#388/566 ●短編
★タイトル (AZA ) 11/03/17 22:12 (364)
ミステリマニアの多いアパート 永山
★内容 22/07/18 22:47 修正 第3版
学生専用アパート深緑荘は、G大学まで電車プラス徒歩で十五分、徒歩のみ
でも三十五分で行ける場所にある。なかなかよい立地の割に人気殺到とならな
いのは、築三十年を迎えると噂されるその古さに理由の一つがある。鉄筋とは
いえ、既に外壁は塗装がところどころ剥げ落ち、申し訳程度のベランダは手す
りに錆が浮き(というよりも錆で手すりをこしらえたような有様)、天井は雨
漏りの修復痕がいっぱい。
各部屋の錠だけは立派なのだが、これには訳がある。人気殺到とならないも
う一つの理由にもつながるのだが、建てられてから今までに、深緑荘では殺人
事件が四度も起きているのだ。これはあくまで事件単位の数であり、犠牲者を
数えれば七人になる。四つの事件は解決済みで、関連は見られず、別個の犯罪
に違いない。そのためか、深緑荘自体が呪われているのではないかという噂が
立つようになった。
オーナーがまた変わり者で、部屋が埋まろうが埋まるまいが気にしない質と
来た。流血沙汰の事件が起きても、室内の畳を取り替えて、壁をざっと塗り直
す程度で済ませる。お祓いぐらいしておけば、外聞もいくらか回復しただろう
に、そんなことに費用を掛けるのは無駄と言わんばかり、それどころが怪異な
噂大いに結構と歓迎する節すらあった。
そんなアパートに好んで寄りつくのは、オカルト趣味の人が筆頭だろうが、
幸か不幸か、G大学にはオカルト研究会の類がない。二千名からいる学生の中
にはオカルト好きがいてもおかしくないが、表立って活動する者はいない。大
学の雰囲気がその手の人達を寄せ付けないのかもしれない。
そこで、という訳でもあるまいが、深緑荘に入るようになったのが、ミステ
リマニアと呼ばれる人種である。ここでいうミステリとは非日常的な不可思議
超常現象を示すものにあらず。推理小説の方である。小説と現実の区別はしっ
かり付いているが、一度くらいなら殺人事件に接してみるのもいい、なんて頭
の隅っこでぼんやりと考えてるものだから、深緑荘のような曰く付きの建物は
大歓迎。積極的に入居したがるほど。今や、深緑荘の六室は、G大学のミステ
リ研究会の面々で独占されるようになっていた。
かくいう僕も深緑荘の住人なのだが、入居当初はミステリ好きではなかった。
G大学に合格したはいいが、直後に病気を患い、下宿先をまともに選んで決め
る暇が一切なかった。三月下旬になってたまたま一部屋だけ空いていた安アパ
ートに申し込んだら、そこはミステリマニアが集う深緑荘だった。環境が人を
作るとはよく言ったもので、七月になる頃には、僕も駆け出しのミステリマニ
アになっていた。
深緑荘の現住人のみんなは、僕を除く全員が推理小説を書いたことがある。
上手下手はあっても、未経験なのは僕だけ。一度は書いておけと先輩の一人か
ら、半ば命令じみた口調で言われたものの、簡単にはいかない。文章を書く行
為は苦にしない僕だが、物語を考えるとなると二の足を踏んでしまう。斬新な
アイディアが浮かばないのだ。
じゃあ、と先輩が教えてくれたのが、過去に深緑荘で起きたとされる、とあ
る事件。もうとっくに時効を過ぎたから関係者に迷惑は掛からないだろうし、
仮名にすれば問題ない、新聞記者になったつもりでやってみたら云々と、言い
くるめられてしまった。
そうしたきっかけで書き上げたのが、以下の話である。部分的に創作が混じ
っているが、ベースとなるミステリ的な要素――事件の背景やトリック等――
は、事実をそのまま借用した。素人が初めて形にした習作をご笑覧いただけれ
ば幸いである。
※ ※
あのときまで、自分がプライドの高い人間だという意識はなかった。あのと
き――去年の学祭で、クイズ大会に出場するまで。
学祭のクイズ大会はその年度の新入生のみが出場資格を有し、参加は自由だ
