AWC 白い彼方のホワイトデー 上  永山


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#423/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  13/03/30  23:27  (343)
白い彼方のホワイトデー 上  永山
★内容                                         13/04/14 01:16 修正 第2版
 窓の外にちらつく白い物を認めたとき、ふっと思い出した。これまで雪を見
ても思い出すことはまずなかったのに、どうしたのだろう。昨夏、当時を過ご
した町に戻って来た、その事実が大きいのかもしれない。
 すでに三十年ほどが経過している。あの日も今と同様に雪が降っていたが、
勢いは段違いだった。
 思い出したのは忌まわしい事件の記憶だが、三十年も経つとさすがに懐かし
さを覚える。
 あれはまだ昭和の時代。今のように携帯電話や防犯カメラが、世の中に溢れ
ていなかった。科学捜査も現代には及ばない。もしも今、あの事件が起きたの
なら、即座に解決されていた気がする。
 詳しく思い返してみることにした。僕は古雑誌の整理の手を休め、コーヒー
を準備した。

 この町で三月半ばに雪が降る、それも積もるほどとなると極めて珍しい。あ
る意味、三月十四日という日にふさわしい彩りではあると思う。反面、不安を
煽る異常現象とも言えた。
 不安と表現したが、僕のクラス――二年四組の面々ならぴんと来るだろう。
一ヶ月前のバレンタインデーに起こった騒動が、まだ燻っていることだと。
 大多数の中学校と同様、我が校も、バレンタインだからと言ってチョコレー
トだの何だのを学校に持ち込む行為を、校則で禁じている。教師が見逃してく
れるのを期待してはいけない。完全に取り締まるのは無理だが、見つかったら
アウト。禁止物を持ち込んだ生徒は言うまでもないが、もらった側の生徒も処
分を受ける。正確には、物を受け取っておきながら速やかに報告しなかった場
合に限られるのだが、この理不尽な定めのおかげで、今度の騒動が起きたと言
える。
 校則の存在は、校内の誰もがよく分かっている。故に、バレンタインデー当
日、気持ちでは浮ついた者がいたとしても、実際に物をやり取りするような無
駄な勇気をふるおうという生徒は、滅多にいない。学校の外で渡せばお咎めな
しなのだから。渡す側にとって、プレゼントを学校に持ち込むことは駄目でも、
派手な包装をせず、宛名も記さないでおけば、言い逃れはできる。
 そういった意識が生徒間に広まっているにもかかわらず、騒動――事件と言
い換えてもよい――は起きた。
 二月十四日は三学年ともまだ平常授業が行われており、定期考査を意識し出
す頃と言える。かくいう僕、正田昌樹もその一人で、バレンタインなんて頭の
片隅にもなく、試験に向けてそろそろ対策を練り上げねばならないと思ってい
た。
 だから、その日の終わり、ホームルームで騒動が持ち上がったときも、しば
らくは傍観していた。司会進行役を滞りなく務めていたクラス委員長の羽根川
進が、判所役である副委員長の石橋美奈穂から、最後の付け足しのように尋ね
られたのがきっかけだった。
「他に何もないようだったら、私から一つ」
 石橋は天然パーマの持ち主で愛嬌のある美人だが、外見とは裏腹に理知的な
面を備えている。これが僕の彼女のに対する評価だ。そしてその評価は、この
ときも当たっていた気がする。
「実は今日、体育の授業が終わって教室に戻ってきたあと、私の机の中に走り
書きのメモが入れられていたの」
 石橋は胸ポケットから紙片を取り出した。四つ折りにされたそれを開く。
「ここに書いてあることが事実なら、私は副委員長として言わなければいけな
い。メモを見た直後に行動を起こさなかったのは、羽根川君、あなたが自分で
