#382/598 ●長編 *** コメント #381 ***
★タイトル (AZA ) 11/05/30 04:56 (384)
お題>遅刻>三者面談 (後) 寺嶋公香
★内容 13/08/20 02:38 修正 第2版
校門のすぐ手前に、“赤い花”が咲いていた。薔薇色をしたドレスを着てき
たようだ。スーツ姿らしき運転手にお辞儀すると、スカートを若干持ち上げる
風につまんで、足早に校庭を横切っていく。
ざわざわした空気がどんどん広まっているのが、校舎のここにいても充分す
ぎるほど感じ取れる。螢川はぽかんと開けていた口を意識して閉じると、暦に
聞いた。
「おまえ達のお母さんは普段、ああいう服を着ているのか。パーティに出られ
るぞ」
「……恐らく、撮影用の衣装で……着替える暇がなくて、飛んで来たんだと思
います……」
暦の言葉に、碧もうんうんとうなずき、同意を示した。
「来るだけでも注目されてたのに、こんな派手な登場じゃあ……」
碧が喋り終わらない内に、階段を大勢が駆け上る足音がした。音の方向を見
ると、じきにクラスメイトが、いや、クラスメイトではない生徒もいるが、と
にかく十数人の生徒が一団になって、廊下を走って来る。
「こら。おまえ達、廊下を走るな!」
螢川の注意はかき消され、碧と暦は皆に囲まれた。「あれ、相羽達のお母さ
んだよな?」「写真以上!」「いつもあんな格好してるの?」「リムジン、お
まえのとこの車か?」等と、怒濤の如く質問やら感想やらを浴びせてくる。ま
ともに答えようとする相羽姉弟を、螢川は遮った。
「みんな、静かにしろっ。これから相羽のところのお母さんを交えて面談をす
るが、聞き耳を立てたり、覗いたりもしない。教室の前から散るように。い
いな!」
できれば帰らせたいのだが、そこまで強制できないし、言っても無駄な気が
した。
両手を前後に振る動作で、関係のない者達を追いやっていると、階段の方か
ら気配の変化が波のように伝わって来るのが感じ取れた。
(来た)
生徒らが遠巻きにする風に、道を空ける。そこを、一人の女性が通って来る。
笑みを絶やさないが、少し俯きがちで目元に恥じらいが覗いているのは、薔薇
色のドレスのせいか。
と、気付いたら、相羽姉弟が近くにいない。母親の元へ駆け寄っていた。
「ちょっと! 何でそんな格好なの、お母さん!」
「時間がないならないで、遅刻してでも大人しい格好をしてほしかった」
左右から捲し立てられ、耳を押さえるポーズになる相羽母。
「いっぺんに喋らないで。このドレスの件は謝るから」
そうして耳に持って行っていた両手を下ろし、子供達の前で拝み合わせる。
「ごめんね」と言いながら。
「ドレスだけじゃない。リムジンも。他に車なかったの?」
「あることはあったんだけれど、いいアイディアが浮かんだものだから、リム
ジンで……」
「いいアイディアって?」
「ロケ地で着替えている時間がなくなったから、車の中で着替えられたらいい
なと思ったのよ。リムジンなら外の視線がシャットアウトできて、中も仕切り
があるし」
「なのに、どうしてドレスのまんまなのさ」
「それが、着替えの服を持ち込むのを忘れてしまって……あは、だめね。年か
しら」
「慌て者なだけだよっ」
碧と暦がステレオ攻撃で責めているところへ、螢川が口を挟む。
「あの、そろそろいいですか」
ここまで丁寧に話し掛けるつもりはなかったのだが、本物のプロのモデルを
目の当たりにし、雰囲気に飲まれる螢川であった。
「はい。失礼をしました、螢川先生。この度は時間を割いていただき、ありが
とうございます」
「いえ、こちらこそ。お忙しい中、足を運んでくださって、すみません」
へどもどしないように努めるので精一杯。とにかく教室に入ろう。野次馬の
好奇心溢れる視線を遮れるし、落ち着けるだろう。
「じゃあ、えっと暦君から。碧さんはここで待っているように。そんなに長く
掛からないはずだから」
「了解しましたー」
碧は何故か敬礼のポーズをすると、暦に対して微笑みかけた。
