#67/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/04/21 23:06 (492)
箱船は行方不明 永宮淳司
★内容 02/04/28 23:03 修正 第2版
※作者註.今回書き記す事件は、私の記録によると、一九九〇年代半ばに起き
たものです。発生年が事件の真相に直接関係するものではありませんが、念の
ために付記しておきます。
ビー、ビー!
だだだだっ!
幼稚園から小学校低学年にかけての子供ら数名――ほとんど男子だ――が、
廃材置き場で“ごっこ遊び”に興じていた。
大人から見れば、何の“ごっこ”なのか分からない。戦争ごっこだろうと当
たりを付けるかもしれない。
実際、子供の手には、おもちゃが握られている。それぞれ個性的で奇抜な形
の戦闘マシンだ。ある物は二等辺三角形のUFOと飛行機のあいのこ、ある物
は戦車のキャタピラにドラゴンの頭と翼を付け、またある物はパラグライダー
をしているロボットのような……。
時折、必殺技の名前を叫びながら、薄汚れた電気器具や古タイヤを物陰にし、
廃材置き場内を駆け回る。
廃材置き場と言っても、業者が確保した土地ではなく、心ない者が勝手に捨
てていった結果、自然発生的にできてしまった区画に過ぎない。ごみを捨てる
なの看板が虚しい。それ以上に、安全の面で、大人達は子供らがここで遊ぶの
にいい顔をしなかった。
もちろん、当の子供達にとって、ここは自分が主役になれる王国。注意に耳
を貸すはずもなく、連日、夢中になって遊んでいる。
「スターダスト砲、発射準備!」
一人の男の子がそう叫びながら、洗濯機の影から前に撃って出ようとした。
ところが、彼はそこにあるはずの物を掴み損ない、派手に転んでしまった。
「い……」
本当は泣き出したいほど痛かったが、友達大勢がすぐさま集まってきたため、
涙を引っ込めた。膝や肘に付いた白い砂を払いつつ、「何だよー」と洗濯機に
向かって悪態をつく。
「何で、ホース、ないんだ!」
彼の言う通り、その洗濯機には排水用のホースがなかった。昨日までは、ホ
ースを頼りに格好よく身体の向きを換え、前線に飛び出していったのに、今日
はおかげで大失敗だ。
「そういや、あっちの緑の洗濯機も、ホースがなくなってたぜ」
一人が北の方角を示した。遠目からでも、白のホースが消えていると分かる。
「俺も気が付いてた」
「あっちにもあった」
手柄を独り占めされてたまるかとばかり、口々に自己主張する。そして、そ
れらの台詞に嘘はなかった。
数えてみれば、都合五台、洗濯機のホースが取り外されていた。長さはメー
カーによってばらばら、一メートル前後のホース五本はひとまとめにされ、廃
材置き場の片隅に放られているのが見つかった。
「何に使ったんだ?」
子供達は首を捻って、不思議がった。チャンバラをするにはふにゃふにゃだ
し、無知として使うには太すぎる。まさかつなぎ合わせて、ターザンごっこを
やったのでもあるまい。
真相不明のまま、子供達の興味はやがて失われた。こんなことに頭を煩わせ
るより、ビー、ビー、だだだだっ!とやっている方が楽しいに決まっている。
一軒家の玄関前に二人の男が立ち、難しい顔をして唸っていた。家の内外で
は、紺色っぽいユニフォームを着込んだ男女十数名が張り付くようにして作業
に没頭し、スーツ姿の男達が忙しなく動き回る。
玄関前の男二名の片割れ、花畑刑事は、子供達と同じように首を傾げた。
「言いたかありませんけど、密室……ですね」
「うむ。そのようだ」
もう一人の下田警部が不承々々うなずく。唇を突き出し、不機嫌さを露にし
ていた。
「明らかに自殺なら、密室でも何でもかまわないんだが」
不満そうに口走る。
遺体は、戸締まりのなされた家屋の一室で見つかった。青酸性の毒物を口に
し、絶命してから二日ほど経過していた。死んだ青野武彦は医科薬科大の研究
生で、恐らく、研究室から密かに持ち出した青酸カリと思われる。現在大学へ