先生に言いに行くだろうと期待したからなんだけれど……そういう素振りは皆
無だったから、この場で言わせてもらうわ」
 羽根川はきょとんとしていた。彼もかなりの男前だが、近眼で、あまりセン
スのよくない厚い眼鏡を掛けている。背は高くて体格もいいので、センスさえ
磨けばもっともてるだろうに、改善の兆しがない。
「何が書いてあるのか、言ってくれないと」
 羽根川が戸惑い気味に聞き返すと、石橋はうなずき、少しボリュームを落と
した声で読み上げた。
「『私は目撃した。委員長の羽根川がバレンタインデーのプレゼントっぽい物
を持っているところを。どうしたらいいのか分からない。副委員長に判断を任
せる』」
「――はぁ?」
 ますます訳が分からないとばかり、頓狂な声を上げた羽根川。
「それ、見せて」
「いいけれど、先生やみんなに見てもらうのが先」
 きっぱりした物腰で、主導権を握り続ける石橋。彼女は教室の廊下側に行く
と、列の先頭から紙を回すように伝えた。
「誓って言うが、身に覚えがない。誰が書いたのか分からないのか?」
 紙の動きを眼で追いつつ、羽根川は石橋に問うた。副委員長は首を傾げた。
「署名なし。文字は手書きだけれど、利き手じゃない方で書いたみたいな、へ
ろへろの筆跡で、とてもじゃないけど特定は無理だと思うわ。まさか指紋を採
るなんて、無理でしょうし」
 仮に指紋採取できる環境が整ったとしても、最早手遅れだ。僕は、回ってき
た紙片を見下ろしながら思った。紙はノートの切れ端のようだが、罫線が引い
てあったり、メーカーの印があったりという特徴は見当たらない。鋏かカッタ
ーナイフを使ったのか、縁はきれいに切られている。元のノートと切れ目を合
わせれば一致する可能性はあるが、逆に、真っ直ぐ切ってさえいれば、どんな
ノートにも一致するとも言えそうだった。
「それで、羽根川君。身に覚えがないんだったら、鞄や机、ロッカーなんかを
調べても――」
「色々私物が入っているんだぞ? 見せたくない物だってある」
「私だって見たくないわよ。こうして疑いが掛かっているんだから、潔白を証
明するために、何とかしてほしい訳。委員長としても、きちんと対応してもら
わないと」
「……調べる役を僕が指名する。それなら応じてやる」
 ちょうど紙片が戻って来て、石橋から羽根川へ渡された。
「まったく、誰がこんなでたらめを」
「指名でいいと思う。ただし、先生を含めた三人ね。あとの二人は男女一人ず
つ」
「よし、じゃあ……女子は石橋さんがやれ。あとで何か言われたらたまらない」
 そんな風に選ばれた三人で、最初に羽根川の学生鞄を調べてみた。
 結果、あっさり見つかったのである。焦げ茶色の包装紙に包まれた、小さな
箱入りのチョコレートには、宛名の記されたカードが挟んであった。
 もちろん、羽根川は「知らない。誰かが勝手に入れた」と頑なに否定したし、
告発の経緯にも不自然さが感じられるのは明らか。と言って、見過ごしもでき
ないので、状況説明全てを含め、生徒指導主任に報告されることになった。そ
して翌日の夕方に下された処分が、次の通りである。
 チョコレートを持ち込んだ者が誰か、その人物が羽根川に渡したのは本気か
悪意か、の二点に関しては判断保留。保留と言いつつ、継続調査して結論を出
す日は来ないだろう。
 ただし、羽根川は反省文を提出すること。クラス委員長を務めていながら、
脇が甘かった点を責める形だ。
 かように強引な幕引きが行われたバレンタイン騒動が、後々まで火種を抱え
込むのは当然だったかもしれない。

 卒業式まで一週間を切り、他にも行事が立て込むこの時期、本来なら早朝か
ら学校は人でざわついていておかしくない。だが、ときならぬ大雪のおかげで、
教職員の大半が遅れての出勤を余儀なくされた。午前五時になる直前に止んだ
とはいえ、雪に慣れない土地の人々の足を乱すには、充分だった。
 よって、“現場”に最初に到着し、異変に気付いたのは、学校のごく近所に
住む一年生の女子生徒二人になった。
