#339/598 ●長編 *** コメント #338 ***
★タイトル (AZA ) 09/02/15 18:00 (284)
想い人がいるだけで 2 寺嶋公香
★内容
「うん?」
髪を洗い終わり、まとめた状態にしてキャップを被った碧が、視線にふっと
気付いたように、暦の方に目を向けた。
湯につかり、バスタブの縁に腕を載せた格好だった暦は、瞬きを何度かした。
いつもの通り、恥ずかしさはみじんもないが、いつもと違うのは、暦が碧の身
体をじっと見ていたこと。
「何? 何かおかしい?」
口元で笑った姉に、暦は聞き返した。碧はタオルを石けんで泡立てた。
「ちょっとね。我が弟も、やっと異性の身体に興味を持ったかしらと」
答えたあと、左胸から洗い始める。
「興味がないことなんかないって、ずっと前から言ってるだろ。ただ、今日、
友達に言われて」
夕食を前に、相羽家の子供二人は入浴中だった。普段は、一日の出来事をお
互いに喋って過ごす時間、空間。今日もそれと大差はないが、少しばかり趣が
異なることになろう。
「何なに? 私のことが出たの?」
「うん……。姉さんは、クラスの男子に人気があることを、分かってる?」
「そりゃあもう」
自信ありげにうなずいた碧。目を細めて、やけに嬉しそうだ。
「これだけの美人を放っておく男子の数なんて、クラスでは弟のあなたを除け
ば、片手で、ううん、じゃんけんのチョキで足りるんじゃないかな。なんちゃ
って」
「調子に乗んなよなー」
実際にチョキを作って、ピースサインのようにポーズを取る姉へ、暦はため
息混じりに言った。
「その男子のほとんどが、恐らく、風呂に入っているときの姉さんの姿を想像
したことがあるんだ」
「……でしょうね」
微笑みを浮かべたまま、身体を順次、洗っていく碧。
「恥ずかしくない? それか、気持ち悪いとか」
「全然恥ずかしくないと言ったら嘘になるけれど。気持ち悪くはないわよ。好
きな相手のことをあれこれ想像するのって、普通。暦も好きな子の裸、想像し
たこと、あるんじゃないの」
「答えなくても、分かってるくせに」
「まあね。あ、そうか。好きな子に気持ち悪く思われやしないか、不安だった
のね。それで、私に聞いてみて、女子の一般的な答にしようと考えたわけだ?」
「違うって」
だいたい、姉の答を他の女子に当てはめていいのかどうか、判断しようがな
い。
「じゃあ、何よ」
「一緒に泳ぎに行かないかと誘われたら、行く? 行かない?」
「? つながりが見えない」
二の腕をこすりながら、碧は首を傾げた。暦は急ぎ、言い足した。
「だから、色々と想像されても気持ち悪くないのなら、一緒に泳ぎに行くこと
くらい、楽勝だよなって意味」
「――あなた、友達から、私を誘うよう、頼まれたのね」
「簡単に言うと、そう」
「最初っからそう言えばいいのに。回りくどいわね」
「当日はセパレートの水着にしてくれ、という理由も説明したかったんだって
ば!」
ちょっと声を大きくすると、風呂場ではよく響いた。思わず、首をすくめる。
「セパレート? そう言われても、理由がまだ分かんないんだけれどな」
「あいつらの話をかいつまんで言うと、学校とは違う格好で泳いでるところが
見たいってさ。嫌なら、断っとく」
「別に。まあ、女子が私一人じゃ寂しいな」
「誰でもいいから、友達を誘えば? 少なくとも、こっちの方は、女子が増え
て嫌がる奴なんていないと思う」
「誰でもって、小倉さんでも?」
「な、何で、そこで小倉さんお名前を特別に出す?」
「言わずもがなでしょ。ま、暦の言う“あいつら”全員が一人ずつ、女子を誘
うことに成功したら、私も参加するわ」
「無理だって。第一、それができるくらいなら、来てくれって姉さんに頼まな
いと思うぞ」
「暦、そろそろ交代」
話題を打ち切り、腰掛けたまま、背中を向ける碧。身体や髪を洗うのと湯船
に浸かるのとを交代する。その前に、背中の流しっこだ。
「今、背中をごしごししろと命じられると、力一杯ごしごししてしまいそうだ」
