#124/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/11/18 01:35 (500)
十一月の事件 永山
★内容 05/08/22 01:42 修正 第4版
<……人垣をかき分け、ふらりと前に現れ出でたのは、大きなまん丸眼鏡をか
けた男。年齢は四十代半ばといったところ。なのに、青のスーツに赤の蝶ネク
タイ、ズボンは膝までしかないという出で立ちと来るから、皆ぎょっとします。
“この密室殺人の謎を解けるのは、僕しかいないようですね”
“だ、誰や、君は? 素人は引っ込んどいてんか”
“僕を知らない? 信じられないな。名探偵小南陵(こなんりょう)ですよ。
見た目は大人、頭脳は子供……”
“全然あかんやないけ”
“僕に解けなかった事件はありません”
“ふん。代打専門のベテランやろ。打率十割、一打数一安打っちゅうやつや”
“いえいえ。殺人だけで十件はこなし、刑事事件に広げると、優に三十件は”
“ほんまか? そりゃ凄い”
“ただし、僕が解く前に、警察が全て解決してしまうのが難ですが”
“遅いなー!”
“工藤(くどう)さん、なくなった物はありませんか?”
“こら、勝手に聞き込み始めるんやない! 我々警察の仕事や”
“なくなった物はありません”
“工藤さん、あんたもこんな奴に答えんでええねん。えー、改めて聞きまっせ。
なくなった物はないとすると、物盗りの線は消えるから……”
“あ、家宝の壷が盗まれています”
“はあ? 工藤さん、あんたさっき、なくなった物はないと”
“なくなった物はありませんかと聞かれたから、盗まれてここにはありません
と答えたまでです。”
“工藤さーん!”
やいのやいのやってますと、鑑識課の面々がわいわいがやがやと入って参り
ます。その賑やかなことと言ったら――。>
さして広くない会議室に、一丁前に鳴り物が響き渡るが、まず録音していた
物に間違いない。
舞台上では部員の創作落語が続いていた。語り口調は巧みで悪くないが、ネ
タが落語に向いていないようだ。コントにすれば面白くなるかもしれない……。
欠伸をこらえた顰めっ面で、松屋(まつや)はそんなことを考えていた。
(でもま、喜んでいるならいいか)
連れて来た女子高生二人がけらけらと笑っているのを横目に見て、松屋は思
わず微苦笑を浮かべていた。こんなに受けるとは全くの予想外。しかも、「や
っぱりー」とか「つまんなーい」とかつぶやきながら、それでも笑うのだから、
ますます持って分からない。今、高座にいる演者の名前――命短亭小南(めい
たんていこなん)――を最初に聞いただけで、肩を揺らして笑ったほどだ。箸
が転がっただけでおかしがる年頃ってやつかと、納得する。
<……部屋の隅っこに来て小南陵、警察に聞こえないよう、ぶつぶつと独り言
を始めます。
“さあ困った。大見得を切ったけど、見通しが立たないや。ま、いざとなった
ら奥の手を使えばいんだけれど”
と、左袖を捲り上げると、大ぶりの腕時計が。
“こいつに仕込んである麻酔針で誰かを眠らせて”
今度は赤い蝶ネクタイに手を触れる。
“この変声機をそいつの声に合わせて”
関係者一同を肩越しに振り返る。その目は、獲物を物色するハンターのよう。
“自白させれば一件落着なんだから”
こうして今回も名探偵小南陵の名声は守られるのでした。>
鳴り物がとてしゃんと流れ、小南が深々とお辞儀をすると、ぱらぱらと拍手
が起きる。そんな中、意外と優雅な振る舞いですっと立ち、はけていった。
「漫画知ってる二十歳前後の人には、結構よかったかもー」
「うんうん。小学生には微妙ね」
「やった人も、ルックスいいんだから、漫才かコントの方が受けそう」
「相方は適当に不細工な人がいいわね」
君達は評論家か。というような無粋なつっこみは、喉仏の奥に仕舞う松屋。
大学二年の松屋がこんな女子高生と知り合えたのは、もとを正せば、里納津
子(さとなつこ)の兄である三年生の紳司(しんじ)に勉強を教えるため、家
庭教師として里家に出入りするようになったのがきっかけ。今年の夏のことだ。
松屋の通うA大学こそ、紳司の志望校であることから採用された。
夏休みも終盤に差し掛かったある土曜、本来なら家庭教師を行う日だったが、
紳司が模試を受けるので潰れた。だが松屋はその予定を忘れ(数日前に恋人と
別れたショックかもしれない)、里家に足を運んでしまった。玄関先で今日は
なくなったはずですよと告げられ、仕方なく帰ろうとする松屋を、納津子が腕
を取り、強引に上がらせた。そして開口一番。
「私にも教えて!」
何のことはない。夏休みの宿題をたくさん残し、追い込まれた彼女が、助け
を求めてきたのだ。
それ以来、紳司に小テストを解かせている間など、松屋の手が空いた時間に
限り、納津子の勉強も見るようになった(この兄妹の父母は気が利く上に気前
がよく、松屋が言い出さない内に、アルバイト料を上乗せしてくれた)。
「次は……無言亭梔(むごんていくちなし)だって」
「変なのー」
次に出て来る笑研(お笑い研究会)部員の芸名を肴に、また笑い声を立てる
二人を見ていると、本当にお笑い好きなんだなあと感心する。
(しょうもない素人芸だと思うんだがな。俺の笑いのセンスがおかしいのか?
