AWC 地震過剰 1   永山


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#214/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  04/03/13  23:59  (388)
地震過剰 1   永山
★内容                                         04/10/17 21:36 修正 第3版
 信号待ちのとき、伯父が指差した先に目的の建物が見えた。
「話に聞いていたよりも、こぎれいですね」
 真夏の太陽の眩しさに目を細めつつ、三鷹珠恵(みたかたまえ)が率直な感
想を述べると、伯父は頭の上に手を置いた。
「完成してまだ半年だからね。その上、チェックが厳しくなって、“前科”の
あるグループは、新しいクラブハウスをなかなか使わせてもらえないでいるし」
「旧クラブハウスは、そんなに酷い有様だったのですか?」
「うむ。まあ、落書きがね。破損もあることはあるが、使えないほどじゃない」
 信号が青になり、手は頭の上から離れ、車がスムーズに発進する。
「主に体育会系のクラブが、酔っ払った勢いでおいたをする。まあ、周辺住民
に迷惑を掛けない程度なら、許すべきだろう。今だけなんだしね」
 若い頃を思い出す風な横顔の伯父を、三鷹はじっと見つめていた。
「実験は伯父様が不在でも、支障ないのですか」
「問題ないよ。単純化して云ってしまえば、一人でひたすら計算をするだけだ
し、データは浮城山(ふしろやま)君が取っている」
 三鷹の伯父、行方弘士(なめかたひろし)は教授職にあり、大学側の分類に
より情報工学科で何コマか受け持っている。
 だが、クラブハウスを借り切って行っている今回の実験は、授業やゼミの一
環ではなく、行方本人のテーマに関するものである。実験に協力する参加者は、
学内で募集した学生ばかり五名。これに行方自身を加えた六人で、一人ずつ個
室に入り、六時間ぶっ続けで簡単な四則演算の問題を解いていく。初日、二日
と通常の状態で取り組み、基本データを収集。それ以降は様々な条件下で取り
組むことになる。
「たとえば問題を右から左向きにしたり、視界が左右逆転する眼鏡を掛けたり、
利き手でない手で記述させたりね」
「面白そうですけど、情報工学の名に似つかわしくない気がします」
「私の今の関心は人間に向いているんだ。人間の機能に」
 角を右に折れ、比較的寂しい通りに入って、更にもう一度左折すると、クラ
ブハウスの駐車場に乗り入れた。段差のせいで、買い出しの品物が袋ごと軽く
バウンドし、かさかさと音を立てる。
「本当に、自分が見学してもよろしいのでしょうか」
 降りる際、三鷹は心配顔になって尋ねた。中学生の彼女は行方の親戚という
だけの理由で、特別に見学させてもらうことになった。実験三日目、買い物に
出た伯父に、ついでに駅まで迎えに来てもらった形である。
「勿論、かまわない。珠ちゃんが機械いじり以外にも興味を持っただけで、私
は歓迎したいね」
「皆さんは、自分のことをどう思っているのでしょう」
「そんなことまで気にしているのか。ははは。想像するしかないが、先生のか
わいい姪が来る、ぐらいに受け止めてるんじゃないかな」
 顳かみ辺りの縦巻き髪を右手の人差し指で弄び、聞き流した三鷹。そんな姪
っ子に、行方は「先に、アイスクリームを持って行ってくれないか。すぐに食
べたい者も多いだろう」と伝えた。
 三鷹は素直に頷き、ドライアイス入りの箱を両手で持つと、胸元でしっかり
と抱いた。
「入って真っ直ぐに行き、二つ目の角を左に折れた先に、誰かいると思う」
「分かりました」
 買い物袋を両手に提げる伯父を置いて、三鷹は小走りになって建物の玄関を
目指す。フランス人形が穿くような派手でごてごてとしたスカート姿だが、に
も関わらず機敏に動けるのは、普段からの慣れだ。
 正面にまで来ると、沈んだ調子の赤紫色をした絨毯張りが、自動ドアを通し