が、そこそこ豪華な優勝賞品が出るため、何らかの部に入った一年生は、先輩
の“指令”で強制参加させられるのが通例となっていた。
自分は、歴史研究会に入っていたが、先輩から指令されるまでもなく、出場
するつもりでいた。クイズにはそれなりに自信あったし、優勝に手が届かなく
ても、十位以内に入れば、賞品がもらえる(独り占めはできないが)。広い大
学で名前と顔を売るのも悪くないと、計算していた。
結果から言うと、自分は四位に入った。一位と二位はクイズ研究会の面々な
ので、実質二位と言ってもいい。上出来である。
ただ、敗退の仕方が納得できなかった。決勝は四人での早押しだったのだが、
中盤で自分でも信じられないミスを犯した。
ミスを犯した問題――「夏目漱石の小説『三四郎』に登場する三四郎の名字
は?」に、自分は反射的に「姿!」と答えてしまった。
会場を埋めた見物客から笑い声が渦の如く起きて、進行が一時中断したほど
続いた。自分はこのショックからずるずると遅れを取り、突き放されて四位に
沈んだ。
その後、自分の思惑とは違った形で、名前と顔が売れたことを知る。知り合
いは言うまでもなく、見知らぬ相手からも「姿」だの「すがたん」だのと呼ば
れる始末。
そんなくだらないことでいらいらを募らせるのは馬鹿らしい、と分かってい
るつもりだった。だが、連日ありがたくないあだ名で呼ばれ、慣れることもな
く、ストレスだけが溜まっていく日々。どうにか我慢してきたが、我慢しすぎ
たのがよくなかったのかもしれない。
あるとき、高校来の友人・堀親彦に頼まれて、フランス語の課題を見せてや
った。堀は課題を写させてもらっている立場のくせに、訳文に誤字があると言
ってきたのだ。それだけならまだしも、「やっぱり、『すがたん』だな」と笑
ったのである。悪意はなく、冗談混じりのちょっとした嫌味、その程度の意識
だったに違いない。だから自分も我慢した。その場では怒りを面に出さずに、
「ひでえな」とか何とか返しておいたと思う。
しかし心の中では既に決意していた。溜まりに溜まったストレスや怒りを解
き放つべく、こいつを殺してしまおう、と。
短絡的に過ぎる? そうだろうか。自分はこれまで生きてきて、馬鹿にされ
たことがない。そんな状況がなかったからだ。おかげで、いつの間にか、やた
らと高いエリート意識やプライドが醸成されてしまったらしい。相手に話を合
わせながら、内心では意識することなく見下していた。自分自身の性格に、今
ごろになってやっと気付いた。見下していた者から反撃を食らって、笑って済
ませていられようか。徹底的にやり返し、潰すべきだ。
だいたい、堀の周囲の連中も、いけ好かない奴らが揃っている。堀は大学生
になると、ミステリ研究会に入った。それまでの付き合いで、堀は話題の推理
小説を読んではけなしてばかりいたから、こいつはあまり推理小説が好きじゃ
ないんだなと思っていたが、結構なマニアだったらしい。
自分も読む分には嫌いじゃないが、入部とまでは行かなかった。入学当初、
堀と一緒に部活見学に回った際に、ミス研部員から受けた印象が、肌に合わな
いと感じたためだ。のちに堀を介して何度かミス研部員と話をする機会があっ
たが、最初の直感は当たっていたと確信した。全員がとは言わないが、大方の
連中は頭のよさを鼻に掛けた、あるいは自分が頭がいいと思っていて、しかも
その意識が言動の端々に現れているのだ(今思うと、自分が抱いた嫌悪感は自
分と同類の人間を目の当たりにしたせいかもしれないが)。
大学近くの学生アパートに入った堀を初めて訪ねたとき、そこの住人全員が
ミス研メンバーだったことに驚かされた。その深緑荘では過去に殺人が何件か
起きたとかで、「私達がいる間にも事件が起きればいいのに」なんて発言を平
気でするのを、幾度となく耳にした。冗談混じりだったり、酒の入った席だっ
たりではあったが、繰り返し言われると気持ちが悪い。
だったらいっそ、体験させてあげようじゃないか。深緑荘で殺人を起こし、
