#285/598 ●長編 *** コメント #284 ***
★タイトル (RAD ) 06/08/25 23:04 (381)
白き翼を持つ悪魔【14】 悠木 歩
★内容 06/08/28 22:56 修正 第2版
一瞬、全ての時間が止まる。
いや、実際に時間が停止することなど有り得ない。止まったかのように感じた
だけに過ぎない。しかし健司はしばらくの間、指先すら動かせなかった。生きよ
うとするなら、逃げ出そうとするなら、またとない好機であるのにも関わらず、
健司の手の中に在る梨緒も動こうとしない。そればかりか空を舞う埃すら動きを
止めてしまったかのように見えた。
それほど突然の闖入者に、その場にいた者たちは驚かされたのだ。
「き………君は……どうしてここに………」
教室の入り口、室内よりなお暗い廊下に立っていたのは田嶋優希を名乗る彼女
であった。
両手を腰に充て、酷く憤慨した表情でこちらを睨み付けている。
「ちょっと、その手、何しているのよ」
明らかな怒気を含んだ声に、健司は慌ててしまう。
「いや、あ、これは」
つい、梨緒の首に掛けていた手を離す。梨緒は咳き込みながら、埃の積もった
床へと倒れ込む。
まるで予定外の行動だった。
幾度もシミュレーションを重ねていたはずの計画。目撃者を避けるため選んだ
この場所であったが、万一の事態も想定はしていた。邪魔さえ入らなければ、梨
緒の命を奪った後、火を放つ。目撃者が現れた場合でもそのまま梨緒の命を絶ち、
逃げ出すことが可能なら別の場所、それが敵わない状況であればここで自害する
つもりであった。
誰に見られても構わない犯行だったのだ。
しかし彼女にだけは、見られたくない。そんな想いが健司を支配する。
自分の愛した少女と同じ名と面影を持つ、彼女の前では自分の最も醜い姿を晒
したくはない。
なんとか言い訳の言葉を繕おうとして口篭る健司を無視し、彼女は梨緒の元へ
と駆け寄った。
「大丈夫? 梨緒、しっかりして」
抱き起こし、気遣う彼女を梨緒は戸惑いの目で見つめていた。
「えっ……あっ、えっ? アン…タ、どうしてアタシの名前を」
梨緒の問い掛けに、彼女は答えなかった。ただ優しく微笑むと、自分の手を梨
緒の手の甲へと重ねる。それから小さく首を傾げた。
そんな彼女の顔を横から見ていた健司は、強い息苦しさを感じた。梨緒の首に
手を掛けた時にすらなかった、激しい動悸に目が眩みそうになる。
「なんてことするのよ、このばかっ!」
健司の視線に気づいたのか、彼女が振り向き言い放つ。その口調は、怒ってい
るせいもあるだろうが、昨日までの彼女とはまるで違っていた。
「なんで君がそこまで怒る? 君だってそいつには、酷い目に遭ってるじゃない
か」
思わず叫んでしまった。叱られた子どものように。
ふいに彼女が健司より目線を切った。健司に怯えて―――ではない。悲しげに
目を伏せたのだ。
「がっかりだよ………身体ばっかり大きくなって、人の心が、ちっとも分からな
いんだね」
そして梨緒の手を握ったまま、その手を頬へ充てる。
「ごめん、梨緒。私が驚かせちゃったんだよね」
掛けられた優しい言葉に梨緒の身体が震えていた。それから嗚咽混じりに声を
出す。
「ほん……もの、なの?」
と。
その問いにも、やはり彼女は答えない。ただ見つめ返すだけの瞳に、梨緒は答
えを得たらしい。
「おあっ、うはあ、うわわん!」
これまで聞いたことのない声を張り上げ、泣きじゃくる。
彼女はそんな梨緒の後頭部を、軽く撫でてやる。まるで母親が赤子を寝かし付
けるかのように。
「何だよ、何なんだよ」
一人置き去りにされ、健司は叫んだ。拗ねていたのかも知れない。
「見てごらん」
彼女の鋭い口調は、健司に向けられたものだった。
「あっ、きゃっ」
