AWC 空腹(上)・岡 淳一郎


        
#312/598 ●長編
★タイトル (ktm     )  08/02/15  04:32  (421)
空腹(上)・岡 淳一郎
★内容
はじめに
 AWCに初めて投稿いたします。岡 淳一郎と申します。よろしくお願いします。
 私は、学生の時分に作家になる事を夢見て執筆活動をしておりました。この「空腹」と
いう作品は、大学で私が師事していた先生以外誰も読んだことのない小説で、長らく書
斎の肥やしとなって眠っておりましたが、誰かに読んでもらいたい、自分の青春時代、
その残滓にわずかでも価値を見出したい、そのような欲求が最近むくむくと育ってき
て、今回の投稿に至った次第です。
 この「空腹」は、アメリカの9.11同時多発テロとイラク戦争を契機に構想を練り、
書き上げたものです。日本人が、日本人としてある実存の危うさを、当時は表現したか
ったのだと思います。
 稚拙な作品ではありますが、最後まで読んでいただければ幸いです。

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

   空腹

                                                     岡 淳一郎

 赤く、そして熱すぎる照明の真下にからみつく二つの褐色の肉体から、狂気とともに
ビーズのような汗粒が砕け散り、光の紐帯のなかで霧となって消えた。歓声はスコール
がこの国の島嶼の大地を打ち鳴らす音に似ていた。命の震える音だ。ギャラリーは皆全
財産をかけているのかもしれない。日本のリングにはありえない現象がそこで起こって
いる。僕はただ薄い恍惚の膜に包まれて立ち尽くしている。嗚呼、自由、解放! 待ち
望んでいたものが、穏やかな確信とともに浮かび上がってくる。さあ、来てくれ、僕は
ここにいる! 静寂の叫びが僕を捉えた。二人の生け贄は全身を血に浸している。鈍重
な響きとともに額と額が衝突するたび、また新しい飛沫があがる。それでも、彼らは決
して退かなかった。そしてその瞬間に立ち会う誰もが、彼らが退かないことを当然のよ
うに思っていた。割れた酒瓶の破片やトトカルチョのはずれ札が掃き溜められている壁
際、セコンドがワセリンを山のように盛ったコーナーポスト、型以上の仕事をしないレ
フェリーの捻れたネクタイ、ときどきカンバスの上に罵声とともに投げ入れられるごみ
屑、生命の輝きのようなグローブの赤、熱狂という言葉がいかにも陳腐に思えるこの空
間、その簡素な闘技場のすべての要素を、ある絶対的なベクトルが、支配し、僕たちを
あるべき方向へと誘っている。ただひとつ、秩序と親和に基づく単純明快な暴力の模造
物を渇望する方向へ。鉄のように鍛えられた拳が肋骨の浮き出た脇腹に突き刺さり、粉
砕した。僕は、勝負は決したと思った。しかし硬直した頬を苦悶に歪ませた男は突如崩
れかけた膝をロケット弾のように跳ね上がらせたのだった。刹那の交錯のなかで己の勝
利の幻想に盲となった愚者のこめかみに、硬いもの、肉にめり込む鋭角的なものが、打
ちつけられた。リング上に血が踊った。肘だ。戦慄が走った。感動といってもいい。僕
は突き動かされるように立ち上がっていた。殴る、殴る、殴る、絶対的に正しい暴力
で、殴る、いつまでも、殴り続ける。そのリズムが単調になると僕はふとこの永続的な
行為に終わりを見失う、そしてだからこそ沈降していこうとする深い自身の願望を見出
す。僕は深海の暗闇のように望んでいる。深く、暗く、沈め。瞬間、塗炭屋根を支える
剥きだしの鉄柱にぶらさげられた裸の電球がひとつ、ぷつりときれてそれきり二度とつ
かなかった。バチバチッと漏電する音が短い白昼夢から覚醒した僕の頭上に淀んでいた
はずだが、けたたましく打ち鳴らされるゴングの怒濤に掻き消されて注意を払うものは
一人もなかった。レフェリーが担架を呼んでいた。彼の腕のなかで弛緩している敗者の
体は、まるで死んでいる人のもののように見えた。それとは対照的に勝者はすべてを手
に入れていた。勝利とは即ち、彼にとってすべてであった。彼はセコンドと抱きあった
り宙返りしたりしてから、高々と諸手を掲げ裂けた唇から吐き出すように勝ち鬨をあげ
た。意味は理解できなかった。ジャワの言葉らしかった。拍手と罵倒が入り混じって彼
の疲弊しつつも充実した心身に降り注いだ。それがこの国の、インドネシアのボクシン
グの習慣なんだろう、僕はそのように想像し、リング上をえもいえぬ羨望の彼方に見上
げた。彼にひきかえ、僕はなんてつまらないんだろう。いや、僕だけじゃない、僕をと
りまく日常、社会、良識、あらゆるものがつまらない。そして、夢現の狭間に見たひと
ときのまどろみから覚めた今、僕のすべてはあの絶対的なベクトルを失って、再びもと
の弾かれたパチンコ玉のように無軌道な個体へと堕落している。嗚呼、惨めだ、そして
つまらない。リング上の汚らしい拳闘士、僕はこの男を一度日本のリングで見たことが
あった。彼は日本の有力ジムの元チャンピオンの再起戦の相手として招かれたのだった
が、試合開始一分でボディを打たれて呆気なく倒れた。あまりにもへなへなと倒れたの
で八百長ではないかと疑ったが、その疑念はこの日確信にかわった。彼は強い。そして
強さを超越し、汚い。彼は日本人に星を売ったのだ。なんて汚れたボクサーだろう。あ
んなに強く、汚いなんて! 僕は身悶えうっとりとリング上を見上げた、まるで自分が
彼の愛人であるかのような錯覚をおぼえた。彼になりたい! 僕は魂の根底から願っ
た。強く、汚い、彼になりたい! しかし、嗚呼、僕の腕は糸ほども筋肉繊維を有しな
いかのように細く、僕の精神は戦後平等教育によって植え付けられた公序良俗によって
満たされているのだ。堪え難い羞恥心が穴から虫が這い出してくるようにわきあがって
き、魂に不均衡を生じさせる。ふと、目があった。腫れあがった瞼の向こうに見える奥
深い瞳。彼が、僕を見ている、血と汗でべったりと皮膚に張り付いている黒い前髪の隙
間から。僕は全身を俄かに硬直させて淡い期待に胸を震わせた。何を期待したのか? 
