#69/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/04/21 23:08 (499)
溶解する屍 2 永宮淳司
★内容 02/05/17 01:07 修正 第2版
「B1だとしたら、これはもう地下一階しか考えられません」
振り返って意見を示す福井に、琴恵は「いいんじゃない?」とだけ応じた。
「どこかに地下室があるんだ?」
「ご名答。でも、どこにあるかは――」
「当然、本館でしょ」
即答する福井。琴恵はさすがに目を丸くした。
「根拠があるっていう物言いね」
「根拠というか推理というか。だって、秘密の地下室なんて代物は、遊び心が
ないと作らない。三つの建物の内、遊び心が発露しているのは、ここ本館のみ
です。だまし絵があるんだから。そのだまし絵の一つが、屋上へ通じるように
見せかけたドア。逆に、床の単なる模様に見えたタイルの一枚が、実は地下へ
の扉。ありそうな機知じゃないですか」
「そこまで分かっているのなら、早く調べるといいわ」
促され、福井は彼女の前を横切り、螺旋階段を下った。駆け降りても、やは
り静かだ。
福井は階段の一段目で停止すると、床への第一歩で踏み締めるであろうタイ
ル二枚(左右どちらの足から下りるかは人それぞれだ)に当たりを付けた。床
に降り立ち、伏して顔を近付ける。取手や切れ目がはっきり見える訳もない。
拳で軽く叩き、耳を澄ませる。
「……反響が大きいような」
当たりを付けたのとは別のタイルも叩く。何度か繰り返し、比較する。
「どう?」
声のした方を振り返ると、降りてきた琴恵が愉快そうに見下ろしていた。
「ホームズみたいにはいきませんね。はっきりしない。ここが入口ではない可
能性もある」
「見ただけじゃ、分かりっこないわ。開けるのも、素手では無理。ある特殊な
鍵を差し込み、引っ張らないといけないのよ。それに、推理作家さんはどんな
ヒントを期待している?」
「え? それは……考えもしなかった」
立ち上がり、膝や肘をはたく福井。
「地下室いっぱいに、消失の方法が書かれていたら嬉しいんですが」
「まさか」
「ですよね。じゃあ、考えられるのは一つ。消失のために地下室が使われる、
これしかありませんね」
自信を持って福井は言い切った。どうだとばかり、美しき出題者を見つめる。
「ふふふ。本番をお楽しみに」
琴恵は軽く受け流した。そして忠告する。
「地下室の存在を誰にも言わない方が、あなたのためよ。たとえ竹中さんが相
手でもね」
「ははあ。それは困ったな」
「秘密は一人の胸の内に仕舞っておけば、完全に管理できるけれども、誰か一
人に喋った途端、不安定になる。仲間内でも情報をコントロールしなくちゃ、
ゲームに勝てなくてよ」
「理解できる話です。しょうがない。聞き入れて、ひとまず、僕一人の秘密に
しておきます」
福井が承知すると、琴恵は満足そうに首肯した。
「賢明な人だから気付いていると思うけれど、あなたはもう一つ、大きな情報
を入手したのよ」
虚を突かれ、首を傾げる福井。多少の時間を要したが、やがて思い当たった。
「消失は、本館で行われる?」
相手は無言で、ただ婉然と微笑んだ。
夕食のために全参加者が本館に揃ったのは、午後七時ちょうどのことだった。
「野球中継を観たかったんだが、これほど豪勢な食事にまたありつけるのなら、
不満を引っ込めねばならないな」
テレビなどない食堂で、幸田が大きな声で言った。聞かれもしないのに吹聴
する裏には、大方、このゲームに挑戦するために、野球中継のテレビ解説を断
った経緯でもあるのだろう。
「福井君。何遍も言うようだけれど、結局、一人で全部調べちゃうなんて、ひ
どいじゃないか」
ナイフとフォークを不器用に動かしながら、竹中が言った。彼に肘で脇をつ
つかれた福井は、顔には反応を出さず、平気の体で食べ物を口に運んだ。飲み
