AWC お題>すれ違い 1   永山


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#330/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  08/08/31  23:59  (445)
お題>すれ違い 1   永山
★内容                                         08/09/02 00:05 修正 第2版
 いや、かまわんよ。別に汚れた訳でも、濡れた訳でもない。
 それよりも、君みたいないい若者が、休みの昼からこんな店で一人とは、ど
うしたんだね。さっきから、しきりに出たり入ったりを繰り返しておるが。
 ああ、気になっていた。よければ、話してくれないかな。
 ん? 待ち合わせ相手と行き違いになったらしい? 何と、それだけのこと
だったとは。いやいや、すまない。君にとっては大事なことだろう。ただ、も
っとドラマチックな理由を期待してしまってね。
 行き違いというか、すれ違いになるかな。私にも思い出があるよ。ちょうど
いい暇潰しだと思って、聞いてみる気はあるかい? この雨だ、どうせ相手も、
じきに引き返してくるさ。
 うむ、結構。付き合ってくれて感謝するよ。
 あのときも、そうだな、最後には今日のように雨が降った。

           *           *

 最初の殺人から三年が経った。
 もう充分だ。沼島豊一(ぬしまとよかず)に制裁を加える権利が、私にはある。
 この男が当時成人し、かつ三人以上殺していれば、私も警察に出向いて、証
言をしただろう。しかし、沼島は高校生で、手に掛けたのは二人。死刑判決は
望めまい。私が直接、死刑を科すしかないのだ。
 三年という時は長かったが、その分、計画を練り、準備をすることができた。
沼島は乾登喜夫(いぬいときお)と帯谷真優子(おびやまゆこ)を、事故に見
せ掛けて殺した。同じ手段を私は執らない。発覚を避けるには、事故死か自殺
を偽装するのが一番だとは理解している。しかし、私は沼島を惨殺しなければ
気が済まない。加えて、事故死や自殺に見せ掛けては、沼島の悪事を白日の下
にさらせないではないか。罪を悔いての自殺なんてシナリオは、以ての外だ。
 神と悪魔に裁かれたような死。それこそが、沼島豊一にふさわしい。

 私と沼島のつながりは、謎求会というミステリ同好会に属していることのみ
にある。
 会の恒例行事となっている夏合宿に、沼島は今年も参加の表明をしていた。
この合宿で会員仲間を二年続けて殺しておいて、よくもぬけぬけと。その図太
さには呆れるばかりだが、そもそも、三年前の三月末、沼島が謎求会に入会し
たがために、事件は起きたと言える。
 高校二年生の沼島は、過剰なまでに自信に満ちた男で、この年頃にありがち
な悩みの欠片すら抱えていなかった――それが彼を見た私の第一印象である。
実際、これは間違っておらず、年上の帯谷に早速モーションを掛けていた。だ
が、既に彼氏のいた帯谷は、相手にしなかった。いや、この高校生を慮って、
きつい言い方にならないようにしつつ、固辞を続けていた。
 ところが、自信家の沼島は――周囲の人間は知るよしもなかったが――、帯
谷が誘いを断るのは、彼氏に遠慮しているためだと解釈した。帯谷の彼氏、乾
を排除すれば、帯谷は気兼ねなく我が胸に飛び込んでくると信じたのである。
 だから、沼島は乾を橋から突き落とし、殺害した……らしい。
 残念ながら、この件に関しては推測の域を出ない。帯谷の場合と違い、私が
直に目撃した訳ではないからだ。だが、ほぼ間違いないと見なしている。何故
