AWC 反転する殺意 1   永宮淳司


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#65/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  02/04/21  23:05  (500)
反転する殺意 1   永宮淳司
★内容                                         03/06/01 14:47 修正 第2版
 下田と花畑の両刑事は、遺体のスーツの内ポケットから見つかった紙片に、
意識を集中した。
「妙な具合になりそうだな」
 その紙片に記された文字を一瞥し、下田警部は嫌な予感に思わず唸った。
 紙片には、次のように印刷してあった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
@交換殺人
 AはXに殺意 BはYに殺意
 AはYを殺害(Bにアリバイ)
 BはXを殺害(Aにアリバイ)

 AとBの間に、公的なつながりなし
 AはYを知らない BはXを知らない

 A:私 B:森谷裕子 X:倉塚暁美
 Y:吉山卓也
   ………………
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 吉山卓也なる名前の下には、住所と勤め先、さらにおおよその行動予定らし
き記述がある。花畑刑事はごつごつした手に短い鉛筆を握り、メモの内容を手
帳に書き写した。
「あっ、吉山という男の自宅、この近くだ」
「そのようだ」
 相槌を打ち、うなずく下田。そして土手下の遺体を見やる。川から引き上げ
られ、横たえられた遺体には深い刺し傷が二つ、認められた。九時過ぎに入っ
た通報によると、川の流れが赤くなるほどの出血があったらしいが、今、傷口
を見てもそんな様子は窺えない。
「メモを読む限り、あの被害者――有島洋は森谷裕子という女性と共犯関係を
結び、交換殺人をしでかすつもりだった。が、吉山を襲った有島は失敗、逆に
吉山に殺された……と見なせそうだ」
 有島洋の職業は某大学の助教授だと判明し、照会済みだ。殺人事件の被害者
というだけでもスキャンダルだが、もしも交換殺人の計画が事実だとなれば、
大騒ぎになるに違いない。
「早速、確認に出向きますか」
 腕捲くりをした花畑。殊更に張り切った訳ではなく、腕時計で時刻を確かめ
たかったようだ。
「十時四十分。あそこの丘まで、歩いても十分かかるかからないか。十一時前
には着く」
「よし、行こう。あまり夜遅くなると嫌な顔をされるかもしれん。なるべく穏
便に進めたい。我々の想像で当たっているとして、正当防衛が成立する可能性
が高いことだしな」
 現場を他の捜査員に任せ、下田達は車に乗り込んだ。約三分後、高台にある
一戸建に到着し、インターフォンで用件を告げる。殺人事件が近所で発生した
ので、少しお話を……といった程度の説明で済ませ、本心は隠す。
「分かりました」
 にこやかに笑いながら現れた吉山は、多少酒が入っているようだ。細身の男
で、歳の頃は三十路に突入したばかりに見受けられる。切れ長の目と高身長に
よる威圧感を、頬を赤らめた今の容貌が打ち消したようなところがあった。
「夜分にすみません。お一人ですか」
 警察手帳をちらと示し、下田は改めて挨拶から入った。
「ええ、独り暮らしです。パトカーやら救急車やらで騒がしいと思ったら、殺
人事件ですか? 驚いたな。まさか、犯人がこちらに逃げてきたと?」
「いえ、そうと決まった訳ではありません。しかし、用心するに越したことは
ない。戸締まりを厳重に。それでですねえ、えっと、吉山さん? 怪しい人物
を見掛けたり、不審な出来事が起きたりというようなことはありましたか」
