたみたいだけど、家庭科の
調理実習を見てて、クラスで料理の腕が一番ある女子に頼みたかった、それだ
けだからな。恨みはない」
碧はすかさず、「恨まれてたまるか」と言い返した。でもさっきむくれたの
が嘘のように、その顔には笑みが広がる。嫌われていたのではなかったし、意
地悪をされたわけでもないと分かった。その上、料理が上手と認められたとな
れば、ご機嫌にもなろうというもの。
「材料はー?」
掃除に向かいながら、ふと疑問に思って聞いてみた。まさかお金を出して、
買いに行かされはしまい。
「冷蔵庫にある物で適当に頼む」
「分かったわ。やってみる」
ある物で作れなかったらどうしよう――そのときはそのときだ。
廊下のぞうきん掛けを始めた矢先、小和田が姿を見せた。それまでずっと、
弟と妹の相手をしていたらしく、楽しげな声が聞こえていたが、一段落したら
しい。
「どう?」
掃除途中の状況を見せ、こんな具合でいいのかを確認する。小和田はざっと
見渡し、「いいと思う」と答えた。それを聞いてぞうきん掛けを再開する碧。
端まで行って、戻ろうと向きを換えると、目線の先にコンパクトカメラを手に
した小和田の姿を捉えた。
「な、何やってんのよ!」
「そのまま続けてくれ」
「カメラでしょ、それ? 何のために……」
「だって、クラスの男子連中に言われてんだよな。証拠の写真を撮れって」
「証拠?」
ぞうきんを両手で握りしめ、しばし説明を聞く体勢にならざるを得ない。
「だから、碧さんがちゃんと罰ゲームを受けたって証拠だよ」
「小和田君から言ってくれれば、それでいいじゃない」
「俺もそう思った。けど、あいつら、『それじゃあ完全には信用できない。見
に行く』って言い出したから。大勢で押しかけられても迷惑だし、そっちだっ
て嫌だろ」
碧はこくこくと頷いた。
「それで写真を何枚か撮るから、おまえらは来るなってことになった」
これで説明終わりとばかり、シャッター音。
碧は首を傾げ、かゆくもない頭を掻いた。
「しょうがないわね。あんまり変なところを撮らないでよ」
「変なところって?」
「着替えてるところ」
「撮らねえって! あくまで罰ゲームの証拠のためなんだからな」
「でもさっき、後ろから撮ったんじゃない? お尻のアップとか、恥ずかしい
んだけど」
「……」
言われて初めて思い当たったらしく、小和田はコンパクトカメラの撮影済み
画像を確認し始めた。やがて答えたその声は、最前よりも小さくなっていた。
「……無意識の内に撮ってた。何となく、面白いかと思って。嫌なら削除する」
「どっちでもいいよ。そんな写真、見せたら見せたで、小和田君、他の男子か
らからかわれるんじゃないかな」
「……それもそうだ」
「あとね、私、これでも一応はプロだから。もしもプライベート写真を売ろう
としたり、流出させたりしたら、事務所が訴えるかも」
「げ、まじ?」
小和田はあわてふためき、両手の中で、カメラを踊らせ、挙げ句に取り落と
しそうになった。どうにかセーフ。そこへ碧が声を掛ける。
「うふふ、もちろん冗談よ」
やり返した碧は、口元をほころばせた。小和田は反対に汗を拭う仕種をする。
「あせった〜。迂闊に写真を撮れないかと思った」
「証拠のためだけなら、それ用にポーズを取ってもいいんだけど、嘘っぽくな
るかしら。まあ、適当にどうぞ」
「どーも。じゃ、遠慮なく。この家だと分かる場所がいいよな、やっぱり」
などと会話しつつ、ぱしゃりぱしゃりとシャッターを押す音が小さく響く。
何枚か撮られた時点で、小和田の口数が減ったことに気付いた。
「終わった?」
「ん……改めて、モデルのアルバイトをしてるの、納得できるよな」
撮影済み画像の具合を確かめていたようだ。碧はそばまで行って、顔をしか
めた。
「またセクハラめいたことを言う」
「そんなつもりじゃないって。真面目にそう感じた。段違い」
「ありがと。でも、誰と比べて段違いって?」
「クラスの他の女子とか」
「いいのかな、そんなこと口に出しちゃって。みんなに知られたら、小和田君、
嫌われるかも」
「……仮に碧さんが言いふらしたとして、碧さんも嫌われるぞ、多分」
「それもそっか。じゃ、内緒ね。――写真はもういいでしょ。掃除、最後まで
済ませるから、気が散らないように、さっさと行った行った!」
碧が言うと、小和田は「お、おう。ありがとな」と早口で応じ、素直に退散
した。
それからまた小一時間ほど経過し、日が少し高くなってきた。
広い家とはいっても、余計な障害物がある訳でなし、また、日常的に溜まっ
た埃や軽微な汚れを落とす程度の作業だったので、廊下と階段の掃除は意外と
早く片付いた。
「これぐらいやれば、文句ないでしょ」
