#189/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 03/11/10 18:32 (233)
翁の皿 (下) 永山
★内容 03/11/13 10:39 修正 第3版
「それでどうなった?」
出張先での体験を、石井は昼食の席で一人の同僚に語って聞かせた。場所は
蕎麦屋。隠れた名店と言えば聞こえはいいが、要はブームの過ぎ去ったかつて
の人気店だ。味は上々、値段はそこそこ、昼時でも大して混雑しないので重宝
している。今も、角に据えられたテレビの音声を聞くのに不自由しない。昼の
ドラマを映しているが、あと十分もすればニュースだ。
「それっきりなんだ」
芹沢に答え、爪楊枝を歯の隙間に当てる石井。テーブル上は空の丼や皿ばか
りになっている。
「気分はすっきりしなかったんだが、宴会で接待を受けたら、いつの間にか忘
れていたのさ」
「そんなに楽しかったか。羨ましいねえ!」
「楽しくはないさ。あの絵皿を手に入れられなくて」
「絵皿じゃなくて、宴会がだよ」
「そういう話をしてるんじゃあない」
石井は爪楊枝を手の内で折り、丸めたおしぼりでテーブルの縁をとんとんと
叩いた。相手の芹沢は曖昧な微苦笑を浮かべ、湯飲みを口に運ぶ。
石井は二本目の爪楊枝を取った。葱の小さな欠片がつまったような……。
「何が起きたのか、おまえの考えを聞きたいの。だからこそ、こうしておごろ
うと申し出たんだ。昼飯代程度で偉そうにしたくないから、言わせるなよ」
「考えてやりたいのは山々だが、話の中で出て来たあれで正解じゃないの?」
「あれってのは?」
「別の客が買っていったっていうやつ。地元の客で、元々目を着けていたのを
いよいよ買おうと思って来てみると、売約済みになってる。ならばと五千円上
乗せするからとか何とか言って、強引に変更させた。店側はおまえをごまかす
ため、知らんぷりをした」
「だけどな、それだとおかしなことが一つある。赤ら顔の店員なんて、いない
と言ってるんだぜ。骨董屋の人間だけじゃなく、自転車屋も、近所の主婦も」
「ふむ」
鼻を鳴らし、芹沢はしばし黙り込んだ。
レジの方から客を送り出す店員の威勢のよい声が聞こえ、扉の開け閉めする
音が続く。入れ替わりに新たな来店者があったらしく、今度は案内する様が伝
わってきた。
「見たのは間違いないんだな」
「当たり前だ。年若い娘を赤ら顔の初老の男に見間違えるほど、惚けてない」
「幽霊なんて因縁話も通用しないし」
「おいおい、現実的に頼むよ。大雑把に言うと、赤ら顔の男が消えたこと、絵
皿がなくなったこと、この二つを解き明かしたいんだ。絵皿は物だからどうと
でも説明つけられるかもしれないが、人間の方はそうはいかん」
「元からいないっていう店員を、おまえはいたと言うんじゃ、端から食い違っ
ている訳だからな。難しいな」
芹沢がそう言って首を捻った次の瞬間、ニュースの音声が耳に届いた。
<「今月十二日、N県**の河川敷で見つかった遺体は、東京S**の太田源
二さん五十二歳と分かりました。太田さんの死因は脳卒中とされていますが、
発見現場までの足取りが不明等の理由から、N県警では事件性もあるものと見
て捜査を継続するとのことです>
N県での出来事という点のみ興味を引かれた石井は、テレビ画面を見た。す
ると、警察が一般からの情報を欲しているためだろうか、最近の報道では希有
なことに死亡男性の顔写真が大写しになった。運転免許証の物で、写りはよく
ないが、石井には忘れられない人相である。思わず、指差しながら言った。
「あいつだ……」
骨董店にいた赤ら顔の男だった。
* *
