AWC この優しくも残酷な世界 [3/3] らいと・ひる


        
#247/598 ●長編    *** コメント #246 ***
★タイトル (lig     )  04/10/11  15:53  (486)
この優しくも残酷な世界 [3/3] らいと・ひる
★内容

■True magic


「キモいよな」
 頭の上を硬いローファーが踏みつける。彼女の口の中に砂利が侵入してきた。
鉄のような味もする。
「こいつ、昨日も訳の分からないこと喚き散らしていたんだぜ」
 必死で痛みを耐える。
「わたしも目撃した。なんか変な格好してたもん」
(聞こえない)
「こいつ頭おかしいし」
(聞こえない。聞こえない)
「そりゃキ○○イだもん」
(聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない)
「刃物とか持ってないよね、こいつ」
(聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえな
い。聞こえない。聞こえない)
「化け猫!」
(聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえな
い。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえ
ない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こ
えない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞
こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。
聞こえない。聞こえない。聞こえない)

 周りの言葉は、もう彼女の耳には届かない。



「ただいま」
 玄関の鍵を開けて、誰もいない空間に言葉を投げかける。もちろん返ってく
る言葉はない。
 廊下の先にある自分の部屋へ真っ直ぐに向かう。
 そして扉を開けて、今度は期待を込めて再び言葉を紡ぐ。
「ただいま」
「おかえり、有里守。ん? どうしたんや、ぼろぼろだぞ。まるで雑巾のよう
だ」
 雑巾なんて酷いなぁとの言葉を飲み込み、そのまま椅子に座ってドナルドに
向かい合う。
「ちょっとね」
 疲れ切った口調で有里守は答えた。
「虐めか?」
「うん。いつもの事だから、平気だよ」
 「いつもの事」という部分に諦めにも似た感情が込められている。
「平気じゃないだろ。いつものような汝のパワーを感じないぞ」
「……ねぇ、邪悪なものをやっつけるのにあとどれくらい時間かかるのかな?」
「それはわからない。向こう次第だな」
「……もう辞めたいよ。魔法使いなんて」
 その言葉の最後は涙で途切れる。
「弱気な事を言うな。孤独な戦いというのは汝にはちときついかもしれぬ。だ
が、汝がやらなくて誰がやる?」
 相変わらずドナルドは厳しい言葉を投げかける。
「……」
 だが、それに対抗するような気力は彼女には残っていない。
「汝はこの世界が嫌いか? 汝を虐げる者がいるこの世界に憎しみを抱いてお
るか?」
「……」
 そういえば、どうして自分はこの世界を憎んでいないのだろう。有里守は自
分自身に疑問を感じる。
「違うじゃろ。汝からはこの世界から去ろうという意志も、破壊したいという
衝動も感じられぬ」
「……」
 憎しみがなければ、破壊衝動は沸き上がらない。それは当たり前のことでは
ないのか?
「汝はまだこの世界を愛しておるのだろう? どれだけ周りの人間に虐げられ
てきても、汝はまだ人間という存在に希望を持っておるのだろう? 憧れてお
るのだろう?」
「……」
(憧れ?)
 思い当たることは彼女にはあった。心の奥底に沈んでいる一欠片の光。
「ならばこれは試練じゃ。虐めなど、ものともせぬ強い力を持て。強靱な精神
を鍛えよ」
 叱咤激励。自身には強力な魔力はないというけれど、ドナルドはいつもそれ
以上の力を有里守に与えてくれる。生きる気力を与えてくれる。
「……ドナルドはいつでも厳しいよね。きついことをいつも平気で言い放って
……それでもあたしを見捨てたりしないもんね」
 それはまるで親友のように。
「わかったよ。もう少しがんばってみる」
 有里守は精一杯の笑顔をドナルドに向ける。