込んだところで、応じる。
「さっき、部屋で聞きましたよ。三度も。これで四度目だ。その都度、謝った
んですから、いい加減に許してください」
「一人で待たされたこちらの身にもなってよ。ほんと、退屈で退屈で」
「そんなこと言って、僕が持って来たポケットゲームに熱中してた癖に」
部屋と同じやり取りの繰り返しだ。福井は嘆息した。水を一口飲むと、上座
の席に目をやる。
主催者の姿は、食堂になかった。
ゲームスタートを宣言したときの格好で現れた琴恵は、食事を始める挨拶を
すませると、じきに出て行ってしまった。元々、ここで食事をするつもりがな
かったのは、彼女の席の前に、何ら料理が置かれていないことだけで明らかだ。
「いよいよ、消失現象とやらをご披露してもらえるのかな」
食事を始めて三十分も過ぎた頃、飯田が言った。他の者の反応を探るかのよ
うな視線を、左右に飛ばす。
「そない言うたら、もうすでに消えてますなあ、琴恵さん」
山城栄一が呑気な調子で応じ、フォークを持った手で空の席を差し示した。
「不思議なことなんか何もあらへん。ふつーに歩いて、出て行きはっただけや」
「ねえ、あなた達、何にも聞いてないの?」
中澤がそばに立つお手伝いの一人に聞いた。ふっくらした顔つきのその女性
は、水をコップに注ぐときと同じように腰を曲げ、答えた。
「いくつかお聞きしていることはございますが、申し上げてはいけないと厳し
く言われておりますのでご了解ください」
「やっぱり、何かあるのね」
ほら見てご覧なさいとばかりに、肩をそびやかす中澤。酒が入ったせいか、
アイドル時代の仕種は影を潜め、地が出つつあるのかもしれない。
「メイドの皆さん全員が、琴恵さんから同じ言い付けをされているのかな」
三人のお手伝いを等分に見渡してから、ヘンリー定が聞いた。返事はイエス
だった。
「私もちょっと聞きたいことあるんやけど」
寿子が口元を拭い、挙手の格好をした。そんな言い方をするのだから、許可
を求めているのかと思いきや、そのまま続ける。
「真夜中に消失現象が起こるんやないやろね? なんぼ今日中や言うたかて、
午後十一時五十分とかにやられたら、眠うてしゃあないわ。そのことが心配で、
お酒も気持ちよく飲めやしません」
「それはございません」
寿子と同世代のお手伝いが、満面の笑みで返事をした。だが、具体的に何時
に行われるのかについては口止めされているのか、触れようとしない。
「公平を期すなら、皆が集まった場でやるしかない」
満を持したように言ったのは枝川。
「たとえば、今、この瞬間もチャンスだな」
「なるほどね。しかし、肝心の琴恵さんが端からいないんじゃあ、どうしよう
もないだろう。消えようがない」
飯田は否定的な見方を示すと、グラスに残っていたビールを一気に呷った。
彼に限らず、参加者達は今夜中にあるはずの消失現象に備え、強めのアルコー
ル類を避けている節が窺えた。最前ぼやいた山城寿子も、水割をちょびちょび
すするくらいで、大した量ではない。何にせよ、高校生の福井にとっては関係
のないことである。
「許されるのであれば、しばしの余興として、私めが消えてみせてもいいが」
定は片手で髭をしごきながら、もう片方の手でグラスをゆらゆらと揺らして
いる。残った氷が溶けるのを早めたいかのように。
「あなたのマジックの素晴らしさは認めるが、今、そんなことをされても、気
分が乗らないな」
そう言うと飯田は隣の中澤にも同意を求め、肩を抱き寄せた。
「私は見てみたーい。どうせ暇だもんね」
「いや、混乱するから、やめておいてもらいたい」
枝川が断固たる口調で告げ、テーブルをとんと叩いた。
「混乱するとは?」
「琴恵さんは、参加者の中に共犯――協力者がいる可能性を示唆しておった。
今ここで定さん、あんたに消えられ、さらには琴恵さん自身も姿を見せないま