螢川は教室に相羽の母と暦を先に入れ、自分も入ると扉をしっかり閉めた。
そして、予め三者面談用に並べておいた席に、親子らを案内する。
「どうぞお座りください。このあと、お時間はよろしいでしょうか」
資料書類に視線を落としつつ、質問すると同時に袖捲りして腕時計をちらと
見る螢川。返事がないので、訝しんで顔を起こした。
「あの、相羽さん?」
「あ、ごめんなさい。懐かしい感じがして、つい、あちこち見てしまって」
脇を暦に肘で突かれながら、謝る母親。
(感じがいいから気にならないが、やけに馴れ馴れしいというか友達口調のよ
うな……。俺、初対面だよな、この人と)
念のために記憶を手繰る。うん、間違いない。
「お時間、大丈夫ですね?」
「はい。このあとは何も。家に帰って、夕飯の準備をする……あっ、たまねぎ
を買わないと」
口を手のひらで覆う相羽母。隣の暦が、黙ってメモを取った。
(何だか……子供っぽいぞ。仕種がやたらと可愛らしいし。もしかして、中学
校に足を踏み入れて、気分も若返ったとか? ただでさえ外見が若いのに。っ
て、これは関係ないか)
「それでは相羽さん。まず、お子さんの勉強のことから始めます。心配するよ
うな成績ではありませんし、特に問題はないので、ざっとさらう程度で」
「でしたら、この時間を使って、別のことを伺えないでしょうか」
「え?」
想定外の事態に、両目をしばたたかせる螢川。このタイミングで口を挟まれ
るのが想定外なら、別のこと云々と言われるのも想定外だ。
「どういうことでしょう、相羽さん」
「この子が学校でどんな風に過ごしているのか、親としてとても興味があるん
です」
「生活態度でしたら、あとで触れるつもりですが、基本的に真面目で、私をは
じめとする教師の言うこともちゃんと聞き――」
「いやですわ、先生。違います。暦が誰とどんな遊びをし、どういう話題でお
喋りし、また、誰と喧嘩して、誰を好きなのか嫌いなのか。そういうことを私
は聞いてみたいなと」
「……ご家庭で、お子さんに直接お聞きになればよろしいのでは」
「よほど機嫌がよくない限り、まともに答えてくれませんもの。はぐらかされ
ちゃう」
「……私が把握しているのは、暦君がこの間のバレンタインデーに、たくさん
のチョコレートを受け取っていたことぐらいですね」
ぶっきらぼうに口走った螢川に、暦から「先生、やけになってない?」と心
配げな声が掛けられた。それには応じず、教師として先に進めることに努める。
「定期考査は言うに及ばず、抜き打ちの小テストでもかなりよい点数を取って
いる。強いて言えば、国語系統あるいは英語の読解問題で、深読みしすぎる嫌
いがあって、損をする場合が見受けられます」
「大人に囲まれている時間が、他の子に比べて長いせいかしら」
素直に聞いていた相羽母は、暦の顔を見ながらぽつりと言った。
「いえ、テスト問題の解き方に関しては、コツを掴めば分かるレベルだと思い
ますが」
そこまで言って螢川はいいタイミングだからと、そのまま生活面の話題に移
行しようと決めた。保護者の目をじっと見て、口火を切る。
「ただ、私も芸能界に関わる親御さんと接するのは初めてです。暦君や碧さん
は、何かよくない影響を受けているかもしれません」
「それは当然です、先生」
「へ?」
「影響を受けているのは間違いありませんわ」
「そ、そう思っておられるんでしたら、この年頃の子を芸能界に接させるよう
な真似は控えた方が――」
「先生、少し勘違いなさってます。子供は悪い影響ばかりではなく、いい影響
も受けるんですよ」
「……ほう。どのようなよい影響があるんでしょう。後学のために教えてくだ
さい」
「たとえば、周りからどんな風に見られているかが、よりはっきり分かると思
うんです」
「というと?」
「価値、値打ちを決められると言えばいいかな? 周りの大人達が、暦や碧を
プロとして扱うということは、ある意味、値札を貼られるのと同じでしょう?」
「そう、なりますかね」
「今現在の自分の値打ちを知るのは、大切なことの一つだと思います。軽く扱