 索敵しながら街を歩く。学校での事は考えないようにしよう。有里守は気持
ちをそう切り替えた。
 繁華街での見回りを終えて、自宅のマンションがある場所まで戻ってくる。
そして今度は住宅地を回ろうと考えた。
 高台の住宅地へと上がる長い坂道を歩いている時、彼女は見知った顔に出逢
う。
「あ、柊ちゃんだ」
 柊はまだ有里守たちに気が付いていなかった。声をかけようと手をあげた彼
女の動作が凍り付く。
 柊の真横から空を飛ぶ不気味な物体が迫っていた。
「邪なるモノ!」
 ドナルドがそう認識し、有里守は彼女へ危険を告げる。
「柊ちゃん! 危ない、避けて!!!」
「へ?」
 突然、大声をかけられたことに驚いて、彼女はバランスを崩し倒れてしまう。
だが、それが幸いして邪なるモノの直撃をなんとか避けた。
 有里守の目はまだ敵を捉えたままなので、すぐに攻撃の態勢に入る。
 捉えた先に左手を重ねた。
   A B R A H A D A B R A
「<雷石を投じ死に至らしめよ>」
 ここ数日の戦いで、有里守の能力は格段の進歩を遂げている。破壊力、そし
て速さもだ。
 50m近く離れていた敵に、一瞬で光の槍は到達する。
 そして閃光。
 仕留めたことを確認して、すぐに彼女のもとへと走り出した。負傷していな
ければいいと有里守は心の中で祈る。
「柊ちゃん」
 近づくと、柊の右足膝の部分から出血があった。転んだ際に擦りむいたらし
い。
「有里守ちゃん?」
 ようやく彼女は有里守の存在に気付く。
「大丈夫? わぁ、痛そうだね」
 彼女が大けがを負っていなかった事で、とりあえず有里守はほっとする。
「うん、ちょっとドジったわ」
「あ、そうだ。あたしんち、このすぐ近くなの。消毒しといた方がいいでしょ。
応急手当ぐらいならできるから」