長富克江にとって、その訪問者は全くの予想外であり、招かれざる客であっ
た。普段でさえそうなのに、挙式を間近に控えた今となれば、いよいよもって
遠ざけたい存在である。
「何よ」
絞り出すようにして吐き捨てた。男手である父と弟は外回りだ。母も食品の
買い物に出ている。
「はん、ご挨拶だな」
赤ら顔の男はにやりと笑った。存外、酒臭くない息だ。素面でいるのは、金
がないからか。まさか断酒した訳ではあるまい。
「大金持ちと結婚が決まって、お高くとまるようになったか」
「どうしてそれを」
「風の噂ってえやつよ」
全身を硬直させる克江の前で、勝手に椅子を引っ張り出し、腰掛けた赤ら顔
の男。足を組んで、「お茶ぐらい出してくれよ」と急にへつらった物言いにな
った。
「父親が久しぶりに訪ねてきたのだから」
「今さら父親面されても困ります。迷惑です」
克江はここぞとばかり、きっぱり言い切った。甘い顔をすると、つけ込んで
くる。
「あなたは太田姓になったはずです。もう長富とは関係ありません」
「はん。こりゃあ、お茶は期待できそうにねえや」
足を解くと、大きく股を開いてどっかと座り直し、参ったなという風に額を
叩いた太田源二。顎をさすって、「何で来たのか、聞かないのか」と言った。
克江は、冷やかしでもいいから客が来ないか、期待を持って扉に目をやった。
残念ながら、人通りはなかった。昼食時のせいかもしれない。
「何しに、来たの」
ため息混じりに聞いてやる。血のつながりだけの父親は、芝居がかって「よ
くぞ聞いてくれた」と応じた。
「こうして身なりもまともにしてきたように、俺だって娘の結婚を祝ってやろ
うという気持ちは、人並みにあるんだ。だが、言葉だけというのも格好悪い。
そこでだ、三百万ほど都合してくれ。倍にして返そうじゃねえか」
「は?」
本心から、何を言っているのか理解できなかった。恐らく今の自分はひどい
顔をして相手を見据えているだろうなと想像しつつ、克江は次を待った。
「競馬でな、今度の日曜、鉄板レースがあるんだ。絶対確実なのに、おいしい
ことに最低でも三倍はつく。三百万が、まあ、一千万ぐらいにはなるだろう。
その内の六百万を渡す」
「どこに三百万なんてお金があるのよ」
「さっき言ったろう? おまえから借りるんだよ」
「だから、うちにはそんなお金、ない。結婚資金を当てにしてるのなら、お生
憎様。もうほとんど使っている」
「結婚の金には違いねえが、相手のぼんぼんに出させるんだ」
「馬鹿を言わないで!」
ガラス戸が震えたかもしれない。それほど鋭い声だった。
克江が続けざまに罵詈雑言を浴びせてやろうとするのを、太田は大げさに首
を振って制した。
「三百万ぐらい、資産家にとっちゃ端金だろうが。うまいこと言って、もらう
なり駆り出すなりしろって」
「無理よ。たとえできたとしたって、そんなことしたくないわ」
「百万でもいい。おまえの色気で一押しすれば、簡単だって」
「いい加減にして。あなたからお祝いを受け取りたくありませんので、貸すつ
もりも全くありません」
「……」
「どうせ、自分がお金に困って、そんな馬鹿なこと思い付いたんでしょうけど、
あまりにも浅はかよ」
「言うねえ。大きくなったもんだと、改めて感心するよ」
太田が笑声混じりに言った。開き直っていた。初めて恐くなって、克江は胸
元で右手を握った。
「しょうがねえな。貸してくれないってんなら、しょうがない。俺はこれから、
藤倉家に出向くだけだ。花嫁の父として、挨拶をしなければならん」
「――やめてっ」
立ち上がるポーズの太田の腕に、克江は飛び付いた。そうしないと、本当に
出て行ってしまいそうだったから。