われれば、その程度の存在なんだと認識する」
「全部お金に換算するような考え方は――」
「そうじゃないわ、先生。お金だけじゃなくって、全てをひっくるめた価値。
もちろん、他の人には気付いてもらえていない価値もあるでしょうけれど、気
付いてもらえない自分というのが、今現在の価値」
「……分かりました。抽象的なことは、この辺りで打ち止めにしましょう。私
は悪い影響の方を心配しているんです。芸能界に詳しくはないが、場合によっ
てはスケジュールが遅れて寝不足になることもあるでしょう。大人の汚い一面
を垣間見ることもあるはずだ。普通の子なら望むべくもない誘惑も、そこここ
にあるのでは?」
「否定はしません。望むべくもないというのは言い過ぎかも」
「そういったことから、お子さんを守る必要がある。相羽さんはお母さんとし
て、具体的に行動なさってますか?」
螢川が熱弁をふるい、真剣な眼差しを送る。相羽母は、その言葉を制するよ
うに右の手のひらを立てた。そして首を少し傾げてから応えた。
「待って、先生。前提が噛み合っていないわ。守る必要があるという点で、恐
らく私と先生とでは大きく違っているみたい」
「では守らなくていいと仰る?」
目を剥く螢川。
「いえ、必要最小限の範囲で守ればいい。先生の話を聞いていると、一生懸命
こしらえた繊細な粘土細工を、周りにバリケードを作って見張りを立てて大事
にしている感じ。私は傷が付いてもへこたれない、強い粘土細工がいいなって
思う。そして、もしも大きく傷ついたときには、じっくり直せるように力にな
るのよ。それで以前より強くなってくれたら、いいと思いません?」
笑みと共に嬉しそうに話す相羽母に、螢川はほんのわずかだが気圧された。
頭を振り、議論を続ける。そう、議論になっていた。
「お考えが間違っているとは申しません。だが、あなたのお子さん二人は、中
学生なんですよ。まだ大人の、親の庇護が必要だ」
「ですから、不要とは言ってません。過保護はためにならないのじゃないかと」
「普通のご家庭なら同意しますが、相羽さんのところは特殊な世界と関係して
いる。その自覚を持っていただきたいんです」
「特殊かどうか別として、仮に普通よりも厳しい世界であるなら、なおさら、
傷に強くなるよう育てなくちゃ。違います?」
担任と親とのやり取りを聞きながら、そして目の当たりにしながら、暦はは
らはらしていた。母が普段時折見せるような子供っぽい言動を危惧していたの
だが、こんな風に考えていてくれたと分かって感心、もっと言えば少なからず
感動していた。一方で螢川先生の考え方も分かるから、どちらにも味方できな
い。
(誰か助けてほしい……)
その思いが通じたか、次の瞬間、教室の戸ががらりと音を立てた。三人の視
線が集まる。戸を開けたのは、暦の姉の相羽碧だった。
「先生、やっぱり長引きそう? だったら、私も一緒にいた方がよくない?」
「……そうだな、成績についてはほとんど言うことないし……」
予定通りにこのあと生徒を交代させ、また一から面談を始めても、確実に同
じ議論の繰り返しになるだろう。そんな読みから、螢川は相羽碧を招き入れた。
椅子を用意させ、相羽母の隣――暦とは反対側の――に座るよう促す。
「最初に確かめたいんだけれど、君はこれまでの話を廊下で聞いていたか?」
螢川は碧に尋ねた。揃えた膝の上に手を置いた姿勢の彼女は、こくりと頷い
た。
「聞いていたっていうより、聞こえちゃった感じ。だって、議論が白熱して、
声も段々大きくなるんだもん」
「そうか。なら、話が早い。――相羽さん、先ほどの続きはまた後日、次の機
会にということにしませんか」
「後日っていつ?」
ストレートに聞かれ、返事に窮する螢川。目にも露わに、うっ、と絶句して
しまった。相羽純子はかすかに笑った。
「自分で言うのも何ですけど、ここ最近は忙しい日が続いています。先生の仰
る次の機会となると、だいぶ先になりそう」
「……あなたは私を困らせようとして言っていませんか」