ならば、沼島は帯谷を同じ橋から同じように墜死させたのだ。しかも、乾の死
んだ日からちょうど一年後に(そのために、帯谷は乾のあとを追って自殺した
とすら考えられている。遺書がないので、最終的な判断は下っていないが)。
 二泊三日の夏合宿は、八月中の週末を利して、謎求会会長の萩原行長(はぎ
わらゆきなが)が所有する別荘で行われる。昨年は、二年続けて死者を出して
いたため自粛し、場所を都内に移して日帰りで済ませたが、それ以外はずっと
会長の別荘が定番となっていた。
 ゲームソフトメーカー社長のミステリ趣味が高じて建てただけあって、それ
は別荘よりも館と呼ぶ方が似つかわしい、二階建ての洋館である。当人は、で
きれば古城風にしたかったと常々言っているが、私の目には充分に広く、大き
い“城”に映る。そう、殺人事件が起きるのにふさわしい舞台。
 館で殺人を起こすことに、持ち主の会長にはすまない気持ちもあるが、心中
で許しを請うほかない。他の場所を殺人の舞台にすることも考えなくはなかっ
たが、私と沼島が継続的に接近していられるのは、合宿の機会をおいて他にな
い。それに、ほぼ毎年通う内に、よいトリックを思い付いたというのもある。
会長の別荘でなければ実行不可能という訳ではないが、会長の別荘でなら失敗
しない自信がある。何故なら、会で行うゲームとして、いつか皆にお披露目し
てやろうと、密かにリハーサルを重ねていたからだ。
 さて、余計な能書きはここまでとしよう。このメモは、万が一にも私が沼島
を殺し損ねたとき、あいつが帯谷と乾の命を奪ったと示唆するために書き残す
ものなのだから、計画の詳細をだらだらと綴っても仕方がない。

 黙祷の時間が過ぎると、食堂はどこかほっとしたような空気に包まれた。
 萩原会長が、このあとはミステリ談義に花を咲かせよう、それが二人の供養
になると信じて云々と締めの言葉を述べることで、安堵した雰囲気はいよいよ
広がる。そして夕食が始まった。
 気持ちの片隅に引っ掛かる物やいたたまれない物が多少あっても、とりあえ
ず肩の荷を下ろせた――メンバーのほとんどは、これが正直な気持ちだったろ
う。
 今年の謎求会夏合宿に集まったのは、会長と沼島の他には、七名を数える。

・沼島の高校時代の恩師で、彼をこの会に誘った泉田東次郎(せんだとうじろ
う)
・会長の旧友で主婦の松岡俊美(まつおかとしみ)
・推理小説研究家の鷲巣重蔵(わしずじゅうぞう)は隠居老人で、年長者
・吉倉志保美(よしくらしほみ)は舞台俳優だが、ミステリ劇に出演し、ゲー
ムの声優を務めたのが縁で、萩原会長と親交を持つように
・会長の掛かり付け医、江ノ本竜彦(えのもとたつひこ)は、会長のミステリ
好きを呼び覚まし、会誕生のきっかけを作った
・秋塚丈治(あきづかじょうじ)は平凡なサラリーマンを自称するが、古書コ
レクターとして一目置かれる

 そして私、月影満(つきかげみつる)、推理作家の卵だ。この名前はペンネ
ームだが、皆と初めて顔を合わせて以来、月影で通している。
 無論、メンバーではない者も数名、館にいる。館の管理人である合田(ごう
だ)夫妻に、メイドが一人。萩原会長の秘書、小村麗奈(こむられいな)は、
仕事上の連絡係として同行していた。
 総勢十三。不吉だとか縁起が悪いだとかは、一切感じない。じきに一人が消
え、十二人になるのだから。
「調子はどうです、月影さん?」
 隣に座った泉田はそう尋ねてから、湯飲みの茶を何度も吹いた。猫背気味の
彼が猫舌とは、よくできている。痩身だからか、口をすぼめて目を細める様が、
やけに神経質そうに映った。
 私は例年通りの質問に苦笑を浮かべてみせ、皆にも聞こえるように声をやや
大きくした。
