#49/598 ●長編 *** コメント #48 ***
★タイトル (CWM ) 01/12/30 03:23 (205)
最後の物語B 憑木影
★内容
その剥き出しのコンクリートに囲まれた広い空間の中央には檻が置かれていた。鋼鉄
の柵が部屋の中心を閉鎖している。
おれはその檻の扉を開く。檻の扉には鍵がかけられていないため、人を閉じ込めるつ
もりなら意味を為していない。
その檻に少女がいた。その少女を見た瞬間、なぜかおれはピカソの描くキュビズムの
肖像画を連想してしまう。
その少女はなぜか解体され再度ちくはぐに繋ぎ合わせられたような、奇妙な雰囲気を
漂わせていた。決して不自然な姿形をしていたわけではない。むしろ、その白いワンピ
ースに包まれた体は端正な佇いを見せていた。
顔立ちは、彫像のように整い美しいといってもいい。しかし、全体としてなぜか、歪
んだものを感じさせる。
少女の左足の足首には鉄の輪が嵌められていた。その鉄の輪に繋がった鎖は、数メー
トルの長さがあるようだが、少女の座っている椅子のそばの床に固定されている。
少女の姿は人間の背丈くらいある電気スタンドにより照らし出されており、その薄暗
い地下室の中でもくっきりと見ることができた。しかし、その電気スタンドが照らし出
しているのは、本当は少女ではない。
そのスタンドの明かりは少女のそばに立てられたイーゼルに掛けられている、キャン
バスに向けられたものだ。少女の足元には絵の具のチューブや絵筆、パレットが散乱し
ているところを見ると、そのキャンバスは少女が描いた絵らしい。大体五十号くらいの
大きさのキャンバスは今おれのいる位置からでは、裏面しか見ることができなかった。
檻の中にはテーブルが無いため、おれは手にしたトレイをコンクリートの床に置く。
少女から一メートルほど離れているが、繋がれた鎖の長さであれば、十分とどくばず
だ。
これで、おれの用事は終わったわけだ。
しかし、おれはなんとなくそこを立ち去る気になれなかった。少女はおれになんの関
心も持っていない。おれがその檻に入ってからずっと、彫像のように身動きせずにキャ
ンバスを見つめたままだ。
おれは少し興味を持った。一体そのキャンバスには何が描かれているのだろう。その
キャンバスの表側を見るためには、少女のそばまでいって覗き込まねばならない。
「よう、あんたの食事を造って持ってきたぜ」
少女はおれの呼び掛けにも、全く無反応だ。おれの存在を無視しているというより、
キャンバスに全ての意識が向けられているらしい。見る限り身じろぎもしなければ、瞬
きすらしている様子がなかった。
「おれは北野といって、一週間の間あんたの食事の世話をすることになったんだ。よろ
しくな。よかったら、あんたの名前を教えてくれよ」
おれはできるだけ優しく少女に語りかけてみる。別にコミュニケーションを取りたい
訳ではないが、一週間同じ家で過ごすもの同し、名前くらいは知りたいと思った。
「落合えびね」
特に少女が口を動かしたようには見えない。しかし、「えびね」という名は明瞭に聞
き取ることができた。その声は抑揚がない、感情というものを感じさせない機械で合成
したような声だ。
おれはえびねと名乗った少女のそばまで近付いてみる。息遣いが感じられるほど近寄
ってみたが、えびねは相変わらず動く気配はない。
おれは少女の前で見を屈め、絵を覗き込もうとする。
「うわあああっ」
おれは首筋に激しい痛みを感じ、悲鳴をあげた。おれの首筋に噛みついてきたえびね
をつきとばす。
おれは夢中で床を後ずさり、檻の扉のとこまでゆく。首筋に手をやると、生暖かい血
がべったりと手についた。
えびねは何事もなかったようにキャンバスを見詰めている。実際、おれはおれ自身の
身に起こったことが信じられなかった。
おれは、激しく痛む傷を治療するためにその檻から出て、居間へ向かう。肉が削げて
いるようすだが、軽動脈は無事らしくそう酷い出血ではない。
闇につつまれた階段を抜け、おれは居間へ戻る。居間にある救急箱から消毒液とガー
ゼに包帯を出す。消毒液をかけるとガーゼを傷口に押し当て、包帯で固定した。
おれは沈痛剤を取り出す。そして台所へ行くとブランディで沈痛剤を飲み下した。出
血よりも痛みのほうがひどい。おれは、痛みのために思考能力が麻痺しつつあった。さ
っき地下室でおきたできごとについて、真剣に思考することができない。
おれは寝室へいくとベッドに倒れ込んだ。部屋がぐるぐる回っているような気がす
る。
悪寒が襲ってきた。このままではまずいような気がしたが、体を動かすことができな
い。
しばらくすると、おれの意識は暗黒へと飲み込まれていった。
おれは闇の中にいた。
何も見ることができない、宇宙の深淵のような闇。
おれがいるのは、そういう闇だ。
そして、そこには声が谺している。
無数の声だけ存在する幽霊たちが浮遊し、囁きあっているようだ。
その声は微かに聞き取ることができる。その意味を理解することはできない。しか
し、
その虚空を浮遊する言葉をおれは感じとっていた。
(触媒と接触しました)
(予想した通りです。対象は覚醒に向かうでしょう)
(触媒の活動は停止しています)
(介入しますか?)