現実の殺人事件を知れば、この人達もきっと黙り込む。
幸い、深緑荘は古い建物で、設備も右に倣え、防犯カメラなんてしゃれた物
はない。かつて殺人事件が何度か起きたアパートにしては、不用心に過ぎるが、
持ち主がけちなのだろうか。何にせよ、こっちには好都合だ。
自分の立てた段取りはこうだ。
深緑荘に堀が一人でいる時間帯を狙い、奴の部屋――七号室を訪ねる。そし
て殺害。返り血など犯行の後始末に手間が掛からない、こちらが腕力で上回っ
ている等の条件を考慮し、絞殺にする。発端は“姿三四郎”なのだから、柔道
の絞め技を用いるのも一興だが、扼殺よりは道具を使う絞殺の方が、遺体に残
す痕跡が少なくて済むだろう。凶器の紐は、アパートのベランダのそこかしこ
に放ってある洗濯用ロープとする。他の入居者に容疑を向けさせる意味もある。
それから現場を密室にする。現実的な理由なんてない。ミス研仲間の犯行に偽
装するため、ただそれだけだ。
密室トリックは、さほど有名でない推理物から拝借する。オリジナルのトリ
ックを用意してもいいが、万が一、関係者の誰も解けないようでは困る。
具体的には、玄関を施錠した後、鍵を郵便物や新聞に紛れ込ませる。玄関ド
アの下部に付いている郵便受けに、それらを突っ込んでおく。溢れそうではあ
るが、一度に引き抜ける程度の分量で。第一発見者は、堀の長い欠席を心配し
た入居者とアパート管理人になるだろう。彼らは玄関ドアを開ける際に、郵便
受けいっぱいの郵便物等を引き抜き、室内に持って入るに違いない。じきに堀
の死体を発見し、パニック状態の中、郵便物は放り出されるだろう。当然、鍵
も室内のどこかに転がる。深緑荘の部屋は上がりかまちと台所、トイレを除く
と畳敷きなので、鍵の落ちた音はほとんど聞こえまい。密室の完成だ。
無論、失敗する可能性もある。鍵が途中で落ちれば、簡単にばれる(途中で
落ちぬよう、ドライアイスか何かで鍵を郵便物に貼り付ける手もあるが、そう
すると、事件が予想外に早期発見された場合、鍵が落ちないことがネックにな
りかねない)。しかし、そうなったとしても一向にかまわない。自分に結びつ
く手掛かりにはならない。ミステリマニアの犯人が密室を作ろうとして当てが
外れた、そう見えるだけだ。
他に気になるとすれば、自分は堀の長期欠席・音信不通をどの程度心配して
みせるか、である。全然心配しないのは不自然だが、過度に心配すると第一発
見者の一人になってしまう恐れがある。加減が難しい。実際の状況を見て、臨
機応変に対応することになる。
計画は完成した。なるべく早く決行せねばならない。ぐずぐずしていると、
冬期休暇を迎えてしまう。大学に来なくなってもあまり不自然でない時期に入
ると、事件発覚が遅れるだろう。すると郵便物が溜まりすぎて、密室トリック
の発動に不都合が生じる。どうでもいい密室とはいえ、完成させるのに越した
ことはない。
うまく行った。人を殺すという行為は、想像していたよりも呆気なく終わっ
た。現場への出入りも密室完成のための細工も、目撃されることなくできた。
念のため、目撃されても大丈夫なよう、堀親彦っぽく見える変装をしてきたの
だが、必要なかったかもしれない。
いくつかの小テストが重なる直前の時期なので、怪訝に思った仲間がやがて
堀の部屋を訪ねるだろう。あとは思惑通りに鍵が室内に運ばれるかどうか。そ
れだけが気懸かり……のはずだった。
* *
もうすぐ真冬とあって、空は早くも暗くなり始めていた。
八島美花はいつものように深緑荘の近くまで来ると、辺りを窺った。このあ
と、いつもとは違う行為に及ぶつもりである。それが世間一般にはよくないと
される行為と理解してはいる。だからといってやめはせず、こうして人の目を
気にしている。
二十六になる八島は、元はホームセンターで働いていたが、今はフリーター
である。過去に同じホームセンターへアルバイトに来た男子高校生を気に入り、
何かと世話を焼いてやったつもりだったが、大きな進展は――いわゆる男女の