「いやあ、全く。サイレンの音に、カーテンを開けてみたものの、ほんの短い
間でしてね。特に何かを見たということはない」
「失礼ですが、ご自宅で何をなさってました?」
 花畑が丁寧な物腰で割って入った。その柔らかな表情は、普段の彼からは想
像もできない。
「はあ。ま、一人寂しく晩酌をして、うつらうつらしてましたよ。ちょっと面
白くないことが続いたもので」
「お仕事は何です?」
 吉山は証券業大手の企業名を挙げた。そこで営業とアドバイザーを兼務して
いるという。
「本日は当然、出社されたと。お帰りになったのは、何時頃でしたかな」
 下田に主導権が戻る。対する吉山は、早くも応対に疲れてきたのか、それと
も警察相手という緊張感が薄れたのか、玄関戸の枠に寄り掛かり、ぞんざいな
口調になった。
「七時過ぎでしたね。通常は九時を回って当たり前、十一時近くになることも
しばしばなんだが、今夜はある客から個人的な相談を持ち掛けられ、七時半に
は家に着く必要があった」
 自分は多忙であるとアピールしたいのだろうか。吉山はぺらぺらと喋った。
「相談の相手の方は見えられましたか」
「いや。元々、電話で話す予定だった。だが、結局すっぽかされましてね。こ
ちらからいくら掛けても出ないし、ふてくされて酒を飲んでましたよ。そうい
う訳で、何度も言いますがね、不審な人影や物音を見聞きしてはいません。心
地よくまどろんでいたところを邪魔され、ようやく頭がすっきりし出した」
「……話の途中で失礼。それは?」
 下田は相手の額に小さな傷を見つけた。吉山が身体の位置を変えたため、彼
に当たる光の角度も変わったようだ。長さ約二センチ半、深さは薄皮一枚分程
度で、大した怪我ではないようだが、真新しい傷だ。
 指差された吉山は、左手を額の傷の辺りに持って行き、照れ笑いめいたもの
を顔に浮かべる。
「ちょっと、どじを踏みましてね。雑誌のページの縁で切ったんです」
「そうは見えませんな。それに」
 新たな発見に色めき立つのが、下田自身よく分かった。代わって花畑が尋ね
る。今度は彼も声から柔和さを消した。
「左手の絆創膏、どうされたんで? 吉山さん、本当の説明をしてくれません
か。額の傷と合わせて」
「本当の説明って、刑事さん……」
 時間稼ぎのつもりか、意味に乏しい台詞のあと、言い淀む吉山。左手はとう
に下ろされていた。
「私が見たところ、額の傷は雑誌で切るには長すぎる。左手の傷を見せてもら
えれば、同じ刃物で着けられたものだと分かると思うんですがね」
「じゃあ、言います」
 突然、開き直った態度になった。吉山はふてくされた様子になり、性格の悪
そうな目つきをした。
「暴漢に襲われたんですよ、帰宅途中にね」
「暴漢? 何時頃のことですか」
 花畑にメモを取るよう目配せし、下田は早口で聴いた。
「六時……五十分ぐらいだったと思いますね。ここへ通じるだらだら坂があっ
たでしょう? その入り口のところ――川沿いの道と直角をなしてる角でやら
れたんですよ。いきなり茂みから現れて肝を冷やしました。幸い、軽い怪我だ
けで逃げおおせましたがね」
「何でそのことを先に言わなかったんですか。いや、それ以上に、襲われた直
後、通報すべきだ」
「面倒に巻き込まれたくないんだ。疲れているし」
「あなたの好むと好まざるに関わらず、調べさせていただくことになりましょ
うな。近所で殺人事件が発生したんだ。あなたの遭遇した傷害事件と無関係と
は誰にも言い切れない。おっと、犯人は例外だが」
 最後の一文にアクセントを置いてみた下田。吉山の反応を探る。相手は憤然
として言い返してきた。
「関係あるとは思えませんね。どうせ私を襲った奴は、客だった連中の一人で
すよ」
「客と言いますと……吉山さんが金融商品を勧めた相手、という意味ですか。
お得意さん達から恨まれる覚えがあると」