ふられた原因ではないと信じたい……)
十一月最初の休日である今日は、紳司の模試の日であり、松屋の通う大学の
学園祭期間でもあった。大学の学園祭に行ってみたい!と納津子にせがまれ、
連れて来た次第。紳司も試験は午前中のみ故、終わって気力が残っていれば学
園祭に足を運ぶ手筈なのだが、果たしてどうなることやら。いずれにせよ、部
活をせず、新しい彼女もできていない松屋に、暇は有り余っている。
「よく喋るっ!」
納津子の級友、佐村(さむら)いずみが手を叩く。幽霊然とした細身で病気
持ちめいた顔色の無言亭梔はその実、呆れるほど回転の速い舌の持ち主だった。
笑研の舞台も午前の部が終了。松屋と高校生二人は、会場たる会議室を出た。
「知り合いがいるんでしょう?」
昼食を摂りに外に向かおうとする松屋を、納津子が質問で足止めさせた。
「うん。知り合いというか友達が一人、お笑い研究会」
「じゃあ、その人に会うことにして、舞台裏を見れる? サインも欲しいな」
「控室には初日も行ったから、今日も大丈夫だろうけど、サイン欲しくなるよ
うな逸材が出てたかい?」
「誰っていう訳じゃないけど、中にはプロになる人がいるかもしれないじゃな
い。有名にでもなったらお宝よ、お宝」
「他の部と違って、お笑いでプロ志向は極端に少ないと思うよ。特に落語はね」
「へぇ、そういうものなんだ」
とりあえず、ねだられたら断る道理もない。納津子もいずみも昼食は後回し
でいいと言うし、方向転換して、控室に当てられている第二会議室へ。ドアを
ノックし、松屋が名乗ると、拍子抜けするほど簡単に入れてくれた。部屋の中
程に仕切りがあって全ては見渡せないが、十名足らずがいるはずだ。今見える
範囲にいるのは皆、着物姿で、いかにも噺家の楽屋といった風情が出ている。
「よっ。両手に花のお出ましかい。舞台から見てて、嫉妬に狂いそうになるの
を、崖っぷちでおっとっとと堪えてたよ。我慢料よこせってんだ、この野郎」
入るなり、ドア越しに応対していた御前家御前(おまえやおまえ)がヘッド
ロックで、松屋を捉える。
「ここ、プロレス研究会か? なら、部屋を間違えた」
「どこをどう見たって、芸人の卵ばかりで、プロレスラーみたいなごつい奴は」
「おまえだ、おまえ」
御前家こと井伊宏彦(いいひろひこ)は、一八〇センチ超の身長に加え、横
幅もあるからなおさら大きく見える。高校時代に柔道をやっていたとかで、腕
っ節も太い。
「俺の芸名なら御前家御前だが」
「分かった分かった。とにかく放してくれ」
「その辺にしといたれよ」
奥から声が掛かり、ようやくブレイク。
開放されて顔を上げてみれば、果たしてその声の主は十返舎九一九(じっぺ
んしゃくいっく)、本名を早川英敏という三年生だった。リーゼント気味の髪
型をカフェオレ色に染めた彼は笑研の副会長で、演劇部にも入っている舞台好
き。顎の細い二枚目で、すらりとした体躯に胸板は逞しく、足も長いと来るか
らさぞかし舞台栄えするだろうと思いきや、舞台に立つ側ではなく、脚本・台
本を書くのが好きなのだ。松屋は御前家を通して九一九と知り合った仲で、文
学を共通項に割と馬が合う。
「大切なお客さんを、御前は粗暴に扱いよってからに。ドアに一番近い席に座
らせとんは、ガードマン役を期待してのことであって、そういう風に脅かすの
はようないな」
「へい、すんまへん」
形ばかり叱られて、御前家は頭を垂れた。喋りが関西弁調に転じている。
九一九は一通りがみがみやったあと、「その子らの紹介してんか」と松屋達
に視線を向けた。松屋と御前家がふざけている間、女子高生二人はくすくす笑
い続けていたようだった。
納津子、いずみの順番で自己紹介し、次いで松屋自身が、どういう関係なの
かを説明する。
「それ、ほんまかいな」
そんな声とともに、水色の仕切りの向こうから命短亭小南が現れた。舞台に
比べると、動作が大雑把だ。落語をしているときは、噺家になりきっているの
だろう。松屋はこの人とは言葉を交わしたことがあまりなく、よく知らない。