続く少女のような悲鳴は梨緒であった。
そっと梨緒を立たせた彼女が、そのコートを下に着ていた服ごと捲り上げたの
だ。白い腹部が顕になる。いや、白ではない。梨緒の腹部には黒、赤黒い色が目
立っていた。
痣、のようである。
「それから、ほら」
コートを元に戻してやると、今度は彼女の細い指が梨緒の前髪を掻き分ける。
その額にも痣が見られた。
額ばかりではない。健司と梨緒、二人きりの時は興奮していたためか、全く気
がつかなかったが、右目の横、左の頬、そして顎。梨緒の顔には無数の痣、何者
かに殴られた痕跡があったのだ。
「どうして………?」
それはいずれも、健司には覚えのないものである。そこまで激しい暴力を振る
ってはいない。
「あのひと、に、やられたんだよね?」
梨緒に向けられる口調は、あくまでも優しい。まだ涙の乾かない梨緒だったが、
頬に充てられた彼女の手に安堵した様子で頷いた。
「アタシ、バカだから………」
鼻を啜りながら梨緒は言う。
「怖かった、の。だって、死んだ優希とそっくりな人が現れて、ケンちゃんの傍
にいるんだもん。なんだか、アタシ、責められてるみたいで、怖かったの」
「心にやましいことがあるからだ」
口を挟む健司に、彼女の厳しい視線が飛ぶ。
「あのね、梨緒は私に、あそこまで酷い暴力を働く気なんてなかったの。それを
あの男の人が、暴走しちゃったの。そう、だよね」
梨緒は首の動きだけで、彼女へと答えた。
「だからあの後で、梨緒はあの男の人とケンカしたの。もう、別れようって。そ
れでこんな目に遭ったの」
「ホント、バカだよね、アタシ。何度同じ目に遭っても、また同じような男と付
き合ってさ………バカだよ」
再び梨緒の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちる。
「尻軽女のくせに、ホントに好きな人には自分の気持ち、伝えられなくて………」
「ハハッ、本当に好きな奴? カマトトぶりやがって。告白でもなんでもすれば
いいだろう。はっ、お前が好きになる男だ、どうせロクな奴じゃ………」
健司は言葉を途中で呑む。また彼女に睨まれると思ったからである。
だが予想に反し、彼女が健司に向けたものは微笑であった。そして梨緒をそっ
と身体から離すと、こちらへと歩み寄って来た。
「最低」
一言、微笑を浮かべた顔で言う。
そして風のような速さで何かが動いたかと思うと、乾いた音が響き渡り、健司
は左の頬に熱を感じた。
それが熱ではなく痛みだと知ったのは、ややあってのことだった。彼女の平手
が健司の頬を打ったのだ。
「いい加減になさい、ばかけん」
自分はいま、間抜けな顔をしている。そう意識しながらも、どうすることも出
来ない。健司はただ、目の前の彼女を見つめるだけであった。
両手を腰に充て、厳しい眼差しを健司へと送る。凛とした表情は、どこか小生
意気な少女といった風でもある。
怒って少し歪められた唇。
微かに傾げられた首。
広げられた脚の角度。
全てが見覚えのあるもの。
決して忘れることの出来ないものであった。
「………うそ、だろ……」
音にならない声をだす。
身体が震える。
「君は俺をからかっているのか!」
思わず叫ぶが、恫喝するための声にはならない。癇癪を起こした子どもの声に
なる。
大声を出さなければ気が狂いそうだった。
絶対にあり得ない。
自分はあの時、優希の亡き骸を確認している。墓にも参った。そんな漫画や映
画のような話が起き得るものか。
ふいに健司の視界から険しい表情が消える。代わりに彼女が見せた表情は笑み、
であった。
「あ…………」
もはや間違いようがない。
失われたあの時から今日まで、忘れたことなどない。何度も何度も夢に見て、
それが現実でないと知り涙した。決して叶わないと分かりながら切望し続けてき