ぞうきん掛けを終えたろうかを振り返り、碧は呟いた。腕の汚れていない箇
所で額を拭いつつ、視線を振る。小和田の姿を探すが、見当たらない。最終的
なOKをもらいたいのだが。
碧は小和田がいるであろう遊び部屋とやらを、声を頼りに探した。どうせそ
こも掃除するよう言われているのだ。
(ここね)
ふすま越しに三人の声が聞こえる。和室を遊び部屋にしているのは、ひょっ
として、むやみに暴れないようにするための予防策か。
「入るよ? いい?」
ふすまをノックするやりにくさを覚えつつも、碧は声を張った。
「どーぞ」
反応したのは千鶴子の声。ほんとに元気がいいなと感じつつ、碧がふすまを
開けると、仲良く?遊ぶ三人の姿が目に入る。小和田は四つん這いになり、弟
と妹を背中に乗せていたのだ。碧と目が合うと、慌てて立ち上がろうとする。
「……カウボーイごっこ?」
「その、疑問形でぼそりとつっこむの、やめろよ。何故か、物凄く精神的ダメ
ージが」
「――廊下と階段、ひとまず済んだから、あれでいいのか見てもらおうと思っ
て来たのだけれど、お邪魔だったかしら」
「邪魔じゃないけど。あと、別に見なくてもいい。さっき写真撮ったときに見
たし、あれなら充分OKさ」
「それじゃ、残るはこの部屋だけね。ふむ、結構散らかってる」
手で庇を作り、見渡すポーズの碧。実際、そうしたくなるほど広い部屋だ。
あちらこちらに、模型や人形といったおもちゃ、あるいはボール、本、クッシ
ョンなどがほったらかしになっているが、にもかかわらず広く感じる。
「ここは掃除機で頼む」
「いいけれど、先に散らかっている物を片付けないと、色々と吸い込んでしま
いそう」
「分かった。一緒にやるとするか」
小和田が小さな二人に声を掛けると、千鶴子は「やるー!」と手を真っ直ぐ
に挙げた。鷹彦は黙ったまま、頷いていた。
子供の遊び部屋を片付ける間、碧は千鶴子に懐かれ、よく話した。モデルや
芸能界に強い興味があるらしく、碧にあれこれ聞いてきた。懐かれるというよ
り、纏わり付かれると表現した方が適切かもしれない。おかげで片付けが、思
ったほど捗らなかったくらいだから。
一方、鷹彦との距離は、初対面のときからほとんど変化していなかった。鷹
彦は兄にぴったりひっついていて、碧とはほとんどまともに話もしていない。
碧が視線を向けると、すぐに顔を背けてしまう。
(嫌われてる感じはしないものの、気になるなあ……)
考え事をしつつ、床に散乱する物を片付けていると、ふと、手にした本に意
識を吸い寄せられた。白と赤からなるカバーに、黒い文字で『感嘆符の密室』
とある。ちょっとした評判を呼んでいる推理小説で、碧もいずれ読みたいと考
えていた。
「小和田君て、こういうの読むの?」
顔を起こし、書籍を示しながら聞いてみる。目線の先では、小和田と一緒に
鷹彦も振り返っていた。名字で呼んだせいだろう。向こうも小さいながら気付
いて、慌てて顔を伏せていた。
「あ、それか。読んだよ。ふりがなのない難しい漢字が多くて、時間掛かった
けどな」
「というか、推理小説、好きなの?」
「ま、好きな方だよな、うん。怪人二十面相と少年探偵団が最初で、それから
明智小五郎、シャーロック・ホームズの順に読んでいった」
「ふうん」
小学校の授業には、読書の時間があるけれども、クラスの男子がどんな物を
読んでいるかなんて、まるで知らなかった。小和田のイメージだと、スポーツ
選手の伝記物を好みそうな感じだが、完全に外れだった。いや、スポーツ選手
の伝記も読めば、推理小説も読むのかもしれない。
「私もミステリが好きで、よく読むのよ」
「暦から聞いて知ってる」
「あらら。余計なお喋りをしてるんだろうなあ」
「だいたい、碧さんと暦は揃って手品好きだろ。そこから想像できてた。おい、
手が止まってる」
言われて片付けに戻る。話題を換えるつもりはなかったのだが、千鶴子に話
し掛けられ、芸能界に関するお喋りを再開することに。
「レイセスの紫苑に会ったことある?」
千鶴子は、人気バンドのギタリストで俳優もやっている二枚目の名前を挙げ
た。小学二年生にしては、なかなかませている。
「残念、私はないなー」
「なんだー」
「でもね、私のお母さんが共演したことあると言っていたわ」
「ほんとに?」
「本当よ。千鶴ちゃんは観たかな、ちょうど一年前ぐらいにあった、『ローア
ンドロープ』っていう特撮」
「観た観た! ていうか、あれで紫苑のこと覚えたもん」
「あの番組に、私のお母さんもゲストで出たのよ。引退した元アイドル役で」
「覚えてる。へー、おばさんには見えなかったよ。若くてきれいな人だった」
千鶴子の発言に、碧は微苦笑を浮かべた。この子は私の母を何歳と思ってい
るんだろう?