「十月末締め切りの賞に向けて、トリック重視のを書いています。あと、少し
方向転換して、来年一月末締め切りの賞をターゲットに、職業物とでも言うの
ですかね、専門色の濃いミステリを」
「二作、並行して書いて、大丈夫ですか」
「実際に執筆しているのは、締め切りが近い方だけですよ。一月末の方は、プ
ロットを詰めている段階」
「一本に集中した方がいいと思いますけどね。落選を繰り返しているんだから」
 泉田を挟んで私と反対側に座る沼島が、批判的にはっきりと言った。毎度の
ことなので、気にならない。私が三ヶ月に一度、会のためにこしらえる犯人当
て小説でも、不正解になると何やかやといちゃもんを付けてくるのだ。
「いっそ、君が挑戦したら?」
 向かいに座る吉倉が、箸を沼島に向ける。仕種だけでなく、声にも半ばから
かうような響きがある。自他共に認める“個性的な美人”で、嫌な感じはあま
りない。
「僕は――」
 答えようとする沼島を遮り、鷲巣が声を張る。声は元気だが、肌の色つやは
あまりよくない。健康そのものだったのが、ここ二年ほどで老け込んだように
見えた。年相応とすべきかもしれない。
「沼島君、君は宣言して賞に投稿するタイプではないな。周囲の人間には秘密
で、黙って投稿し、首尾よく行けば口外し、自慢する。賞に投稿する気があろ
うがなかろうが、皆の前では『いえいえ、僕なんて』と答えるだろうよ」
「――よくお分かりで」
 一瞬、笑顔を引き攣らせたようだが、すぐに修復する沼島。
「できることなら、この夏合宿までに成果を上げて、皆さんに報告したかった
のですがね。学生生活に忙しく、手が回らなかったもので」
「言うからには、腹案があるのだろう? どんなトリックを使うつもりだい?」
 銀縁の眼鏡をくいと押し上げ、興味津々、江ノ本医師が聞く。こんな質問を
するが、トリック偏重の読者ではなく、ストーリーはストーリーで楽しみ、ト
リックを珍重するタイプである。私も同じだ。
「喋れるようなものはないですよ。まあ、分類だけ言うと、密室とかアリバイ
工作とかいった、トリックを用いたことを疑われるような手段は、現実的でな
いから使いたくないかな。読む分には好きでも、書くとなると何だか馬鹿らし
くて」
「手厳しいな」
 私は一言だけ応じ、苦笑を浮かべてみせた。感情を偽りのそれとすり替える
のにも、ここ二年ほどで慣れた。
「あんまり、きついことを言うものじゃないわよ」
 松岡が会話を引き継いでくれた。丸顔でころころ笑っているが、いつもに比
べて化粧がおとなしめなのは、やはり哀悼の気持ちの表れであろう。
「沼島君も月影さんの犯人当て、楽しんでるくせに。毎回、完璧な正解を出せ
るようになってから、大口を叩きなさい」
「やれやれ。ここは大人の皆さんの忠告に従うとしましょう。でも、ま、近々、
出題者の立場になってもいいかなと考えてましてね。締め切りが近付いたら、
月影さんも執筆に集中したいでしょう。その間、僕が代理を引き受ける訳です」
「……悪くない話だね」
 当たり障りのない返事を心掛ける。いや、ここは「じゃあ、次回は沼島君に
頼むよ」と言っておくべきか? 彼に対して殺意のなかったことをアピールす
る意味で。
 そんなことを斟酌していると、会長が先に口を開いた。
「謎は多ければ多いほどいい。可能であれば、お二人に犯人当てを書いてもら
い、どちらの正解率が低いか、あるいはどちらが犯人当てとして優れているか
を競うのも、なかなか面白いのではないかな」
「私は量より質ですね。あ、別に月影さん達の犯人当て小説を悪く言ってるん
じゃないですよ。今の会長の発言に対して、ですから」
 黙っていた秋塚が、不意に発言した。ために、自然と皆の注目を浴びる格好