 彼女を自分の部屋に連れて行き、椅子に座らせると有里守は救急箱を取りに
台所へ行った。
 いつも使っているその箱を開けると、消毒薬が切れていた事に気付く。そう
言えば、今日使い切ってしまった事を忘れていた。
 有里守は、部屋に声をかけると近くの薬局へと買い出しに向かう。ドナルド
がいるのだから、退屈はしないだろう。そう考えたのだ。
 家に戻って救急箱と新しい消毒薬を持って自分の部屋に向かおうとして、彼
女は大事な事に気付く。そういえば、机の上には他人に見られては恥ずかしい
ものが置いてあったのだ。
 今更遅いと思いながらも有里守は早足で部屋へと向かう。
「柊ちゃんお待たせ……」
 扉を開けて自分が危惧していたことが現実となってしまったことを嘆いた。
「おかえり有里守ちゃん」
 彼女は一冊のノートを手にしていた。
「あ……」
 遅かった。有里守は思わず机の上を睨む。ドナルドは無言だった。黙秘権を
行使する気だろうか。
「暇だから読ませてもらったわ」
「あわわわ……」
 と対応できない有里守。
「興味深い内容ね。でも、登場人物の名前がベタすぎない? たきがわ、すず
き、けのう、てづか。最初の文字を繋げて『た・す・け・て』か……ふーん、
で、有里守ちゃんは誰に助けてもらいたいの?」
「……」
 血液が凍るような感覚。頭から血の気が退いていく。
「内容も考えてみればすごいよね。これは有里守ちゃんの理想の世界なのかな?
もしかして現実では誰もに忌み嫌われ、誰からも愛されない。だから、愛され
る理想の自分を夢見ている」
 否定できるわけがない。彼女は完全に読み解いてしまったのだから。だが、
それは安息に付く死者の眠りを妨げる墓荒らしのようでもあった。
「返して!」
 有里守は咄嗟にそのノートを奪い取る。これだけは誰にも汚されたくない。
 どんなに罵られたっていい。
 どんなに痛めつけられてもいい。
 これだけは……これだけは誰にも触れて欲しくない。有里守の心は悲鳴を上
げていた。
 彼女が小説を書き始めたのはこの街の学校へ転校してきてからだ。妄想癖の
あった彼女は、現実ではなかなかできない友達をノートの中に創り上げたのだ
った。それは創作という形の中で一つの世界を構築しつつあった。
 綺麗で純粋で優しくていつもそばに居てくれる有里守だけの友達。
 恭子はもう一人の有里守。
 美沙も成美も手津日先生も、有里守を愛してくれる世界の一部。
 最近はドナルドのおかげで書くペースが遅くなっていたが、それでももう一
つの世界の日常はゆったりと流れていた。
 だからこそ、これは他人が触れてはならないもの。
 それなのに。
 柊に心を許したおかげで、隙ができてしまったのだ。
 現実に再び希望を持ってしまったのだ。
 その僅かな隙が命取りとなった。
 またしても、この世界に亀裂が入る。。
 二人の間を重苦しい空気が張りつめた。
 ばつが悪いと感じたのか、柊はしばらくの間、黙している。
 苦痛だけの時間が過ぎていく。
 後悔しか感じられない。
「そういえばさ」
 沈黙に耐えられなくなったのか、柊が口を開く。
 そして、つまらなそうに机の上のドナルドを小突きながら彼女は言葉を続け
た。
「ドナルドって赤さ加減がだいぶグロくなってきたよね」
 意味不明。
 赤?
 有里守の思考はその言葉の意味を求めようと宙を彷徨う。だが、結局は空回
りなまま。なぜなら、彼女には黄色以外に何も認識できないからだ。
「赤い部分なんてないよ」
「なんで? 赤い部分があるからドナルドなんじゃないの?」
 有里守は記憶の引き出しを探りながら、テーマパークで見たドナルドダッグ
を思い出す。たしかに、オリジナルは蝶ネクタイの部分が赤い色だったかもし
れない。
「柊ちゃんにはドナルドの蝶ネクタイの部分が赤く見えるの?」
「蝶ネクタイ? そんなもの最初からしてないじゃない。どういうこと? 有
里守ちゃんには赤い色は見えてないの? もしかして黄一色なわけ? 赤だけ
じゃなくて白い部分も見えないの?」
「そうだよ」
「だって、一色だけだったらドナルドってわからないよ。だってそれじゃただ
のピエロじゃん」
 悪寒が走る。崩壊が始まってしまったのか。それとも有里守は最初から気付
かなかっただけなのか。
「……」
「髪の毛と口の周り、あと両腕が縞々で血だらけ。服が黄色いからドナルドと