問い合わせ中だが、この点では矛盾がない。
遺書も用意されていたが、これはパソコンで作成した物をプリントアウトし
ただけで、自筆の箇所は全くなかった。自筆の方が自殺を揺るぎないものにす
るのだが、今日び、ワープロやパソコンで遺書を記す人間がいて不思議でない。
問題は、死ぬ直前の青野の行動であった。
「何で、ビデオを借りてるんだ。何で、コンサートのチケットを買ったんだ」
被害者の青野武彦は、両親と三人暮らし。八日前、両親を結婚何十周年だか
の記念旅行に送り出し、しばしの独り暮らしを少しばかり楽しんでいたはずだ
った。両親の旅先は北欧で、まだ連絡が付いていない。
そんな青野は、死ぬ三日前にホラービデオ一本を借りている。これはよしと
しても、前日にインターネットでコンサートのチケット二枚を購入し、二ヶ月
先のカレンダーの公演日には赤いペンできつく丸が入れてあった。彼女と二人
で行くつもりだったらしい。恋人の女性、鍋倉亮子は(彼女が犯人でないとす
れば)不幸にも恋人の遺体の第一発見者の役を担わされてしまった。故に今、
話を聞くどころではないため、チケットの件の確認はまだできていないが、間
違いないだろう。
「自殺じゃないよなあ。どう考えても」
「となると、密室の謎を解き明かさないと」
「……」
黙り込んだ下田は、玄関前から離れ、家の角を折れた。
そこに玄関の窓がある。唯一、鍵の掛かっていなかった箇所だ。ただし、頑
丈な格子が付いており、人の出入りは不可能である。磨りガラス故、家の中は
見通せない。
「ここを利用したに違いない。もしも他の方法があるんだったら、密室を作ろ
うっていう犯人が鍵をし忘れるはずがないからな」
指紋採取その他諸々の調べが終わったことを確かめ、下田は格子の隙間から
手を入れ、閉じてあった窓を動かした。視界が開け、玄関の上がり框、リビン
グに通じるドア、二階に続く階段の手すりといった箇所が目に入る。
「リビングの隣の部屋、ダイニングキッチンの角に置かれたテレビ台の下のス
ペース、そこにあった茶色のガラス瓶の中に、家の鍵を含むキーホールダーが
入っていた訳だ。この格子窓からは、直線距離でも三メートルはある。壁に穴
をぶち開けたらの話だ。間取り通りに結ぶなら、四メートル五十センチだ。リ
ビングを通って大きくカーブしなければならないからな」
「はあ。とてもじゃないが、放り投げたぐらいでは届かない」
花畑が、何度も検討したことを、また口にする。下田は吐き捨てるように言
った。
「たとえ直線距離で一メートルだとしても、格子窓越しにキーホルダーを放っ
て、ガラス瓶の中に入れられるか? 直径十センチもないんだぞ、瓶の口は」
「は、その通りで」
花畑が答えたきり、二人の刑事の間には沈黙が居座った。密室のことを考え
ても、何のアイディアも出て来ない。
代わりに、一人の人物の名前が浮かんだ。花畑よりも、下田の方が早かった
かもしれない。
だが、口に出したのは、ほぼ同時だった。
「頼んだ方がいいんじゃないですか」
「そうだな」
うなずき合う。他の同僚達には見せられない光景である。
やがて二人はその名を声に出した。ため息とともに。
「地天馬鋭の意見を聞くか……」
秋風が、道路に木の葉の渦を作った。
「合鍵を持っていた恋人、鍋倉亮子は怪しくないんですか」
話を聞き終わるや、私は質問を飛ばした。
「最初、怪しんだんですがね」
花畑刑事は皆まで言わない内から否定する風に、首を横に振っていた。
「事件のあった日のアリバイが完璧だった。鍋倉は菓子メーカーのQに務め、
置き菓子配送員をしてるんだが、事件当日を挟んだ二泊三日の社員旅行に行っ
ていたと明らかになった。あっさり、容疑の枠から外れました」
「共犯の影もなし?」
「ええ。被害者との仲は良好で、鍋倉自身、実に一途です。周りの評判にも疑
わしい点は皆無だった」
「ふーむ」
私は腕組みをし、椅子にふんぞり返った。