「いいえ。議論を続けたいわけじゃないですわ。先生、面談を続けましょ。学
校での碧についても、教えていただきたいことがたくさんありますから」
「……この子が誰を好きで誰が嫌いかという話なら、関知していません。たと
え知り得る状況になったとしても、ことさら知ろうとしなくていいでしょう。
子供でもプライバシーは尊重すべきだ」
「そう? ううん、プライバシーの点は賛成。でも、クラスの生徒の誰と誰と
が仲良しで、誰と誰とは仲が悪いかは、担任の先生が少しでも知っておいてほ
しい。保護者には分からないことだわ」
「それぐらいなら承知しているつもりです。相羽さんが仰ったのは、恋愛感情
に重点を置いたように聞こえたから……」
「ごめんなさい」
己の声に愚痴っぽさと言い訳がましさを自覚していた螢川は、不意に謝られ
て目を丸くした。相手を見やると、少しだけ俯いた相羽母が、ため息混じりに
喋っていた。
「言い方が悪かったのね。気を付けているのだけれど、まだまだ充分じゃない
みたい」
「いえ。こちらも早とちりをしました」
軽くではあるが頭を下げた螢川。そこへ、暦が口元に手のひらをあてがい、
ひそひそ話をするような格好で告げてくる。
「先生。母は女優なんだから。言うこと全部鵜呑みにしてると……」
その言葉に螢川は、真向かいの“女優”をまじまじと見返した。相手は、息
子の声をしっかり聞き取ったようで、暦の頭を乱暴に撫でつつ、「ややこしく
なるようなこと言わないのっ」と注意する。
「……それでですね、お母さん」
「はい」
「そちらのご要望は、全て考えておきますから、今はこちらの話に耳を傾けて
ください。お願いします」
「……分かりました」
言いたいことは色々ある、そんな態度を隠さない純子だったが、両サイドか
ら子供につつかれたせいもあり、頷いた。螢川は軽く安堵した。正直、疲れた。
要点だけを伝えるとしよう。
「入学時に認められたことですし、お子さん達のアルバイトを今さら辞めてく
ださいとは言いません。セーブする方向で考えていただきたい。理由の一つは
さっき申し上げた、お子さん達への影響。これには心理的なものだけでなく、
物理的に時間を取られるというのもありますし。それともう一つは、クラスメ
イトへの影響です。この年頃の子達にとって、芸能界に通じた同級生がいれば、
大なり小なり影響を受けて、浮つくことが多くなるかもしれない」
「あの、いいですか」
一応、遠慮がちに片手を挙げる純子。螢川は「少しだけなら」と釘を刺しつ
つ、認めた。
「螢川先生のクラスが他のクラスと比べて、明らかに浮ついているという結果
が出ているのでしょうか?」
「いえ、それはありませんよ」
「では、これまでに受け持ってこられたクラスと比べると、今のクラスは浮つ
いている?」
「いいえ。実は、自分はクラスを受け持つのは初めてでして……」
「じゃあ、おかしいわ。根拠なしに浮ついていると言われても」
螢川は言葉に詰まった。
(小さな頃からモデルをやってるような女が、こういう理詰めで来るなんて予
想外……。いや、これは偏見だった。それに、俺は確かに感覚だけで言ってい
た。最低限、担任経験豊富な先生の意見を聞いてからにすべきだった)
心の中で猛省する。尤も、反省はあくまで心中だけのもので、顔には出さな
い。教師の体面がある。
「と、とにかくですね。人生で中学校は一度しかないんですから、お子さんに
は中学生の生活ももっと体験させてあげた方がいい。私はそう考えています」
「――ええ。賛成」
一瞬、びっくりしたように口をすぼめた相羽母は、次にはほころぶ花のごと
く笑った。
螢川の方も驚いていた。半ば苦し紛れでつないだ言葉に、あっさり「賛成」
と言われて。
(何なんだ、この人は)
困らせるようなことを言うかと思えば、この態度。よく分からない。
「勉強に関しては、もう言いません。二人には次のテストでまた結果を出して
もらえると期待しています。これで今日は終わりにしましょう」
資料を立て、机にとんとんと打ち付けて揃える。ほとんど活用できなかった