「残念ながら、その通りで。儲けさせてやってる間は、おざなりの礼の言葉し
かよこさず、損をしたらここぞとばかりに非難の嵐だ。その程度ならまだいい。
補填しろと言ってくる奴等がどれだけいるか。ご存知でないでしょう?」
 確かに知らない。下田は首肯した。
「襲われても不思議じゃないと、ご自身はお考えなんですね」
「不思議じゃないとは言わないが、ま、金が絡むと、人間は目の色を変える」
「なるほど。あなた自身にも、襲われても警察に届けたくないほど、後ろ暗い
ところがあるんでしょうな。ああ、こりゃ失敬」
 吉山の顔色が変わるのを、下田は軽く受け流し、話を続けた。
「ところで今日、着ていた服を見せてもらえませんか。つまり、提出してもら
いたいという意味ですが」
「服を提出? 何のためにです?」
 しばし逡巡する下田。返り血の有無を調べたいからに他ならないが、理由を
率直に話していいものかどうか。
 五秒後、下田は結論を下した。血は血でも……。
「もちろん、出血の具合を見るためです。傷の具合からして、恐らく服に血が
飛び散ったことでしょう。そこからあなたが襲われた状況を推測し、殺人事件
と比較する」
「ふん。断っても、あなた方はしつこそうだな。まあ、協力は惜しまないよ。
ついでに、私の負った傷も調べたらどうです」
「お願いしようと思っていたところです」
 嫌味を口にする吉だが、下田警部は思う壷だと意を強くした。花畑と二人で
上がり込み、吉山に引っ付いてグレーのスーツ上下を用意させる。ぱっと見た
だけでは、派手な染みはないようだった。
 少し訝しんだ下田だったが、切り札を出すのはこのタイミングが最適だと判
断、ぶつけてみる。
「実を言いますと、吉山さん。こちらに伺ったのは、被害者の懐からあるメモ
が見つかったからでしてな」
「ほー、メモ。私が犯人だとでも書いてありましたか」
「いえ。あなたが被害者だと書いてありました」
「え?」
 不機嫌さを露に眉を怒らせていた吉山が、一瞬、惚けたように緩んだ表情を
見せた。
「どういう意味です、私が被害者とは」
 下田は花畑に言って、見つかったメモの写しを示させた。吉山が交換殺人の
図式を一目で飲み込めたかどうかは分からない。その説明は後回しにし、下田
は人間関係の確認を始める。
「ここにある“私”には、被害者の有島洋氏が該当すると思われます。有島さ
んをご存知ですか」
「い、いや。知らない。初めて聞く名だ」
「でしょうな。それでこそ話が合う。では、森谷裕子という女性は?」
「……恐らく、あの娘だ」
 吐き捨てる吉山。開き直りの度合いが増した。気怠そうに天井を見上げ、た
め息をつくと、一気に喋る。
「嘘をついても分かるでしょうから、さっさと白状しますよ。この森谷ってい
う女の叔父に当たるんだっけかな。喜与川という男が、私の客にいましてね。
株と先物で大損して、自殺してしまった。半年以上前の話だ」
「何だって? では、その恨みでおまえを」
 花畑が先回りしそうなのを、下田は腕を横に上げて制した。ここは吉山本人
に全てを話させるのがいい。
「私が焼香を上げに行ったときから、森谷は絡んできましてね。かわいい顔を
して、言うことがきついし、しつこいんだ。葬式のあとも電話やら手紙やらで、
『人殺し』だ『叔父を返せ』だと繰り返し非難されて、私もかっか来ましたよ。
しかし、こんなことをいちいち気にしてたら、今の仕事をやってはいけない。
無視し続けていたら、鳴りを潜めた。ここ二ヶ月ほどは静かになったんだよ。
まさか、こんな計画を立てていたとは……」
 花畑の手帳を震える指差した吉山。酔った頭でも、交換殺人の図式を理解で
きていたようだ。あるいは、酔っ払ったふりなのかもしれない。
「あんたは襲ってきた有島を、逆に殺したんだな」
「ち、違う!」
 下田が断定調で告げると、吉山は怖気を振るうかのように首をすくめ、否定