当探偵事務所の主である我が友・地天馬鋭の姿は現在、ここにない。留守を
預かった身としては、探偵事務所の威厳を傷つけてはならないという意識が、
頭の片隅、否、中央に強くあった。一人でやって来た花畑刑事を出迎え、気持
ちが高ぶってもいた。
「地天馬さんはどこへ行ったんです?」
不服顔を隠そうともせず、花畑刑事は椅子を離れ、熊のように歩き回った。
その両眼は私の方をじっと見据えている。
「最初に言いましたように、彼は今、調査のために出張中です」
「誰の依頼を受けたどんな事件で、どこに行っているかは、言いたくないとい
うんですな」
「ええ。それが守秘――」
「連絡だけでも取ってくれませんかね」
私が喋り終わらない内に、言葉をおっ被せる刑事。密室の謎によほど苦戦し
ていると見える。
「あの名探偵のことだ。これくらいの密室、電話であらましを聞いただけで、
ちょちょいのちょいだろうに」
「それは何とも言い兼ねます」
「だいたい、何故、一人で行かれたんです? ワトソン役というんでしたかな。
あなたが引っ付いていかないのはおかしい気がする」
「依頼人が、地天馬一人での来訪を所望したんですよ」
若干の疑いを向けられ、私は憤慨気味に返答した。もちろん、ポーズの色合
いも混じっているが、いい気がしなかったのは厳然たる事実だ。
「書かれたくないんですな。そういう人もいるでしょう。いや、それが普通だ」
こちらの喉が干上がるようなことを平気で言ってくれる。
「とにかく、地天馬さんに伝えてくださいよ。どうせ連絡するんでしょう?
そうでなきゃ、留守番の意味がない」
「……」
図星である。即、認めるのもためらわれ、私は沈黙を通した。刑事はしかし、
伝えてくれるものと決め付け、続けた。
「それで、意見を引き出して、我々に伝えてくれればありがたい。お願いしま
すよ」
「……私も推理作家の端くれとして、また、地天馬のそばに長くいた者として、
それなりに能力があると自負しています」
「ほ?」
「密室の謎、私が解いてみせましょう」
「お、大きく出ましたなあ、これはまた」
刑事の口ぶりと目つきに、私はますます意地になった。
「独自に調査させてもらいますよ。いいですね」
「ええ、ええ、かまいませんよ。犯人を捜すのではなく、密室の謎解きぐらい
なら、問題ない」
「新しい情報が入ったら、教えてください」
「ん、ま、しょうがないですな。こっちから話を持ち込んだんだから。ただし、
時間制限を設けさせてもらいましょうか」
「期限付きの謎解きという訳ですか。事件をゲーム扱いするのは忍びないが、
まあ、目を瞑ります。何日間くれます?」
「地天馬さんが帰って来るのは?」
私はカレンダーに目をやった。
「えっと、三日後の予定だけど、事件解決が長引けば、どうなるか分かりませ
んよ。逆に、早く帰って来ることもあり得る」
「それなら三日後にしましょう。三日後の今、午後三時……二十分としておく
か。三時二十分までに密室の謎を解けなかったら、地天馬さんに助けを仰いで
ください」
「いいでしょう。受けました」
……花畑刑事が帰ったあとで一人考え、おかしな成り行きになったものだと、
つくづく感じた。
花畑刑事の計らいで、現場を短い時間ながら見せてもらった。結果、彼の話
が正確であることはよく分かったが、密室の方はさっぱり分からない。
「被害者のご両親が同居していたと聞きましたが、姿が見えませんね」
「ああ、旅行先に連絡をしたのはいいが、一人息子の死にショックを受けて、
二人とも現地で寝込んでしまった。全く、親不孝なことですよ」
「くどいようですが、合鍵の可能性は? 両親が旅先まで持って行っていた?」
「確かに持って行ってましたよ」
「鍵をこっそり持ち出した犯人が、鍵屋にスペアキーを作らせたという線はな
いでしょうかね」
「恐ろしく低い確率でしょうな。車のキーも家の鍵と一緒にホルダーに付いて
たんだが、青野は車好きでして、大学に行って研究用の白衣に着替えるときも、