それはいかにも馬鹿げたことだ。彼は僕など見ていなかったのだから。まるで道端の小
石を見るかのような眼差し、眼中にないとはこのことだ。恥ずかしい! 僕には、彼が
僕のことを嫌悪の対象とみなしたのだと認識せざるをえないような強迫観念が巣食って
いる。だから、恥ずかしいのだ! 僕は逃げなければならなかった。恐慌が大津波のよ
うにやってくる。慌てて踵を返し人込みを掻き分けて、途中で蹴躓いたり衝突した中年
男に怒鳴られたりしながら、ゲートへ一直線に走った。自分が、ピカドンに目をやられ
た被爆直後の亡者のように思えた。原爆資料館で見た全身の皮膚を糜爛させた人間の残
骸、そのフォルム、迫ってくる、安に恐怖というべきでない慄きの情動、日本の歴史の
終わりと始まりの瞬間、五十年以上の時を経てなお、人間の残骸であり続けるこの愚か
なチャイルド。
 眩暈と息苦しさに耐えかねて走るのをやめた。胸骨はジェットコースターのように浮
き沈みしてい、マラソンランナーの完走直後だってこれほど弱るまいと思えるほど僕は
体のいたるところに疲労と乳酸の蓄積を感じた。しかし、振り返って改めて己に絶望し
た。僕はこの狭いボクシングの闘技場のゲートからちょっとも離れてはいなかった。ふ
と僕の、子供のように脆弱な細い腕首を、法子が頑強に掴み捕えていることに気がつい
た。彼女は嘔吐物をその薄い唇の端にへばりつかせ、それを拭うことすら忘れて僕を見
据えていた。何か悪い呪いをかける幽霊のように見えた。呪いというのは、束縛のこ
と。
「何故急に走りだしたの、私から逃げようとしたの? 私がボクシングを見るのを嫌が
ったから怒ってるの? ね、そうなんでしょ?」
 被害妄想とヒステリーに駆りたてられた女の詰問が僕の鼓膜を無意味に反響する。嗚
呼、この感じだ、この人生自体が一枚の反古とかわらないというような諦念、僕は少し
ずつ平常の冷静さを取り戻していく。そして、波風のたたない海にすっかり馴染んで漂
流するいかだのように、つまらない自分と自分の従物たちに慣れていく。義務を全うす
る意識のもと、今度の旅行に際して買ったばかりのハンカチをポケットから出して法子
の口元に差し出した。彼女は不意に目の前に突き出された僕の手から少し首を竦めて亀
のように退いた。僕の仕種からドメスティックバイオレンスの萌芽を感じたのかもしれ
ない。だが、僕は女を殴ることは出来ない。そうやって教えられてきたから。僕はただ
薄く笑っている。おずおずとハンカチを受け取り紅を塗っていない肉の色そのままの唇
に押し当てる法子のこめかみが、食事で満腹したときに彼女が見せるのと同じようにぴ
くぴくと痙攣していた。僕はこの現象に目をとめておやと思った。
 法子の胃袋はおそらく空のはずだ。彼女は、一人でもボクシングを観戦するつもりで
いた僕に従ってリングサイドの一等いい席に座っていたのだ。試合はほとんど見ていな
いようだったが拳が重い衝撃音を響かせるたびに竦みあがって身震いしていた。それで
も僕は彼女に関するすべての思慮を破棄して少しも顧みなかった。しかし乱打戦がヒー
トアップしていくにしたがって増えていく血の飛沫が僕たちの眼前にまでぴちぴちと霧
吹きで吹きかけられたように流れてくるようになったとき、法子はグエエというセイウ
チの鳴き声に似た呻きを洩らして上体を屈め、鮮烈な嘔吐をした。僕は咄嗟に、ほとん
ど反射的に彼女の顔の前に両の掌でつくった杯を差し出して、酷く臭いたつ白濁の奔流
を受け止めていた。にもかかわらず、やはり僕はなおも法子には注意を払わないのだ。
彼女はどんな顔をしていたのだろう。自分の胃の内容物を躊躇なく素手で掬い上げる男
に愛情を見出していただろうか、あるいは労わりの言葉をかけてこない淡白な男に幻滅
していただろうか、どちらにせよ、僕にはつまらぬことだ。掌に残った温かなものをそ
の後どのように処理したのかも記憶にない、そのまま床にぶちまけたのかもしれない。
僕たちは実に、無価値で無意味だった。僕は、自分たちの存在の虚偽性を疑いえない。
にもかかわらず、法子は嘔吐してから五分と経っていないその汚れた頬を歪ませて、さ
も満腹そうにこめかみをぴくぴくと痙攣させる。おまえの胃袋は空じゃないのか! 僕
はそう言ってやりたい願望に急きたてられて苦しくなった。僕だけが空腹だ! 確かな