関係という意味で――なかった。相手がバイトを辞めたあとは当然疎遠になっ
た。彼女は自分でも理由のよく分からないまま、その男子高校生に執着し、自
分では認めたくないがストーカーになっていた。
尤も、いきなり過激で傍迷惑なストーカーと化した訳ではない。ばれないよ
うに尾行したり、たまーに無言電話を掛けたり、相手の進学先を覗きに行った
りする程度だった。だが、最近になってこのくらいでは我慢できなくなり、ひ
と月ほど前からは彼の下宿先を見に来るようになっていた。
そしていよいよ、より危ない行為に出ようとしている。
当初は、回収のために出されたごみを漁ろうかと考えた八島だが、人並み以
上にきれい好きな彼女にとって、いくら好ましい人物の出したごみであっても
ごそごそと探るのはできそうになかった。
そこで方向転換。郵便物に狙いを定めたのである。彼の個人情報が色々と掴
めるかもしれない。相手に恋人がいれば、それについても何か分かるかもしれ
ない。といった計算もあった。
今し方、深緑荘の七号室から、男性らしき人影が立ち去っていった。黄昏時
ゆえ、顔を確認できた訳ではないが、八島の執着する若い男――堀親彦の姿に
見えた。しばらく様子を窺い、七号室が無人であるらしいことに確信を得た。
ラッキーにも、他の部屋にも人がいないようだ。
八島はそうして郵便なり何なりが届くのを待っていたが、程なくしてしびれ
を切らした。郵便が届くより先に、誰かが帰ってくる恐れがある。そうなる前
に、とにもかくにも堀の部屋を見ておきたい。郵便受けはドアに付いている。
ひょっとしたら内側の覆いが壊れていて、中が見通せるかもしれないじゃない
の。そんな空想をすると、居ても立ってもいられなくなり、身を潜めていた角
の物陰から飛び出した。
道路を横切り、深緑荘の門をさも住人のような態度でくぐる。そこから金属
製の外階段の下までダッシュ。周囲を睥睨してから、足音を忍ばせて素早く二
階へ上がった。廊下の一番奥にある七号室まで、遠く感じる。
目的の部屋の前に着くと、大きく息を吐いた。鼓動が激しくなった気がする
八島だが、呼吸を整えている暇はない。
郵便受けを見た。
「あれ?」
意外さのあまり、思わず呟く。声を出すまいとして心に決めていた八島は、
慌てて口元を押さえた。
(それにしても……)
八島は首を傾げた。
堀はさっき出掛けたのだ。そのとき郵便物があれば、取り入れてから外出す
るものだろう。事実、玄関前でしばし立ち止まっていたのを見ている。
なのに、今、目の前に見える郵便受けには、幾通かの郵便物が挟まっている。
新聞まである。
腑に落ちない物を感じた彼女だったが、すぐさま頭を切り換える。これはチ
ャンスだ、と。
思い付くと同時に手が動いた。郵便受けから新聞と郵便物をまとめて引っこ
抜く。新聞はどこにでもある代物だし、届かないとおかしいので戻しておく。
残りをコートの内側で、小脇に抱えて、爪先を階段の方へ向けた。一気に降り
る。行きと違い、多少の足音を立ててしまった。人の目どうこうよりも、急が
ねばという意識が勝った。
深緑荘の敷地も飛び出し、相当走って、公園らしき開けた区画にたどり着い
た。八島はベンチに座り込んだ。肩が勝手に上下する。今度は時間を使って息
を整えた。
しかし郵便物が気になる。まだ息が少し乱れていたが、八島は“収穫”を確
かめ始めた。一つ一つ、差出人に視線を落とそうとしたその矢先、指が固い物
に触れた。
違和感に手を引っ込めると、その固い物は地面に落ちた。身体を折って拾い
上げる。
八島の人差し指の先には、鍵が引っ掛かっていた。ホルダーは素っ気ない黒
一色のストラップのみ。その金属製の輪っかに、三つの鍵。一つは即座にバイ
クのそれと分かる。
残り二つは、表面の色つやこそ若干異なるが、同じ型だと気が付いた。家の
――深緑荘七号室の鍵とそのスペアだと容易に想像できる。
(けれども、何故こんな物が郵便受けの郵便物に混じって……)
八島はキーホルダーを振りながら考えた。