忘れずに鍵を移していたほど。文字通り、肌身離さずってやつだ」
「両親の持っていた分はともかくとして、恋人の鍋倉も鍵を持っていたんでし
ょう。それをコピーしたのかも」
「残念。こっちも似たようなものですよ。彼女は青野の家に行くとき以外は、
鍵を厳重に保管していたようです。親の目から隠すためですな」
聞けば、鍋倉は青野との付き合いは親に告げていたが、合鍵をもらって家に
自由に出入りするほどとまでは言い出せなかった。青野が一人前の稼ぎを得る
ようになったら、と思っていたようだ。
「じゃあ、スペア作成説は消滅だなあ。やはり、格子窓からガラス瓶に、何と
かして入れたのかな」
外に追い出されてもなお未練があった。問題の格子に手を掛けてみた。この
感触は、ステンレス製だろうか。取り外され、再び付けられた痕跡はない。
「ここからテレビ下の瓶まで、丈夫な糸を渡して、ケーブルカーみたいにキー
ホルダーを送れませんかね。糸は引っ張れば回収できるようにしておいて」
「誰でも考えることは同じですな」
後ろに立つ下田警部が、笑いながら応じた。
「やってみましたよ。糸を渡すこと自体できません。直線なら可能だが、カー
ブを描くのは無理だ」
「でも、天井やドアの枠なんかを利用して、補助の糸を使って、引っ張ってや
れば、曲げられる……あ、だめだ。そんなことしたら、鍵が滑っていかない」
底の浅い推理に、私は恐らく赤面していただろう。自分自身で気付いたのが、
せめてもの慰めだ。
「まさかとは思いますが、ラジコンはなかったですか。無線操縦できるおもち
ゃの車かヘリコプターなら、瓶のところまで鍵を運べるかもしれない」
「そういう物は、家の中には見当たりませんでしたね。この格子窓から外へ引
き出せるほど小さなラジコンがあれば、また話は変わってきますが、なさそう
ですし」
「それに、ラジコンを操縦し、ガラス瓶にキーホルダーを入れるのは、至難の
業だと思える。何らかのアームが必要だし、それを操るのがまた難しい。この
窓からでは、瓶が見えない位置にある。まず、不可能じゃないですか」
二人がかりで否定され、滅入ってしまった。警察も様々なことを考えるのだ
なと分かったのが、収穫か。
大の大人が三人、道端で額を付き合わせるようにして考え込んでいると、小
学一、二年生ぐらいの男の子三人組が、勢いよく走ってきた。我々のすぐ近く
で、つんのめるようにして止まる。
「お、おじさん達、刑事?」
私に対してそう聞いてきたので、どう答えたものか、戸惑う。
代わりに、下田警部が「そうだよ」と応じた。子供達は顔を見合わせ、目を
輝かせる。
「やっぱり! 前、パトカーが停まって、この辺が大騒ぎになったとき、いた
もんな」
「だから言ったろう。勇気出して、来てよかった」
三人中二人が、やけに興奮気味だ。残る一人ははにかんだ様子で、目に落ち
着きがない。
「何かあったのかい?」
花畑刑事が似合わない猫なで声を出した。彼から見下ろされると、小さな子
は恐がるんじゃないだろうか。
リーダー格の子は、案の定、下田警部を相手に答えた。
「遊び場にある洗濯機が変なんだ」
「うん? 遊び場に洗濯機があるのか」
そのこと自体が変だ、とでも言いたげに、口元を歪める警部。
男の子は彼らがやってきた方角を腕で示しながら、「うん、あっちにある」
と声を張る。花畑刑事がつぶやいた。
「確か、廃棄物の集積場みたいな場所があったようですな」
男の子はさらに忙しなく続ける。
「それでね、こないだね、ホースがなくなってたんだ。洗濯機のホース。五本
もまとめて外されて、隅っこに捨てられてた」
「元々あった洗濯機から、ホースが外された。それも五本も一度に。というこ
とだね」
私が整理を試みると、子供達は揃って大きくうなずいた。
なるほど、不思議な謎と言えなくはない。家の洗濯機のホースが傷んだから、
廃棄された洗濯機の物を黙って拝借したというのなら理解できるが、五本まと
めて取り外し、その場に置いて行くとは……?