実在と物質的な喜びを備えた二人の共通項はといえば、胃液の酸っぱい臭いの残された
僕の弱々しい掌と彼女の清廉な吐息だけだった。
「君から逃げようとしたんじゃなく、ただ急激に神の啓示みたいに俺があそこにいるこ
とが不当なことのように思えたんだ」
 僕はきっと真意は伝わらぬだろうと思いつつ、また若干は意図的に伝わらぬように努
めつつもそう正直に吐露した。案の定法子は眉をしかめて非難の眼差しを誤魔化そうと
もせず、決して僕に同調する態度を見せなかった。
「それなら最初からボクシング観戦なんてしなければいいのよ。そんなことは日本にい
たってできることのはずだもの。何のために、私たちはこの国に招かれたのかしら?」
「それは、両国の文学を志す大学生の交流をうんぬんと、パンフには書いてあった」
「そうね、そのはずよ。でもね、出発前に話し合って決めたじゃない、これが私たちの
新婚旅行のかわりだって、お父さんもそのつもりで私たちがこの訪問団に入れるように
手配してくれたんじゃないの、方々に頭をさげて」
「うん、センセイには感謝しなきゃならない」
「そうじゃないのよ!」
 法子は悲鳴と区別のつかないような金切り声をあげ僕の顔にべとべとに汚れたハンカ
チを投げつけた。観光名所や繁華街では見慣れた日本人が自分たちの日常生活の場、い
わばテリトリーで痴話喧嘩らしきことを始めたとあって、軒先に座って足を伸ばしてい
る老翁、サッカーをしている子供たち、道の向かいの屋台でクレープのようなものを売
っている男、休んでいるリンタク(自転車のタクシー)の運転手、無関心に限りなく近
い関心が彼らの視線を僕たちの方に瞬時に引き寄せた。僕はまた恥ずかしくならなけれ
ばならない。骨ばった首筋を薄汚れたシャツの襟元から出した主婦らしき女が、対峙し
た僕たちの横をすっと通り過ぎるときに横目で盗み見ていく仕種、あれはきっと僕を後
で思いだし笑いするためのたねにしようと思ったのだ、そうに違いない! 僕は舗装の
めくれた道路の表面にじりじりと靴底を捻り込みながら、俯いて法子の叱責を受けてい
た。僕はじっと、ただひたすら、我慢していた。
「あなたは私のことを何だと思っているのかしら、私はあなたの付属物じゃないのよ、
私は普段から出来る限りはあなたの望むように一歩譲って生きていこうと思っているの
に、それなのにあなたは何、まるで私があなたの犠牲になることが当たり前みたいに、
失礼しちゃうわ、ねえ、何とか言いなさいよ、ねえ!」
 僕はそのとき何の前触れも根拠もなく島尾敏雄の「死の棘」の冒頭を思い出してい
た。夫が妻に詰られ、責めたてられる。僕と法子はまだ夫婦ではないし、この口論の原
因に情事が絡んでいるということもない、しかし、僕はこの着想に何か予見的なものを
感じずにはいられなかった。他にも、太宰治とか、萩原朔太郎とか、吉行淳之介とか、
妻に詰られていそうな文学者たちの顔が思い浮かんではさわさわと消えていった。彼ら
に関することを僕に刷り込んだのは、センセイだ。法子はセンセイの娘だ。法子はまだ
罵り足りないといわんばかりの顔で僕を睨んでいる、しかし、やはりこめかみをぴくぴ
く痙攣させている。彼女は、ろくでもない男に運命を委ねた哀れな乙女の幻想を自身に
演出させ、満腹しているのだろうか。辟易だ。
「私、ときどきあなたの愛情を疑うのよ」
 僕はなおも黙っている。
「でも、それでいいのかもしれないわ、そのさきに破綻が待っているにしても、私には
どうすることもできないもの」
 つまらない、嘘だ、欺瞞だ! しかしその言葉を口に出すことは、イスラム教徒が豚
肉を口にすることのように困難なのだった。法子に優しさに満ちた手つきでやんわりと
抱擁されたとき、僕は辻褄をあわせるようにぎこちなく笑った。いまだに反吐の臭いが
した。
 僕たちは婚約者のくせに接吻もせぬままお互いに体を離し、並んでジャカルタの郊外
の道を歩いていった。途中、床がごみ塗れになっている雑多な商店で2リットル入りの
ボトルウォーターを買って粘つく手や顔や首を濯いだ。法子のブラウスの襟にしみこん
だ水が彼女の下着を透かしていた。僕がボトルウォーターの残りを一口飲み下してから
差し出すと、法子は不意をつかれたみたいに驚いた顔をしながら首を大仰に横に振っ
た。僕が口をつけたボトルを嫌ったのか、この国の商品の衛生性を疑ったのか、わから