となった。目をしばたたかせ、ごま塩頭を振る。続けて何か言わねばと感じた
のだろう、唾を飲み込んだ。のど仏が動くのがよく分かった。
「ああっと、ついでに今回の合宿での懸賞品を発表させていただきましょう」
 合宿で行う犯人当て小説には、懸賞を付ける。購入費は会費から出すが、懸
賞品を用意するのは、多くの場合、秋塚の役目である。彼に任せれば、ミステ
リ関連の珍しい書籍やグッズを、比較的安く手に入れることができる。目利き
も確かだ。
「発表するのはいいが、披露はテーブルの上を片付けてからにしてくださいよ。
下手をして汚しては勿体ない」
 会長の忠告に、笑いが起きた。
 合宿全体の流れは、明るく和やかなものと決定した。

 夕食は午後八時で終わり、しばらく自由に過ごすことになる。
 私は計画の最終チェックをするため、そして下準備のため、早々に個室に向
かおうとした。逸るのはあくまで気持ちだけ、実際の態度や足取りは余裕ある
ものに努めた。急ぎすぎて何事かと注目されてはまずい。
 廊下まで出て、いくつかの部屋を通り過ぎた。そこへ。
「月影さん」
 沼島が後ろから声を掛けてきた。
多少びくりとするが、平静を装って応じる。さっきの議論の続きでもしたいの
だろうか。
「何かな」
 振り向くと、沼島は自身の部屋の前で、ジャケットの懐に右手を入れ、ごそ
ごそやっている。程なくして、財布が出て来た。
「前の例会で借りてた金」
「ああ」
 謎求会は月一ペースで例会を開いている。先月、珍しく沼島が参加したのだ。
この合宿の段取りを直接聞いておきたいとの意図だったらしく、ついでに参加
費を持って来ていた。が、何をどう勘違いしたのか、千円不足していたのだ。
一番親しい泉田は不参加で、借りる当てのない沼島に、私が千円を貸した。二
人の間に険悪なものはありませんよと、アピールするため。
「利子なしの代わりに、ピン札で」
 どうでもいいことを言うくらいなら、礼の一言でも付け加えたらどうだ。ち
ょっとしたことで、沼島に関してはいらいらを覚える。
「確かに」
 と、受け取った瞬間、相手がしかめっ面をした。同時に舌打ちも。何事かと
思い、その表情を見つめる。
「あ、いや、こっちのこと。ピン札のせいで、切れました」
 沼島が右手を広げ、こちらに見せる。人差し指の中程と親指の付け根付近に、
赤い筋ができていた。見る見る内に、血が滲む。
「こりゃ意外とひどいな。家政婦さんに言って、絆創膏を」
「平気っすよ。嘗めてりゃ、その内」
 あとの言葉がないのは、本当に傷口を嘗めたため。
「じゃ、またあとで」
 どことなく気取った身振りで言うと、沼島は宛がわれた個室に入って行った。

 夜十時過ぎ、大きなハプニングの発生が明るみに出た。
 夕食後は各人自由行動で、たいていの者は風呂をもらう等して過ごす。その
あと、十時に再び集まり、酒をやりながらミステリの話に興じるのがお決まり
のパターンだったのだが……一人、顔を見せないメンバーがいた。
 家政婦を兼ねる管理人夫婦の妻、合田政子(まさこ)が大広間に来て、萩原
会長に報告する。
「鷲巣さんの部屋を見て来ましたが、おられません。ノックに反応がなくて、
仕方なく、失礼をしてドアを開けたのですが……」
「ふむ。再集合の時刻を忘れるとは考えられんし、いくら気心の知れた集まり
とはいえ、鍵を掛けずに部屋を空けるのはおかしい。隅々まで見たのか? た
とえば、眠り込んでベッドから落ちたが、影になって見えなかったとか」
「いいえ、そこまでは」
 小柄な身体を縮める合田政子。使用人の立場としては、遠慮せざるを得ない
ということだろう。会長もその心情を理解したらしく、自ら腰を上げた。
「しょうがない。私が見て来よう。――皆さんは先に初めてください」