スペアだけならまだしも、普段使う鍵まで置いて、外出するなんてあり得な
い。あるとすれば……夜逃げ? 家財を一切合切残して、雲隠れする気なら、
鍵を二つとも置いていくことも、まあ考えられなくはない。
(そういえば、先ほど見掛けた堀君の姿、何だかこそこそしているようにも見
えた)
だが、逃げたのだとしたら、その理由が分からない。何者も堀の存在や生活
を脅かしてはいない。八島自身だって、ストーカー行為を気付かれていない自
信がある。
(あ、ひょっとしたら、今、誰かがあの部屋にいる? それなら鍵を置いてい
っても不思議はな……いえ、違う。わざわざ郵便受けから入れる理由がないわ)
次の瞬間、八島は立ち上がった。考えるのをやめた。鍵がこうして手元にあ
るのだ。直接見てやればいい。彼の部屋を覗けるなんて、願ってもいないチャ
ンス。
深緑荘の七号室まで引き返した矢島は、焦る気持ちを抑えるのに苦労しつつ、
ドアノブ上の鍵穴に鍵を差し込んだ。想像した通り、ぴったりはまる。回すと
滑らかに動いた。解錠される音が大きいと感じた。
ノブを回すと、ドアは軽く開いた。
八島美花は唾を飲み込むと、忍者顔負けの動きで室内に入った。
* *
訳が分からなかった。
自分は間違いなくこの手で堀親彦を絞め殺し、密室が成立するよう細工を施
してから現場を離れた。ドアを施錠したのは言うまでもない。思惑通り、第一
発見者は深緑荘の住人達と管理人になったとも聞いた。
それなのに、七号室に堀の遺体はなかった。消えたのだ。
報道によれば、人血の付着した刃物類が部屋に残されていたという。恐らく、
何者かが堀の遺体を解体し、少しずつ運び出したに違いない。警察は、堀親彦
が犯罪に巻き込まれた可能性が高いとして、捜査している。
何故、こんな事態になったのか。いきさつの想像ならできる。自分が堀を殺
害し、現場を立ち去ったあと、郵便受けにある鍵を見つけた者がいるのだ。そ
いつは部屋に上がり込み、堀の死体を見つけたのだろう。そして理由は不明だ
が、死体を持ち出すことにした。人ひとりをそのまま運ぶには目立つので、解
体したに違いない。
問題は、死体搬出の理由だ。当人が殺した訳でもないのに、死体をわざわざ
移動させるなんて、どうかしている。もしかすると、こいつは殺害犯がこの自
分だと知っているのではないか? 現場への出入りを目撃されたとは思わなか
ったが、もし見られていたのなら、容易に思い付く。そして脅迫して金を強請
り取るため、死体を……いや、それはおかしい。死体は事件が起きた証拠では
あっても、犯人を特定する証拠ではない。ひょっとすると、「おまえの殺しを
なかったことにしてやる。その代わりに金を払え」という意図なんだろうか。
その割に、血痕付きの刃物を現場に残しており、ずさんに過ぎる。死体盗人は
急いでいたのか。
――死体盗人は堀の死体がただほしくて、急いでいたのかもしれない。そん
な可能性に思い当たった。しかし、そこからはなかなか推理が進まない……。
* *
八島美花は自宅のテレビでニュースを見ながら、首を傾げた。もう何度目に
なろうか。
彼女は失敗したと思っていた。
堀親彦の私生活を覗き見たくて、深緑荘の七号室に忍び込んだはいいが、そ
こでとんでもないものを――堀の遺体を見つけてしまった。一時は激しく動揺
し、パニックを起こしかけた。が、冷静になるのも早かった。
堀がもうこの世からいなくなった事実を飲み込んだ八島から、彼への執着は端からな
かったかのように消えた。死んだばかりらしい堀の身体からは、まだ温もりが残ってい
る気がしたが、愛しさは感じなかった。何しろ、形相が見られたものでなかった。あの
死に顔のおかげで、八島は堀に悪いイメージを持ってしまった。
そんな八島だから、我に返るなり、さっさと現場から逃走した。七号室に立
ち入った証拠は残さなかったと思う。ただ、一日ぐらいあとになって、キーホ
ルダーを持って来てしまったのに気が付いた。堀の部屋やバイクの鍵が付いた、
あのキーホルダーである。