ただ、先輩なのは分かっている。ひょこっと頭を下げてから、「本当ですよ」
と答えておいた。
すると小南はいたずらげに目を輝かせ、顎を撫でつつ、飄々と言った。
「自分はまた、松屋君が街で引っかけてきたのかと思うてたよ。趣味はよいが、
年齢が下過ぎるかもなあ、とね」
ロリコンではないし、二年前までは同じ高校生だったのだからと抗弁しよう
とした松屋だが、口を開くのは納津子の方が早かった。
「そんなに軽くありませんよー。松屋さんも見た目悪くないけど、ほいほい着
いて行っちゃうほどじゃないって感じ」
「おいおい」
「なるほど」
苦笑いを浮かべる松屋に、御前家はもちろん、九一九も小南も納得顔で頷く。
どうせ冗談。真面目に反論しても時間の無駄だ。松屋は御前家に話し掛けた。
「一日目に続いて今日も足を運び、なおかつファン二人を連れてきた友人に対
して、ひどい扱いだねえ」
「ファン? ていうことは、この子らは我々の笑いの理解者か。ありがたや〜、
ありがたや」
お経でも始めかねない勢いで、手のひらをすり合わせて拝む御前家。納津子
といずみはすかさずプログラムを取り出して、全員のサインを頼んだ。
「おおーっと、これはかなりの感激ものだ。――先輩、書く物あります?」
九一九はサインペンを取ると、
「ある。けど、その前に、おもろかったかどうか聞いてみい。人様の感想は芸
の糧、己の経験は芸の肥やし」
と、にんまり笑った。そうして、おもむろにペンを放る。うまくキャッチし
た御前家は、キャップを取らぬままペンをつまんでゆらゆらと振った。
「聞くのが恐いような……」
「御前家さんのはですね」
迷う素振りの御前家に対し、いずみがさっさと口を開く。おかげで御前家は、
慌て気味に叫ぶ羽目に。
「感想を言ってくれと頼まない内から、喋り出しますかー!」
「結局は聞きたいんですよね」
「それはまあ。じゃ、お手柔らかに」
「軟弱なことを言うんじゃないよ、おまえさん」
後方から野次ったのは小南。ハンバーガーを頬張る様は、かなり豪快な食べ
っぷりだ。なのに口元を気にするのは、万一にも荒れの症状が出ては、舞台で
の見てくれが悪くなるせいかもしれない。
小南は口の中の物を咀嚼してから、二言三言付け加えた。
「批評を求めるに際して、お手柔らかにとはどういうことだい? お誉めの言
葉だけいただこうだなんて、志が低いねえ。欠点ほど自分では気付きにくいと
言うじゃあないか」
「分かりましたよ。ていうか、分かってますよ。枕詞みたいなもんです。……
これだからかなわねえや」
やいのやいのとくさされて、御前家は閉口したように肩をすくめた。それか
ら着物の裾をぱんとはたく。気合いを入れたようだ。
「では、性根を据えて伺いましょう。感想をどうぞ」
ペンをマイクに見立て、女子高生の方に向ける御前家。そのペンを持つと、
まずは納津子が一気に語った。
――約十分後、へこみにへこんだ御前家御前の姿が、控室にはあった。
「こんなんでは……午後からの舞台……よう立てませんわ……」
「何で関西弁になる?」
騒動が持ち上がったのは、午後三時前後。学園祭の閉幕まであと三時間とい
う頃合だった。
会議室の並ぶ廊下を奥に行った突き当たりに、資料準備室という小部屋があ
る。賊にコピー室と呼ばれていることから分かるように、要はコピーを取るた
めの場所で、中にはコピー機二台の他、長机が二脚に、手動の裁断機が一つ、
大型のホチキスに孔明けパンチャー等々が装備され、コピー用紙が山とある。
これで冊子を綴じるための糊付けの機械があれば、同人誌が出せるなと言われ
るほどだ。
それはさておき、事件の舞台となったのがこのコピー室。最後の追い込みと
ばかり、出店の宣伝ビラを増刷しようとしたロック研究会(演奏の出番は初日
で終わり、あとはロック喫茶と称して飲食物を売っていたのだ)の学生が、ヘ
ビメタの格好のまま、コピー室に駆け込んだのが発覚のきっかけとなった。
コピー室には、男が一人、前向きに、机に寄り掛かる風にして跪いていた。
気分が悪くなったのか急病かと思った第一発見者は、やれやれと思いながらも、