た笑顔。
「私、梨緒のせいで死んだんじゃないぞ」
彼女がどんな表情でその言葉を言ったのか分からない。溢れる涙で健司の視界
は完全に塞がれていた。ただその声はあの日まで、毎日聞き続けたもの。一つ年
下のくせにいつも健司より上に立って話す声。生意気で遠慮することがなく、小
憎らしく、そして愛らしい声、そのものだった。
健司は泣く。
大声を上げて。
およそ大人の男らしからず、みっともなく、無様に泣く。
上げる大声は言葉にならず。
ただ意味のない音を発するばかりであった。
暖かな温もりに包まれここまでの人生の中、最高の安堵感が健司の心に満ちる。
そのことが健司の涙に拍車を掛けた。
髪を撫でる細い指。
厚手の布越しに伝わる胸の温もり。
膝の柔らかさ。
この時間が永久に続くよう願いながら、健司は泣いた。
「ほんとうに、ホントに優希なの?」
いつの間にか眠ってしまったようだ。そんな声で我に返った健司は、優希の胸
から顔を離す。穏やかな優希の微笑があるのを確認し、ゆっくりと立ち上がる。
心なしか優希の顔が少し幼く見えた。
気づけば健司の横には梨緒が立っていた。先ほどの言葉は梨緒から優希へと向
けられたものだった。
「ん」
と、短く答える優希。小さく頷く。
「どうして、どうしてすぐに言ってくれなかったんだ」
つい大声を出してしまった健司だが、そこに凶悪的な興奮はない。それは大き
な声を出すことによって、相手の関心を惹こうとする幼子の精神にも似ていた。
「ごめんね」
笑顔のまま優希は頭を下げる。
「私も、ついさっき、思い出したばかりなの」
「記憶………喪失?」
優希の言葉を受け、頭をよぎった単語をそのまま口にする。
記憶喪失。
耳にする機会は多いが、実際に遭遇することはほとんどない言葉。しかしそう
考えれば辻褄は合う。あの日、何らかの事故に巻き込まれて優希は記憶を失った。
そのまま病院か、健司の知らない家庭で数年間を過ごす。そして偶然、街で健司
と出逢った。
それならば母親が優希の生存を知らないでいた説明も付く。
健司は優希を見つめる。自分の口走った言葉に、優希が頷くのを待って。しか
し、優希はただ微笑むばかりで何も答えない。
焦れた健司だったが、返事を促そうとはしない。代わりに傍らの梨緒へと視線
を遣る。梨緒もまた無言で優希を見つめていた。健司の言葉に同調する様子も、
更なる質問を優希へ投げ掛けるでもない。ただ無言で、寂しげに優希を見つめて
いる。その姿は既に何かを悟ってしまっているように、健司の目に映った。
分かっている。
健司にも分かっていた。
辻褄など合っていないことを。
砂浜に打ち上げられていたのは、間違いなく優希だった。
通夜にも葬儀にも参列し、棺の中の優希を見ている。
冷たくなった手にも触れている。
それにいま、目の前にいる優希は言っていた。
「私、梨緒のせいで死んだんじゃないぞ」と。
それは決して、命ある者の口にする言葉ではない。
健司の考えを察したのか、それとも偶然であろうか。ゆっくりとした足取りで、
優希は健司へと歩み寄る。
そして差し出した手を、ぽん、と健司の頭へと載せる。
「さあ、梨緒に謝りなさい」
姉を気取った口調。
年下くせに、いつも健司の上に立った、生意気で懐かしい物言い。
流し尽したとばかり思っていた涙が、また溢れそうになる。
「理由がない」
顔を背け、呟くように言う。
梨緒のせいじゃない。そう聞かされても俄かに得心のいくものではない。たと
えそれが当人の口から説明を受けても。優希の仇を討つ、その思いだけで今日ま
で生きて来た健司にとり、標的であった者に頭を下げるなど考えられない話であ
った。
しかし優希を目の前にし、梨緒に対しての憎しみなど無に等しいほどに薄れて