て向こうに見える。そのドアを抜けると、<受付>とプレートのある窓口が右
手にあった。
「ごめんください」
 頭を下げたが、返事はない。カウンター向こうの室内は薄暗い割に明かりが
点ってなく、管理人?は不在なのだろう。
「では、失礼をします」
 靴を脱ぎ、少しだけ迷ってから備え付けの緑のスリッパを履く。脱いだ靴は
爪先を玄関口に向けて揃える……が、受付とは反対側にある巨大な木箱が下足
入と分かり、途中で行動を変えた。
 冷房がよく効いている。だが、もたもたしているとアイスが。気持ち、急ぎ
加減になって三鷹は廊下を駆けた。
 指示された通りに角を曲がると、談話室なる部屋があった。右側の壁にもい
くつかドアが並ぶが、名称から推して、談話室に皆がいると判断。歩く速さを
落として、一つ深呼吸。そしてノックを控え目に三回した。
「はい? どうぞ、開いてるよ」
 男性らしき野太い声が返る。
 ここまですんなり入って来られた過程を思い、防犯がなっていませんと胸中
で呟いた三鷹だが、表情はそれとは真逆の笑顔を作る。
「失礼をします」
 ドアを開けると、ピンクやクリーム色の丸テーブルがそこかしこに並び、白
い壁や床とマッチしていた。ここは冷房が強いようだ。
 中には男性が二人いて、最初から戸口を向いていた一人に続き、こちらに背
中を向けていたぼさぼさ頭の方も振り向いて、目が合った。
「おっ。もしかして、君……というか、あなたというか」
 ぼさぼさ頭(さっきの野太い声はこっちだ)がどう呼ぼうか迷っているよう
なので、三鷹はお辞儀しながら名乗った。
「今回の実験を見学させていただきます、三鷹珠恵です。行方先生の姪に当た
ります。どうかよろしくお願いします」
「ああ、矢張り。俺は伊倉団一郎(いくらだんいちろう)。よろしく」
 座ったままの伊倉とは対照的に、奥にいた男性は立ち上がり、近付いてきた。
「私は浮城山高清(たかきよ)と云います。行方教授にはとてもお世話になっ
ています」
「あ、あなたが助手を務められているという浮城山さん……」
「そうです。将来は教授のお手伝いをさせていただこうと、修行中の身分です
よ。ははは」
 優しい口調だが、精気の余り感じられない空虚な笑い方だった。表情も、目
が若干落ちくぼんで、青ざめたような感じを発している。実験を重ねて疲れが
溜まっているのかもしれないが、その割に伊倉は快活そうだ。
「お疲れ様です。これ、先に届けてやってくれと伯父に云われました。アイス
クリームです」
「おお。ありがてえ」
 がちゃがちゃと音を立て、椅子から離れる伊倉。この室温でアイスクリーム
を待ち焦がれていたとは、よほどの好物なのかもしれない。
「私はあとでいただくとするよ。伊倉君。好きなのを選んで、あとは冷凍庫に
仕舞っておいて」
「分っかりました」
 軽い調子で請け負うと、伊倉は一個、大きなカップ型アイスを選び取り、そ
のまま箱を持って部屋を出た。どこかにキッチンの設備があるらしい。
「他の皆さんはどうされているのです? 実験中ですか」
「その通り。体調がいいときに始めるから、皆、ばらばらなんだよ。今回は予
備実験みたいなもので、全くの同条件に揃えなくても、傾向が掴めればいいそ
うだよ。ああ、こんなことは、行方教授から聞いているのかな」
「いえ、大まかな実験内容だけです。よく分かりましたわ。浮城山さんは被験
者の方々に常に張り付いていなくてもかまわないのですね?」
「私は結果を集計するだけ。計算の正答率を出したり、被験者の心身両面の状
態を聞き取り調査したりと、やることはたくさんあるね。それにしても」
 浮城山はドアの方を見た。
「教授がお見えにならないな」
「伯父なら、買い物袋を運んでましたから、多分、キッチンへ先に行ったのだ
と思います」
「何と。荷物運びなら、我々が引き受けるのに」
「きっと、偉そうに振る舞う姿を、姪に見せたくなかったのでしょう」
 三鷹がにこりと微笑すると、浮城山はしばし目を見開き、それから「なるほ
ど、あり得なくない」と首肯した。
 浮城山の案内で、キッチンに向かう。すると推測通り、伯父がいた。伊倉の