思ったんだけど、あ、胸の辺りに血文字でアルファベットが浮かび上がってい
るからこれが決定打かな。『M』ってさ」
 有里守が見ているのは全身黄色のアヒル。水兵帽を被ってセーラー服を着た
愛らしい姿。それ以外のものに見えるわけがない。
「……」
「ま、ドナルドの正確な名前は『ロナルド』らしいけどな」
 考えるまでもなく答えは出てしまった。
 柊の見ているものはディズニーの『ドナルドダッグ』ではなく、ハンバーガ
ーショップであるマクドナルドのキャラクター『ドナルド』なのであろう。
 有里守は混乱する。
(どうして見ているものが違うの? まさか……)
 彼女の推測は最悪のシナリオを意味していた。
「ねぇ、ドナちゃん、ちょっと聞きたいのだけど」
 沈黙。
 そういえば、この部屋に入ってきてからドナルドは一言も発していない。
「ねぇ?」
 その質問は、正面からの声によって消されてしまう。
「どういうことドナルド? 今なんて言ったの?」
「え?」
 柊の言葉に戦慄を覚える。
 誰が何を言った? ドナルドは未だに沈黙したままである。
「わたしを侮辱するつもり?」
 勝手に話を進めている柊。
「ちょ、ちょっと柊ちゃん?」
 有里守の言葉は届かない。彼女は机の上に置かれているドナルドを凝視して
いる。
「そりゃ、普通の人とは違った格好してるけど、でもそれを貶されるのはいく
ら私でも許さないわよ」
「ちょっと柊ちゃん。ドナちゃんは何も喋ってないわよ」
 ドナルドを机の上から持ち上げ、彼女から遠ざけるように有里守は胸元に抱
える。
「いくら有里守ちゃんでも、庇い立てすると許さないわよ」
 表情がおかしい。目が血走ったように、冷徹な殺意が込められていた。
「だから、何も喋ってない。そうだよね?」
 胸元のドナルドを確認する有里守。否定はしない。だが、肯定もしなかった。
「まだ言うの! 許さないって言ったでしょ」
 有里守はじりじりと壁際に追いつめられる。
 本能が危険信号を発していた。ここに居てはキケンだ。今すぐこの場から逃
げなければコロサレテシマウ。
「有里守逃げるんだ!」
 その時、急にドナルドが声を発したような気がした。
 彼女はとっさに柊に対してタックルを喰らわすと、そのまま部屋から飛び出
て、外へと逃げ出した。
 そして、追われる。
 柊は有里守を獲物のように追いかける。追いつめる。
 有里守は混乱して手足が思うように動かない。しまったと思った時には、足
がもつれて転んでしまう。
 立ち上がろうとして振り返ると、すでに柊は追いついていた。
「逃げても無駄よ。もう許さないんだから」
 彼女の手にはいつの間にかナイフが握られている。
「ねぇ。お願い、あたしの話を聞いて」
 その願いは聞き入れられなかった。突き出されたナイフが寸の間で、有里守
の左肩をかすめていく。回避行動をとっていなかったら、今頃胸を刺されてい
たかもしれない。
 彼女はそのまま転がり、その勢いで立ち上がる。
 切り裂かれた衣服から血が滲み出す。
 柊の持っているナイフにはうっすらと血糊がついていた。
「どうして? どうしてこんなことになるの?」
 有里守は必死にドナルドに問いかける。すべてはドナルドが知っているはず
なのだから。
「理解不能」
 感情のこもらない声でドナルドは答える。
「どうして? 柊ちゃん、もしかしたら邪なモノに操られているんじゃないの?
その可能性が一番高いんじゃないの?」
 それが一番自然な答えだった。それならば有里守にも納得ができた。だが、
ドナルドは肯定してくれない。
「理解不能」
 まるで機械のような返答だ。
「ぐちゃぐちゃ喋ってるんじゃないよ。おとなしく死ぬんだな」
 目の前の柊はもう話が通用するような状態ではなかった。
 圧倒されながらも目線を逸らすことはできなかった。逸らしたが最後、野獣
のように襲われ殺されてしまう。
「あ」
 だが、その緊張感は一瞬で崩れた。
 足がもつれた有里守はそのまま尻餅をついてしまう。
 最悪の状況だった。
 無論、それを見逃す柊でもない。
 彼女の口元が右側だけニヤリとつり上がる。
 突き出されるナイフ。
 刹那。
 右手で握っていたドナルドが急に動き出し、そのままナイフへと突進してい
く。
「!」
 突き刺さるナイフ。
 その瞬間、そこから生み出された光の球がみるみる膨張して有里守と柊を包
み込む。
 視界が光に飲み込まれ、そしてホワイトアウト。