までいたとしたら、残された我々はどう判断すればいいのかね? あんたと琴
恵さんがぐるで、消失を行ったと解釈する余地が出て来る。このような意味で、
混乱すると言ったのですよ」
「ふむ、理屈ですな。だったら、私の消失は琴恵さんとは一切関係ないと、こ
こで明言するというのはどうです? 信じてくだされば、私も心置きなく消え
られます」
提案すると、挑戦的かつ自信溢れる表情を覗かせた定。
何故この人は消えたがるのか?――福井の脳裏はそんな疑問でいっぱいにな
った。ただ単に自らの腕前を自慢したいだけかもしれないが、他人の家で何の
準備もなしに消えられるものだろうか。ここは当然、琴恵と協力関係にあるん
だと疑って掛かるべきではないか。
「面白いから、自分は賛成だな。いくらでもやってください」
隣に座る竹中には、福井のような発想はないらしい。無邪気にリクエストし、
手を叩いている。
「どうしてもやると言うのなら、条件を出していいかな?」
枝川が言った。定がうなずき、先を促す。
「定さんオリジナルの消失現象のあと、あんたはすぐに我々の前に姿を現し、
なおかつ、種明かしをしてもらいたい。そうすれば、単なる余興として楽しめ
る」
「やあ、これは困りましたな。種明かしだけはご勘弁ください。時間をなるべ
くおかずに姿を現すという条件の方は、クリアできなくはないですが」
「プロのマジシャンに種明かしを要求する無礼は、百も承知。今は状況が状況
故、余計な要素は排除したいのだよ」
「仕方がない。私が消えるのはあきらめて、その代わりに」
髭を一跳ねさせると、定は片目を瞑り、おもむろに立ち上がった。
皆の視線を集めたところで、手近にあった未使用のワイングラスを持ち、手
のひらの上に立てた。そこへ、胸ポケットから出した白いハンカチを被せる。
ワイングラスはすっぽりと覆われ、見えなくなった。
次の瞬間、定の両手がハンカチごと、ワイングラスを上下から押さえつける。
ガラスの割れる音が響き渡るかと思いきや、定の両手は静かに合わされた。紙
くずを丸めるような仕種で手を動かし、開くと丸まったハンカチが現れる。そ
れをポケットに戻しながら、「代わりに、グラスを一つ、消してみました」と
決めのポーズを取るマジシャン。
「すごーい。どうやったの?」
一番近くで見ていた中澤が、胸ポケットへ今にも手を伸ばそうとするが、定
は緩やかな動きで逃れた。
「この種明かしはしなくてもいいはずですよ。私が消えた訳じゃないんだから」
そう言われても、中澤の顔には不満がありありと残る。彼女は隣の飯田の身
体を揺すりながら、「ねえねえ、あなたは分かる?」と忙しなく尋ねた。飯田
はいかにも適当に、「磁石を使ったんだよ」と答えていた。
「お見事な手並み。驚かされました」
手を叩いて賛辞を送る枝川。その横の幸田は、あまりの早業に何が起こった
のか分からない様子で、きょとんとしている。山城夫妻も同様だが、こちらは
芸風と相まって、わざとらしいくらいに大げさな驚きようだ。
「福井君、福井君。あれ、分かるかい?」
竹中がひそひそ声で聞いてきたので、福井は拍手をやめて、「ええ、何とな
くは」と小声で答えておいた。
「教えてくれよ」
「あとで」
「約束だよ」
「今度の長編の締切、もうちょっと余裕ください。そうしたら考えます」
「むむむ」
二人だけの内緒話のつもりが、定に聞こえてしまっていたらしい。ふと気が
付くと、定が福井の真後ろに立っていた。
「マジックにお詳しいようだ」
「え、ええ。まあ。ちょっと本でかじった程度ですが」
「実演はしない?」
「はい。不思議な現象とそのやり方や演出に興味があるんです。推理小説に応
用できないかなっていう、さもしい願望もあって」
正直なところを白状すると、対する定は宙で頬杖をつく仕種をし、やがて言
った。
「このあと、私の部屋に来ませんか。ミステリに使えそうなマジックの種を、