した。
「襲われたのは事実だ。だが、殺しちゃいない」
「懸命に否定しなくとも、正当防衛が成立する可能性がある。ここは素直に認
めた方が、あなたのためになると思いますよ」
「やってないものはやってない!」
「……」
 下田は花畑と顔を合わせた。有島の写真があれば、まずは確認させるところ
だが、今手元にない。森谷裕子についても調べるべき点が多々あるが、現時点
では何の情報もない。
 より詳しい事情を聞くため、同行を願うこととなった。

 交換殺人メモの存在が明らかになるや、捜査陣は真っ先に倉塚暁美の身を案
じた。最悪のケースでは、有島と吉山の事件よりも以前に、森谷裕子が倉塚を
襲った恐れがある。
 方々に問い合わせ、調査した結果、メモに名前の挙がった倉塚暁美その人と
思われる女性は確かに実在し、無事生存していると判明した。倉塚はかつて有
島洋の教え子だった。
 早速、下田と花畑は倉塚宅を訪れ、交換殺人のメモについては隠したまま、
話を聞くことにした。
 倉塚暁美は髪を肩まで伸ばした、どちらかというと地味な印象の人間だった。
六年前に大学を卒業し、銀行に勤めたが水が合わなかったのか長続きせずに、
一年ほどでやめている。以来、家事手伝いを通しているらしい。化粧気がなく、
アクセサリーもピンキーリング程度。出で立ちは、紺の長袖シャツに丈の長い
黒スカートであった。
「有島先生? もちろん、覚えています」
 ベンチに腰掛けた倉塚は、陽光に目を細めた。家の中では家族や近所の目も
あるからと避けたそうにするので、喫茶店でもと持ち掛けたら、公園でいいと
いう返事があった。公園は規模の割には利用者がなく、静かだった。
「有島さんが亡くなったのは……?」
「新聞で拝見しました。小さな記事で、最初は同姓同名の別人と思おうとした
んですが……」
 言葉を濁す倉塚。ただ、悲しんでいる風には見えない。あのメモの中身が真
実を反映した物とすれば、有島は倉塚に殺意を抱いていた訳で、逆に倉塚が有
島に何らかの悪意を持っていることは、充分に考えられる。
「倉塚さん。我々が有島さん、いや、有島先生の教え子の皆さんの中から、特
にあなたを選んで訪ねたのは、正直なところを言いますと、ある噂を聞いたた
めです」
 下田は嘘と真をない交ぜにしながら、揺さぶりを試みることにした。
「噂って何ですか」
 倉塚の目に負の感情が宿ったように見える。
「大したことじゃありませんが、少し気になりまして。あなたと有島先生の折
り合いがよくなかったと聞きました。いかがです?」
「いかがと言われましても……」
 首を傾げ、頬骨の辺りに右の人差し指を沿わせる倉塚。その仕種を繰り返す
ばかりで、黙ってしまった。下田と花畑はそんな彼女を静かに凝視した。自発
的に喋らせたい。
 視線の圧力に屈したかどうかは不明だが、やがて倉塚が口を開いた。
「特別に親しくさせていただいたとは申しませんけれど、極一般的な教え子と
恩師の関係を保っていたと思いますわ」
「おかしいですな。警察の方で入手した噂によると、有島先生はあなたを毛嫌
いしていたみたいなんですがね」
「噂なんて、当てになりません」
「倉塚さん。我々の口から言っていいんですか」
 下田警部は言葉の響きを意識的に変えた。穏やかだが、底から突き上げるよ
うな力強さを込めた声になる。これにかかっては、後ろめたいところがありな
がら気の弱い者や人生経験の浅い者なら、動揺を露にするだろう。
 倉塚も若さを露呈した。何らかの秘密があるのは間違いない。残念ながら、
白状させるまでに追い込むのは難しいようだ。
 仕方がない。メモの中身に触れるとする。
「有島先生、いや、今度は有島洋と呼ぶべきだな。有島洋はあなたを殺したい
ほど憎んでいた。その証拠を掴みました。噂レベルではない、証拠ですよ」