手を借り、買ってきた物を冷蔵庫に入れたり、卓上のトレイに並べたりしてい
る。
「おや、珠ちゃん。みんなに会ったかい」
 気付いた伯父が、すぐに声を掛けてきた。「こちらのお二方とだけ」と答え
る。
「あとの四人は皆、実験に取り組んでます」
 浮城山が空になった買い物袋を丁寧に折り畳みながら、云い添えた。
「フランカさんと宇津井(うつい)さんは、ほぼ同時に終わるでしょう。徳田
(とくだ)兄弟は、寛司(かんじ)君の方がだいぶ早く始めました。健司(け
んじ)君が最後になります」
「じゃあ、一同が会するのは、夕食の席かな」
「うーん、いつもの時間に摂るのでしたら、健司君だけ遅れますね。ずらしま
すか」
 時計を見てから提案した浮城山。行方はしばらく手を止め、思案げな様子だ
ったが、「いや、余りペースを狂わせるのもよくない。食事ぐらいは予定通り
に進めよう」と断を下した。
 それを見て、くすりと笑う三鷹。こんなことを決めるのでさえ、難しい顔を
して考えるのは、いかにも伯父らしいと。
 と、そのとき突然、伊倉が素っ頓狂な声を上げた。
「あれっ? 先生、もしかして塩胡椒を忘れていません?」
「ん? 塩胡椒は確か買ったと思うが……いや、二軒回って、見つからなかっ
たんだったかな」
 既に空っぽの袋を覗き、さらにテーブル等、辺りを見回す行方。それは虚し
い確認作業に終わった。
「あれがないと、牛タンがうまくないですよ」
 伊倉が探り探り、不平を述べる。夜は焼き肉らしい。
「うむ。私も認める」
 また小難しい表情になり、今度はすぐに決断した。
「もう一度行って来よう」
「それなら、今度は私が」
 浮城山が手を挙げたが、教授はいやいやと首を横に振る。
「忘れた者が責任を取るのが当然だ。なに、小一時間で済むだろう」
 行方はスーツのポケットからキーホルダーを取り出し、握り直すときびすを
返した。だが、途中で足を止めると、再びポケットに手を入れる。そこには目
的の物はなかったようで、反対側のポケット、さらには尻ポケットもまさぐる。
そして出て来たのは財布。開いて中からレシート二枚を取り出すと、近くのテ
ーブルに置いた。
「割り勘の計算を頼むよ。いつものように、端数は私が持つ」
 そう云い残し、今度こそキッチンを出て行った。しばらくして玄関の自動ド
アの開閉する音が、微かに聞こえた。
「どういう風の吹き回しだか、今日の教授は、いつもより優しい気がするなあ」
 伊倉のコメントに、浮城山も小さく首肯し、三鷹に視線をやった。
「姪御さんのおかげだろう」
「普段は厳しいのですか」
「いや、厳しいってほどじゃないけれども。何て云うか……今日は腰が低い感
じだな」
 そう答えた伊倉は、冷蔵庫の冷凍室を空け、中からカップのアイスクリーム
を取り出した。蓋がなく、スプーンをさしたままだ。
「ぼちぼち女性陣が出て来てくれないと、準備に取り掛かる気が起こらないな」
 クリームを舐めながら云ったのは、夕食のことだろうか。
「野菜と肉を切るぐらいだから、じきだ。こんなに早く取り掛かることもない」
 浮城山はそれから、三鷹に聞いた。「君はアイスはいらないのかい?」
「今は結構です。それよりも、実験やデータ集計の様子を見てみたいわ」
「では、データについては、私が説明するとしよう。実験の方は、途中で邪魔
をする訳にいかないから……伊倉君、デモンストレーションということで、や
ってみせてくれ」
「俺ですか」
 スプーンをくわえたまま、げんなりした口ぶりで応じる。
「頭、疲れてんですけど。手も」
「形だけでいいんだよ。何時間もぶっ通しでやる必要もないし」
「分かりましたぁ。食べてからにしてくださいよ」
「早くしろよ」
 先輩から急かされた伊倉はクリームをかき込み、そして顳かみを押さえた。

 いわゆる逆さ眼鏡を初めて体験して、頭の中が少々混乱気味になった三鷹だ
が、面白くも感じていた。明日の午前中には、試しに計算問題に挑戦してみる
ことに決めた。
「そろそろ時間なので、ひとまずここまで」