 雪の積もり具合を心配し、もしかすると休校かもという期待込みで、二人の
女子は中学校まで歩いて来た。時刻は朝の七時になるかならないかの頃。雪は
やんでいたが曇天のおかげで薄暗く、校舎の窓には明かりがぽつん、ぽつんと
ようやく灯り出したタイミングだった。教職員用の通用口は裏手にあり、一年
女子二人が目の前にしている正門は、生徒や来客用。そこからグラウンド、校
舎へと至る地面を覆う雪に、足跡が一筋。いや、足跡は途切れていた。ちょう
どグラウンドの中程、正門からも校舎からも三十メートルばかり離れた位置で。
 そして、足跡の主であろう人物は、その地点で仰向けに倒れていた。
 身に着けているのは学校指定の制服で、男子と分かる。頭を校舎側にしてい
るため、顔はしかとは見えない。
 やがて、一年生の女子二人が揃って悲鳴を上げた。彼の胸には異様な物が突
き立てられ、その傷口を中心に赤い液体が広がっていた。

 学校側は渋ったようだが、警察に通報せずに済ませられるはずもない。発見
者である一年生二人から異常を伝えられてから、教師の一人が倒れたままの男
子生徒に近付き、意識や脈がないことを確認。救急車を要請したあと、警察に
も通報がなされた。時刻にして、午前七時半。学校は、とりあえず午前中を休
校とし、午後からどうするかは改めて連絡するとした。
 その後、男子生徒の死亡が確認され、身元も判明した。バレンタインデー騒
動の渦中にいた、羽根川進だった。
 以下、警察の発表によると――当日の朝五時半から六時半の間に死亡したと
推測され、死因は発見時の状況から容易に想像できた通り、大量失血のためだ
った。
 胸のほぼ真ん中に突き刺さっていたのは木製の矢で、深さは約五センチにも
達していた。心臓を逸れていたので即死こそ免れたろうが、血管を傷付けてお
り、襲撃から程なくして死に至ったと考えられた。至近距離で撃たれたか、で
なければ、腕力のある者が矢を握り、直接突き刺した可能性が高い。
 矢は樫の木を刃で削った物で、手作りと見られる。これを発射する弓または
ボーガンの類は、発見されていない。なお、矢からは一切の指紋が出なかった。
犯人の物が付いていないのは当然として、被害者の物まで検出されなかったの
は、羽根川が防寒のため、手袋をしていたからと思われる。実際には、羽根川
は矢を抜こうと努力した形跡が認められた。深く刺さって抜けなかったのか、
抜くと出血量が増えると感じ取ったのか、途中でやめたようだった。
「二度目になりますな、正田さん」
 僕の目の前には刑事がいる。男で厳つい顔をしている。ドラマなどで見るベ
テラン刑事のイメージに、かなり重なっていると思った。
 場所は校長室横の応接室。事件発生当日、警察の申入れで、ここを臨時の事
情聴取場所として提供し、僕も話を聴かれた。革張りの立派なソファには、普
段でさえあまり慣れず、居心地がよくないのに、刑事相手となるとなおさらだ。
 今日は事件から三日が経っていた。騒々しい中、卒業式を昨日終え、曲がり
なりにも行事を消化する目途が立った頃合いに、捜査陣の刑事二人が乗り込ん
できた形である。
「まあ、そんなに緊張しないで、気楽に」
「型通りの質問ですから」
 ベテラン刑事の隣に座る、若い刑事が言い足した。若い方は、ドラマに出て
来るエリート刑事という雰囲気はなく、むしろ見習い研修中といった風情があ
った。
「何しろ、正田さんは亡くなった羽根川君のクラス担任なんですし、話を伺わ
ない訳にはいきません」
「はあ、まあ、そりゃあそうでしょうね」
 僕は微苦笑を浮かべようとしてやめた。生徒が死んでいるのだ、どんな形で
あれ、笑みを見せるのは不謹慎であろう。喉元のネクタイを少し緩め、足を開
き気味にして座り直した。
「何でも聞いてください」
「忙しいでしょうから、なるべく手短に行くとしましょう。羽根川君は先月十
五日、学校から軽い処分を食らっていますね。何でも、バレンタイン当日に、
禁止されている物を校内で受け取ったのが原因だとか」