近寄って声を掛けたそうだ。そのときになって初めて、後頭部から血が滴り落
ちていることに気付いた。何らかの鈍器で殴られたと考えられる。
死んだものと早合点したヘビメタ学生は、こけつまろびつし、廊下に文字通
り躍り出るや、「大変だあ、大変だあ」と捕物帖の脇役めいた叫び声を上げた。
それは当然、第二会議室にいるお笑い研究会各人の耳に届いた。午後の部が
終わり、緊張感から解き放たれ、のんびりと一息ついている最中のことだ。
真っ先に飛び出したのは、ドアに一番近かった御前家。腕捲くりをしながら、
何だ何だと、左右を見渡すと、そこへ腰砕けながらも駆けてきたヘビメタ男。
着物姿の御前家が、ヘビメタ男を落ち着かせ、話を聞き出すという光景は、か
なり異様で、ちょっとばかり滑稽だった。
事情を掴んだ御前家は、あとから出て来た九一九達とともに、コピー室に急
いだ。そして倒れている男性を認めるや、小南が自前の落語よろしく探偵を気
取った訳でもなかろうが、素早く駆け寄り、詳しい様子を窺う。と、ほとんど
間を置かずに、「救急車を!」と一声叫んだ。
校舎の外に運べば、少しでも時間短縮になるという御前家御前家の提案に小
南は、頭をやられているから下手に動かさぬ方がよいと、きっぱり。可能な限
り出血を抑えるぐらいしか応急処置もできず、じりじりと時間が流れる。
救急車の到着を待つ間に、コピー室内の様子を調べたのが、九一九と無言亭
梔、それに漫才の山原そなた・こなたの都合四人。
そこで彼らは少し奇妙な物を見つける。痕跡と表現すべきだろうか。
被害者が寄り掛かる机には、補充用のコピー用紙が置いてあった。五百枚ほ
どの束で、包装紙はすでに破り取ってある。すぐに使えるようにとの配慮から
だ。それはいいのだが、問題なのは、そのコピー用紙の山のサイドに、血文字
が残されている点だ。用紙の縦、つまり長い方の辺の側面にある文字は、里、
と読めた。目一杯大きく書いた印象がある。
「右手の人差し指に、血が付着しているな」
血文字の存在を知った小南は、極自然な態度で、被害者の指先を確かめる。
「凶器が残っているかもしれない。現場の物に下手に触るのはやばいが、上手
にならOKだろ。みんな、見える範囲でいいから探す! いいな?」
程なくして凶器らしき物が発見された。文珍、否、文鎮だ。黒光りする直方
体表面で、赤い付着物が徐々に乾いていく。山原コンビの記憶では、その文鎮
はコピー室の備品の一つで、本来の目的は言うまでもなく、紙を飛ばされない
ようにすること。大勢が触る物だから、指紋もべたべた付いているに違いない。
「役に立ちそうもないがな、畜生、忌々しい。祭もじきお開きっちゅうときに
なって、こんな」
九一九がぼやき気味に呟いたとき、救急車のサイレンがどこからともなく聞
こえてきた。
被害者は意識不明のまま病院に運ばれ、事件発覚から三時間後の時点で、未
だ回復していない。
死人は出ていないとはいえ、犯罪である。大学側にとって本意かどうかはい
ざ知らず、警察の介入と相成った。
被害者の名は、入江文造(いりえぶんぞう)。A大学の院生で、環境科学の
何某かをテーマにしている。一旦はA大を卒業して高校教師の職を得たが、肌
に合わなかったとして、四年で辞職。院に入り直した経緯があった。そのこと
と関係があるのかどうか、人付き合いの範囲は狭く、キャンパス内に限ると、
師事する土田重吉(つちだじゅうきち)教授を除けば、同ゼミの院生や学生と
も挨拶を交わす程度らしい。
「ですから、彼女は今日、初めてここに来たのであって、入江なる人と知り合
いのはずがない」
里納津子は例の血文字に加え、アリバイがなかったおかげで、引き止められ
てしまった。無論、警察に連れて行かれたのではなく、大学の第二会議室で、
笑研メンバーや第一発見者のヘビメタ男とともに待機するよう言われた。連れ
て来た責任上、松屋は当然付き添う。佐村いずみも友達思いなのか、好奇心旺
盛なのか、居残った。家の方に電話を入れたのは、言うまでもない。