 浮城山は不健康そうな外見には合わない、快活な調子で云って、席を立った。
 それを待っていたかのように、談話室のドアが開く。女性が二人、相次いで
入って来た。
「終わりました」
 先に入った金髪女性が流暢に云う。褐色の肌を持つ、健康的な美女と表せる。
その緑がかった目が、三鷹を捉えた。
「彼女が教授の姪っ子さんですか」
 浮城山へ視線を戻し、尋ねる。三鷹はすっくと席を立ち、名乗って頭を下げ
た。
「ご丁寧にどうもありがとう。私はケリー=フランカです。アメリカ合衆国か
ら来ました。と云っても、血筋はブラジルにあります。専攻は数学なのですが、
この実験も大変興味深く、面白そうなので参加しました」
「実際にやってみて、どうですか。自分も先ほど、少しだけやってみましたが、
面白かったです」
「面白いけれど、疲れる」
 両腕をだらんとさせ、肩で息をつくオーバーゼスチャー。そのフランカの後
ろにいた黒髪の女性が口を開く。
「六時間やれば、たいていのことは疲れるわ」
「楽しいことでも、そうかもしれません」
 三鷹は彼女にも自己紹介をした。
「私は宇津井真音(まいん)。下の名前は、真実の音と書く。三鷹さんは中学
生だっけ。出来すぎなほどお嬢さんな格好してるけれど、それは普段から?」
 関心があるのかないのか、長い髪を鷹揚にかき上げながら奥のテーブルまで
足を運び、椅子に着いた宇津井。
 三鷹は素直に答えた。
「趣味ですね。色々な服を着るのが好きなんです」
「へえ。お金が掛かるね」
 卓上の灰皿を手元に引き寄せると、細長い煙草をくわえ、吸い始めた。ふと
壁際を見れば、空気清浄機らしき立方体(直方体か?)が低く小さな音を立て
て作動している。
「あ、煙草だめ?」
 視線に気付いたか、口から煙草を離し、三鷹を振り返る宇津井。
「マナーを知る人ならかまいません」
「私はOK――と解釈してよいのかな」
 いかにも愉快そうに頬を緩め、宇津井が聞く。三鷹は縦巻き髪を揺らして頷
いた。
「自分もマナー知らずのところがあると思いますので、ご鞭撻のほどをお願い
します」
「いいよ。ほんと、育ちがいいって雰囲気が漂ってるわ。あ、伊倉君。何か食
べる物か飲む物ない? はっきり云って小腹が空いた」
 中学生に遠慮した訳でもないだろうが、煙草の火を半ばほどで消した宇津井
は、冷蔵庫に目をやる。
「教授が買ってきてくれた物がいっぱいあるよ。ああ、俺、アイスをもらった」
「こんなに涼しいのに」
 呆れたと顰めっ面になる宇津井は、次に、思い出した風に聞いた。
「行方教授は?」
「塩胡椒を買い直しに、再び出て行かれたよ」
 浮城山の返事に、へえーと意外そうな反応を見せた宇津井。矢張り珍しいの
だと三鷹は確信した。
「宇津井さんもクラッカーでよいですか」
 クラッカーの箱とジュースのペットボトルを持って、フランカが聞く。元々
彼女は丁寧な言葉遣いをするようなので断定はできないが、宇津井の方がフラ
ンカよりも学年が上らしい。
「もらうわ。サンキュー。伊倉君も見習ったら」
「生憎だが、俺は同輩以下に奉仕する趣味は持ち合わせてないので」
 三鷹の前にフランカがやって来た。「あなたはどうですか?」
「自分は……飲み物だけいただきます」
 フランカが怪訝そうに眉を寄せる。
「何か」
「さっきから気になっていたのです。『自分』というのは、『私』のことです
か。それとも『あなた』の意味ですか」
「ああ」
 ひょっとすると、外国の人には紛らわしいのかもしれない。合点して、笑み
を交えて説明に掛かる。
「自分の場合、『自分』は『私』です。『自分』が『あなた』を意味するのは、
西日本で多いのではないかしら」
「私の大阪人の友達は、どちらの意味でも使います。おかげで、ややこしくて
たまりません」
 辟易したような苦笑いを浮かべるフランカは、はっとしてコップを差し出し
てきた。
「どうぞ御一献……ではありませんね。お酒ではないのだから」
「あははは。いただきます」
 日本人以上に言葉に敏感なのかなと、感心させられる三鷹。
 しばらく歓談していると、再びドアが鳴った。