「ああ、私も着いていくよ」
 と、江ノ本医師。無精髭を気にする風に顎を撫で、よっこらしょと立ち上が
る。
「万が一、急病や頭を打って気絶なんてことであれば、処置が早い方がよい。
それに」
 ドアの方へ、会長を追いながら、江ノ本は不意に冗談めかした。
「ミステリではこのような場合、複数で行動するべきだろう」
「それならいっそ、全員で団体行動と行きませんか」
 沼島が真に受けたのか、冗談に乗ったのか、そんな提案をした。が、同調す
る者は現れなかった。
 会長らが出て行ってから数分後、我々が遅いなと口々に言いだした頃に、萩
原会長だけが、駆け足で戻って来た。その様子に、緊張感が走る。広間に残っ
ていた面々が注目する中、会長は息を整えて説明を始めた。
「皆さん、落ち着いて聞いてほしい。鷲巣さんは、部屋で亡くなっていた。し
かも、他殺の可能性がある」
 江ノ本の姿がないのは、蘇生を試みて手や衣服が汚れたため、着替え等をし
ているんだという。
「どんな様子だったのか気になりますが、今は警察への通報が先決でしょうね。
会長、もう済ませたので?」
 落ち着いた声で、秋塚が言った。だが、慣れっこになったのではない。その
証拠に、顔が青ざめている。
「ああ、そのつもりだったんだが」
 口ごもる会長。私には理由が分かっていた。自由時間を利して、電話の大元
を壊し、使用不能にしたのは私なのだ。会長の話では、故障なのか、それとも
意図的な破壊なのかの判断はできていないようだ。
 それにしても……私は困惑していた。通報を遅らせるのは、計画通り。しか
し、鷲巣を殺したのは私ではないのだ。
 電話が使えないことを知らされたメンバーは――おかしな表現かもしれない
が――色めきだった感があった。人里離れた館で、他殺とみられる遺体が見付
かり、電話が不通。これに興奮するのは、ミステリマニアの性であろう。
「それじゃあ、誰かが町まで行って、いや、町まで行かなくても、電話のある
家に飛び込んで、通報させてもらう、ことに」
 泉田の発言は、途中まで早口で捲し立て、やがて相手の反応を窺う風に、途
切れがちになった。
 我々は会長所有のマイクロバスに乗って、駅からここまで送られた。ガレー
ジには他にも普通乗用車が一台ある。通報を遅らせるために、私はそれぞれの
車両のタイヤ全てを切り裂いておいた。この館にスペアタイヤが四本あるとは
思えない。
「小村君に命じたんだが、ガレージまで行って、すぐに引き返してきた」
 会長の説明が続く間、私は鷲津の死についてのみ、考えていた。
 ひとまず、他殺であるとする。誰がやったのかも気になるが、この突発事を
受け、私はどうすべきかを決めねばならない。計画通りに沼島を殺害するか否
か。
 もし仮に、沼島が犯人だとすれば、奴は都合三名を手に掛けたことになる。
一連の犯行ではないかもしれないが、三人の命を奪ったとなると、死刑判決の
可能性が出て来るのだろうか。内二件が未成年時の犯行でも。
 そうする内に、江ノ本医師が戻っていた。この場の話題は、いかにして通報
するかがまだ続いている。
「一番近い人家まで、徒歩でどのくらい掛かります?」
 吉倉が会長に尋ねる。実際に彼女が歩くことはなさそうだが。
「別荘地という訳ではないからね。むしろ、ミステリらしい雰囲気を味わえる
よう、周りに他の家がない土地を選んだんだ。そもそも、どの方向に家がある
か、把握していない。となると、必然的に町までの道を下っていくことになる
が、アップダウンもあるし、さて……」
「歩くにしても、夜は危ないですよ」
 沼島が言った。表情を盗み見たが、いつもと違いは読み取れない。口調にし
ても平時と同じだ。
「明日、明るくなってからでいいでしょう。それまでの時間を、現場検証に当