いた。もし優希がこのまま留まってくれるのなら、完全に忘れ去ることも出来る
だろう。ただ優希の言葉に、素直には従えない。幼い頃からの癖。
いつでも最終的には優希の意に従うしかないのだが、一度は逆らってみたい。
ただ強く出ることはない。控えめに異を唱える。確かに幼い頃には本心から優希
を恐れたこともあったが、いまは違う。
優希に異を唱えられるのが、嬉しかった。
「笠原健司」
改まった口調で、優希が名を呼ぶ。
これも昔と変わらない。
酷く怒ったときか、真剣な話をするときの優希の癖だった。
「あ、優希。私ならいいから………」
一瞬早く、優希の次なる行動を察した梨緒が、それを制しようと声を出す。や
や、遅れて健司もそれを読み取る。
再びの平手が、健司の頬へと飛ぶ。
既に読んでいた行動。かわすだけの余裕はあった。だが、健司はあえてそれを
受ける。
ぱん、と乾いた音が響くと共に、健司の視界の中を光が踊る。
火花が舞う、といった比喩ではない。本当に蛍光にも似た光が舞ったのだ。
「いい? あなたは間違っていたの。自分でも気がついているでしょ。だったら
すぐに謝るの。分かった?」
早口でまくし立てる。相手に有無を言わさない勢い。
以前は疎ましくさえ感じられた物言いが、とても心地よかった。
「じゃ、じゃあ、誰がお前を………お前はどうして………」
言いかけて、健司は顔を顰める。
どうして死んだんだ、それは決して口にしてはならない禁句に思えたのだ。
ひとたび、それを口にした途端、全てが消えてしまう。
午前零時を告げる鐘が、馬車を南瓜に戻したように、その言葉が魔法を解いて
しまう。そんな気がした。
ふう、と誰かが深く息をつく。優希だった。
「事故、事故なの、あれは。梨緒と別れたあと、考え事をしていて………足を滑
らせて、一人で海に落ちたの。間抜けな事故で死んだの」
ついに、優希自らがその言葉を口にした。しかし何も起こらない。ただ静かに
時が過ぎる。
「すまない」
健司が深々と梨緒に頭を下げたのは、ややあってからだった。
「いくら謝っても許されることでないのは、分かっている。これから、どんな償
いでもしようと思う。だけどいまは、こうやって頭を下げるしか出来ない。本当
にすまなかった」
後にして思えば、この時点で健司は本心から詫びていたのではない。
元々梨緒を犯人だと決め付ける確定的な証拠はなかった。
それでも優希の死をきっかけに歪んだ心は、憎しみの対象を欲し、そこに梨緒
を充てはめただけだった。優希の最期の時間、その一番近くを一緒に居たと思わ
れる人物、ただそれだけの理由で。
もしこの場に優希が現れずに、別の形で梨緒の無実が証明されたとしても、健
司はそのまま当初の予定通り、目的を果たしていたかも知れない。それを行うこ
とだけが、自分にとっての全てだったのだから。
しかし梨緒の無実を証明したのが他の誰でもない、優希であればそれを無視す
る訳にはいかない。何よりどんなに激しい言い争いがあったとしても、最終的に
は優希の意見に折れる。それが幼い頃からの習慣であった。
あるいはそんな健司の心を、優希は見透かしているのかも知れない。健司が梨
緒へと謝罪する一部始終に厳しい視線が送られていた。
その視線もまた、昔と変わりないものであった。学力に於いては優希に勝って
いた健司だったが、勘の良さについてはとても太刀打ち出来るものでない。
いまもやはり、健司の心底を見抜いているのだろう。そして強く咎めて来るに
違いない。
予想通りに、優希が口を開く。が、紡がれる言葉は健司の予測に反していた。
「ごめんね、梨緒。こいつ、本当にばかなんだから」
優希は少し困ったような顔で、梨緒に微笑んで見せる。それから、深く頭を下
げたのだった。
「それから、本当にありがとう。こんな大ばかを守ってくれて」