個別の事情聴取の場には、第一会議室が当てられた。ただし、納津子だけは
年齢を考慮され、松屋といずみの同席が許された。
「私自身は、この子を疑っている訳じゃありません」
若く見える刑事は、穏やかな調子で告げた。体格は中肉中背、いやむしろ背
は低い部類に入りそうだ。脅すのは自分の得意分野ではないと承知しているか
のような、優しい声と表情だった。
「上司を納得させる説明が必要なので、こうして伺っています。現場の状況を
そのまま報告しただけでは、里という人物が近くを通っていたのにどうして捕
らえないのかと、怒鳴られてしまいます。分かるでしょう?」
「それはそうですが……」
刑事の物腰に勢いをなくしかけた松屋だが、釈然としないものが残っている。
はっきりさせねば。
「面識がないのは明らかなのだから、こうして足止めされるだけで不当だと思
うんですが、違いますか」
「不当とは思いません。愉快でないでしょうが、解決のためにご協力ください」
「犯人なんて、その入江って人が目を覚ましたら、一発で分かるじゃないの」
いずみが強気なところを見せる。当事者である納津子は、事件に変な形で巻
き込まれたのがショックらしく、あまり口を開かなくなっていた。
「目を覚ますかどうか不確かですし、意識が戻ったとしても、犯人を見たとは
言い切れない。後ろから殴られているのだからね」
刑事は変わらぬ語調で、論理的に答えた。ぐっと詰まるいずみ。松屋もいず
みも、この刑事にはかないそうにない。
「そもそも、入江氏が何故、大学に来ていたのかがはっきりしなくてね。ここ
の大学では、大学祭期間中に院生が来るのは珍しいそうだね。図書館は閉まる
し、コンピュータは使えないし、教室もほとんどが大学祭のために使われる。
院生の部屋には出入り可能だけれども、外が騒がしいから勉強に集中できない。
近所の公立図書館に足を運ぶ方が、よほど効率的だと聞かされては」
不可解そうに首を捻る刑事だが、部屋のドアが開いたのを機に、台詞を途中
で放り出した。振り向くと、弁当箱みたいな四角い顔の中年男が「失礼」とぼ
そぼそ言って、入ってくるところだった。年齢は上だが、こちらの方が部下ら
しい。彼から耳打ちされた若い刑事の顔つきが、一瞬、難しいものになる。そ
うして、部下が出て行くと、松屋達の方へ改めて向き直った。正確には、里納
津子だけを見たかもしれない。
「困ったことになりました。もうしばらく、いてもらわねばなりません」
再び口を開いた刑事の声音は、若干、厳しさを増していた。どういうことか
と松屋が問い返す。
「入江氏、高校で教師をやっていたと言ったでしょう? その高校、どこだと
思いますか。B高校だ。里納津子さん、あなたが現在通っている高校ですよ」
「え?」
想像すらできない事実を知らされ、意外さにからめ取られた。そんな風にぽ
かんと口を開けたままの納津子。松屋も激しく瞬きをして、今聞かされた話が
どういう意味を持つのか、じっくり考えようとする。
いずみだけが声に出して反駁した。
「入江なんて先生、知らないわよ。私達の入学前でしょう? 全然関係ないわ」
「あなたには関係ないでしょう。けれど、里納津子さん。あなたには多少関係
あると思うのですが、記憶にありませんか」
「……いえ、全くありません」
一応、思い出そうとする様子を見せてから、納津子は答えた。
「三年前に赴任し、一年と少しで辞めています。その間、あなたのお兄さんが
授業を持ってもらったようなんですよ。今、同じ高校の三年なんだってね?」
「あ、兄が」
腑には落ちた。だが、それがどうしたのだとばかり、唇を固く結ぶ納津子。
松屋は、里紳司の顔を思い浮かべていた。
(そういえば、模試が終わって気力が残ってたら来ると言っていたが、結局、
姿を見せなかったな……)
「まだこれから調べねばなりませんが、ひょっとしたら、動機が出て来るかも
しれない。そういう訳で、はいどうぞお帰りくださいとは行かなくなった」
「……」
「それに、お兄さんにも話を伺わねばならないでしょうね。まあ、今の時間、