「碧おねえちゃん、じゃあねえ、アイリーン・ワトソンは?」
今度は、ハリウッド一線級の女優と来た。ファンタジー作品のレギュラーキ
ャラクターがはまり役で、少女と中年女性を演じ分けたことでも高く評価され
ている。碧も映画で観て、メイキャップ技術込みとは言え、感嘆させられた。
さすがに接点は皆無だ。そのことを告げると、千鶴子は意外にがっかりした様
子は見せなかった。
「大きくなって、アイリーンに会えるくらいになってね」
「千鶴ちゃん。私、まだモデルしかまともにしたことないんだけどなぁ」
「スーパーモデルになればいいわ」
当たり前のように、簡単に言う千鶴子。碧は苦笑を禁じ得なかった。
冷蔵庫の扉を開けると、食材がたっぷりあった。ぱっと見たところ、レトル
トや冷凍食品、インスタントの類が多く、生鮮食料と呼べそうなのは、卵とキ
ュウリぐらいだった。
(この冷凍してるお肉、高い! 何だかもったいない買い方してるなー。私が
気にすることじゃないけど……。何にしたって、お昼にこれは贅沢)
他の物を探す。
(卵とグリンピース、鶏肉のささみでオムライス。あ、豆腐が出て来た。麻婆
豆腐ができるかも。とりあえず、サラダは作りたいのだけれど、キュウリの他
に生野菜が……。念のため、聞いてみようっと)
廊下に顔を出し、小和田を今度は下の名前で呼ぶ。すると、当人はすぐに飛
んで来た。
「何だ何だ。急に龍斗なんて呼ぶから、びっくりしたぜ」
「千鶴ちゃんと鷹君に勘違いさせないためよ。それよりも、生野菜、もっとな
いの?」
「野菜はあんまりっていうか、ほとんど食べないからなあ。あ、芋とかゴボウ
ならどっかに保管してたはず」
小和田が探しにかかると、じきに見つかった。じゃがいもやにんじんといっ
た根菜類が、地下収納スペースにまとめて置いてあった。
「……まあ、何とかサラダもできそうね」
「サラダ? ダイエット食に付き合わせる気かよ」
「失礼ね。まず、私はダイエットなんて必要ない。次に、サラダがメインのよ
うに思ってるようだけれど、ちゃんと考えてますから」
「まじ?」
「何がよ」
「ダイエットしてないっての、本当かってこと」
そう言いながら、小和田は視線を上から下へと――碧の頭のてっぺんから爪
先まで――動かした。
「人の身体をじろじろ見るなっ。嘘なんかついてないわよ」
「悪い。いや、やばいなあ。俺、さっき千鶴にモデルやるようなおねえちゃん
はどんな物食べるんだろうねって聞かれたから、適当にダイエット食だろって
答えちまった」
「訂正しときなさいよ。出るべきところが出て、引っ込むべきところが引っ込
んだ身体になるためには、食べて運動しないと無理。少なくとも私はそうして
る」
例外はいるけれどもと心の中で付け足す。碧の母がその筆頭だ。
「それじゃ、そろそろ本格的に取り掛かるけれど、リクエストがあるのなら今
の内よ。変更できるかどうかは別にして、希望は聞きますから」
「特にない。鷹が物凄いピーマン嫌いだが、ピーマンは買ってこないからない
だろうし」
「了解」
「……手伝わなくていいか?」
三角筋を被り直した碧は、不意にそんな声を掛けられて戸惑った。
「何言ってんの。小和田君、あんたは今日、私をどういう名目で呼び出して、
こういうことをさせてるんだったかしら?」
「……まあ確かに」
「いつもは昼食作りの時間、二人の面倒を見られないんでしょ? 今日は一緒
にいてあげなさい。いいわね?」
「言われなくても、そのつもりだ」
吹っ切るように強い調子で言うと、小和田は台所から小走り気味に立ち去っ
た。
後ろ姿を見送った碧は、微笑混じりの息をついた。
(さあ、がんばって美味しいのを作らなくちゃ)
――つづく