てたらいいと思うな」
「現場保存ではないのかね」
 泉田が微かに目を剥き、咎める。この辺は教師だなと思わされる。対する沼
島は前髪を手で払い上げると、、分かってるんでしょ?とでも言いたげに、に
やりとした。
「保存はしますよ。でも、放っておいたら、消えてしまう証拠もあるかもしれ
ない。それをチェックする意味で、現場検証は必要なんじゃないかなあってこ
とです」
 泉田は首を左右に振り、判断は任せますとばかり、萩原会長の方を向いて嘆
息した。
「確かに、検証は必要だと思う。すでに江ノ本先生が遺体を動かしたこともあ
るし、現場の様子を細かく写真に撮っておけば、多少触っても大丈夫だろう。
もちろん、手袋を填めてだが」
「じゃあ、決まりってことで」
「待ちなさい」
 移動を始めようとする沼島を、萩原会長はいつになく鋭い声で止めた。
「部屋のサイズは分かっているだろう。全員で見るのは無理だ。それに、君に
は聞きたいことがある」
「何です、会長?」
 聞き返された会長は、江ノ本医師を見やった。話し手交代だ。
「鷲巣さんの刺殺体は、クローゼットの中に押し込まれていた。足を抱えて、
座り込む格好でね。扉がほんの少し、開いていたおかげで気付いたんだ。それ
はさておき、クローゼットの内側には、遺体の他にも証拠となりそうな物があ
った。まず、凶器が胸に刺さったままだった。抜いてはいないが、果物ナイフ
だ。恐らく、この別荘に元からあった物だと思うが、あとで確認を願う」
「それが僕と関係あるんですか」
 沼島が苛立ちを露わに、声高に聞いた。
「ここからが本論だ。鷲巣さんは血文字を遺しておった。平仮名で『ぬしま』
とな」
「ば……」
 声が途切れ、口をぱくぱくさせるだけの沼島。馬鹿々々しいとでも言おうと
したんだろうが、言葉にならないとみえる。
 ただ、驚いたのは私も一緒である。沼島が鷲巣を殺したのか? 犯人の名前
を直接書くダイイングメッセージなんて、ミステリの中ではなかなかお目に掛
かれない。犯人に気付かれて隠滅される恐れがあるからだ。だからこそ、死の
間際に被害者は驚くべき知恵を絞り出し、摩訶不思議な伝言を遺す。
 逆に、あからさまなまでに分かり易いダイイングメッセージは、真犯人によ
る偽装というのが相場だ。
「クローゼットの中に押し込められた段階で、鷲巣さんは息があった。最後の
力を振り絞り、犯人の名を書き、息絶える。犯人はそんなことには気付かない。
クローゼットの扉を閉めたあとだから。と、こんな解釈ができる」
「その血文字を見せてほしい」
 江ノ本による疑惑の提示に、沼島が当然の要求をした。

 家政婦やメイドによって、凶器に使われた果物ナイフは、この別荘の台所に
あった物と確かめられた。台所は出入り自由、使用人が常駐している訳でもな
いので、誰にでも持ち出せたとの判断が示された。また、果物ナイフ一本に注
意を払う人間はおらず、いつの時点でなくなったのか、不明であった。
 血文字は、沼島以外のメンバーも目にして、どのように読めるかの検証がな
された。とは言え、どこからどう見ても「ぬしま」としか読めないのは、明々
白々であった。広くないクローゼットの中、天地を逆にする等の試行錯誤は全
く不要である。そうすると、残る検討課題は、これが偽装である可能性だ。
 私の感覚では、殺人だとするなら、沼島らしくないやり口だというのが第一
印象だ。二度も事故死に見せ掛けることに成功した奴が、三度目はあからさま
な他殺を行うとは、考えづらい。よって、血文字は真犯人の偽装だと判断する。
 が、この推理を披露する訳にはいかない。沼島が過去に二人を死に追いやっ
た――少なくとも一人については私が証人だ――という“告発”を、現時点で