本来、謎そのものを好む私の頭脳は、大いに刺激された。
だが、警察の二人は、そうではないようだ。花畑刑事は肩をすくめ、下田警
部はため息をつく。
「ねえ、刑事さん。犯人、見つけてよ! 気になるんだ」
「……坊や達。おじさん達は忙しいんだ。この殺人事件が片付いたら、相手を
してあげられる暇があるかもしれないが」
苦笑混じりに応じる警部に、最前のリーダー格の子が背伸びして叫ぶ。
「殺人事件の前の前の日に、ホースがなくなったんだよっ。こっちの方が先じ
ゃないか。順番に犯人見つけてよ!」
「順番と言われてもなあ」
刑事二人が顔を見合わせる横で、私はふと気になった。
殺人事件の前の前の日と言うと、つまり、犯行が行われたと推測される日の
翌日ではないか。殺人事件があった家の近所で、ホース五本が取り外される不
可解な現象……関連があるのかもしれない。
次の瞬間、頭の中で光が速いテンポで点滅し始め、さらに進むと、閃きを覚
えた。
私は二人の刑事の視界に割り込むと、秘密めかした調子で言った。
「下田さん、花畑さん。密室の作り方が分かったかもしれませんよ」
ホースは五本とも、ガムテープを剥がしたような痕がくっきりと残っていた。
仔細に見ていけば、部分的に、ガムテープの茶色い毛羽立った布地がわずかな
がら残ってさえいるのが分かった。五本をひと続きになるよう、つないだに違
いない。早速、実験を行うことになった。
重要な証拠品になるかもしれないので、取り外されていた五本をそのまま使
うことはやめ、他にもたくさんある洗濯機から調達した。もちろん、五本の長
さの合計は同じになるようにし、さらにゴムホースの直径も揃えた。材質は同
じでないかもしれないが、触った感じはよく似た柔らかさだった。
長さ五メートルほどのホースを、殺人現場となった家の玄関脇格子窓から差
し入れる。中で待ちかまえていた花畑刑事が先端を掴むと、慎重に引っ張って
いく。リビングを通り、左に折れて、また左に折れると食堂の角にあるテレビ
台だ。
「届いた!」
大きな声で合図があった。
私はほくそ笑みたくなるのを辛抱し、警部から鍵の下がったキーホルダーを
受け取った。現物そのものではないが、全く同じ物を用意したのである。
私はそのキーホルダーを半分に折り曲げるようにして、ホースの中に入れた。
少し引っかかる感覚があったが、指先で強く押し込んでやると、小さな雑音を
立てつつも、徐々に奥へと滑っていく。
このまま、テレビ台のガラス瓶の中に、すとんと落ちるはずだった。
ところが。
「どうしましたー? 出て来ませんよ!」
花畑刑事の胴間声が轟いた。私は、「さっき押し込んだところですよ!」と
声を張り上げ、言い返す。
「本当ですかー? 変だな。出て来ないぞ」
「時間が掛かるんですよ」
そんなやり取りをする間に、私も不安に駆られた。鍵がホース内部を滑って
いく感触が、まるでない。ホースの蛇腹にこすれて、音がするはずなのに、耳
を当てても全く聞こえないのである。
「おかしい」
私はホースの端を持って、高く持ち上げてみた。角度を急にすれば、再び滑
り始めると考えたのだ。
すると、しゃしゃしゃ……という摩擦音が一瞬聞こえたが、すぐに止んでし
まった。腕をいっぱいに突き上げ、さらに高く持ち上げたが、限界が来ても、
滑る音は聞こえはしない。左右もしくは上下に揺さぶってみても、効果はなか
った。逆に、テレビの前で待つ刑事から、「何やってんですか! ホースの先