「失礼しまーす。終わりました」
 二枚目だが擦れてなさそうな若い男性が現れ、俊敏な動作でドアを閉める。
「お、寛司君も終わったか。ジュースとクラッカー、もしくはアイスが待って
るぞ」
 宇津井の言葉に頷きを返すと、彼は手にした用紙を浮城山へ渡す。そのとき
やっと三鷹の存在に気付いたらしい。座る前に足を止め、「ああ、教授の姪で
すか」と尋ねる。
 三鷹が名乗ると、相手も丁重にお辞儀を返してきた。
「徳田寛司です。二年生なので、こき使われています」
「そういう君は、健司君を顎でこき使っているそうじゃない。たった数分、早
く生まれてきただけなのに」
 口を挟んだのは再び宇津井。ジュースを呷って、満ち足りたように笑みを浮
かべている。
「あれは時折、遊んでるだけですって。その日の朝、じゃんけんして負けた方
は勝った方の云うことを何でも聞くっていう。まあ、何でもっていうのは大げ
さですけど。常識の範囲内で」
「弟の方がじゃんけん弱いんじゃない?」
「さあ、それはどうでしょうか。普段は仲よくやってますよ。持ち物も共同で
使うことが多いし……あ、それでですね、健司の奴、体調が悪いとか云って、
途中で計算をやめて、部屋に引っ込んだんですよ。さっき、僕が小部屋から出
て来るのとほぼ同時に出て来て、教授や浮城山さんに云っておいてほしいと」
「え? ということは、今、彼はどこに?」
 浮城山が狼狽え気味に聞いた。人数分の実験データが揃わないと困るのかも
しれない。
「個室の方に。実験の小部屋じゃなく、寝泊まりする方の個室で寝てます」
「具合はどうなんだろう。何て云っていた?」
「気分が悪くなったみたいで。恐らく、寝不足のところへ、あの逆さ眼鏡のせ
いで拍車が掛かっちまったんじゃないでしょうか」
「回復しそうか?」
「多分、大丈夫じゃないですか。本人も、一眠りしたら治ると云ったし」
「やれやれ。それならいいんだが。今日の分は改めてやってもらうか」
 浮城山がデータ集計のために出て行くと、残りの顔ぶれも三々五々、談話室
を出て行った。学生の皆は実験疲れを取るために、与えられた個室でのんびり
するつもりと云う。
「三鷹さんはどうしますか」
 最後に残った三鷹に気を遣ってくれたのか、フランカが聞いてきた。
「行方教授もまだ戻られないようですし、心細くありませんか」
「自分は大丈夫です。心細いと云えば、フランカさんの方ではありません?」
「いえいえ。私は神経が凄く図太いのです。よく、大らかで大雑把と云われま
す。適応能力があるのでしょうか」
 確かにブラジル人の血筋と聞くとそのイメージがあるが、目の前の女性には
それ以上に繊細さを感じる。大らかな性格と外に向けての細やかさを持ってい
るのだろう。
「フランカさん。自分は実験の他にも、知らないことなら何でも興味がありま
す。あとでアメリカやブラジルについて教えてくれませんか」
「問題ありませんよ。今からでもかまいません」
 白い歯をこぼし、さあ行きましょうという風に身体の向きを換えるフランカ。
 三鷹は急いで首を水平方向に振った。
「今はいけません。フランカさん、どうかリラックスして休んでください」
「私は別に」
「生意気を云うようですが、あなただけの問題ではないのですから。実験にも
しも支障を来しては、伯父に迷惑が掛かります」
「なるほど。了解しました」
 一瞬驚き、次に感じ入ったように微笑むと、フランカは何度も首肯した。
「それでは、晩御飯が終わってからにしましょう。私、今日の分の実験は終わ
りましたので、時間はたくさんあります」
「お願いします」
 三鷹とフランカはしばらく並んで廊下を行き、フランカの個室の前まで来た。
別れる際になって、フランカが手を叩いた。
「あ、そうそう。三鷹さんの部屋がどこになるか分かりませんが、とりあえず、
行方教授の部屋はあちらです」
 一番奥の部屋を指差しながら、そちらへと三鷹を引っ張って行く。ドアノブ
をがちゃがちゃやると、開いていることが分かった。
「まあ、伯父様ったら……」
 不用心さに顔をしかめる三鷹。まあ、普段からこうなのではあるが。