「……………」
その一言に、梨緒は崩れるようにして、膝を床に突く。優希がその胸で抱き留
めていなければ、そのまま倒れ込んでいただろう。
「……………の」
胸に抱かれたまま、梨緒が何かを呟く。泣いているようだ。嗚咽混じりの声に、
言葉は聞き取れない。
「守ったって………俺のこと、か? こいつがか」
梨緒を指差した健司は、つい「こいつ」と口にしてしまう。つい今しがたの謝
罪が形だけのものであったと、自ら露呈する。
「つくづく、呆れたばかだね、けんは」
「いくらなんでも、バカバカ言い過ぎだろう。俺の何がバカだって言うんだ」
長い時間は埋まっていた。
懐かしい、という感情さえ消えて優希と交わす健司の言葉はかつての姿を取り
戻す。
「あのね、あなたの出した手紙、何で梨緒がここまで持って来たのか分かる?」
問われ、健司は答えに窮する。いや、別段それが特別な意味を持つとは思えな
かったのだ。
健司の手紙、脅迫状を携えていたのは、単に呼び出された場所を確認するため
に過ぎないのではないか。それ以外の理由など、まるで想像もつかない。
「だからばかだ、って言うのよ。あのね、梨緒は………」
「い、いいよ、優希。言わなくても」
質問に答えようとする優希を、梨緒が制する。優希の正体にいち早く梨緒のほ
うが気づいたこともそうであるが、二人には何か互いの心情を理解しあっている
様子が窺え、健司にしてみれば少々面白くなかった。
「だめだよ、梨緒。ちゃんと話さないと、ばかには一生理解出来ないままなんだ
から。それは、けんの為にもならないことだもの」
優希の言いたいことはよく分からない。
しかしここに来て、健司は自分がとんでもない間違いを犯してようだと、少し
ずつではあるが思い始めていた。
優希と梨緒の交わす会話は、二人がごく親しい間柄であることを感じさせる。
少なくとも、優希を死に至らしめたのが梨緒であるのならば、とてもこのような
和やかさで会話を交わせるはずがない。
もともと確信のないまま、梨緒を犯人と決め付けていた強引さは、自らも承知
していた。いま、優希を失う前の、平静な精神を取り戻しつつある思考力で判断
すれば、それが如何に無謀な話であるのか理解出来る。
「考えてみて。もしここで、梨緒に何かあったら、どうなっていたかしら?」
「どうなっていたって………」
返答に困る健司に、優希はため息をついた。それを見た健司は、内心自分のせ
いではないだろうと思う。「どうなっていた」では質問が曖昧過ぎる。どうも相
手より優位に立った場合、いや、その対象は健司に限られるが、優希には自分の
中で理解した話を会話にする時、肝心な部分を省略してしまう癖があるのだ。も
ちろん、幼少時代に倣い、健司は不満を持ちながらも抗議はしない。
「きっと警察の人は、梨緒のうちを調べるよ。そして手紙を見つけたら、けんが
犯人だって、すぐに分かっちゃうよ」
「えっ?」
思わず健司は梨緒を見遣る。梨緒はまるで初対面の人と会う内気な幼子が母親
にするように、俯き、優希の後ろへと隠れた。
健司に完全犯罪を成し遂げる意思はなかった。母が他界し、迷惑を掛ける身内
がなくなったいま復讐終えた後、生きながらえるつもりもなかった。犯行後、証
拠が残ろうと残るまいと、どうでもよかったのだ。
ただそれは健司側の事情である。脅迫状を受け取った時点で、梨緒がそれを知
る由もない。
「予感は、あったの………」
らしからぬ、梨緒の弱々しい声。
「たぶん、ケンちゃんがアタシを疑ってる、って」
「?」
「だから………手紙をもらって……思ったの。もしかしたら、ケンちゃん、アタ
シを殺す気かも知れない。だから、ほら、アタシが手紙、持って来たら………後
で、ケンちゃんが処分出来る………でしょ?」