ほんの少しだが、明かして差し上げようと思うんだが」
「え。そ、それは願ってもない話ですが、いいんですか」
「私もあなたの作品の評判は知っていてね。実際に二冊読んだが、なかなか感
銘させられた。本日このように知り合えたのも、何かの縁。お手伝いしてみた
い。その代わりと言っちゃあ何だが、本の最後にでも協力者としてちょいと名
前を載せてもらえたら嬉しいね」
「それはもちろん、かまいません……よね? 竹中さん」
編集者に確認を取る。竹中は揉み手をせんばかりに、えびす顔になってOK
を出した。
「私ども英俊社としましても、願ったり叶ったりの話で、ぜひぜひ、詳しくお
話しさせていただきたいものです」
「いいですとも。ただ、このあとの種明かしに関しては、あなたに同席される
のは好ましくない」
「はあ」
定のきっぱりした言いように、竹中の眉がハの字になる。
「私は本作りには素人だが、私が彼に提供したアイディアを基に、彼とあなた
との話し合いで一個の作品に仕上げる。これがいいと思うのですよ」
「承知しました」
簡単に引き下がった竹中。折角よい方向に話が動いているのだ、ここは従っ
ておこうという計算が働いたのかもしれない。
「一期一会。機会を大事にしないといけませんからねえ。福井君、いいアイデ
ィアをいっぱい掴んできてよ」
「分かりました」
とんでもない成り行きになってきたなと思いつつ、福井は楽しみでもあった。
だがその一方で、消失現象が未だ一向に始まらないことを訝しく感じてもい
た。本館で挙行するからには、全員が集まる夕食時が最大のチャンスだったは
ず。
しかしそれは外れらしい。今まさに定と福井が食堂を出て行こうというのに、
お手伝いの三人に引き留めに来る様子は微塵もなし。琴絵の声によるアナウン
スが入る訳でもなかった。その代わりに、中澤の「いいなあ」と羨む声が、間
延びして聞こえた。
定の部屋は、福井の入った二〇二の斜め上、番号で言えば三〇一号室だった。
「部屋数の都合と、私だけが単独参加であるために、一人、三階に追いやられ
たらしい」
マジシャン自身の分析通り、彼一人が三階の部屋をあてがわれていた。ワン
フロアに八部屋しかないのだから、個室を用意する限り、これが最も妥当な配
置であろう。
「しばらく廊下で待っててくれるかな」
部屋のドアロックを鍵で開けながら、定は言った。
「実は散らかし放題なんだよ。中には君にさえ見せたくない新しいネタや開発
中の物もあってね。それを片付けるまで、ほんの少し、時間を」
「いいですよ、もちろん。気にしないで、ゆっくりやってください」
「では、お言葉に甘えるとしよう。私がいいと言うまで、くれぐれも覗かない
でくれたまえ。終わったら呼ぶから」
「分かっています」
こんなところに来てまで、新しいマジックを考えているのか……と感心する
福井。定の姿が室内に消え、閉じられた扉を見つめながら、自分も新作のトリ
ックとプロット、もっと煮詰めないといけないな、と気を引き締める高校生作
家であった。
三分ほど経った。古い建物とは言え、防音設備はなかなかの物。また夜にな
って風が強まり、家鳴りもしていた。おかげで、部屋の中からはかすかな物音
しか聞こえてこない。何となく、片付けているような気配は感じられた。
さらに五分が経った。今度は時計を見たので正確だ。依然としてドアは開か
ない。ただ、さっきまで感じていた片づけの気配が、薄らいだような気がしな
いでもなかった。
八分に上乗せすることもう二分。福井はさすがに辛抱できなくなった。しび
れを切らし、ドアへ一歩近付くと、軽くノックする。
「すみません! まだでしょうかっ?」
大声を張り上げたのは、防音がどのくらい効いているのか分からないため。
一秒ほどの間を置いて、中から「う、わー……」と、形容しがたい呻き声とも