なかったがそれをわざわざ問うのは億劫だった。熱帯の熱気によって汗として吐き出さ
れた水分をちょうどそれに見合うだけ補充すると、僕は水が四分の一くらい残っている
ボトルを歩道の縁石の上に立てて置いた。暫くまっすぐ歩いて振り返ると、そのボトル
がなくなっていた。誰かが、おそらく現地の人が持っていったのだろう。少なくとも日
本人が路上に転がっているものを拾っていくことはないだろう。その日本人的な優越意
識が、僕自身絶大な親近感を抱いているインドネシアの庶民の人々を愚弄するものであ
るということは、不覚にもそのときは少しも思わなかった。
 一時間ほど歩いただろうか、その間僕たちは取り留めのないことを終始話し続けてい
た。法子は少女のようにはしゃいでいた。都市部に近づくにつれてリンタクが右往左往
していたアスファルトの歪んだ往来が途切れ、片側四車線もある道路にひしめく自動車
群の排ガスが午後の陽射しのなかで淀んで二百メートル先の視界を閉ざしていた。僕ら
と大してかわらないスピードで流れていく車道を原チャリが阿弥陀籤をなぞるように車
間を縫って走っていく。僕は次第に喘息もちの子供みたいにぜいぜいと息を荒げていっ
た。空気がにがいと、心が萎える。だんだん鬱屈としてきたところに、歩道を歩いてい
た僕たちの脇へ寄せて一台の白い日本製の車が止まった。こちらが気づいているのにク
ラクションを鳴らしたのが少し癇に障った。運転席に座ってハンドルを離しもせぬまま
首を揺すって後部座席に乗るよう僕らに指示している青年、そいつの名はハイリルとい
う。彼はいわば僕と法子専属の御守り役だ。ハイリルが法子の方を見ながら「Hurry!」
と叫んだ。法子は律儀に僕を振り返って、「急いで、だって」と通訳した。僕らが車に
乗り込んだことをルームミラーで確認したハイリルがゆったりとウィンカーをだして車
線に復帰しようとハンドルをきった。広い路側帯からそろそろと車と車の間に頭を突っ
込んでいって前が進むと同時に無理矢理に割り込んだ。僕の目には乱暴な運転に見えた
が交通の流れが途絶えないこの地区に住む人間にとってはこれが当たり前なのかもしれ
ない。ハイリルは運転を続けて前方を凝視しながらぶつぶつと独りごちるように英語で
喋った。彼の英語は実に流麗に聞こえた。そしてインテリの芳香が仄かにした。その言
葉を法子が一つ一つ丹念に拾って通訳する。
「ボクシング観戦など何の収穫もなかっただろう、もっと観光に適した場所を紹介した
のに、と言ってるわ。彼、怒ってるわよ。ハイリル、ユーライト、アイシィンクソート
ゥー」
 ハイリルと法子はそれから何か親しげに談笑していたが、その意味は単語を断片的に
掬い上げる程度にしか理解できなかった。LiteratureとかPoem、それからTohsonという
言葉が幾度となく飛び交っていた。藤村の話をしているらしかった。僕はハイリルが藤
村を知っていることを意外に思うとともに、不思議な尊敬の念を彼に対して抱いた。し
かし反面、僕や法子は勿論、日本人の殆どがインドネシアの文学をまったく知らないこ
とを恥じた。空港から直行してジャカルタ中心部にある大学の研究室で対面したとき、
彼は自分の名が母国の国民的詩人の名を拝借したものだといかにも誇らしげに胸を張っ
て語った。そのとき僕は咄嗟に、自分の淳一郎という名が谷崎潤一郎からとったもの
だ、と口から出任せで言った。ハイリルは谷崎を知らなかった。しかし、自分と同等か
それ以上の可能性を秘めた人間に対する尊敬と友愛の情を込めた握手、その手がすっと
彼から差し出されたとき、僕は兎に角逃げ出すこと以外考えていなかったのだ。僕は、
恥ずかしい、そして、羨ましい! 心の底では、このインテリめ! と虚しく叫んでい
たのに。
 深く沈んでいた意識から法子の声によって呼び戻されたとき、僕らの車は高速道路の
入り口を回っていた。法子が次の目的地をどこにするのか決めるように僕に言った。僕
は迷うことなく、こう答えた。
「もっと、ずっと郊外へ向かってくれ、郊外というより田舎というべきか、そうだな、
綿花の畑が延々と続いているようなところへ」
 法子は僕がそう言うことを予期していたらしく反論することなくすらすらとハイリル
に通訳して聞かせた。ミラー越しにハイリルと目があった。あからさまな落胆が見え