が抜けちまう!」と怒鳴られる始末。
「どうやら、この方法ではないようですな。私も当たりだと思ったんだが」
下田警部の沈痛な声が、私のうなじ付近をちくちくと刺す。
実験は失敗に終わった。
私の推理は間違っていたのだ。
ホースが何かに利用された可能性は残るとして、指紋採取等を行うことには
なった。実験は失敗に終わっても、もはやこれしか考えられないだけに、捜査
陣も藁にも縋る思いなのかもしれない。
「昨晩、地天馬に連絡を取ろうとしたんですが、向こうでの天候悪化のせいか、
うまくつながらないんです」
警察署内の一室で、私は吐露した。花畑刑事は嬉しさと意外さを同居させた
ような、裏返りかけの声で聞き返してきた。
「まだ三日経っていないのに?」
「あれだけ手ひどい失敗を犯すと、堪えます。これはもう、なりふりかまって
いられない、解決を最優先にしなければいけませんから……。電子メールも送
ってみたんですが、地天馬の方でつながる状況なのかどうか、分からない」
「電話が通じないとは、どんな場所に行ってるんですか、地天馬さんは」
思案顔になり、顎をさすったのは下田警部。
「九州方面の小島です。やや季節外れの台風が近付いてる」
「ああ、あの辺り。明日になれば台風一過、大丈夫ではないですかな」
「大丈夫じゃないのは、むしろ、我々の方という訳か」
投げ遣り気味に言い捨て、自嘲する花畑刑事。警部に睨まれ、首をすくめた。
「容疑者について、検討してみませんか」
私は生真面目な中学生みたいに手を軽く挙げ、提案した。
「もしかすると、犯人の職業が、密室の謎を解く鍵なのかもしれません。特技
を活かした密室という訳です」
「なるほど。ありそうだ」
賛同を得て、早速取り掛かる。花畑刑事が説明を始めた。
「容疑者として上がっているのは、次の三人。まず、清原茂。青野の高校から
の知り合いで、今はフリーターと称しているが、危ないことに手を出している
奴だ。二年ぐらい前まで、青野に薬物を回させ、ネットやら何やらで捌いてい
たことが判明している」
「えっ。被害者がそんなことに手を貸していた?」
親思いの好青年をイメージしていただけに、ちょっとした衝撃だ。
「青野も自由に使える金がほしかった頃があったみたいでね。つい、やってし
まったんでしょうな。まあ、最近は縁を切っていたようだが、ひょっとすると
清原の方から再び薬物を回すよう持ち掛けられ、いさかいになった可能性があ
る。清原の特技は……確か、スケートボードだと聞いてます。他に特別な資格
は何も取っていない」
スケートボードか。密室作りに応用できるだろうか?
「次は世山吉成、中堅出版社で雑誌編集長を務めている。出版社に菓子を置き
に来る鍋倉に言い寄っていたらしい。そのしつこさを聞きつけた青野が、一度、
編集部に乗り込み、もめ事を起こしていた。以来、鍋倉はこの出版社への配送
からは外れたが、世山も執念深いというか、鍋倉の住所を調べていた節がある。
調べ当てたかどうかは、はっきりしない。本人は知らないと言っているがね。
五十を目前にした独身で、離婚歴一回。えー、釣りが趣味。船舶免許を取りた
がっている」
釣り。ぴんと来るものがあった。
「警部。これ、使えませんか」
「釣りが?」
「ええ。重りを付けた釣り糸を、あの格子窓の間だから通して……。熟練者に
なると、かなり離れた的に命中させると聞きますから」
「だが、あんな狭い場所で、あれほど大きくカーブさせるのは不可能では?