太田はバランスをどうにか保ち、嬉しそうに相好を崩した。
「おお、どうした? 俺が挨拶に行ったら、何かまずいことあるか?」
「……自分自身の胸に聞いてよ。明らかでしょう?」
克江が言っても、太田は堪えた素振り一つ見せなかった。
太田が克江の父であった頃、あるときまでは真面目な父親だった。長富家に
婿入りした太田は、朝から晩までよく働き、骨董の勉強も暇を見つけてはやっ
た。が、太田が豹変したのは、皮肉にも勉強の成果を発揮したことによる。気
まぐれで立ち寄ったフリーマーケットで、数千円で買った陶器が、店頭に並べ
ると何千倍にも化けた。まさしく掘り出し物だった。
この目利きが一度きりなら、まだ太田も理性を保っていられたかもしれない。
幸か不幸か三度続いたことで、太田は人生を踏み誤った。酒だ女だと、金を湯
水のように使うようになるとともに、俺には見る目があるんだと過信し、掘り
出し物ばかりを狙うようになった挙げ句、店の基本的な売り上げが減少。三度
の幸運で得た大金も三分の一ほどになる頃、太田はギャンブルに手を出すよう
になる。それまで真面目に生きていた人間が常勝できるはずもなく、転落に拍
車がかかった。荒れた生活を送るようになった太田は、負け戦の帰り、ひどく
酔って派手な暴力沙汰を起こし、相手に重傷を負わせた。それだけでなく、被
害者から財布を奪って逃亡したものだから、目も当てられない。捕まって懲役
刑を食らった。
辛抱してきた母親もとうとう愛想を尽かし、離婚が成立。その後、母は今の
夫と再婚し、克江には弟ができた。
いつ刑期を終えたのかも知らぬまま、太田の存在を記憶から消してその後の
人生を送ってきた克江だったが、よりにもよってこんな大切な時期に現れるな
んて。それも、太田自身の過去を盾に、克江達を脅迫してきたのだ。
「挨拶に行ったついでに、俺が今までやってきたことを正直に打ち明けたら、
どうなるかねえ。感動して、泣いてくれるかな? はっはっは」
「……お金、少しなら渡せるから、それで帰って」
「少しではだめだ」
恥じる様子など微塵もなく、太田は言った。
克江が再び右手を握りしめたそのとき、母が帰宅した。
店番は俺がやってやるから、家族会議でも何でも開いて、結論を出してくれ。
太田はそう言い放つと、レジに陣取った。
店番なんてとんでもなかったが、客が来たことを知らせるくらいなら、あの
太田でもできるだろうと、克江達一家は奥の座敷で額を寄せ合った。父と弟に
も携帯電話で連絡し、帰って来てもらった。
話し合いは熱を帯びた。そう、来客があったことに気付かないほどに。
どうにかして穏便に収めたい母と克江に対し、太田とは元々つながりのない
父と弟は脅かして追い返せばいいとか、いざとなったら殴り付けてでも黙らせ
るとか、悪い意味で男の発想をした。それを拒絶しなかったのは、克江や母に
しても、金を一度でも出したらこれから先ずっと食いついてくるということぐ
らい、嫌でも想像できたからだ。
結論が出ないまま、膠着した場に、ひょっこりと太田が顔を出した。手には
小ぶりな絵皿を抱えている。
「入って来ないで。それに、その絵皿……」
「サラリーマン風の男が来て、こいつを買いたいと言ってきた」
「な、何ですって」
慌てて店に出ようとする克江達を、太田は止めた。
「だが、持ち合わせが足りないとかぬかすもんだから、銀行に下ろしに行かせ
た。三十分ほどしたら戻ってくるさ。これ、今から包んでやっておけば余計な
時間が掛からなくていいだろ」
どこか得意げに太田は言った。そこに付け加えた台詞が、克江らを呆れさせ
た。
「バイト代、払ってもらえるよな」
「あんたなあ!」