た。彼は僕に落胆しているのだ、僕のことを、何ものも学ぶ意志のない人間なのだと断
じたのだ。言い訳をするかわりに無言で窓の外の遠くを眺めやった。ジャカルタの、空
から蓋を被せたような重い雲間に、のっそりした高層ビルディングがぽつりぽつりと見
えた。摩天楼というには、物足りなかった。ハイリルはラジオの音量をでたらめにあ
げ、アクセルをぐっと踏み込んだ。それから僕たちは安っぽいカーステレオのひびわれ
た雑音のなかで、水槽を泳ぐ熱帯魚みたいにぷかぷかと、空々しく、各々の視線の一番
遠くばかりをじっと眺め続けた。ハイウェイを南下していく。綿花の畑は、一向に見え
てこなかった。
 僕は何を思い、何を望んでこの国にやってきたのだったろうか、疾走する景色に逆ら
うことなく流動する意識のなかでそんなことを思った。そもそも僕自身はこの訪問団に
参加することを極めて受動的に了承したのだった。
 その日は冬の終わりと春の始まりの境目くらいの時期であったか。大学での日課を終
え、いつものようにセンセイの自宅へ足を運ぶといつものように奥さんが出迎えてくれ
た。奥さんは顔の四角い頬骨のはった女性だが醜くはない。ただセンセイのほうが可憐
で細い顔立ちをしてい、それに似た法子は奥さんよりも数段美麗であるように思われ
た。センセイが帰宅するのは奥さんがコーヒーを入れ終わったときだ、大体いつもそう
なのだ。僕の姿を認めたセンセイはダックスフントに似た笑顔を見せて手招きし、一緒
に二階の書斎へあがっていく。その日は珍しくセンセイは論文の仕事を溜めていなかっ
た。普段より長く話し、それから将棋を指した。僕は麻雀なら負けたことがないが将棋
でセンセイに勝ったことがなかった。勝敗が決する前に法子が帰ってきた。彼女は僕の
見たことのないブランドものの服を着ていた。劇団員の友人が久しぶりに舞台に立つと
いうので楽屋へ遊びに行ってきたとのことだった。センセイは、あまりちゃらちゃらす
るな、と釘を刺したが、法子は殆ど意に介さないように見えた。センセイも娘を嫁にや
るかもしれない相手の手前そのように言ってみただけらしく、あまり気に病む様子もな
かった。夕飯は鯖の味噌煮だったように記憶している。奥さんの味付けは僕の母のそれ
よりもやや濃いめだが、大学に入学するのとほぼ同時に開始されたこの奇妙な、二つの
家を行き来するという生活に慣れるのと同様、すでにそれが当然のことのように思われ
ていた。食卓を囲んで結婚の話をした。僕は、今自分が非常に幸福でこれ以上望むべき
ものがないのだ、と思わなければならないというような義務感に捉えられていたのかも
しれない。そうでなければこの極端な善人たちに悪いような気がしていたのだ。だか
ら、僕は曖昧に笑っていた。笑っていると、センセイは急に真面目な顔になって僕と法
子を交互に見据えた。
「君たちが望むなら、私は君たちに新婚旅行をプレゼントする準備があるんだが」
 そう言うセンセイの唇が、金管楽器奏者のそれのようにふるふると小刻みに震えてい
た。僕の方をちらりと横目に見て、法子は自身の肉体のなかに蓄えられた若く健やかな
女性的なものを存分に発揮して微笑み、僕に顕示するようにこめかみを痙攣させた。セ
ンセイの姿が痩身のイエス、法子の姿が豊満なマリアの像のような神々しい光彩を放っ
ているような気がした。二人は凪の砂浜のような精神の平衡のなかですっかり満腹して
いる。僕には、あの人たちが眩しすぎる。しかし羨ましいとは少しも思わない。あの人
たちは、毒々しいほどに眩しすぎる。だからこそ僕の心象を羽交い絞めにしたあの言
葉、センセイの発した声音のただの一片!
 インドネシア! それは素晴らしい誘惑の香りに満ちた響きだ!
 この国より他の、未だ知らぬ大地に立てるのだという得体の知れない巨大な期待が心
底から膨れ上がっていき、瞬く間に僕の全身を蝕んだ。その未知の領域が現在僕が陥り
つつあるこの永劫の平穏を掻き乱すに足るものなのだと、何の根拠もなく信じられた。
嗚呼、インドネシア、ポップコーンを炒るフライパンのように熱く弾け鬩ぎあう様々な
民族のアイデンティティー、悪徳の政治に立ち向かおうとするなおも悪徳な若い力、飽
くことなき発展の意慾、なくしてしまった昭和、僕の夢想する昭和、それがその国には
あるはずなのだ! 僕は羨ましい、インドネシア!