悲鳴ともつかぬ物音が聞こえた。
「定さん?」
予想外の事態に、福井は努めて冷静に、ドアに耳を寄せた。だが、先の呻き
声以上のものは聞こえてこない。
「定さん、どうしたんですか!」
どんどんどんと、今度は激しくノックする。騒ぎを聞きつけたか、階下から
竹中と枝川、それに山城寿子が上がってきた。彼らは口々に、どうした、何が
あったと叫び気味に言っている。
福井は親しい竹中を中心に、状況を伝えた。
「開けてみるのが手っ取り早い」
枝川が即決した。ドアのノブを掴もうとするのを、福井が制する。
「ちょ、ちょっと待ってくれませんか。いいと言うまで開けるなと言われたん
です」
「緊急事態かもしれないんだろう? もしかすると、あのマジシャンにまた引
っかけられているのかもしれんがね」
続けざまにだまされるのは癪だと言いたげに、福井を押し退けようとする枝
川。腕に力がこもっている。年齢の割にとても元気だ。
「ま、待ってくださいよ。それならせめて、僕が開けます。人に開けてもらっ
て責任逃れしようというのは、好きじゃないから」
「ふむ。よろしい」
枝川は腕から力を抜き、場所を譲った。
福井はドアの正面に立ち、ノブを握ると、今一度中に声を掛けた。
「定さん! 開けますよ! いいですね?」
返答はなし。覚悟を決めた福井が、手に力を込める。ノブは楽に回った。
「開けます」
最後通告のつもりで言い、無反応を確かめると、一気にドアを開けた。
「あ。いない」
指定された台詞を読み上げる大根役者のように、淡々と口にした福井。事実、
彼の心の片隅では、定が姿を消した可能性を思い描いていたのだ。
「いないだと?」
枝川が横をすり抜け、三〇一号室に入った。福井も歩を踏み入れ、さらに竹
中、山城寿子と続く。
「全員が入るのは好ましくありません」
推理作家の性が出た。福井は竹中に向かって命じる。
「竹中さんは廊下に出て、この戸口を見張っていてください。万が一、定さん
もしくは他の人物が逃げ出そうとしたら、取り押さえること。いいですね?」
「あ、ああ。見張ればいいんだな」
竹中は後ろ向きにドアをくぐり、再び廊下に立った。そして腕組みをしてど
っしりと構え、室内を睨みつける。
「どこにもおらへんみたいやわあ」
中を見回しながら、寿子が言った。
「見ただけじゃあだめです。身体を動かして探さないと」
福井は率先して部屋中を探して回った。布団の中、ベッドの下、クローゼッ
ト、ソファの裏側……。
「せやから、言ったやないの」
寿子の非難を福井は背中で受け止め、中腰の姿勢から元へと戻った。
「まだあります。定さんが持って来た荷物」
部屋の奥に追いやられる風にまとめられたバッグが二つ。内一つは、なるほ
ど、人一人が充分に入れそうな容積を持っていた。
「商売道具が入っているように見せかけ、我々の調べを心理的に逃れようとい
う訳だな。うまい手だ」
枝川が感心したようにつぶやく。だが、福井は確かめるまでは喜べなかった。
また非難されては面白くないので、「違うかもしれません」と断ってから、バ
ッグのファスナーに手を掛けた。
思い切って開くと、細々とした手品道具らしき物がたくさん転がり出た。素
人目には用途不明の代物が圧倒的に多い。
「――」
一瞬、動きが停まった。道具の中に、人の頭や手足を見つけたためだ。心臓
を鷲掴みにされた気分を味わった福井だが、じきに冷静な目を取り戻した。手
首足首頭部、いずれも模型だ。それも、すぐに偽物と分かる出来映えである。
「うわあ、グロテスクやなあ。ばらばら死体かと思ったわ」
後ろから覗き込んでいた寿子が、オーバーに感想を述べる。
対照的に枝川は平静さを保っている。
「これでは見間違えようがない。大昔の特撮じゃあるまいし、稚拙すぎる」
映画人として、高度に精巧な造り物の手足や頭を目の当たりにしてきた誇り