してしまうのは、計画の頓挫を意味する。彼には残酷な死を与えねばならない。
 であれば、鷲巣殺しの真犯人の意図に乗っかり、沼島を殺人犯に仕立て上げ
る方がよい。成人した今なら、沼島を死刑に追い込む道が開ける。ただ、遺体
があと二つほど足りないが。
 次の刹那、私の脳裏に閃いたのは、あと二人、誰でもいいから殺害して、そ
の罪を沼島に擦り付けることだった。無差別に三人を殺したとなると、死刑は
免れまい。身に覚えのない汚名を被って死刑になるなんて、沼島の奴にこそふ
さわしい。無論、問題は多い。流石に、二度も三度もダイイングメッセージを
用いるのは無理だろうから、他の方法で沼島を犯人であるように装う必要があ
る。それに、あいつを死に追いやるために、無関係な犠牲者二人を新たに出す
のは、本末転倒である。その程度の理性と冷静さなら、まだ持ち合わせている。
思い付きを私は捨てた。
「鷲巣さんが、いつ亡くなったかの見当が付けば、手掛かりになるのに」
 吉倉の呟きに、医者の江ノ本がすぐさま反応する。
「専門ではないが、おおよそは分かるぞ。さほど意味がないから、口に出さな
かっただけでな」
「何だって? 言ってくれよ!」
 噛み付くような乱暴な口ぶりで、沼島が江ノ本を睨む、追い詰められた心地
なのだろう。
「午後八時から十時までの二時間だよ」
 医者の返答に、多くの者が息をついた。会長が首肯しつつ、口を開く。
「要するに、自由行動の間ってことか。そりゃあ、手掛かりになりそうにない。
沼島君、アリバイ証明できるかね?」
「無理。食後すぐ、月影さんと立ち話をしたけど、すぐに終わった。あとは八
時十分から二十分間ぐらい、泉田先生と部屋で、近況報告みたいなもんを。そ
れ以外は一人だった」
「犯行には十分も要さないと推測できるから、アリバイ不成立か。ついでに、
みんなにも聞きたい。八時から十時まで、常に複数で行動していた、あるいは
他の形でもいいからアリバイの証明をできる人が、この中にいるかな?」
 誰もいなかった。
 女性二人がそれぞれ、入浴と身支度に二時間のほとんど全てを注ぎ込んだと
主張したが、主張が事実であっても、犯行所用時間が約十分と推測されるため、
アリバイは認められなかった。
「生きている鷲巣さんを最後に見た人は? 犯人を除いて、だが」
 犯行時刻を少しでも絞り込もうと、私は言ってみた。皆、思い出す風に視線
を走らせたり、首を傾げたりする。ほんの三時間ほど前のことなのに、なかな
かはっきりしない。
「八時過ぎに、食堂を出て行ったようだが」
「そのあとは、自室にいたんじゃないかしら? 全然見掛けなかったから」
「風呂に入った形跡はなかった?」
「衣服は、食事のときと変わっていない」
 結局、八時過ぎに食堂を去る姿が最後だったようだ。
「部屋に籠もって、何をしていたんだろう」
 疑問を呈する泉田に、会長が即答した。
「例年、鷲巣さんはこんな感じだったよ。研究の成果を少しずつまとめるのを
日課にしていたから、一人になれる時間があれば、書いていた」
 そう。私と違って、どこに応募するでもなく、公表するつもりがあるのかど
うかさえ分からないが、とにかく根気よく続けていた。あれは一種の執念と言
えた。三年前の合宿時なぞ、彼の個室だけ冷房が故障したのだが、それにもし
ばらく気付かず、窓を開け放って執筆を続けていたくらいだ。
「もしかして、犯人の目的は、研究成果の奪取?」
 全員を見回し、吉倉が言った。
「なるほど、今度は動機から攻めると。しかし……」
 会長は江ノ本医師と目を合わせた。互いに頷き、再び会長が喋り出す。
「鷲巣さんの原稿は、手付かずであったと思う。全部ではなく、部分的に数枚