「はい。ただ、本人は否定しましたし、状況に不自然なところもありましたの
で、クラス委員長としての責任を問い、処分も軽めで済んだと思います」
「その辺りも聞き及んでいます。こちらが確認したいのは、羽根川君に物を贈
った人物が誰なのか、本当に分からないのかということと、贈り物が悪意であ
ったのか、だとしたら密告――きつい表現だがご勘弁を――したのは誰なのか、
といった点なんですが」
「恐らく、刑事さんが達が掴んでいる以上の話は、何もできないと思いますよ」
 僕は唇を湿らせ、考えながら話し始めた。
「僕自身の考え、感じたところでは、羽根川の鞄に入っていたチョコレートは、
やはり悪意からのもので、彼をはめるためだったんでしょう。当然、贈った生
徒と副委員長にメモを託した生徒は同一人物で、大なり小なり、羽根川に対し
て思うところがあったんじゃないかと。いやあ、信じたくはないんですが」
「なるほど。じゃあ、羽根川君を憎むか嫌うかしている人物に心当たりがあれ
ば、仰ってください」
「……生徒を売るような真似は、何かハードルが高いというか……」
「勘違いしないで欲しいのは、羽根川君をはめた者が、殺人事件の犯人と決ま
った訳ではないということ。捜査の参考に使うだけです。それに、クラスメー
トを陥れるような生徒には、指導をしてやらんといかんでしょう」
 ベテラン刑事はうまいこと言ったつもりのようだった。
 僕は溜息をついて、口を開き掛け、また一つ息をついた。踏ん切りを付ける
のに努力を要する。
「僕からも勘違いしないで欲しいと前置きします。僕はバレンタインの騒動の
折、一応、考えました。誰がこんな卑劣な行為をやったのかと。幸か不幸か結
論は出なかった。出ても推測の域内だろうし、生徒を問い詰める気は毛頭あり
ませんでしたが。だから、今から挙げる名は、そのときに思い浮かんだ単なる
候補ということで、了解を願います」
 刑事二人はうなずき、若い方が「お聞きした話は、慎重に取り扱います。ど
うぞ」と促してきた。
「最前、刑事さんが使った表現、羽根川を憎むとか嫌うという意味では、実は
誰も思い浮かばなかったんです。停学処分に追い込んでやろうなんて悪戯と釣
り合うようなものは何も。だから、彼をライバル視していた者や、彼がいなけ
れば利益を得る者がいるかという観点で、考えてみました。その結果が」
 僕は紙とペンを用意し、二人の名前を書き出した。
 石橋美奈穂と宝木忠敏。
「石橋というのは、副委員長の?」
 ベテラン刑事が紙の上を指で押さえながら、聞いてきた。
「ええ。彼女と羽根川は成績優秀で、張り合っているところがありましたし、
ショートステイの枠でも競っていたので。三年の夏に、学校を代表して短期の
体験留学に行ける枠があるのですが、二人とも希望を出しています。尤も、羽
根川一人がいなくなったからと言って、石橋に決まる訳じゃありません。ライ
バルは他にも大勢いますから、ほとんど意味ないんじゃないかと思います」
「石橋さんが、その辺のシステムを理解せず、羽根川君さえ排除すれば自分が
選ばれると思い込んでいたようなことは?」
「ないですよ。優秀な生徒は、そんなばかげた思い込みをするはずがない」
「ふむ。では、この宝木という生徒は、初耳ですがどういった……」
「宝木は二年四組ではなく五組の生徒で、大げさに言えば不良、まあ僕の見る
ところ、少し悪ぶってるだけですけれどね。一年生時に羽根川とぶつかってい
ます。そのときは担任でも何でもなかったので、あとで聞いただけですが。き
っかけはくだらなくて、掃除の時間にふざけていた男子グループの一人が宝木
で、彼の放った雑巾か何かが、たまたま羽根川に当たった。宝木はすぐに謝っ
たが、その言い方がひどく軽い調子だったから、羽根川も頭に来たらしく、口
論に。それがずっと尾を引き、似たような衝突を二、三度繰り返したあと、宝
木の校外での校則違反、確か服装の違反を目撃した羽根川が学校に報せたこと