未成年者にここまでご足労願うのは無理があるし、警察署に呼び付けるのも不
躾だ。こちらから人をご自宅にやることになりましょう」
俯いてしまった納津子を横に、松屋は何か言い返さねばと、口を開きかけた。
だが、筋道の通った反論が浮かばない。理屈を組み立てる力はあっても、元々
の材料が見つからなかった。
と、そのとき。
「見込み捜査もいいとこだ!」
またもドアが、今度は風を起こして開いたかと思うと、命短亭小南が入って
きた。着替えを済ませており、三段跳びのような大股でずんずん近付いて来る。
その背後に、先ほどの中年刑事が追いすがっていた。振り切って入って来たと
いうことらしい。
「こら、君!」
「まあ、いいよ」
松屋達の目の前の刑事は、座ったまま、落ち着いた調子で言った。さすがに
表情には驚きの色があったが。
「聞きましょう。捜査に協力を求めたのは、我々警察からですしねえ」
「物わかりがよくてありがたい。感謝はしないよ。さあ、そっちの刑事さんは、
話を聞くのか聞かないのかい? 聞く気ないなら、とっとと出て行く」
若い刑事の優しい(随分と譲歩した)言葉を逃さず、小南は一気に喋った。
その勢いに押されたのか、中年刑事は苦虫を噛み潰した顔をしつつも、廊下に
出た。あるいは、素人の話など聞きたくもないという心境か。
惚れ惚れとするような啖呵に、松屋は唖然としつつも、頼もしい援軍だと感
じた。ただ、本当に頼りにしていいのかどうか、不安も大きい。落語で探偵ネ
タをやったほどだから、こういう犯罪に関心があるに違いない。それで本物の
事件に首を突っ込んでみただけでは……。松屋は予感が外れることを願った。
「それで、どんな有益な情報をもたらしてくれるんです?」
机の上で左右の手を組み、余裕の態度で耳を傾けようとしていた刑事。が、
小南の返事に、目を剥いた。
「情報ではなく、解答を」
「ほう……。あなたはこれまでに分かった手がかり、全部知っているのかな」
「全部かどうかは知らない。だが、警察が彼女を疑っていることと、その根拠
に関しては全て聞いたつもり」
立ったまま演説をぶち、右の親指で納津子を示す小南。
「ふむ。とりあえず、話してみてください。ああ、まずは見込み捜査と断じた
根拠から伺えれば、幸いですがね」
「そんなのは簡単。朝飯前ってやつさ。この大学に、B高校出身の学生が何人
いるか、調べたかい?」
「……なるほど」
一瞬で解したらしい。若い刑事は若さに似合わず、物分かりのよい好々爺然
として首肯した。
「入江氏と面識のある学生が他にもいるかもしれない、という理論ですね。な
るほどなるほど。その点を調べようとしなかったのは、我々の手落ちです。だ
が、見込み捜査と言い切られるのは、やはり承伏しがたい」
「何で彼女に疑いを向けた?」
もう一度、納津子を今度は顎で示す小南。刑事は、そんなことを今さらとで
も思ったのか、小馬鹿にした風に吹き出した。
「現場の状況を知らないのですか? コピー用紙の束の側面に、血文字で『里』
と書き残されていた。漢字でね。被害者が被害者自身の血で書いたと見なして、
まず間違いない」
「さっきと同じ理屈を持ち出すよ。『里』の字が付く名前の持ち主は、この大
学にいないって?」
「大学全体ならいるかもしれないね。だが、入江氏の周辺にはいなかった。里
兄妹を除けば皆無だ」
「里見も里中も?」
「ああ。里村も里山もいませんでしたよ」
「下の名前で、里子や里美は?」
「いない。入江氏の周辺には女っ気がない」
「大里はどう?」
「……頭に『里』の字が付かない名は、除外してよいでしょう。瀕死の重傷を
負った被害者じゃなくても、わざわざ『大』の字を飛ばす理由がありません」
「飛んだのは字ではなく、紙かもしれない」
「え? どういうことです?」
淡々と受け流していた刑事が、組んだ手を解いた。興味ありげに、小南を見
上げる。
「『大』と書かれた紙がきれいに飛んで、ばらけたとしたら、最初から『里』
しか書かれていなかったように見える。紙の束のサイドに書かれた文字は、ば