湯船から出て、泡を吹くんだタオルをぎゅっと握りしめる暦。碧は肩越しに
目だけ振り返って、釘を刺した。
「だめよ。肌を傷めるような真似をしたら、私だけじゃなく、母さんが大目玉
よ。仕事に差し支えることは、凄く怒るから。大勢の人に迷惑を掛けるって」
「分かってるよ。わざわざ、爪も切らせてもらいました。」
念のため、自分の指先をじっと見つめる暦であった。よし、問題ない。
「その代わり、聞かせてよ、姉さん」
碧の背の表面にタオルを滑らせつつ、暦は尋ねた。
「何が、その代わり、なの」
「つまり……小倉さんの名前を出したその代わり。逆襲だよ。姉さんの好きな
男子の名前、教えろ。教えてくれ。教えてください」
斜め後ろから横顔を見、反応を伺いつつ、暦が言葉遣いを変えていった。姉
は気を悪くした風もなく、「そうね」と人差し指を自分の口元に持って行くと、
考える仕種。程なくして答があった。
「いないなあ、男子は」
「え」
手が止まる。
「男子は、ってことは、まさか姉さん……」
「違う違う。ばかね」
間髪入れずに否定し、それから笑いをこらえるのに苦労する様子が、ありあ
りと伺えた。
「ばかと言われるほど、的外れか?」
「手を動かして、暦。素早くやってくれないと、お互い、湯冷めしかねない」
暦は仕方なく、手の動きを再開した。
「それで? 男子にいないというのは、どういう意味?」
「同級生にいない、ということ。もっとはっきり言えば、同じ年頃の子にはい
ません。納得した?」
今度はしっかり振り返り、意地悪げな笑顔を見せる碧。暦は軽く舌打ちし、
「納得した」と応じる。それから、背中全体に湯を掛けてやりながら、「でも」
と付け足した。
「じゃあ、大人なんだ、好きな相手って」
「そうよ。――ありがと」
身体の向きを換え、今度は、碧が暦の背をこすってやる。暦は少し考え、鎌
を掛け気味に聞いた。
「里中(さとなか)先生?」
「うん? どうして。さっきのあなたの疑問、そのままお返しよ。どうして里
中先生の名前が出てくるのか」
「だって、先生の中なら、里中先生と一番仲がいいように見えるよ、姉さん」
「そうかもね。だけど、好きな相手というのとは違うわ。第一、先生に限定す
るのがおかしい」
「えっ、けれど、大人って、他に考えられ……」
語尾が消える。碧はレッスンを受けているから、そっち方面の関係者がいる
のだ。当然、男性もいる。暦は詳しくは知らないが、若くて格好いい人も一人
や二人、いや、もっといたような。
「誰? 僕の知らない人なら、あとで写真を見せてよ」
「ううん。知っている人よ。間違いなく、会っているしね」
「……もったいぶらず、名前を言ってくれっ」
「――ああ、もう。ほら、動くから、ほっぺに泡が着いちゃった」
「あとで取る。それより名前」
後ろを向いた暦は、また顔を前向きに戻し、返事を待つ。思わず、貧乏揺す
りが出た。
「はいはい、じゃ、教えるけれど、誰にも言ったらだめよ」
「分かった。約束する」
暦がそう応じると、碧は洗面器をお湯で満たしながら、何事か言った。断片
的にしか聞こえなかったが、それでも暦は、え?と驚いた。信じられず、再び
振り返ろうとしたところへ、ちょうど背中を流すお湯が。
「うわっ!」
顔、特に口にお湯が掛かって、むせる。
「だ・か・ら、動かないでって言ってるでしょ。私のせいじゃないからね」
暦はかまわず、しかし多少咳き込みながら、確認を試みた。
「誰だって? もういっぺん」
「何度も言わせないでよ、しょうがないわね。地天馬さんよ」
答えた姉は、当たり前のような顔をしていた。
「分からないな」
暦は机に向かった姿勢で、幾度目かのつぶやきを繰り返した。
食事を含む家族団らんの時間を過ごしたあと、只今は自分達(暦と碧)の部
屋で、とりあえず、夏休みの宿題に取り組んでいる。
「分からない問題は、あとで一緒に考えるんだから、次に進めば?」
右方、やや後ろから、碧の声があった。これまでいくらつぶやいても返事が
なかったのが、やっと反応してくれた。
「宿題じゃなくてさ。風呂でのこと」