があるようだ。それを口に出さずにいられないところは、この六十過ぎの男に
まだまだ子供っぽさが残っている証である。
「ドアの裏側にもおらへんし、秘密の抜け穴みたいなもんもないようやし、ど
こへ消えたんやろ? さっぱり分からへんわ」
ドアや壁のあちこちを叩きながら、山城寿子が言った。そのあとを引き継ぐ
ようにして、枝川が福井へ顔を向ける。
「君を疑う訳ではないが、部屋に定さんが入ったのは確かかね?」
「保証します。僕の目の前で、定さんはドアを開け、中に入ったんですから。
以後、全く目を離していません」
「そうか。ううむ」
首をしきりに傾げる枝川。悔しくてならないと、顔に書いてあるようだ。
「まだ可能性は残っていますよ」
言いながら、福井は部屋を横切り、奥の面にたどり着く。そして風に震える
窓へ手を掛けた。彼の思惑通り、鍵は掛かっていない。風向きも窓とは直角を
なしており、観音開きのガラス戸はさほど力を要すことなく外側に開いた。き
しむ音もほとんどしない。
福井は後頭部を片手で押さえながら、慎重に頭を出した。夜の闇に目を凝ら
す。
「外壁に張り付い……てはいないようですね。だが、上か下に逃れる道がある」
そう言ったものの、光が乏しく、判然としない。ここはホテルではないので、
各部屋に非常用の懐中電灯が備え付けてあるはずもなく、今すぐには調べよう
がなかった。
「すみませんが竹中さん、下に行って、お手伝いさんか誰かから、懐中電灯を
借りてきてくれませんか」
「あ? それは別にいいけど、下に行くくらいなら、直接調べた方が手っ取り
早いんじゃないかい?」
「地上からだと、屋根の方まで目が届かないでしょう」
「ああ、なるほどな」
「私も行こう」
枝川が言った。
「私と竹中さんの二人がそれぞれ懐中電灯を借り、一人は地上を探す。もう一
人がこの部屋に戻ってくればよい」
「名案です。ぜひ、お願いします」
福井は映画監督に頭を下げた。
枝川と竹中が部屋を離れると、福井自身が廊下に出て、見張り役となる。
「さすが推理作家だねえ。若いのに、てきぱきしてはるわ」
室内に残る寿子が、感心した口ぶりで言う。福井は苦笑を禁じ得ない。推理
作家だから、今のような状況に対処できるかとは限らないではないか。
「山城さんは、何か気付かれたことありませんか?」
「私? いやあ、おばちゃんはだめよ。ぼーっとしてるから、全然、何も浮か
ばへん。ただなあ、これが琴恵さんの言う消失なんやろかいうのは、すごう気
になってる」
「同感です」
「あんたの意見は? 聞かしてえな」
「全員が揃っていないところで行われましたから、これは違うと睨んでいます。
定さんの独走でしょう」
「おんなじ現象をもう一回やって、見てなかった人に見せたら?」
「え? もう一回って?」
寿子の突飛な発想に、にわかには着いていけず、福井は聞き返した。
「定さん以外の、たとえば琴恵さんがな、おんなじことをやるんよ。みんなが
見てる中、琴恵さんが部屋に入って、ドアを開けたら消えてるっていう」
「ははあ、そういうのもありかぁ」
ゲームを二度に分けて行うとは、福井には思いも寄らなかった形式である。
聞いてみれば、ないとは言い切れない。
「それにな、あんたと定さんと琴恵さんがぐるっちゅうのも、あるんかなあと
思てるんやけど、どう?」
「……なるほど、第三者から見れば、疑って当然の選択肢ですね」
苦笑いを浮かべた。
「さっき枝川監督に言ったように、僕は嘘をついてません。それを信じてもら
うしかありませんね」
「せやろなあ。だいたい、共犯が何人もおって、人間消失なんかやってくれて
も、興ざめやわ」
その点については激しく同意できる。福井は何度もうなずいた。
やがて大きな懐中電灯を持って、枝川が引き返してきた。足取りは普段と変
わらない。不思議な現象が起こったものの、事件や事故の可能性は低く、琴恵