「契約受理」
 そんな言葉がどこからともなく聞こえた。
 光の粒で真っ白な世界はだんだんと薄れていき現実の世界が再び戻る。
 有里守は右手を前に掲げている。
 柊はナイフを突き出していた。
 そして、そのナイフの先にあるものは、有里守が持った一冊の本であった。
ちょうどその本にナイフは突き刺さっているのだ。それは、ハードカバーの古
くさい書物である。製本技術が発達する前に創られたのではないかと思われる、
地金で綴じた頑丈で重々しい本だった。
「瀬ノ内有里守」
 人間とは思えない機械を通したような歪んだ声が響いてくる。
「え?」
 有里守は声の主を確かめようと、後ろを向く。
 そこには異形の人型が立っていた。黒い翼を持ち、猛禽類のような嘴がある
顔立ち。目が非常に鋭く、見つめているだけで気分が悪くなってしまう。
「ひぃー!」
 有里守と対峙していた柊が、悲鳴とともに口から泡を吹いて倒れてしまう。
「汝は契約者なり。汝の思うままの願いを申すがよい」
 鋭い眼光はそのまま有里守を捉える。
「願い?」
「汝は我と血の契約をした。正統なる契約者だ。どんな望みも叶えよう。それ
が世界を破滅させようと」
 書物に刺さったナイフ。それには有里守の血が付いていた。それが何を示す
のかは、今の言葉で理解ができた。だが、彼女にとってはそんなことはどうで
もいい。
「ちょっと待って、ねぇドナルドはどうなったの?」
「ドナルド? ああ、汝の創り出した妄想か。あの書物は契約者を捜すために、
幻想の魔法を発動する場合もある。その魔法に惑わされたということだな」
「じゃあ、ドナルドは……」
「最初から存在などしない」
 それはうっすらと予感していた。
 柊と見ているものが違うと気付いたとき、最悪のシナリオが頭を過ぎってい
た。
 有里守は悔やんでいる。創作の世界だけでなく、自分は現実の世界にまで幻
想を創り上げてしまったのだ。
 ドナルドの存在は自身を勇気づけ慰める為に創りだされたもう一人の自分。
 思えば、なぜあのネコ耳のカチューシャに拘ったのかも理解できる。あれは、
両親と最後に遊びに行ったテーマパークで唯一買ってもらったものだ。当時は
お気に入りで、普段でもつけていた時もあった。周りからバカにされて、付け
るのが恥ずかしくなってしまったのだ。
 だが、なんのことはない、有里守はあれを堂々と付ける口実が欲しかったの
だ。マジックアイテムだと思い込んで、羞恥心を打ち破りたかったのだ。
(バカだよ……情けないよ……)
 せっかく出来たドナルドという友達は、自分の心の創りだした幻。仲良くな
った柊も所詮、幻想の中での危うい関係。
 壊れることは必至だった。
 壊れてしまわないように必死だった。
 有里守はまたもや、この世界で一人ぼっちになってしまう。
(でも……)
 有里守は自分自身に問う。
 自分はこんなにも過酷な世界から逃げ出したいのか?
 自分はこんなにも残酷な世界を壊してしまいたいのか?
(あたしはそれでも憧れてしまう)
 現実世界でいくら裏切られても。
 現実世界でいくら孤立しても。
 『優しさ』というファンタジーに憧れてしまう。
 それは、破壊や破滅が心の隙間を埋められないと理解しているから。
「ねぇ。えーと、悪魔さんでいいのかな」
 有里守は怖々と声をかける。初対面で相手の名前を知らないのと、自分が置
かれている状況から目の前に存在するものを『悪魔』と判断したのだ。
「なんとでも呼ぶがいい。『愛すべからざる光』と呼称される場合もあるがな」
 それはギリシャ語で『メフィストフェレス』と言う。有里守の呼称はあなが
ち間違いでもなかった。
「どんな願いも叶うのかな」
「我にできることなら」
「んーとね。じゃあ」
 有里守は照れながら悪魔に向き合う。
「願いを」
「あたしと友達になって」
 その言葉に悪魔の鋭い眼光が一瞬だけ和らいだような気がした。
 だが、変化はその一瞬だけであった。
「それはできぬ」
 歪んだ声には感情は読み取れない。
「え?」
「我には人間と同じ感情はない。我の力で偽りの感情を作り出すことは可能だ。
しかしながら、それは人間のみに有効である。そして我は我に力を使うことは
叶わぬ」
「だって、なんでも叶えてくれるって」
 有里守は人間ばかりか、悪魔にまで見捨てられた。彼女の頬を一筋の涙が伝
う。
「願いにも例外はある。例えば我を殺せという願いも聞き入れることはできぬ。
理屈は同じだ」
「だったら、どうすれば……」
「人間にその偽りの感情を植え付けることは可能だ。例えばそこに転がってお
る人間に『友達』という感情を持たせることもできる」
 悪魔は気絶している柊に視線を移し、そう答えた。
 有里守はしばらく彼女の顔を眺めると、悪魔に向き直りしっかりとした口調
でこう答えた。
「ううん。そんな偽りの友達はいらない。そんなことじゃたぶん、あたしの心
の隙間は埋まらないよ。優しさには憧れるけど、でもね、もう幻はこりごりな
の」
「ならば、願いが思いついた時、再び我を呼ぶがいい。我はいつでも汝の元に
現れよう」
 そう言って悪魔の身体は細かく、まるで分子レベルまで分解したかと思うと
霧散してしまう。
 有里守は一人取り残された。
 彼女は思う。
 この世界はこんなにも残酷で、絶望の意味さえ実感させてくれる。
 そろそろ頃合いなのだろうか、この世界を見捨ててしまう事の。
 でも、いつも躊躇いが生まれてしまう。
 この世界を拒絶することができたのなら、どんなに楽なのだろうか。