が消えたんであれば話は別だが、多分、原稿は無事だ。異論のある者は言って
ほしい」
「鷲巣さんの原稿の全内容を、誰も把握してはいないんだから、そんな議論は
無意味ですよ。新しく書き上げた分を持ち去られたら、気付きようがない」
 無駄と感じた私は、ばっさりと切り捨てさせてもらった。早く、他の動機を
探りたい。
「うむ。そもそも、推理小説の研究がたとえどんなに貴重な内容でも、殺人の
動機たり得るとは考えづらい。別の動機があるとすべきだ」
「でも、この中に、鷲巣さんを殺したいと思ってる人がいるなんて……」
 松岡が震える声で言う。顔色も悪い。遺体を目にして以降、気分がすぐれな
いようだ。
「だが、外部からの侵入者が殺したというのは、まずあり得ない。そいつが偽
装工作するのに、『ぬしま』と書けるはずがないのだから」
「ですね。会長の名前なら、表札を見たとも考えられますが」
 相槌を打っておく。盗み聞きの可能性もわずかながらあるが、言い出すと際
限がなくなりそうなのでやめた。今は動機だ。
「最近の例会で、鷲巣さんと険悪になるほど激論を闘わせた人って、いました
っけ」
「うーん……議論の白熱はありましたけれども」
 秋塚が頭を掻きながら、思い出す風に応じる。
「それは毎度のこと。いちいち殺意を抱いていたら、命がいくつあっても足り
ないってやつになるかと」
「第一容疑者にも発言権はある?」
 沼島が軽く挙手。会長は黙って顔を向け、発言を促した。
「最近じゃなく昔だけど、月影さんの書いてきた習作を、全員で回し読みした
ことがあった。あのとき、鷲巣さんにトリックが古典作品の物と同じだと指摘
されたっけね」
「覚えている。それが何か」
 言いたいことは即座に察したが、話を聞いてやろう。殺意を持続する燃料の
足しになる。
「自信があったのに、そんな指摘をされては、面目丸潰れで、悔しかったんじ
ゃないですか? 言ってみれば、恥を掻かされた訳だ。殺意に育つかもしれな
い」
「私はそうならなかったとだけ答えておく」
 舌打ちが聞こえた。煽るつもりが、当てが外れて悔しいのは分かる。しかし、
これほど感情を露わにするとは、普段の俊敏さが影を潜めている。沼島が鷲巣
殺害の犯人ではない証か?
「動機のことだが、こうは考えられないかね?」
 江ノ本医師が穏やかな調子で言い、悪くなった雰囲気をいくらか回復する。
「何かしらの悪事を働こうとしていた犯人が、鷲巣さんに見付かり、口封じの
ために殺害した。台所から果物ナイフを取ってくるという時差が、ちょっとお
かしいが、詰め寄る鷲巣さんを宥め、話し合いを持ち掛けることで時間を作っ
たのかもしれない」
「そういう動機なら、納得はできるが、誰にでも当てはまるという点では、あ
まり意味がない……」
 会長が率直な意見を述べる。
「それに、先生の仮説が当たりだとしたら、犯人はまだ本来の目的を達成して
いない訳だ。事件が続くとしたら、これほど恐ろしいことはない」
「次の事件待ちなんて、連続殺人を全員死ぬまで防げない自称名探偵じゃある
まいし」
 沼島が口の端を曲げ、揶揄した。踏み止まって、調子を取り戻しつつある。
「今の我々にできること、いや、一番優先すべきことは、自己防衛でしょう。
このあと嫌でも睡眠を取るが、次の事件を起こさせない、犠牲にならないため
に、個室に入ったら戸締まりを厳重にし、誰が訪ねて来ても入れないようにす
る。夜が明けるまでは、これを徹底してもらいます。死者が出るのは、もう御
免だ」
 それは萩原会長の決意表明のように聞こえた。

――続く




 続き #331 お題>すれ違い 2   永山
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