ガラス瓶が見えないから、割ってしまう危険もある」
「……うーん。多分、無理のようです」
肩を落とす私の前で、花畑刑事が続きを喋り始めた。
「最後は冬木正明。鍋倉の務めるメーカーと同系列の洋菓子店で働く若手の菓
子職人ですな。と言っても、彼は鍋倉との関係ではなく、青野とのつながりか
ら、捜査線上に浮かんだ。中学まで同じ学校に通い、そこそこ親しかったのが、
二十歳を過ぎた頃、鍋倉を通じてお互いの近況を知り、旧交を温めた。温めた
だけならよかったんだが、金の貸し借りをしたのがいけない。ヨーロッパへ修
行しに行く資金が足りなかった冬木が、青野を頼った。青野には幸か不幸か、
薬の横流しで得た金があり、気前よく貸した。その返済を巡ってトラブルにな
っていた」
「冬木は、薬物の不法販売の件を知っていたんでしょうか」
「いや、それはなかったようです。ただ、危なそうな薬が部屋にあることには
気付いていたと言ってる」
「ふうむ……。それで、冬木の特技なんかは」
「冬木は無趣味な人間との評判で、菓子馬鹿の面があって、休みの日もよく菓
子の研究をしている。最近は、初夏の頃から冷菓の研究を繰り返していたとか。
えっと、アイスクリームに新しいコーティングをし、溶けにくいようにしつつ
口当たりをよくする狙いとか何とか」
菓子作りと密室は結び付きそうにない。無理矢理に知恵を絞ると……飴細工
で細長い滑り台を作って格子窓からガラス瓶までキーホルダーを送った後、熱
で飴を溶かした? まさか! 空想的に過ぎる。
「どうです? 何か閃くものはありましたかな」
下田警部に水を向けられたが、飴の滑り台のアイディアを話す訳にもいかず、
首を横に振るしかない。
「引き続き、考えることとしましょう。我々は本来の捜査に戻りますから、そ
ちらは地天馬さんに一刻も早く連絡してください」
下田警部の言葉で、散会となった。
いつ連絡があるかしれないため、ここ数日、私は地天馬の探偵事務所で寝泊
まりしている。
無論、彼は私の自宅の電話番号を知っているが、たとえば地天馬が過去の事
件のデータやその他資料を参照したいと電話で言ってきた場合、事務所に行か
ないと分からないことが多い。故に、事務所に泊まり込んでいるのだ。
私は密室漬けになった頭を一旦リセットすべく、テレビをぼんやり見ていた。
午後十一時を前にニュースが始まったので、特に天気予報を注意する。
台風は大陸方面に抜け、地天馬のいる島はすでに安全圏だと分かった。が、
こんな夜遅くに先方へ電話を入れるのは気が引ける。地天馬自身、あちらの事
件で疲労困憊しているかもしれない。
明日の朝一番に掛けようと心に決め、毛布を被ったちょうどそのとき――デ
スクの上の電話がけたたましい音を立てた。
毛布のトンネルから飛び出し、送受器を鷲掴みにする。こんな時間に掛けて
くるのは、地天馬に違いない。
「はい、もしもしっ。こちら――」
「ああ、僕だよ」
予感が当たった。地天馬の声だ。
「決着した。明日の昼過ぎには帰り着くと思う。そちらは何か起きていないか、
新しい依頼がないか気になってね。電話してみたんだが、まずは元気そうな声
が聞けてよかった」
「地天馬! こっちは難問を抱えてるんだ。力を貸してくれ」
「分かった。話してくれ。メモの用意はできている」
私の急な願いにも、地天馬は戸惑った気配を表すことなく、即座に応じた。
頼りになる存在だ。
事件のあらましから入り、細かな説明をし、地天馬からの質問に知っている
限り答えていった。
「――ガラス瓶の中は、乾いていたか、濡れていたか」
「あ? ああ、確か乾いていたよ」
「じゃあ、家の中の気温は? 暖房は入っていなかっただろうか?」
「入っていなかった。入っていたら、教えてくれる」
「なるほど。テレビ台の下の部分の日当たりは? 太陽の光をいっぱいに浴び
て、水分がすぐに乾く状態にはないだろうか」