のゲームに関係あるかどうかさえ曖昧なため、緊迫感は薄い。
「ご苦労様です」
「いや。下には竹中さんが残ったよ」
足取り同様、悠然とした口調で彼は言った。
「そうなんですか。――山城さん、光、見えます?」
室内の寿子に目線を戻す。彼女は窓辺に寄り、両腕で大きな輪を作った。
「じゃ、こっちは上を調べてみるとしましょう。枝川さん、お願いできますか」
「いや、視力から言って、私は適任じゃない。君は眼鏡だが、どうかな」
「うーん、そう言われると……」
「私、一.五やけど」
寿子が手を挙げた。彼女に頼むことにする。
枝川から懐中電灯を受け取った寿子は、少しおっかなびっくりの様子で窓か
ら下を覗き、それから上を向いた。
「あかんわ」
ほとんど時間を経ずに、弱音めいたことを吐く。
福井は戸口の見張りを枝川に頼み、窓へと走った。
「どうしたんですか。明かりが弱いんですか」
「そんなんやなくて……あんたも見たら分かる思うけど、だーれも通っとらへ
んで。何も跡を残さずにこんなところを登るんは、とてもやない」
「貸してください」
懐中電灯を渡してもらい、交代した。上を照らす。
「あ」
カバーがあった。今の今まで気付かなかったが、窓枠から五十センチほど離
れた壁から、金属製の庇が飛び出している。九〇度の円弧を取り付けた形だ。
幅は十五センチほどか。問題はその縁の部分。茶色い錆が浮いているのだが、
全く擦れた痕跡がない。つまり、ヘンリー定が上に逃げたのだとしたら、庇に
ロープの類を触れさせず、手足を掛けず、屋上(というか屋根の上)まで登り
きったことになる。
「これはもう、降りるしかないのか?」
改めて地上を凝視する。竹中が調べているはずなのに、光を確認できない。
恐らく適当に一回りして、早々と切り上げたのだろう。
「いや。待てよ」
福井は手を伸ばし、壁表面を這わせた。材質は特定できないが、ざらりとし
た感触がある。
「……吸盤は使えないか」
吸盤状の何か特殊な道具で登れないかと考えたのだが、うまく吸着しそうに
ない。いかにもマジシャンらしいやり口だと、内心、喜んだ福井だったが、完
全に外れだ。
「隣の部屋の窓に移るのも……無理」
再び腕を伸ばして、おおよその距離を掴もうと試みたが、途中でやめた。ゆ
うに五、六メートルはある。前もって隣室の窓を開け、ロープを結わえておけ
ば、ターザンよろしく移れなくはなかろう。ただし、それは琴恵の協力があっ
て初めて成り立つ方法だ。何しろ、三〇二号室の鍵が必要なのだから。
「調べてみる価値は、一応あるかな」
そうつぶやくと、福井は窓から離れ、懐中電灯を寿子に渡すと、部屋を出た。
隣の部屋の前まで行く。ドアを揺すぶったが、施錠されていて開かない。
「どうしたんだね」
見張りを務める枝川の問い掛けに、福井は先ほど思い付いた推理を伝えた。
「面白い。この部屋からも誰も飛び出してきておらん。とすると、中に定さん
が潜んでいるかもしれない訳だ。これはぜひとも鍵を借りて来ねばならん」
張り切った様子で階段に向かう枝川。酔いはすっかり抜けたようだ。
「やれやれ。竹中さんも、枝川監督の半分でいいから熱心だったらな」
ぼやいたあと、そういえば帰って来ていないなと気になった。二階の部屋に
戻って、休んでいるのかもしれない。お酒が入った身体であれだけ動き回れば、
それも無理からぬことと思えた。
「あー! あれあれ!」
突然、三〇一号室から寿子の頓狂な調子の声がした。
福井は一瞬ためらった。三〇二号室の前を離れたくなかったのだ。そこで彼
はメモ帳に挟んであるシャープペンシルから芯を一本取り出すと、跪き、ドア
の目立たぬ位置に立てかけた。こうしておけば、中にいる者が外に出れば、必
ず芯を倒すから、少なくとも人の出入りがあったかどうかはチェックできる。
「どうしました?」
やや遅れたが、福井は三〇一号室に駆け込んだ。寿子は相変わらず窓辺にい