 あの晩、僕はセンセイにその新婚旅行のプランを是非進めてくれるよう頼んで慇懃に
礼を言った。楽しかった。暇を告げて帰りの駅までの道を法子と歩いた。改札口で、僕
は法子に接吻をした。このとき僕は生まれて初めて自身の唇が女の肉の感触を捉えるこ
とができたと思った。翌日大学のセンセイの研究室で、ジャカルタの姉妹校との文化交
流を目的とした訪問団の派遣に関するパンフレットを受け取った。旅費は半額以上を大
学が負担するという破格の待遇であった。成績優秀な法子が訪問団に加えられるのは至
極当然のことなのだろうが、この大学で最も偏差値の低い学科に属し、しかもそのなか
でも群を抜いて学力の低い僕が選ばれることにはコネを使って無理矢理に推薦してくれ
たセンセイ自身ですら後ろめたいものを感じていたのではないだろうか。その恩を態度
で示す、というわけでもないが、僕はパンフレットとひきかえにセンセイに署名捺印済
みの婚姻届を渡した。センセイは少し寂しげな顔をして、「こんな紙切れ一枚に、人生
を定められてしまうのだから、実につまらないね」と言った。在り来たりな台詞だと思
った、だが、的を得ているとも思った。僕は、「つまらない自分から脱却するよう努力
することはできます」と答えた。そのためにインドネシアに行くんです、とまでは言わ
なかった。センセイは薄く笑っていた。
 まどろんでいた瞼に真っ赤に染まった西日が側面から差し込んできた。窓に映った景
色は驚くほど平坦で、地平線に炎の房が被さっているように見えた。車はなおも走り続
けていたがすでに高速道路は降りているようだった。法子は両手を頬の下に挟み込んで
窓の縁に頭を凭せ掛け、悪路を疾駆する衝撃に上体を揺すられながらも深い寝息をたて
ていた。ハイリルは僕が目を覚ましたことに気がついているようだったが何も話し掛け
てこなかった。ラジオのノイジーな音ばかりが、相変わらずじくじくと僕の体に染み込
んでくる。嗚呼、ここは本当にインドネシアなのだろうか? 僕の望んだインドネシア
の偶像が、水にぬれた砂糖菓子みたいに掌のなかで脆く崩れていくようだった。失望、
未だにつまらない自分への失望! 露骨な太陽に焼かれた瑞々しい肌をした路傍の庶民
たち、汚い政治のもとで私服を肥やした父に庇護されインテリジェンスを独占している
ハイリルのような青年たち、この国の人々、彼らはこれほどまでに生き生きとしている
に! 僕は彼らを羨ましがるだけしかできないだなんて!
「ハイリル、プリーズストップザカー」
 言葉が無意識のうちに口をついて出た。ハイリルは返事をしなかったがエンジンはす
ぐに回転を緩めていった。前を行く車も、後続車もない。舗装の為されていない広い農
道の真ん中だった。僕がドアを開けて出て行くのとハイリルがサイドブレーキを引くの
とはどちらが早かっただろうか。スニーカーのソールに砂礫の感触がはっきりと伝わっ
てくる。視界一面を覆うように縦の格子が道に沿って連なって、僕を捕らえているよう
に錯覚された。そこは、見渡すかぎりのサトウキビ畑だった。収穫を直前に控えてすで
に青さを失いつつあるその一本一本の佇立が、個としては脆弱極まりない実在を集団で
補って圧倒的な質感を津波のように叩きつけてくる。僕はその力の流れに逆らう術を知
らない。雑草に縁取られた彼らの領域ぎりぎりの縁辺を、心霊が何処か目指すべき一点
に引き寄せられていくみたいにふらふらと彷徨っていった。ハイリルが何か背後から怒
鳴ったのかもしれなかったが、僕はそれを黙殺した。あるいは僕はあらゆるもの、あら
ゆる無価値なものをあの車に遺棄して、このサトウキビ畑のなかで息絶える自分の姿を
夢想し、狂酔していたのかもしれない。それはいかにも甘美な夢想であった。粗悪な密
造酒に酔ったような感覚とひどい草いきれ。歩調は緩やかだが、全身を駆け巡る血管が
急な傾斜を転がり落ちていく魂の加速度を敏感に拾いあげていく。僕は何処かに向かっ
ているのだ。鮮明な確信が心に満ちていった。そして、耳の奥に響いてくる、あの歓
声、ボクシングの闘技場で聞いたあの魂を震わせる轟き、ザーザザー、ザーザザー、疲
弊しきった肉体を侵蝕していく。
 スコール、この国の拍動。
 白の絵の具を塗りたくったカンバスのような天空を、神に祈る民のように仰ぎ見た。
眉間から鼻梁、口唇のくぼみへと滑り落ちてくる生温い滴りが僕を満たしていく。ザー
ザザー、ザーザザー、一滴一滴が、サトウキビの細い胴体に弾け、砕け、彼らの深い懐
のなかで反響する、その波紋が、僕の鼓膜に心地よく伝播してくる。溶けていく! 僕