その時、女の声がした。おれの知っている懐かしさすら感じる声。その女の姿すらお
れは思い浮かべることができる。
(媒体と接触する。予定通り媒体を通じて対象のコントロールを試みる)
言葉は谺し続ける。
おれは闇の中を漂い続けていた。
何か警報のような音が聞こえる。どこか遠いところで、何かベルが鳴っていた。
おれは闇の中をある一方向へ向かって落ちてゆく。それが、上なのか下なのかは判ら
ないが、とにかくおれはどこかへと向かっている。
おれはベッドの中で目覚めた。気が付いた瞬間、おれは自分がどこにいるのか一瞬判
らなくなる。暫くしておれはそこが落合の家だと気付く。
何かが鳴っている。おれの携帯電話が発するコール音だった。
おれは身を起こす。全身が水を浴びたように汗まみれだ。酷く発熱していたらしい。
体の芯に独特の気怠さが残っている。
おれの携帯電話はしつこく鳴り続けていた。多少ふらつきながら、携帯電話を置いて
ある場所へゆく。
手にとり番号を確認する。番号非通知だ。おれはボタンを押して電話に出る。
「北野さんね」
女の声だ。おれの知らない女の声。知らないはずなのに、なぜかよく知っているよう
な気がする声。おれはなぜか、その女の姿すら思い浮かべることができるような気がし
てしまう。
「あんた誰?」
「落合の家内よ」
おれは溜め息をつく。
「なぜおれの電話番号を知っているんだ。落合から聞いたのか?」
「いいえ。落合のところに来るメールは私のところにも転送されるのよ」
「で、何の用だ」
おれは電話の向こうの女の苛立ちを感じ取る。女は何かに対して怒っているようだ。
おれに対してか、あるいは今おれがここにいることに対してか。
「馬鹿なことをしたわね」
「馬鹿なこと?落合のバイトを受けたことか」
女は少し嘲るように笑う。
「そんなことはどうでもいいの。えびねに接触したでしょ」
「噛まれたことか?あれは」
「馬鹿以外の何ものでもないわね。落合の思い通りにことは運んでいる。窓の外を見
て」
おれは窓の外を見てみる。塀の向こうに数台の車が停まっているのが見えた。その車
の回りに数人の男たちがいる。おれは、直感的に感じ取った。おそらくそいつらは警察
か、公安関係の人間だ。
おれは少し眩惑を感じる。
「どういうことだ?」
「見ての通り。あなたはキャリアーとして認定された。そこは封鎖されているわ」
「キャリアー?なんのだ」
「いずれ判るわ」
「ひとつ教えてくれ」
おれは、少し間をおく。
「あんたはえびねの母親なのか?」
「違うわ」
「あんたの名前を聞いていなかったな」
「恵理香よ。落合恵理香」
そういい終えると、恵理香と名乗った女は一方的に電話を切った。
おれは迷路の中に取り残されたような気持ちになる。切れた電話を見て、おれは二十
四時間気を失っていたことに気付いた。
えびねに食事を与えなければいけないと思う。
おれは台所に向かう。
サンドイッチを作ったおれは再び地下室にいた。えびなは檻の中で椅子に座ってい
る。
まるで二十四時間の間、じっとそうしていたように見えた。
彼女の前には昨日の昼に持っていった食事の皿が置かれている。その皿が空であるこ
とが、何か不思議なことのように思えた。
おれは彼女の足元にサンドイッチの乗った皿を置く。えびねは見向きもしない。おれ
は少々用心しながら、えびねのそばに近付く。
相変わらず、えびねの意識は彼女の前に置かれたキャンバスにだけ向けられているよ
うだ。イーゼルに立て掛けられたそのキャンバス。一体描き終えられたものなのかどう
か。
「未完成よ」
はっとして、おれはえびねを見る。口元が動いたようには見えない。しかし、その言
葉は確かにおれの頭の中に響いた。
おれはえびねの後ろへ最大限の注意を払って回り込む。おれの視界にスタンドの光を
浴びせられたその絵が入ってきた。