で、宝木も懲りたというか、ばか負けしたようです。クラスが別になった二年
からは、特に何も起きていませんでした」
「つまり、一年近く、何らトラブルは起きていなかったと。収まっていたのが
急に復活して、殺し殺されるの関係になるとは、俄には信じられませんなあ」
「僕も同感です。宝木がバレンタイン騒動の張本人というのはまだあり得なく
はないかもしれないが、殺人となるとね……。石橋に至っては、バレンタイン
騒動の動機としても弱い」
「他に思い浮かぶ人物はいませんかね」
「羽根川にバレンタイン騒動のような悪戯を仕掛ける、という意味でなら、一
人だけいます。殺人には無関係に違いないから、言う必要ないと思ったんです
が」
「念のため、拝聴しましょう」
 刑事の言葉を受け、僕は先の紙に、もう一人の名を記した。倉森三郎。
「倉森は四組の生徒です。父親が製薬会社の重役で、倉森自身も化け学に強い
ですね。羽根川は理科にやや弱いから、互いに補っている感じでした。二人は
幼稚園の頃から友達で、クラスもずっと同じだったと聞いてます。まあ、親友
という奴でしょうか。倉森と羽根川は、互いに何でもできる、言い合える仲だ
ったようでしてね。悪ふざけも同様で、あいつなら許せるという感じでした。
バレンタイン騒動のときも、僕個人は、倉森のことが真っ先に頭に浮かんだも
のです」
「じゃあ、倉森君に直接、聞いたんですか」
「いえ、それが、あり得ないんですよ。二月十四日、倉森は早退しています。
薬局で薬剤師をやってる母親が倒れたと報せが来たんで、大事を取って。幸い、
母親は無事退院できたと聞いています」
「ふむ……」
 刑事達が黙したのを見て、僕はここぞとばかりに質問をした。ホワイトデー
事件のあることに関して、警察の見解をぜひ聞いてみたかった。
「刑事さん。そもそも、これは本当に殺人なんでしょうか?」
「と言いますと」
 こちらからの問い掛けを特に咎める風もなく、ベテラン刑事は乗ってきた。
「現場の状況を、僕も見ました。足跡は、救助に向かった者を除くと、羽根川
自身の分だけだったですよね? 殺人なら犯人の足跡も付くはずだが、どこに
も見当たらなかった。常識的に考えて、犯人は存在せず、事故か自殺と見なす
べきなんじゃないんでしょうか」
「校長先生も似たようなことを言われていましたよ」
 ベテラン刑事は、わずかばかり口元を曲げて言った。
「学校内で殺人事件が起きたよりは、自殺の方がまだまし。事故ならもう少し
まし。そんなところなんでしょうな」
「いえ、そんなつもりでは……」
 図星だったが、口では否定しておく。本心をごまかし、続けて意見を述べた。
「殺人だというのなら、警察は足跡について、どう解釈してるんです? 犯人
が遠くから、弓で矢を射たと考えているのですが」
「当初はそう思いました。しかし、実験してみると、あの手作りの矢では、三
十メートルの距離を飛んで突き刺さるには、重すぎるようで。ボーガンを使え
ば飛距離は伸びるが三十メートルに届くかは微妙な上、真っ直ぐ飛ばないと来
た」
「じゃあ、やっぱり殺人ではないのでは? まさか、犯人が雪の止まない内か
ら校庭のど真ん中で羽根川を待ち伏せ、通り掛かった彼を刺し殺したあと、ヘ
リコプターで飛び去ったなんて考えている訳ありませんよね」
「正田さん、あなた面白い人なんですな。教師というイメージから、もっと堅
物なんだと思ってましたよ」
「低学年の子を受け持ったこともありますし、これくらいの柔軟さは必要なん
です。それで、どう考えてるんですか」
「まあ、こうと確定した答を見つけた訳ではないんだが、仮説ならあります。
その仮説でもうまく説明できない点が残るので、答えづらいんですがね」
「何なんです?」
「正田さんは推理小説はお読みにならない? じゃあ、ヒントは……人は刺さ
れたあとも少しなら歩けることもある。これで勘弁願います。くれぐれも他言
無用ですぞ」
 ベテラン刑事は、秘密めかして答えると、相当に不気味なウィンクをした。