続けて八島は思い出した。七号室に鍵を掛けないまま出て来た。
(開けっ放しだと、誰でも部屋に入れて、堀君の身体を運び出せる。でも、犯
人以外にそんな真似する理由なんてない。要するに犯人が遺体を運び出したん
だろうけれど、そうすると犯人は玄関の鍵が開いていたことや鍵がなくなって
いたことにも気付いている、多分。これって私、危ない状況かも)
もしも、七号室から逃げ出す八島の姿を、引き返してきた犯人に見られてい
たとしたら。
* *
「まさか、触れもしなかった堀自身の包丁から、奴の血が出るとはなあ」
「予想外だった」
「いや、冷静になればその可能性に気付けていたよ。日常的に包丁を使って、
指を怪我することぐらいある。極端なほど念入りに洗い流さない限り、包丁に
ルミノール反応が出てもおかしくない」
「今さら後悔しても仕方あるまい。まだ失踪扱いのせいか、七号室を調べた警
察も手ぬるかった。結果オーライだ」
「私、思うんだけど、遺体を運び出すよりも、お宝を運び出した方がよくなか
った?」
「時間の余裕がなかった。畳や天井板をひっくり返す必要がある上、壁には穴
が空いたままになる。警察に不審がられるに決まってる」
「そうかなあ。遺体発見を遅れさせることができさえすれば、修復可能な気も
する」
「鍵があったなら、まだ可能性あっただろうな。恐らく、殺人犯が持ち去った
んだろう」
「そういや、犯人は何で鍵を持ち去ったのかねえ。部屋の鍵は開けっ放しだっ
たし」
「ミステリマニアの自分なら、密室にして行くのに、ってか」
「殺人なんてしないけどな。そりゃまあ、もし万が一、やっちまったとしたら、
密室殺人に仕立てたい気はする」
「つまり、堀君殺しの犯人はミステリマニアではない」
「つまり、我々深緑荘住人の中にもいない、と」
「めでたしめでたし、ね」
※ ※
パソコンのモニターから面を起こすと、寺西陽楚香さんは長机を挟んで正面
に座る僕を見た。睨まれているような心地になる。
「何、これ」
「言われた通り、実際の事件を題材に、膨らまして書いてみたんですけど……」
「あんたのパソコンには、ベーキングパウダーでも入っているのか?」
「は?」
「膨らましすぎて、別物になってるじゃないってことよ」
机の縁を、寺西さんの指が何度も叩く。素人の習作に、ここまで厳しく言わ
れるとは。
「いや、ですから、当事者の人達に迷惑が及ばないよう、大幅に変えました。
登場人物の名前も改めて作りました。名誉毀損で訴えられるの、避けたいです
し」
「私が言った意味は、それだけあじゃない」
寺西さんは今度は手のひらで机表面を叩いてから、僕を指差した。推理小説
で名探偵が犯人を名指しするときみたいに。
「これってミステリとは似て非なる別物になってると思わない?」
「別物……っすか」
問われてもよく分からない。最初から犯人が分かっているから、ミステリで
はないと? いやいや、寺西さんが倒叙ミステリのスタイルを知らないはずが
ない。
「読者が推理しようがないでしょ」
「え、だって、これは本格推理じゃありませんから……」
「ばかもん!」
机を叩く寺西さんの手が拳になった。弾みで数センチ跳ばされた気がする。
「よそのミス研ならいざ知らず、我がG大ミス研メンバーが書くのは本格限定
であるっ」
「な、何でですか」
「昔からの決まり」
最前までの剣幕を引っ込め、すまし顔で告げる寺西さん。縁側で日向ぼっこ
をしながらお茶をすするお年寄りのような風情を感じさせる。
僕が二の句を告げないでいると、寺西さんは目をつむり、一つうなずいた。
「ま、これはこれで悪くはない。習作ってことで大目に見てあげよう。ところ
で聞きたいんだけれども、どうしてこんな展開にした? あの殺人事件は友人
が犯人だったという、シンプルな形で終結している」
「それは」
僕は即答しようとしてやめた。少し考える。急かされない内に、また口を開
いた。
「実はですね、つい最近のことなんですが……僕の部屋、壁の一部が剥がれて、
中から金色に光る物が覗いてるんです」
――完