「……」
 これで落とせないと、材料がない。すでに有島の家や部屋を調べていたが、
役立ちそうな物は発見できなかったのだ。
「最近、夜道で襲われた経験がおありでしょう」
 下田警部は賭けに出た。勝率はよくて五割。
 約十秒後、幸運にも下田は勝利した。沈黙していた倉塚が、乾いた唇をなめ
ると同時に、堰を切ったように話し出した。
「あれは違うっ。有島先生とは関係ない。だって、襲ってきたのは髪の長い、
多分、女だったもの。そんなことより、届けてないのに、どうして警察の人が
知っているのよ! プライバシーの侵害だわ」
 的外れな抗議をする倉塚の前で、下田と花畑は仁王立ちし、顔を見合わせた。
 あとは簡単だった。
 襲われたことを認めたのをきっかけに、倉塚と有島の現在のつながりを聞き
出せた。
 倉塚は有島を脅迫し、金をせびり取っていた。脅迫の材料は、有島が特定の
学生及び受験者を個人的に優遇していた一件。有島はまるで政治家気取りで、
親からの“陳情”を受け入れていたという。
 倉塚がこの秘密を知ったのは在学中で、留年の危機を迎えていた彼女が、担
当教官の弱みを握れないか思案の末、通話状態にしたままの携帯電話を教官の
部屋にこっそり置いてくるという、実に古典的な盗聴を行った“成果”であっ
た。

 下田・花畑のコンビは次に、森谷裕子の自宅を訪れた。倉塚がカッターナイ
フで切りつけられた夜――先月三十日の森谷のアリバイを聞かねばならない。
そしてもし森谷が有島と共謀して交換殺人を企んでいたなら、今後再び殺人を
犯そうとするかもしれない。倉塚ではなく、吉山を狙って。
 職場である歯科医院のドアをくぐると、休診時間を見計らってきただけあっ
て、空いていた。治療を終えたらしい若い女性が帰ると、待合い室には誰もい
なくなった。
 奥へ呼び掛け、森谷裕子に出て来てもらう。
 比較的背の高い、おかっぱ頭で色白の女性、それが森谷だった。小さな目と
対照的に、口は大きめで、愛嬌のある顔と言えた。上半身がほっそりしている
割に、足の方は丈夫そうだ。
 殺しを考えるような人には到底見えなかった。だが、下田警部は気持ちをな
るべくまっさらにした。先入観を裏切られた経験なら何度でもある。
「森谷さんは、先月末、三十日の夜は、どこで何をしてました?」
「え? 困ったわ。急に聞かれても……」
 極々淡いピンク色の制服に身を包んだまま、頬に手のひらをやった森谷。そ
の姿形だけを捉えれば、思い出そうと努めているとしか見えない。壁に掛かる
カレンダーを見やり、やがてつぶやくように言った。
「恐らく、定時にここを出て、家に帰ったと思います。独り暮らしだから、証
人はいませんけれど」
「電話等はどうです?」
「覚えてません。でも、彼氏どころか親しい友達もいない寂しい身ですから、
電話があれば記憶に残ってるはずね」
 自嘲気味に微笑する森谷。小さな患者達の前では決して見せないであろう、
うつろな表情だ。
「アリバイなしと見なしていいんですな」
「今のところ、仕方ないじゃないですか」
 あきらめた風に言って、きびすを返すと、森谷は待合い室のテーブル上を片
付け始めた。てきぱきと動き回りながら、下田らに聞いてくる。
「何の容疑なんですか、私に掛かっているのは?」
 下田は受付窓口の脇にある缶型の筆立てにカッターナイフが挿してあるのを
見届けてから、反応した。
「有山洋という方をご存知ではないですか」
「……えっと」
 曲げていた腰を伸ばし、上目遣いになる森谷。
「確か、そういうお名前の患者さんが、以前いたように思いますけど、調べま
しょうか」
 下田は、隣の花畑が歯ぎしりするのを聞いた。
「いえ、調べなくて結構。仰るように、こちらに通ったことのある患者の一人
です。個人的なお付き合いはなかったかどうかを知りたい」
「随分直接的な質問ですね。びっくりしたわ」