「ばかな! どうしてなんだ? 殺されると分かって、なぜここに来る。しかも
俺に証拠隠滅させるために手紙を持って?」
荒げられた健司の声に驚いたのだろう。梨緒は完全に優希の背に隠れてしまっ
た。
「ねぇ、いくら鈍いけんでも、そろそろ分かったんじゃない? 梨緒が本当に好
きな人が、笠原健司だってことくらい」
「ああん?」
口から漏れた声を、我ながら頓狂なものだと感じる。あるいは優希と梨緒とで
示し合わせて自分をからかっているのではないか、そんな勘繰りまでしてしまう。
「嘘だろ? お前………君にとってのぼくは、ただの金蔓に過ぎないはずだ」
そう言った健司へ、梨緒からの返事はなかなか戻らない。それどころか優希の
背中に隠れたまま、わずかに恥ずかしげな表情を見せるだけで、健司と目線を合
わせようとはしなかった。
金の無心にあたり、見え透いた嘘をつき、大げさにしなを作り、媚びる。それ
が梨緒の常套手段であった。だがいまの梨緒の様子は、それとまるで異なる。色
香の使い方を覚えた大人の女ではなく、恋する乙女の仕草であった。
「梨緒、ここから先は自分で言わないと」
「う、うん………」
優希に促され、おずおずといったふうに、梨緒は前に進み出た。
「ア、アタシ、バカだから」
一瞬、健司に向けた視線だったが、すぐに伏せられてしまう。
「こんなアタシでも、責任、感じてた」
消え入りそうな声。
違う、と健司は思う。そこに居るのは健司の知っている梨緒ではない、全く別
の少女。優希のことといい、信じられない出来事が次々と起こる。心が暴走し、
自分は現実と夢との区別が付かなくなっているのではないだろうか。
それからまた無言の時が続く。
俯いたまま梨緒は、恥らっているようでもあり、懸命に言葉を探しているよう
でもあった。
そんな梨緒の肩に、そっと優希の手が充てられる。その手の温もりに励まされ
たのか、梨緒が続きを語り出した。
「あの日、家にケンちゃんが来て………優希がまだ帰っていないのを知ったの。
だから、アタシ、ケンちゃんが帰ったあと、優希と別れた場所に行ってみた……
…」
言いながら梨緒の肩が震える。それを感じた優希は、今度は後ろから両手で肩
を抱くようにする。
「優希はいなかった………だから、いろいろ探してみた、でも、みつからなくて
………朝になって、家に戻ったら、先生からの電話があって………」
次第に聞き取り辛くなる声に、いつしか健司は懸命に耳を傾けていた。
優希が何かを耳打ちする。大丈夫かと、訊ねているのだろうか。梨緒は手で話
を続けると、意思表示した。
「優希が死んだことを知ったの。
アタシのせいだ、って思った。だってあの時、あんなところでアタシ、優希を
一人にして帰ったりしなければ………そう思ったの」
「だからそれは、梨緒のせいなんかじゃなくて、私が勝手に………」
今度は優希の言葉を梨緒が手で制する。それから更に梨緒は自らの言葉を続け
た。
「アタシ、ケンちゃんのことが好きだった。けど………優希のことがあってから、
顔を合わせるのが辛かった。ううん、ケンちゃんはアタシのこと、よく知らなか
ったみたいだから、アタシが一方的に見掛るだけだったんだけど」
ふう、と一つ、梨緒が息を吐く。
「だからここを離れたの。それなのに、あの街でまたケンちゃんに出会っちゃっ
た」
梨緒はこの出会いを偶然と考えているようだが、正しくない。その時点では実
行する決意は固まっていなかったものの、梨緒を復讐すべき対象としていた健司
には、その居所を把握する必要があった。同じ街に移り住み、梨緒に近づいたの
は計画の一部であったのだ。
「アタシ、本気でケンちゃんが好きだった。ここを離れても、その気持ち、変わ
らなかったから………嬉しかった。街で突然声を掛けられて、息が止まるくらい
に」