掴み掛かりそうな勢いで飛び出した弟を、三人で制止する。眼前で、太田は
余裕たっぷりに絵皿を抱え直した。
「危ねえ、危ねえ。大事な商品を壊すところだった。気を付けてくれよ。じゃ、
こいつは店先に戻しとくわな」
そうして太田が克江達の視界から消えた。
その三十秒後だった。克江達の間に重苦しい空気が流れる最中、がしゃんと
いう音が店の方から聞こえた。明らかに、売り物を壊した音だ。
「あいつ!」
四人が相次いで部屋を出て、店に向かう。そこに、絵皿を持ったまま、仰向
けにひっくり返った太田の姿が見た。四人が四人とも、言葉をなくした。何が
起きたのか、咄嗟には把握できなかった。
太田に一番に駆け寄ったのは、母だった。膝を折って、太田の身体に手を添
え、心配するような声を二言三言かけていたが、やがて苦しげな顔つきで首を
横に振ると、意見を求める風に克江達を見上げてきた。
「ど、どうしたの……」
克江が聞く。母は「このままならこの人死ぬわ」という意味のことを言った。
「病院に運んでも、助かるかどうか分からない。命は取り留めたとしても、そ
のあと誰かが面倒を見なきゃいけなくなる」
ここで死なれても、病院で死なれても、そして生き残られても、大変なこと
になる。式の延期で済めばまだましで、藤倉家に太田の存在を知られれば、結
婚の話そのものが壊れかねない。
「……車で、どこかに送り届ける」
誰かが提案し、残る三人が頷いた。それで決まった。
父と弟が太田の身体を運び出し、割れた絵皿を片付けたあと、克江は当初の
予定通り、店番に立った。そこへサラリーマン風の男性客が来て、普段通り応
対しようとした。ところが、絵皿を買う約束をした旨を告げられ、大事なこと
を忘れていたと思い知らされた。表面上は平静を装い、必死に取り繕おうとし
たが、なかなか引き下がってくれない。母の援軍を得て、ようやく事なきを得
た。
ただ、帰り際に、靴紐を結び直すために客が跪いたときは、ひやりとした。
ちょうど絵皿が割れて、破片が飛び散った辺りだったのだ。無論、ほうきで欠
片を集めて、始末してはいたが、完全ではない。気付かれはしまいかと、克江
も母も生きた心地がしなかった。
男性客が店を出て、見えなくなった瞬間、二人とも安堵の息を漏らしていた。
* *
蕎麦屋のテレビであのニュースを見て以来、成り行きが気になった石井だが、
自ら調査に乗り出すことは、能力的にも時間的にもかなわない。そこで、契約
を結んだN県地元企業の担当者に、進展があったら教えてほしいと頼むに到っ
た。
そうして約二週間が経った火曜日に、捜査の途中経過を報じる新聞の切り抜
き記事幾枚かを同封した郵便が、石井の自宅に届いた。しかし、そこにある内
容だけでは、石井の疑問は全く解消されなかった。
では、探偵を雇ってまで真相を知りたいかというと、あの小さな絵皿が改め
て自分の物になる当てもない訳で、馬鹿々々しい。
石井自らが地元警察に、「太田という男は長富骨董店とつながりがあるはず
だ。遺体発見の数日前に太田を店で見た」云々と証言すれば、事態は大きく動
くかもしれない。実行しようかと思わないでもない。
だが。
結婚を控えたあの娘さんのことを思うと、どんな裏事情があるにせよ、積極
的に捜査協力する気になれなかった。その後の報道で知った限りでは、太田と
いう男はろくな人間ではないようだし、死因は脳卒中、しかもこの病いの原因
は当人の酒好きが災いした可能性が大だという。
(警察だって、太田と長富家のつながりぐらいは掴んでるだろうし、それで真
相が分からないようなら、それまでだ。絵皿が手に入らないなら、静観するに
越したことはないな)
所詮、それに尽きる。
――終わり