らけたら読めないどころか、何かが書いてあったことすら分かりづらくなる」
「ふむ。面白い見方ですが……あり得ない。現場に、余分な紙は散乱していな
かった。それに、血文字ですよ。たとえばらけたとしても、赤い痕は目立つ。
黒ならまだしもね」
「なら、疑いを持つこと自体は合理的と認める。それでもなお勇み足と言わせ
てもらうよ、刑事さん。別の可能性を払拭できない限り」
「別のね。是非、教えてください」
「血文字の写真をさっき、あの“親切な”刑事さんに見せてもらったんだけれ
ど、それを見て気付いたことがある」
「興味深い話です。写真ならここにもありますから、説明願いたいものですね」
「教えるのはまだ先だ。確認を一つと、論証を試みたい。大きな疑問として、
犯人は血文字に気付かなかったのか?というのがある」
刑事は癖なのか、また「ふむ」と呟いた。
「あれだけ派手に書き残したのだから、気付いていい。気付いたなら、対策を
講ずるに違いないという訳ですか。しかし、処分しようにもあれだけ大量の紙
を持ち出すのは、危険でしょう。目立って仕方がない。血文字を読めなくすれ
ば事足りるのだから、全部を持ち出す必要はないものの、それでも結構な枚数
になると思われますね」
「では、たとえば実際に書かれたのは『黒』という字で、点四つの部分だけ、
犯人が持ち去ったために、『里』と読めた……という説も、認めてくれない?」
「ええ。面白いアイディアだが、紙の束を持ち出し、処分するという行為は手
間が掛かるし、目立ちますから、却下です」
「持ち出さずとも、コピー室内で燃やす手がある。着火道具はなかった?」
「少なくとも現場にはありませんでしたね。犯人自身も持っていなかったんで
しょう。この推測と、我々が里さんに疑いを向けるのとは、矛盾しません」
「コピー機のトレイにセットし、何かをコピーさせてしまえば? そのまま置
いたら、上下の順が逆になるだけだが、セットするときに紙の順番をある程度
でたらめにし、左右を入れ換えることで、血文字は読み取れなくなる」
「それでも赤い痕跡には気付きます。そして我々は、紙の順番や向きをああだ
こうだと試行錯誤してでも、そこに何が書かれていたのか、再現してみせます。
警察の力を甘く見られては困りますね」
自負心たっぷりに、言い切った刑事。小南は「頼もしい」と微笑混じりに応
じ、さらに続けた。松屋は、二人の繰り広げる議論に魅せられ、口を挟めない
でいた。多分、納津子もいずみも同様だろう。
「それを聞いて、安心して写真の話に戻れる。血文字の写真を」
小南の求めに応じて、刑事は一葉の写真を机に置いた。松屋達も一度見せて
もらった物だ。こうして見直しても、やはり「里」と読める。
「この文字がやや縦長の形状なのは、誰もが認めるところだと思う」
大きく書かれた文字故、受け取りようによっては縦長と表現してもおかしく
ない。だが、それが何だと言うんだろう? 松屋は頭を捻った。
「もし、犯人の手によって、上下入れ換えられていたとしたら、どう読める?」
「何?」
叫び気味に応え、刑事は写真を見つめた。右の人差し指を鼻筋に当て、思案
げに目を細める。
「……入れ換えたあとは、一文字ではなく、二文字?」
刑事の問い掛けに、小南はもちろんと首を縦に振る。
「元々が二文字だったなら、『里』が縦長に見えたことも説明できる」
「それなら、『土田』だな……」
刑事が鼻筋から顎先に手を移す。いかなる判断を下そうか、困惑しているよ
うに見受けられた。
「関係者の中に、土田って人がいたんじゃない? ねえ、刑事さん!」
突如、声高に主張したのはいずみ。同意を求める風に、部屋にいる全員と目
を合わせようとする。
「ええ。入江氏を指導している教授の名前です。これはどうしたものかな」
「あの、刑事さん。まずは、紙の束を上下入れ換えて、本当に土田と読めるか
どうかチェックすべきでは……」
松屋は恐る恐る、意見を出した。里納津子は窮地を脱したようだが、今度は
土田教授に容疑が向くとは、想像すらできなかった。懇意にしている訳ではな