 再び片づけに戻る。雑誌をひとまとめにして、マガジンラックに押し込むと、
手をはたいた。
「個人的な付き合いって、さっきも言いましたように、私には彼氏も親しい友
人もいませんから」
「仮に嘘をついても、調べれば分かることなんですよ」
「ですから。私は患者さんと個人的な関係になったことは、一度だってありま
せんてば」
 声を荒げた森谷。さすがに気分を害したらしい。もっとも、交換殺人のメモ
が頭にある刑事達にとって、これされも演技に見えなくもない。
「では、吉山卓也なら知っているでしょうね」
 森谷の動作が、ぴたりと停止する。直立姿勢で刑事達に向き直った。
「……どこから出て来たのか知りませんが、忘れられない名前だわ。調べは着
いているって言うんでしょう? そう、私の叔父を死に追いやった男です」
「殺したいほど憎んでいたと聞き及んでいます」
「今でも殺してやりたいわ。刑事さんの前で言っちゃあいけないことかしら」
「殺そうとしたことはなかったんでしょうかね」
 病院の待合いで交わすにはふさわしくない会話だと感じつつ、下田は質問を
重ねた。
「空想したことなら、何百回何千回もあるけれど。あいつが歯の治療にやって
きたら、毒を仕込んであげるのよ」
 笑った森谷に、花畑が「あんたねえ!」と声を大きくする。思わず叫んでし
まった部下を、下田は抑えた。それから、周囲に第三者がいないことを再確認
した上で、事件の中心であろうポイントについて切り出した。
「森谷さん、あなたには殺人未遂、それも交換殺人の疑いが掛かっています。
今は容疑者どうこうではなく、状況の調査・確認だから、気を楽にしてお答え
願えたらありがたい」
「こうかん……?」
 花畑がフリーハンドで相関図を描き、交換殺人の仕組みを説明した。森谷は
途中で分かったようだが、最後まで大人しく聞いていた。
「それで、私が誰かと組んで、交換殺人をやったと言うんですか」
「違いますか?」
「ええ。患者さんの一人である有島洋という方との関係を疑われたのも、これ
のことなんですね。よく分かりました。的外れよ。私は一切知りません。第一、
吉山の奴が死んだってニュースは、なかったようですけど」
「六日の夜、どちらにいました?」
「またアリバイ? 付き合いの悪い女にそういうことを何度も……あ、六日っ
て、今月の?」
 下田が黙って首肯すると、森谷は子供に向けるような満面の笑みを作った。
「でしたら、アリバイがあります。久しぶりに休みをもらって、旅行に出掛け
ていたわ。五日の夕方に出発、七日の昼に帰って来たんだから、アリバイ成立
でしょう?」
「どちらへ行かれたのかを伺わないことには、何とも」
「福岡です。コンサートを観るのと観光を兼ねて。一人旅でしたけど、証人な
らホテルの人とか。チケットの半券も取ってあるわ。ああ、お土産を院長先生
にお渡ししたから、それをご覧になります?」
 下田の返事を待たずに、森谷は奥の部屋へと走っていった。

 翌日までに、森谷の六日のアリバイには一点の曇りもなしと認められた。捜
査陣にとって、予期していた結果である。共犯の有島が吉山を襲うときに、森
谷がアリバイを作っておかなければ交換殺人の意味がない。森谷への疑いを取
り下げる訳には行かず、引き続き事情聴取が行われている。
 一方、下田達は先月三十日夜の有島のアリバイの有無を洗うべく、葬式に足
を運んだ。有島洋に向けた疑惑をお首にも出さず、焼香をなるべく機械的に済
ませると、遺族の前でお悔やみの言葉を述べ、事件の早期解決を誓う。
 刑事はここからが本領発揮だ。関係者をつかまえ、話を聴く。有島のアリバ
イのみならず、彼の人となり、さらには他にも犯行に関与しようとした人物が
いるかどうかも見極めたい。
 問題は、葬儀当日は被害者と関わりのある者の多くが一堂に会するが、その