は己が肉体がこの別乾坤を満たす溶液のなかに融解していくのを予感し、希望せずにい
られなかった。人類の傲慢、虚栄、破滅の警鐘として天と地に降り注ぐ塵芥を洗い清め
る酸性雨、繰り返される穢れた業を贖うために選出されたこの生け贄の心身を蝕んでい
くがいい。僕は人類すべての罪の歴史を請け負って、この大地に溶け込んでいくのだ。
輪廻からの解脱。僕は魂の根底から熱く望んでいる。夕立は雲間から漏れるか細い陽光
に透けて巨大なベールを世界に被せたかのように映えていた。道は瞬く間に長大な泥濘
の帯に変じ、絶え間なく跳ね上がるこげ茶色に濁った水滴がズボンの裾を汚していくが
僕はそれに少しも頓着せずに一心不乱に歩き続けた。行けども行けども、景色は変容す
ることを知らぬかのように思えた。独りだ。世界が、閉ざされている。僕が望んだ世界
だ。
 僕の名を呼ぶ声がした。僕は振り返らなかったが、一瞬の幻想の狭間に見た小さな世
界が、鏡の壁を打ち砕くかのように鮮烈に音をたてて瓦解したのを感じた。法子が短足
な家鴨のように駆け寄ってくるのが見えた。短めのスカートから露出した素足に泥が跳
ね上がっていたが、雨粒はその汚れを一瞬のうちに抱きかかえて滑らかに彼女の足下に
滴り落ちていった。メープルシロップの色に染められた長い髪が一つの重い塊になって
肩に垂れている様が、シャワーを浴びた後まったく無防備で捻れた寝巻きの襟から紅潮
した首筋を剥き出しにしているその女の、女としての要素を僕に思い起こさせた。法子
は目の前で急ブレーキをかけて立ち止まり、開口一番で雨に好き放題打たれているこの
愚かな行為を嘲弄されるだろうと思い定めている僕に向かって、意外なほど穏やかな口
調で囁きかけてきた。
「服は、すぐに乾くわ、この国は熱すぎるもの。それにしても、この一面のサトウキビ
畑、これがあなたの望んだ、景色なのかしら?」
 それはともすると雨音に掻き消されかねないかすれた微声であった。返事をする間も
なく、法子はするりと流れるように僕の横をすり抜けて歩きだした。僕は暫く彼女の、
雨の膜に守られているかのような小さな背中を見つめてから、二間ほど後ろに離れてつ
いていった。ずっとこの距離を保って歩いていきながら僕は何を考えていたかという
と、それは自分がこの女性を愛しているかどうか、といういかにも不毛な思慮であっ
た、が、僕は自分が女性に関しての懊悩に押しつぶされていった文士たちの精神体験を
模倣しているにすぎない、文学への憧憬のごみ屑にすぎないことを重々承知していた。
くだらない、空虚だ、その寂れた声音が脳内を木霊する。ただ、やはり自分はこの女と
結婚するだろう、そして極めて凡庸な日本人として戦争反対の平和主義のもと、てめえ
勝手に安穏と老いていくのだろうという意識だけはまるで生得のもののように心底に沈
殿していた。僕はこの国にやってきてから幾度となくその現実的な確信に直面してき
た。この国の人々と向かいあい、彼らを羨ましいと思うたび、己のくだらなさを痛感す
るたび、その反動として絶望的にその現実への服従心に立ち返る。この国を湛える神の
雫、スコールに溶け込んでいけない僕の肉体が、何よりもその明白な物的証拠なのだ。
是が非でも法子を愛さなければならない、さもなくば、現実すらも、無となる。僕は急
激な焦燥に駆られながら、すでに溺死した亡者がもう手遅れになっていることに気づか
ずに藁を必死に掴もうとするみたいに、法子の細い肩を後ろから両手で捉えた。我なが
ら滑稽なくらいぎこちない手つきで彼女の背中を自分の恐ろしく薄い胸板に押し当て
た。ふらふらとじゃれあい絡みつきながら、歩いていった。僕たちは恋人のように、あ
るいは恋人らしく、笑っていた。恋人を偽装している、とも考えられた。しかし法子は
僕の腕に少しも抗わず、穏やかに微笑している。僕たちは恋人だと信じなければならな
い、そう思った。
 そんな心象に自我が埋没していくのを自覚していたあの時、あの場所、あの雨のなか
で、僕はあの人に出会ったのだった。僕は運命という言葉を信じない、だが、宿命とい
うのは、あると思う。神の掌からはみだして己の強固な意志でもってそうせざるを得な
い、宿命。
「ねえ、あの人、あんなところに立ち尽くして、どうしたのかしら」
 法子はふと僕と指を絡ませていた手を解いて、雨の帳の向こう側の薄ぼんやりと像を
結んでいく人影を指し示した。道の真ん中で傘も差さずに、案山子と見まごうような寂
しい人影だった。遠目にはサトウキビの半分も背丈がないように見えたため子供だろう
と察せられたが、近づくにつれてそれが間違いであることに気づく。相手が子供でない