なあ、とため息がこぼれた。
「ありがとうございました」
母親の声と、子供二人のほっとした響きの声がほぼ一つになって聞こえた。
続いて、相羽純子が螢川の顔を覗き込むようにしながら言った。
「お疲れ様。顔に出ているわ」
「――確かに疲れました」
真顔で答える螢川に、相手は困ったような笑顔で応じた。
「これからもよろしくお願いします」
「もちろんですとも」
日曜の午後、螢川は自宅近くの川に繰り出し、釣りに興じていた。時間をや
り繰りしてまで打ち込む趣味ではあるが、実のところ、釣果を上げることに血
眼になるタイプではない。のんびりした時間を味わうことを優先させる。
三学期は定期考査が始まると、あとは矢継ぎ早に行事が続くし、採点だの成
績だのをつけるのに超多忙となる。その前にこうして休みを満喫できるのは、
本当に貴重だ。
(その貴重な時間を、こんな形で乱されるとはついていない)
川面に垂らした釣り糸の先、ゆらめく浮きから視線を外し、川上に目をやる。
一時間ほど前に何やら集団が車数台で乗り付け、がやがややっているなと思
ったら、カメラを回し始めた。映画かドラマの撮影らしかった。
魚を釣り上げることに眼目がないとは言え、断続的に大きな声や物音が轟き、
耳障りに感じる。かといって、先に着いていた自分が腰を上げ、場所を変える
のもばからしい。
(ま、たまにはこんな経験もよかろう。腹を立てても仕方がない。幸い、こち
ら側にレンズを向けることはないようだから、勝手気ままに振る舞える)
そんな風に考えた矢先、撮影している集団から、「二十分間の休憩に入りま
ーす!」という声が聞こえた。現場の空気が弛緩する様が、螢川のいる位置か
らでも何とはなしに感じ取れた。
携帯電話を取り出して時刻を確認すると、二時前だった。
(テレビ業界ってのはスケジュール変更がよくあるイメージだな。この休憩も
昼食なんだろうか。二十分じゃ厳しいか)
川上をぼんやりと見つめながら考えていると、撮影隊を離れた一人が、こち
らに向かって来るのに気付いた。
(まさか、撮影の邪魔になるからどいてくれと言いに来たんじゃないだろうな。
……いや、それはないか。スタッフにしては衣装がぱりっとしているし、顔立
ちだって――あ)
螢川は実際に「あ」と声を出していた。釣り竿を落とさぬよう、握り直しつ
つ、こちらへ歩いてくる女性の顔かたちを、しかと認識した。
「ああ、やっぱり。螢川先生、こんにちは」
まだ三十メートルほど離れていたが、相羽純子はそう言って微笑んだ。
螢川は半開きにしていた口を閉ざすと、釣り竿を置いて立ち上がった。そし
て意外さのあまり愚問を投げ掛けてしまった。
「相羽さん、何をしているんです?」
「え? テレビドラマの撮影よ。ああ、私は撮られる方で、撮影しているのは
皆さんだけれど」
そばまで来て立ち止まると、彼女は片腕を開くようにして撮影隊のいる方を
示した。
「そうでしたか。その、さっき、『やっぱり』とか仰っていたが、気付いてい
たんで?」
「はい。私、視力はいいんですよ。うちの子達から、担任の先生の趣味が釣り
だという話も聞いていましたしね。人影に見覚えがあると感じて」
「なるほど」
「釣りの邪魔をしてすみません。見てもかまいません?」
「別にかまいませんが、さっぱり釣れません」
スカートの裾を両手で織り込みながらしゃがんだ純子は、ライトグリーンの
小さなバケツを覗いて、「あら」と呟いた。
「私達が邪魔したせい?」
「さあ、どうでしょう。撮影が始まる前から、こんな調子だったからなあ。尤
も、釣れたとしても、帰るときには川に返すんですが」
答えてから、ちょっと言い訳がましいかと後悔する螢川。その気分を払拭し
ようと、話題を転じる。
「今撮影しているドラマは、この間のときと同じですか」
「この間って、三者面談の日の? ええ、おんなじ」
「結構、日数が掛かるもんなんですねえ、撮影」
再び釣りを始めながら、当たり障りのない受け答えをしておく。
隣の純子は、少しだけ舌先を覗かせた。