「こちらで待っているといいと思います」
「どうもありがとうございます」
 フランカに手を振って別れると、三鷹は少しだけ躊躇って、部屋に入ること
にした。居室ではなく、実験の間だけの仮の個室なのだからと自分を納得させ
て。
 当然のように、部屋に大した家具はなく、文机と簡単な棚、そして壁収納型
のコンパクトなベッドがある程度。携帯型パソコンが机上に置いてあるが、こ
れは伯父の持ち込んだ物に違いない。
 その机の下に押し込まれたような格好の鞄から、何冊か本が覗いていた。心
理学や工学の専門書の他、パズルの本と歴史小説が一冊ずつといったところ。
三鷹は上から順番に見始めた。単語の意味さえ知っていれば速読できるのだが、
意外に役立たない。心理学は単語の意味が分からない。工学なら分かるが、知
っていることを読んでもつまらない。パズルを速読しても面白くも何ともない
し、小説も先に結末を知ってしまう可能性がある。
 結局、普通のスピードで読まざるを得ない。尤も、時間を潰すのには好都合
だ。三鷹は適当につまみ読みしながら、気になった箇所をメモ書きしていった。
 と、三十分も経たない内に、部屋のドアがいきなり、乱暴に開けられた。三
鷹が面を上げると、若い男性が一人、戸口のところに腕を掛けて、呼吸を乱し
ている。
 その見覚えのある顔に、三鷹は思わず口走った。「寛司さん?」
 だが、服が違う。しかも相手の着ているTシャツの胸には、KENJIとい
う文字が横に走っていた。そっくりだが、彼は弟の方だろう。
「あなたが徳田健司さんですね。初めまして。お身体は大丈夫ですか」
「……あ、あの、教授は?」
 苦しげな調子で質問され、三鷹は心配が募った。
「伯父は忘れていた品を買いに、車で出て行きました。それよりも、本当に大
丈夫なのでしょうか?」
「あ、ああ。教授に会いに来たら、女の子がいて、ちょっとびっくりしちゃっ
ただけだよ。それで君は、教授を伯父さんと呼ぶからには、噂の姪っ子……?」
「噂になっていたかどうかは存じませんが、行方教授の姪です」
「そうか……教授は不在か。いやあ、どうしようかな」
 額に汗を浮かべ、きょろきょろと廊下の方を気にする様子。
「どんな御用でしたの」
「ん? 大したことじゃないんだけど、まあ、実験途中で放棄したのをお知ら
せして、謝っておこうと思ったんだ。早い方がいいだろうしね」
「それなら、自分からも口添えしますから、あとでも平気でしょう。今日はい
つもより優しいんだそうですよ、伯父」
「そうなのかい」
「はい。ですから、心置きなく休んでいてください。玉の汗が出ています」
 三鷹がそう云った直後、廊下から足音が聞こえた。と思った次の瞬間、「三
鷹さん」とフランカの声が届く。
「――あら? ドアが開いていると思ったら、徳田さんでしたか。寛司さんの
方ですか?」
 室内からも見える位置まで来て、誰何する。
「健司です」
 自らの胸を指し示しながらの答。汗は相変わらずだ。
「もう回復したのですか」
「い、いえ。先に教授にお知らせをしなくてはと思って、無理をして来たのだ
けれど、留守だと知って、力が抜けてきた」
 大げさなまでにふらつく相手に肩を貸そうとするフランカ。三鷹も手伝おう
と腰を上げた。
「あ、いや、いい。結構。一人で戻れるよ」
 疲れたような声音で断ると、きびすを返し、意外と足早に去って行く。
「本当に似ていますね、寛司さんと健司さんて」
「似ています。私なんか、見分けがつきません」
 フランカは何故か嬉しそうに同意を示した。そんな彼女に向き直り、質問す
る。
「ところで、何か御用があったのでは?」
「ああ、そうでした。御御御付は白ですか、赤ですか」
「え?」
「晩御飯の汁物のことです。今晩はゲストの三鷹さんの好みに合わせようと思
って、聞きに来ました」
「わざわざすみません」
 味噌汁に限らず、料理に執着のない三鷹は申し訳なく感じた。

――続く





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