た。懐中電灯を闇に向け、特定の場所を照らそうとしているらしい。
「あ、あんたも見てみなさいよ」
福井が駆け付けたと気付いた寿子は、腕を引っ張った。自然に、窓の前へと
押し出される形になった高校生作家。懐中電灯を持たされ、どこを見ていいの
か分からぬまま、外に光を浴びせる。
「池や、池を見てみ」
寿子の言葉に反応し、庭にある池を探す。さしたる苦労もなく、スポットラ
イトで捉えることに成功。
「あ。あれは……」
絶句した。
池には、ひと形の何かが浮いている。いささか距離があるため、はっきりし
ないが、どうやらヘンリー定その人のようだ。生気のない顔には、あの特徴的
な髭の形が見える。失神でもしているのか、もがくことなく、漂っていた。
「定さん!」
叫ぶが、返事はない。それが当たり前であるかのように、ひと形は水にさら
され、ぷかぷかと浮いている。地面の近くは風が結構きついようだと知れる。
重ねて名前を呼んでいると、二階の部屋の窓が開く気配がした。続いて、何
だ、どうしたと飯田や山城栄一の声が聞こえる。だが、庭に面した部屋は、二
〇一、二〇二、三〇一、三〇二の四部屋のみ故、他の人達に事態を正確に伝え
る余裕がない。一時的に無視させてもらい、池に意識を集中する。
五秒ほどして、福井は目をこすることになった。
「溶けてる?」
彼が思わず口にした言葉の通り、池に浮かぶひと形は縮み、崩れていく。夜
の帳にぽつんと一点浮かび上がる白い弧の中、ヘンリー定によく似た物体は徐
徐に小さくなり、やがて識別できなくなった。
「消えた……」
呆然として見下ろす。山城寿子も同じように立ち尽くしていた。
「一体どうなっておるんだ、騒々しい」
二人の反応を聞きつけたか、枝川や他の人達が続々と集まって来る。
福井は我に返り、部屋を飛び出ると、人混みをかき分け、隣の三〇二号室前
に立つ。再度跪いて芯の状態を見た。
「変化なしか」
芯は最初に福井が立てかけたときのままだった。
廊下では、山城寿子による説明会が始まっていた。福井はその人だかりを振
り返って、この場に姿がないのは、横木琴恵とお手伝い三名、ヘンリー定、そ
して竹中の六名と分かった。
福井は枝川に接近し、三〇二号室の鍵を借りられたかどうか、尋ねた。
「おお、そうだ。メイドの一人をつかまえて頼んだら、意外と頑なでな。渡そ
うとせん。あとで持って行きますの一点張りで、押し切られてしまったよ」
「そうですか。待つしかありませんね」
「そのようだが……定さんが池に沈んだとなると、三〇二の探索どころではな
くなるんじゃないかね?」
「うーん。沈んだのではないように見えたんですが」
まだ現実感がない。両手でその輪郭を捉えつつも、指と指との間だからする
りと滑り落ちてしまうような。
「現時点での最優先事項は、池の調査に移ったように思う」
枝川が力強く言った。これまでは年若い福井に主導権を握らせてくれた節が
あったが、事件性が若干濃くなった今、方針を換えるつもりなのかもしれない。
「監督の判断を尊重したいです。ただ、これが本当に事件である、つまり犯罪
性を帯びた出来事だとお考えなら、この暗い中、池を調べるのは却って危険じ
ゃないでしょうか。あの池はかなり大きいですし」
「道理だな。だが、このままでは、警察に通報しづらい」
「僕はまだ、全ては定さんのマジックである可能性も充分にあると考えます」
「じゃあ、あやつは我々を驚かせるために、わざわざ池に潜ったと?」
「それは分かりませんが……」
言葉に窮する福井。いささか強引に話の方向を転じる。
「ともかく、琴恵さんに出て来てもらって、全てを話すべきだと思います。も
し琴恵さんの予定通りなら、警察沙汰にする必要はないんです」
「彼女が素直に認めるかどうか疑問だが、それは脇にやるとしてだ。彼女にと
っても予定外だったときは、どうするね」
――続く