「掛かりますよー。今日のは私のせいなんです。早朝からの撮影に大幅に遅れ
てしまったことがあって。スケジュールが押して、はみ出た分が今日の撮影に」
「ふうん。面談のときみたいに遅刻したと」
冗談口調で嫌味を言った直後、螢川はふと思い当たった。
「早朝の撮影に遅れたって、もしかすると、バレンタインデーの二日ぐらい前
のことでしょうか?」
「凄い、どうしてお分かりに?」
両手を合わせ、目を輝かせる純子。螢川は頭を掻いた。
「全然凄くありませんよ。お子さんが――碧さんが休んだ日だ。知っていれば、
誰にでも察しが付く」
「なぁんだ」
「でも、驚きました。てっきり、子供の家庭での世話は、家政婦か誰かに任せ
ているのかと」
「そんなの、ごく一部の“スター”だけ。スターでもご自分で子育てされる方
はいます」
「面談のとき、あなたは放任主義なのかと思ったもので」
「子育てに限らず、自分のやり方や考え方を分類しようなんて思ったことない
から、分からないわ。放任主義イコールほったらかしにする、ではないんなら、
ちょっと当てはまるかも。子供達には自由にさせたいじゃない?」
「相羽さんならそうでしょうね。分かります」
「あ、ごめんなさい。折角の休日に、仕事を思い出させるような話をして」
「かまいやしません。常に頭の片隅にあるようなもんだから」
浮きが動いたような気がして、引いてみたが、手応えはなかった。改めて釣
り竿を振る。
「先生。私が小さな頃、どんな生徒だったか想像できます?」
「え? これはまた意表を突く問いだな。確か、今のお子さん達と同様、モデ
ルや何やらをされていたですよね。だったら、遅刻や早退が多くて、成績もよ
くなかったんじゃ? だから二の舞を舞わせないよう、暦君や碧さんを躾けて
いる……」
「惜しい。遅刻や早退はあったけど、成績はよかったんですよ、これでも。先
生方に言わせると、問題のある優等生だって。厄介な、だったかしら」
「自分で言わないでください」
「ふふふ、そうよね」
「ま、充実していたのは分かるような気がします。今のあなたを見ていると、
自信満々だ。お子さん達が同じ道を歩んでも、自信を持ってサポートしている。
羨ましくなりますよ。こっちは担任一年目で、それまでやっとこさ築いた自信
が、揺らぎかけている有様だというのに」
生徒の保護者の前で愚痴をこぼすのはいかん。分かっていても、つい、やっ
てしまった。そうと気付いて、片手で頭を抱える螢川だった。
「私が言うのもおかしいですけど、自信を持って前に進めばいいんじゃありま
せん? 先生と私とでは考え方に少しずれはあるけれど、どちらも間違ってい
ないと思う」
「保護者の方にそう言ってもらえるのは、とてもありがたいな。肩の荷が軽く
なる。――そうだ、あの面談以降、生徒を別の観点からも見るようになりまし
たよ。誰が好きで誰が嫌いか、とか。もちろん、気付く範囲で、ですが」
「私のような親なんかの影響を受けたんだ」
くすっと笑い声を忍ばせる相羽純子に対し、螢川は唇を尖らせた。
「笑わないでください。おかげで暦君が誰を好きなのか、分かった気がしたん
ですが、教えるのはよしましょうか」
「えっ、ほんと? 教えて」
風を起こす勢いで振り向いた純子。女子生徒みたいに、好奇心に溢れている
表情がそこにある。
螢川はもったいぶるかどうか迷ったが、さっさと話すことにした。休憩時間
は残りわずかだろう。
「多分、確実と思うんですが、当人達はばれていないつもりかもしれないので、
他言無用でお願いします。同じクラスの小倉という女子と、多分、相思相愛じ
ゃないかな」
螢川は、どうです?とばかりに相手の顔を見た。感心するか驚くか、そんな
反応を期待していたのだ。が、肩透かしを食らわされた。
「小倉って、小倉優理さんのことね?」
弾んだ声で念押しされて、「え、あ、そうですが」と認める。
すると、モデルにして俳優にして二人の中学生の母親であるこの女性は、満
足げに頬を緩めた。
「よくできました」
――『そばにいるだけで番外編 〜 三者面談 〜 』おわり