 絶望し、そして世界を捨てることを躊躇ってしまう。その繰り返しに、有里
守は疲れ切っていた。
 何もできないのなら、眠りにつきたい。夢の中なら、幻想は許される。いく
らでも理想を構築できるのだ。
 眠りにつけばいい。それが一生目覚めることがなくても……。

――起きなさい。そして、歩きなさい。

 幻聴が聞こえる。これは、自分の心が創りだした幻なのか。
 昔、似たような言葉をどこかで読んだ記憶がある。たぶん、それを元に紡ぎ
出された言葉なのであろう。

 有里守は想う。

 どれだけ裏切られても、
 どれだけ痛めつけられても、
 あきらめることができないのは、自分の中に残る『憧れ』なのかもしれない。
 一度知ってしまったぬくもりだから、もう一度それを手に入れたいと願うか
ら。

 そんなこと知らなければ良かった。そうすればこの世界に未練なんか持つこ
とはなかった。いつもそうやって悔やんでいた。

 でも、本当は知らないよりはましなのかもしれない。
 こんなにも心を純粋にして憧れてしまえるほどにそれは尊いものなのだから。
 一度知って、そして掛け替えのないものだと気付いてしまったのだから。
 
 それだけは胸を張って幸せだったと思える。



 だから、

 この残酷な世界にもう一度あたしの憧れを芽吹かせよう。

 この優しい世界を取り戻そう。


 それが今のあたしの願いです。



■The true world


 原稿用紙から顔を上げて成美が恭子を見つめる。その瞳には穏やかな優しさ
が込められているようだ。
「作風、お変わりになりましたね」
「うん」
 ティーカップを両手で抱きかかえるようにして、恭子は口元へそれを持って
行く。
「わたくしはこういう物語も嫌いではありませんわ。それで、どういった心境
の変化がありましたの?」
 成美は原稿用紙を揃えてテーブルの脇に置くと、同じくティーカップに手を
つける。
 原稿を読み終わった時点で、成美の隣に座る美沙が新しく入れ直してくれた
のだ。だから、カップの中は熱いままである。
「今まではね。綺麗なもの純粋なものをより綺麗に、純粋に書きたいって衝動
の方が大きかったの。自分が憧れたものが憧れたままの姿で存在する世界を創
りたかったの。でもね、それだけじゃ伝わらないこともあるって気が付いたか
ら」
「私もさ、それ読んだ時は驚いたよ。下手すれば今までの作品、否定するよう
な内容だったし」
 美沙が自分のティーカップに紅茶を注ぐ。
「やっぱりね、伝える意志ってのを明確に盛り込まないと、作品が死んでしま
うの。例えばさ、どんなに綺麗な壁紙の模様も、一人の画家が魂を込めて描い
た絵画には叶わないのと同じ。綺麗だ、正確だそんなものはいくらでも量産で
きるし、メッセージが読み取れなければ人はただ通り過ぎていくだけだもん」
「恭子はますます考える人になりつつあるねぇ」
「それで、恭子さんはどうしてこの物語を思いついたのですか?」
「そりゃ、やっぱり、あたしたちと手津日先生の最初の文字を繋げていくと
『た・す・け・て』ってなる事かなぁ。ミステリのアナグラムを考えていて、
全く別の方向に行っちゃったけど」
「なんだそりゃ」
「偶然かもしれないけどさ、そこに意図はなくても、意味を置くことはできる
でしょ。占いみたいに全然意味を持たない事柄に無理やり意味を当てはめて、
それを糧にするってのもオツなものかなぁって。だってさ、あたしはみんなに
こんなにも助けてもらっているし、それはけして忘れてはいけないことでしょ。
だから、その大切さをメッセージに込めたの」
「そうですか。恭子さんらしくてよろしいですわ。ところで、この物語はまだ
続くんですの?」
「当たり前でしょ。この子の物語は始まったばかりだもの。絶望はけして終わ
りじゃない。あの子はそれを乗り越えて世界と向き合うはずよ。だって、この
優しくも残酷な世界は、あたしの全てが詰まっているの。その世界をそう簡単
に嫌われてなるものですか」
 恭子は自分の構築したもう一つの世界にいる少女に想いを馳せる。

 負けるな、有里守。
 負けるな、もう一人のあたし。



                              (了)




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