いが、講義を受けたことのある先生が容疑者というのは、違和感が拭えない。
「そうですね。そのようにしましょう」
刑事は宣言し、気を取り直すためか、短く息を吐いた。そこへ小南が告げる。
「『土田』を入れ換えて『里』とする際に、境目をつなげるために、三、四枚
の紙を持ち出し、処分した可能性をお忘れなきよう」
「承知しています。束は無理でも、数枚ならポケットに隠せるからな……」
刑事は席を立ち、ドアまで歩くと、外にいた仲間に指示を出した。それから
ため息を何度も吐きながら、小南へと向き直る。
「見込み捜査と言われた理由が、よく分かりました」
刑事が軽く頭を下げると、小南も殊勝に「口出し、お許しを」と礼を返す。
「自説が正しいと主張するつもりはありません。警察の方々があまりにも性急
にことを進めているように思えたので、違う見方を示したまで。どちらが正し
いのかは、これからの捜査で判明することです」
「確かにその通りです。でも、現段階では、心情的に――」
刑事は納津子の方を見やった。
「あなたに謝らなければいけない気がしていますよ」
疑いが薄まり、居場所も確かだということで、納津子はようやく解放された。
いずみは中途で別れたが、松屋は責任を感じていることもあって(紳司から模
試の手応えを聞かねばならないし)、里宅まで着いて行った。
幸い、納津子の両親とも、松屋に責任はないと分かってくれたので、気まず
い思いを味わわずに済んだ。それどころか、遅いからという理由で泊まってい
ってはどうかとさえ言われた。迷った松屋だが、食事の準備を自分でしなくて
いいという誘惑には勝てず、申し出をありがたく受けることに。表面上は、紳
司の受けた模試の復習をする名目で。
その夕食後、いつも家庭教師をするときのように、紳司の部屋に入った松屋。
いつもと違うのは、納津子が一緒に入った点。
「模試の話は後回しにして、今日の出来事を話してよ」
紳司は回転椅子に座るなり、そう切り出した。勉強したくないと言うよりも、
真実、関心があるのだろう。
松屋も異議はなかったが、一応、しょうがないなという顔はしてみせる。
「大方、模試の出来がよくなかったんだろ? それで大学祭の顔を出しづらく
なったという訳か」
「いや、手応えは割とあったんだよ、ほんとに。ただ、頭が疲れちゃって、気
晴らししねえとやってられないと思ったから、ゲームセンターで暇潰し」
「ま、その方がいいな。成績下がると、俺の立場も危ないから」
このあと、松屋が中心になり、事件の成り行きを詳しく伝えた。納津子はシ
ョックから立ち直れたか、口数こそ多くないが、適切にフォローを入れた。
「――これで終わり。全ては命短亭小南さんのおかげって訳だよ」
「名前通り、名探偵って訳かぁ。はあ〜」
感心した様子で、しきりに首肯する紳司。納津子は、この場にいぬ恩人に対
して感謝の言葉を口にしたあと、照れ隠しのように付け加えた。
「惜しむらくは、落語の腕前がいまいちだったってことね」
「面白くなかったとか?」
「うーん、つまんないっていうんじゃないんだけどね。微妙ってやつよ」
己の笑いのセンスに自信喪失の松屋は、兄妹の会話に、ただただ耳を傾けた。
「天は二物を与えずって言うけど、小南て人もその口か」
小南の落語の筋を聞いた紳司が、軽い口調で語る。妹が異を唱えた。
「だから、落語の腕前はちょっと落ちるだけで、すぐに上手になると思う。立
ち居振る舞いなんか、凄く洗練されてるしさ。熱心さが伝わってきたのよ」
「そりゃあ、女だてらに落語をやるくらいだから、熱心だろうさ」
紳司の台詞の数秒後、納津子と松屋は顔を見合わせた。「うん? どうかし
たか?」と言う兄に、妹が怪訝そうに尋ねる。
「あのさ、兄さん。小南さんのこと、どうして女性だと思ったの?」
「は? だって、そりゃあ……」
続きがない。松屋は眉を寄せ、里紳司を真正面から見据えた。
「確かに命短亭小南は女性で、本名は一ノ瀬(いちのせ)メイだそうだが、俺
達の話を聞いただけで、性別が分かるものか? 紳司、説明してもらおうか」
――終