「地天馬さんを好きだって話? いいじゃない、別に」
碧はノートを閉じた。最低ラインのノルマはこなしたという証だ。折角のチ
ャンスに、暦は話を続ける。
「地天馬さんなら、僕も好きだけど、姉さんの言う意味は、文字通り、恋人に
ってことなんだよね」
「あなただって、そのつもりで聞いたんでしょう。違った?」
「違ってない」
「何が分からないわけ? あり得る答じゃない」
相変わらず、この件に関しては当然と言った表情を崩さない碧。小首を傾げ
た弟の前で、姉はさらに続けた。
「当人の目の前で言うのはおかしいかもしれないけれど、我が家にはいい男が
二人もいるんだもの。お父さんと暦。私、まだ小学生なのに目が肥えてしまっ
て、仕方がないわ。身近な人で、お父さんや暦に並ぶ男性なんて、そうそうい
ない。地天馬さんぐらいよ」
「僕のこともはともかく」
ほんと、本人の前でそんなこと言うなよ、と思いつつ、口には出さない暦。
ただし、目の下辺りが少々赤くなっていたけれども。
「しかし……それにしたって、年齢が。地天馬さんて、いくつ?」
「知らない。歳の差を気にするの?」
「でもさ、限度が……」
指折り数えてみようとする。
「母さんが地天馬さんと初めて出会ったの、母さんが子供のときだったって。
そのとき、地天馬さんはもう探偵をやっていたそうだから、どんなに若く見積
もっても……当時すでに十九?」
「中学を卒業してすぐ、探偵を開業されたのかも」
「そんな無茶な」
「分かってるって。十九歳でも若すぎるわ。常識的に判断すれば、若くて二十
二、三。実際は、三十前後じゃないかしら」
「じゃあ――母さんの今の年齢から十いくつかを引いて、二十二を足す。それ
が地天馬さんの今の推定年齢、最も若いパターン」
「うーん、およそ三十四かぁ」
「何でそうなる! 母さんが二十代になるじゃないか」
「二十四、五歳で充分に通用するのよねえ。ある仕事で、同じ年代の女性カメ
ラマンがいてさ、その人から恨みがましく、『碧ちゃんのお母さんて、魔女じ
ゃないの?』と言われたことがあるわ」
「はぐらかすなっ」
暦が怒ってみせると、碧は「ふう」とため息をついて、微笑みを返して来た。
「あのね、暦。あなたの言ってることぐらい、私にだって分かる。そんな無理
に若く見積もって計算しなくても、そうね、地天馬さんは多分、五十から六十
の間。私なんか相手にしてもらえないだろうけど、でも、今、あの人を好きな
気持ちには変わりない」
「そうじゃなくってさ。現実問題、地天馬さんが独り身ってことはないぜ。つ
まり、姉さんが結婚できる年齢になったって、地天馬さんとはまず結婚できや
しないじゃないか」
「……そこまで具体的に思い描いていたわけじゃないけれど」
腕組みをして、考え込む碧。そのポーズのせいで、冗談なのか本気なのか、
暦には見極められない。でも。
「とにかく、今の私は地天馬さんがいいの。好きなの」
そう言い切った姉の横顔を見ていると、本気のように思えてきた。
今の内に、何か対処しといた方がいいんじゃないか。そんなことまで考えて
しまった。子供らしい、考えすぎなのだが。
物語は一足跳びに半年あまり先へ。二月の中旬に入ろうかという頃合いに。
「最近、妙に男子が優しい」
下校の途中、友達が一人離れ、二人離れしていき、姉と弟だけになったとこ
ろで、碧が呟いた。
「やっぱり、あれかしらね」
「あれっていうと……」
察しは付いたものの、皆まで言わない暦。分からないようなふりをし、相手
に委ねる。
「お菓子メーカーに躍らされる日のことよ。そんなにチョコレートがほしいも
のかと」
「チョコレートがほしいんじゃなくて、相羽碧って女の子から、何かプレゼン
トがもらいたいんだよ」
「うん、そこなんだな、問題は。好かれるのはいいの。私、基本的にイベント
好きだし、躍らされるのなら楽しく躍りたい。ただ、何をもらえるんだろうっ
て、期待されるのが困るのよ」
お喋りに熱が入る。その度合いとは反比例して、歩みは遅くなる碧。暦は合