 解放されたあとも、僕は暇を見つけては、刑事のヒントを検討した。
 人は刺されたあとも歩ける。つまり、羽根川は弓を直接突き刺されたあと、
即死せずに歩いたという意味に違いない。正門のすぐ外で刺せば、犯人の足跡
は他の物や自動車などのタイヤ痕に紛れ、じきに分からなくなるだろう。羽根
川がグラウンドの真ん中で倒れたのは、犯人の計画にはなかった、単なる幸運
だった。
 こう考えると、足跡の謎はなくなる。
 では刑事の言っていた、説明の付かない点とは何なんだろうか? 雪に血痕
が見当たらなかったのは、矢が栓の役割を果たして傷口を塞いでいたと見なせ
ば、さほど不思議ではないらしい。
 羽根川がふらふらと逃げたのに、犯人がとどめを刺そうと追い掛けてはいな
い。それが不自然なんだろうか。だが、犯人は一方で現場から一刻も早く逃げ
たいものだろう。手応えがあったなら、さっさと逃亡する方を選んでもおかし
くない。
 現場周辺で、目撃者や怪しい物音を聞いた者は見つかっていないらしいが、
羽根川が叫び声一つ挙げなかったのが不自然なのか? しかし、羽根川は現場
の学校まで、冬の朝早くからのこのこ出向いて、正面から刺されている。相手
を軽快していなかった証拠ではないか。だとしたら、突然刺されて、訳が分か
らず、まともな悲鳴も上げずに逃げることは充分にありそうだ。
 そんな曖昧ではない、もっと具体的で明白な疑問が、きっとある。
「正田先生。遅れていた人の分、持って来ました」
 職員室に尋ねてきたのは、石橋だった。副委員長の彼女は、委員長がいなく
なったこともあり、終業式までの間、かけずり回っている。今、持って来てく
れたのは、羽根川の死に対するクラスメートの率直な言葉を聞く、一種のアン
ケートだ。無記名かつ各人が封をして提出する形を取っている。原則的に校内
だけの書類に属するが、場合によっては、心理学の専門家に見せることもある
と聞いた。
「ああ、ご苦労さん。これで揃ったか?」
「はい。倉森君が一番最後だったわ。あ、言っていいのかな、これ」
「それくらいならかまわんだろ。実際、倉森の様子は気になるしな」
「朝と変わらない。辛そうでした。やたらと溜息をついて。泣きそうな様子も
時々見られるけれど、男子だからか、さすがに泣かない」
「よく観察してるな」
「観察なんて呼べるほど、大げさじゃありません。副委員長として、みんなの
様子に気を配らなくちゃと思っただけです」
 舌先を覗かせた石橋。努力して明るく振る舞っているのか、これが地なのか
見極めは付かない。
「他に気になる奴はいないか? 教師の前だと、本音を出さないのもいるだろ
うから」
「うーん、先生も見てるから知ってるだろうけれど、女子には結構泣いてる子
がいます。でも、羽根川君に好意を持っていたとかじゃなく、死そのものにシ
ョックを受けてる感じ、かな」
「――おまえはどうなんだろうな?」
「私? 人並みに悲しんでる頭は持ち合わせてる。あと、自分も気を付けなく
ちゃいけない」
「その、なんだ。石橋も殺人だと思っているんだな」
「警察も言ってるし……違うの、先生?」
「いや、警察の発表が正しい……んだと思う。足跡も問題にしていないようだ
しな」
「へえー。じゃ、どうして羽根川君が道路側に逃げず、学校側に逃げたのかの
説明も付いてるんだ?」
「ん?」
 教え子からのいきなりの台詞に、僕は思わず、じろっと見上げてしまった。
気味悪がる石橋を呼び止め、「どこまで把握してるのか、教えてくれないか」
と潜めた声で尋ねる。周囲も気になるが、幸い、昼過ぎの職員室に人は少ない。
「把握って?」
「足跡についてだよ」
「……話してもいいけれど、お昼、おごってください」
 赤く細いバンドの腕時計を指差しながら、石橋は真顔で言った。


――続く




 続き #424 白い彼方のホワイトデー 下  永山
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