そこにあるのは闇だ。しかし、完全に漆黒の闇という訳ではない。そこにあるのは渦
を巻く闇だった。
それは、遥か彼方の遠い世界で死滅してゆく恒星を描いたもののようにも見える。も
しくは、地面に穿たれた巨大なクレーターのようでもあった。
そこには濃厚に破滅と絶望の気配がある。それが死を表現したものであるということ
に、おれはなんとなく確信を持った。
その絵を見ても、それが完成したものであるのかどうか、おれには判断つかない。そ
もそも、おれにはその豊饒な闇としかいいようのないその絵が具象であるのか抽象であ
るのかを、区別することすらできなかった。
「この絵に必要なものをあなたは持っている」
再び、えびねの声がおれの頭の中に響く。なぜか、おれは彼女が求めているものが何
か判った。いや、彼女が求めているものという訳ではないのだろう。おそらく、おれの
目の前にある、その絵が求めているものが何であるのか。
おれは用心深く、えびねのそばを離れる。しかし、もう気をつける必要などないこと
が、なんとなく判っていた。彼女は求めているのだ。おれの協力を。
おれは再び闇の中の階段を登り、居間へと出る。そして、おれは自分の部屋と決めた
客用の寝室に戻った時、再び、おれの携帯電話が鳴った。
発信者非通知だ。おれは電話にでる。
「あなたが見たものが何か知りたい?」
恵理香の声だ。
「おれが見た、あの絵のことか?」
恵理香が電話の向こうで少し笑うのが、感じられた。
「量子力学では実在というものが、どのように語られているか知っている?」
「なんだよそりゃ」
少しあきれたおれを無視して、恵理香は続ける。
「事物の実在は観測によって生じるといってもいいわ。量子力学的にはね。では観測と
いうのは何かしら。それは頭、つまり脳の中で生じる電磁気的事象の一様態といっても
いい」
突然始まった恵理香の奇妙な話しを、おれはあっけにとられて聞くばかりだった。
「つまり脳の中で発生するニューロンの発火パターンが世界の実在を決定しているとい
うことになるわ」
「おい、いいかげんにしろよ」
恵理香はおれの苛立ちを無視して話しを続ける。
「いい、これは大事なことなの。よく聞いておきなさい。でないとあなたの身に起こっ
ていることの説明はできないのだから」
おれは諦めて溜め息をつく。恵理香はまたその奇妙な話を続ける。
「では脳の中で発生するニューロンの発火パターンはどのように形成されるか。ニュー
ロン間はシノプシスによって結合されている。シノプシスの末端は神経伝達物質の放出
装置とそのレセプターによって形成されているわ。さて、ここで奇妙な問題が生じる。
電磁気的な事象であるニューロンの発火は、神経伝達物質の放出というニュートン力学
的実在物の運動に置き換えられねば、観測という脳内の事象は発生しえない。つまり
ね、
まず世界が脳の中で発生しなければ、脳の外の世界も発生しないというわけよ。じゃ
あ、
観測が世界の実在を起こすのであれば、脳の中の実在を起こすのは誰かしら?」
「知るかよ」
おれは半ばなげやりにななって恵理香の問いに答える。
「脳の中に小人がいて、そいつが脳の中で観測しているんだろうさ」
「それよ」
恵理香は不思議な笑い声をもらす。
「現代物理学、分子生物学、ナノテクノロジーがたどり着いた結論はそれだったの」
おれは力なく笑う。
「馬鹿いえ」
「小人は比喩よ。私達の脳の中に寄生している生命体がいる。それを科学者たちはワー
ムと呼んでいるわ。そのワームが脳の中で観測を行い、波動関数の収縮、つまり電磁気
的現象からニュートン力学的物理実在を引き起こす。私たちが世界を見ることができる
のも、言語を使用した思考を行うことができるのも、このワームのおかげ」
おれは、言葉を失った。あまりに奇矯なその考えに、反論する気にもなれなかった。