わせた。
「何でもいいんだって。たとえ五十円のチョコを剥き出しでもらっても、喜ぶ
に決まってるさ、あいつら」
「そのくらい、分かってる。でも、だからってほんとに素っ気ない、十把一絡
げみたいなプレゼントですませるなんて、私にはできないのよねー」
「義理でも渡すからには……ってやつ?」
探るように尋ねる暦へ、碧は黙ってうんうんと頷いた。暦はからかうような
笑みを作り、冗談交じりに言葉を重ねてみた。
「そうして、一ヶ月後のお返しに、いい物をもらうと」
「いやいやいやいや」
今度は一転、横方向に激しく首を振った碧。
「お返し、いらないわよ。私がお返しをほしいのは、好きな人からだけ」
「そういえば、バレンタインデー、地天馬さんに何か渡すつもり?」
「当日、直に渡せるようならね」
恐らく、その条件を満たすのは難しい。相手に依頼が入っていないことを筆
頭に、クリアすべきハードルが多い。
「みんなに、姉さんが好きなのは、遥か年上の探偵だってこと、言ってもいい
かな」
「何で」
不思議そうに口をすぼめ、弟を見つめ返す碧。
暦は逆に視線を外し、言い訳がましく答えた。
「そりゃあ、みんなから聞かれるし。教えないでいると、うるさいったらあり
ゃしない」
「ふふん、言いたくなるのも分かる。あんた自身は知れ渡っているものね、好
きな女の子」
「違っ。そ、そういうのじゃない」
一瞬、振り向いた暦だが、赤面している気がしたので、すぐに戻した。
「ただ、現実を知らないせいで、希望を持ってる奴がいたら、かわいそうと思
わないかってことだ」
「あはは。知った上で、それでも希望を持ち続けてくれる男子なら、見込みあ
ると認めてよさそうっ」
「こっちは、ていうか、男の側としては真剣なんですけど」
「私も真剣だよ。そうね、年上の知り合いが好きだってことは言ってもかまわ
ない。ただ、その人が探偵だとは言っちゃだめ」
「どうして」
顔の火照りも消えた暦は、姉の顔をまじまじと見た。微笑を添えての答がす
ぐに返る。
「もしかしたら、よ。それなら自分も探偵になる!って言い出す人が、いない
とも限らないでしょ」
暦にとって、思いも寄らぬ理由だ。姉のことをよいと言う男子の面々を、ひ
とりひとり思い浮かべてみた。さもありなんというタイプ、確かにいる。
「そういう奴がいても、別にいいじゃないか」
「私が求めるのは、名探偵だから。名探偵はなるものじゃなく、いつの間にか
そうなっているものだと思わない? 努力と才能、そして運命によって決まる
存在」
暦は無言でいたが、心の内では、そうかもしれないと思った。少なくとも、
努力だけでは辿り着けそうにない。
「そんな名探偵を目指させるなんて、忍びないじゃない」
「けど、ひょっとすると、中には一人ぐらい、才能のある奴がいて、そいつの
運命のきっかけが姉さんにあるんだとしたら……」
「可能性、極端に低そうだけど、ロマンチックね。うん、それだったら、あり
かも」
「それなら――」
暦は言い掛けて口を噤んだ。姉にとって年齢的に釣り合いの取れた異性が現
れる余地を、少しでも広げておくには、職業探偵であることも皆に教えておく
べきだ。そんな風に考えた。
二人の歩く速度がいつの間にか逆転している。振り返った姉は、訝しげに眼
を細めていた。
「途中で言うのをやめるなんて、怪しい」
「大したことじゃないよ」
「よからぬことを考えているのなら、私にも手があるんだからね」
「手?」
ウィンクをした碧に、暦はぞくっとして身を引き気味にする。鞄の中で、乾
いた音がした。筆箱と縦笛がぶつかったらしい。
「たとえば、そうね、『相羽暦くんは私と一緒にお風呂に入ります。しかも、
近頃は身体をじろじろ見てきます』って、小倉さんに教えてあげるとか」
「偽情報反対!」
好きな女子の名を出され、暦はそう抗議するのがやっとだった。
* *
数年後、相羽碧のために名探偵を目指す男の子が、本当に現れる。だけれど
も、当然ながら、まだ本人達は知らない。
その話については、また別の機会に。
――おわり