「ええっと、いや、部屋の北側にあるから、なかなか日の光は届かないんじゃ
ないかな」
「そうか。……もう一度聞くが、自殺の可能性はないんだね」
「ないだろう。他殺を装った自殺だとしたら、手が込みすぎてるよ。チケット
を買うだけならまだしも、現場を密室状態にするのはやりすぎだと思う」
「僕も同感だ。となると、思い付く事件の経過は一つだ」
「え……もう分かったのかい?」
「分かったとまでは言わない。筋の通る想像を思い付いただけさ」
気障に聞こえる地天馬の台詞も、今回ばかりは天啓のようにありがたく感じ
られる。私は送受器を持ち直し、力を込めた。
「本当に? 教えてくれないか」
「犯人がホースを五本分つないで使ったのは、間違いない。問題は、鍵及びキ
ーホルダーがホース内をうまく滑らないというだけだ」
「そうなんだよ。どう考えても分からない。刑事達と分かれたあと、ホース内
に糸を通して、鍵を誘導したんじゃないかとも考えたんだが、これも結局は引
っかかってしまう可能性大だ」
「滑ると聞いて思い付くのは?」
「ん? そうだな。スキー、氷、スケート、試験……あっ、氷か?」
私の素っ頓狂な叫びに対し、送受器の向こうからはかすかな笑い声が届いた。
「そうだ。しかし、ただの氷じゃないようだ。ガラス瓶の中が乾いていたのな
ら、ドライアイスを使ったんだろう」
「ドライアイスか……」
「ドライアイスを木の葉サイズのラグビーボールのような形にし、縦に半分に
割る。中をくり抜き、キーホルダーがきれいに収まるスペースを作っておく。
犯人はこれにキーホルダーを入れ、再びラグビーボール型になるように張り合
わせると、ホースに入れた。言ってみれば、ドライアイスでできた箱船だね。
中を滑らかに進んでいったドライアイスは、ガラス瓶に収まり、数時間後には
溶けて気体になった。あとに残るは、鍵だけ」
「……素晴らしい」
感嘆の声を上げた私だが、疑問もあった。
「だが、地天馬。ドライアイスを現場の家まで持ってこなくてはならない。ど
うすればいいんだ? 被害者の家の冷蔵庫に都合よくあったとは思えないし、
こっそり入れておける物でもなかろう」
「方法はいくつか考えられるさ。たとえば、クーラーボックスや、車載タイプ
のミニ冷蔵庫がある」
「クーラーボックス! 世山という容疑者は、釣りが趣味だと聞いている。そ
いつが犯人なんだな」
「その辺は決め付けずに、じっくり調べた方が賢明だと思うぜ」
「何故?」
「クーラーボックスは誰でも入手可能だよ」
「それはそうだが、怪しまれないのは、釣り人の格好をした世山じゃないかな」
「では、こういう考え方はどうだろう。使われたのは氷ではなく、ドライアイ
ス。ラグビーボールに成形するには、元のドライアイスもそこそこ大きな塊で
なければね。そんなドライアイスを最も入手しやすい立場にあるのは、何とい
う名前だったかな、菓子職人の」
「冬木が? どうしてだい?」
怪訝さ故に眉を寄せた私の表情が、地天馬の脳裏に浮かんでいたのかもしれ
ない。軽い笑い声のあと、分かってみれば言わずもがなの説明が続いた。
「アイスクリーム菓子の研究に励んでいたんだろ。ドライアイスは付き物じゃ
ないかな」
「あ」
合点ができた。
「無論、冬木某を犯人と決め付けるのもまたよくないぜ。これでいいかな」
「あ、ああ。ありがとう。助かった」
「ん。それでは、安眠させてもらうとしよう。下田警部達によろしくと伝えて
おいて……くれなくてもいいか。じゃ、おやすみ」
電話はあっさりと切れた。
私はしばし送受器を握りしめ、立ち尽くしていた。だが、なすべきことをは
たと思い出し、ボタンを押す。
警部達に早く知らせねば。
「――はい?」
仮眠中だったらしく、眠そうな第一声が返って来た。
私は、相手の顔がどんな風に変化するのかを想像しながら、地天馬の推理を
伝え始めた。
――終