ことが知れて僕たちが自然と体を離したのと、その人の姿がはっきりと視認されたのは
ほぼ同時であっただろう。その人は本来上半身を覆うにすぎないポンチョに似た雨合羽
で頭から地面すれすれまでのほぼ全身を包み、膝を抱え込むように背を丸めて立ってい
た、基、背を丸めないと立っていられない様子だった。骨が突出しているため怒って見
える肩と直角にぶらさがるように項垂れている頭部、その重みに堪えかねた背骨が限界
まで弦を張られた弓のように軋んでいる。僕たちが目の前にしている、中ほどから折れ
て細い繊維の束が露骨に悲鳴をあげているサトウキビの茎に似ていると思った。あるい
は「ノートルダムの鐘」のせむしか。僕たちとの距離が一間ほどまで接近したとき、そ
の人は鷹揚に顔をあげた。その顔は紛れもなく、二十四時間を幾万回と繰り返しその星
霜を余すところなく柔肌に刻み込み続けてきた白人の老婆のそれであった。法子が労わ
りを込めて身を屈め微笑みかけると、老婆は頬の肉の皺を上に持ちあげて表情をくしゃ
くしゃに潰して見せた。笑っているらしかった。フードの下から覗ける痩せた前髪が雨
粒に弾かれて薄い睫毛にかかっているのが衰えたとはいえ未だに女性的な微光を宿して
いることを主張しており、印象的だった。弱々しい背中が水滴に叩かれている様が不憫
に見えて、僕は思わず彼女の肩を支えて体を軽く擦ってやっていた。僕の顔を亀みたい
に首を伸ばして見上げてから白人の老婆はヨーロッパ圏の言語らしい言葉で何かを囁い
た。その意味は僕にも法子にも理解できないものだったが、その穏やかな口調から僕に
礼を言っているのだろうと推察された。「ウェアーユーフロム」と尋ねてみると「The 
Netherlands.」と鳥の鳴くような繊細な声で答えた。すかさず法子が「オランダよ」と
補足した。法子はこの老婆に不思議な友愛の情を感じているように見えた。二人が英語
で二言三言会話を交わすと、曾祖母と曾孫ほど歳の離れた女たちの顔に慎ましやかな花
が咲いた。不意に老婆が「Where are you form?」と僕に聞き返したので「ジャパ
ン」と答えると、彼女は本当に嬉しそうに頷いてまた何かを言った。その口振りがあま
りにも躍動的だったために僕は一瞬この人の若かりし日の姿を錯視したような気がし
た。厚く重なった口唇から雨の雫が吹き散らされていた。老婆と目を見詰めあって話し
ていた法子が突然「ずぶ濡れの恋人たち」と呟いた。それから老婆が僕の腰をぽんぽん
と叩いて掠れ声を窮屈に張り上げて笑った。それを見た法子は苦笑いを浮かべて紅潮し
た。淫猥な会話が為されていたのかもしれない。老婆は天使のように清々しい人物なの
だった。その柔らかい雰囲気を崩さぬまま老婆はすっと真面目な顔をつくって僕たちの
手を軽く引っ張った。何処かへ連れて行こうとしているらしかった。
「お婆さんが話を聞いて欲しいと言っているの、コンフェッション、告白という言葉を
使っていたけど、なんでも日本人の若者に聞いてもらってこそ意味のある話なのだそう
よ」
 法子は急に神妙な面持ちになって僕に告げた。老婆はサトウキビ畑のちょうど切れ目
に食い込んで建てられているバス停留所を目指して歩いているらしかった。彼女が「The
 rain will stop soon.」と囁き空を見上げたとき、何故か僕はその告白とやらを聞
いてやろう、という気持ちになっていたのだった。老婆の言うとおり、雨雲は徐々に薄
く平らに伸びて北へのぼっていこうとしていた。あちらはジャカルタだろうか、ふとそ
んなことを思った。停留所の屋根の下に入ると老婆は日本人の真似のつもりか、深々と
頭をさげて僕と法子の手を解放した。それから発した彼女の英語は僕には頗る難解であ
ったため、法子の通訳なしに理解することは適わなかった。だが通訳している法子のほ
うは、本当の意味での真意には到底至っていないように見えた。ここからは僕は法子の
通訳の言葉をそのまま書くということはせずに、通訳から受け取った内容を僕自身の文
学のイメージで編纂しなおした形をとりたいと思う。それは偏にこの老婆の告白が、僕
にいつか聞いたホメロスの膨大な叙事詩を吟ずる吟遊詩人のうたごえを想起させたから
である。それほどの深みと威厳を込めて老婆は語り始めた。細く遠のいていこうとする
雨音がその上に柔らかく被さって、彼女の生きてきた時間に悠久の奥行きを与えている
ように感じられていた。






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