多人数故に誰に話を聴くべきか絞りづらい面もあることだ。また、忙しく動き
回る遺族らの煙たがられない程度に短い時間で切り上げなければならないため、
この雰囲気の中での聞き込みにはそれなりのコツを要する。
 だから、逆に向こうから近寄ってくる関係者があれば、たとえ犯人逮捕を急
かしたり、警察への文句や非難を口にしたりするためだとしても、チャンスと
捉える。相手が有島洋と親しければ親しいほど、ありがたい。
 その意味で、有島洋の弟と話す機会を早い段階で得られたのは、幸運と言え
るかもしれない。
「久しぶりに実家に戻ってくる用事が、これですからね。やりきれませんよ」
 達観した口ぶりではあったが、有島千鶴夫の顔色はよくなかった。元来ほっ
そりした頬が、青ざめたせいでまるで病人のようだ。死んだ洋が実家から大学
へ通っていたのに対し、弟の方は大学入学と同時に家を出て、今は製紙会社勤
務という。洋のオールバックとは対照的に、千鶴夫は長めの前髪を垂らしてい
る。
 下田警部は本心から慰めるつもりで、「お力を落しのことでしょう。我々も
全力を挙げて解決に」云々と悔やみの言葉を連ねた。
「どうも。家族の期待を一身に背負っていた兄貴が死んで、親達は惚けてしま
っていたでしょう」
 千鶴夫は皮肉っぽい笑みを浮かべた。無理をしているように見えなくもない。
「兄貴は勉強、スポーツともに秀でていました。助教授なんて聞くとひ弱いイ
メージを持つかもしれませんが、兄貴は中学は野球、高校と大学はラグビーで
鳴らしたものです。僕にとって憧れの存在であり、一種の目標でした。でも、
兄貴は僕と同じ目線でいてくれた。僕と兄貴は持ちつ持たれつの関係というか、
結構気が合ってましてね。だが、さすがに双子のように精神感応は起こらない
らしい」
「精神感応?」
「ご存知ありませんか? 一卵性双生児のどちらかが怪我をすると、もう片方
も同じ部位に痛みを感じるという話」
「ああ、それなら」
「兄が死んだ時間帯、僕は学生時代の仲間と飲み会をやっていた。殺人現場か
らほんの三駅向こうの隣町にいたというのに、身体のどこにも痛みを感じなか
った。六時三十分から二時間、ただただ馬鹿騒ぎに興じていただけでした……」
 下田は継ぐべき言葉を見つけられず、少々戸惑った。質問に入ろうにも、同
居していない千鶴夫に有島洋のアリバイを尋ねても、明快な答えが返ってくる
とは思えない。迷う合間に、花畑が代わりに尋ねた。
「こんなときになんですが、洋さんの知り合いで、森谷裕子という方を知りま
せんかね。歯科医院の助手さんなんですが」
「……いや。記憶にありません。その方が、事件に関わっているのですか」
「いえいえ、まだ何とも」
 花畑が曖昧に答え、下田が会話を受け継いだ。
「ただですねえ、お兄さんの知り合いの中で、森谷さんだけが、どの程度親し
かったのか、分からないもので。歯医者で知り合ったのははっきりしているん
ですが、たったそれだけのことで、アドレス帳に残しておくものなのか、私に
は納得しがたい」
 アドレス帳にあったという部分は嘘だった。今の段階で、交換殺人のメモの
件を話す訳にはいかない。無論、公にされていないし、この弟を見ていると打
ち明けるのははばかられた。
「兄貴は堅物のところがあったけれど、惚れっぽい面も持ち合わせていました」
 懐かしむ口ぶりの弟は、遠くを見つめるポーズをした。
「一目惚れをして、名前や住所、電話番号を聞き出したのかもしれませんよ」
「ありそうな話だと思います。だが、森谷さんの方は洋さんとの交友を否定し
ているため、前進できんのです」
「その人が嘘を言っている?」
 色めき立った千鶴夫をなだめようと、下田は断固とした口調で言った。
「まだ分かりません。弟さんにも言ってないなら、親しい関係ではないのかも
しれませんしね」
「そうですか……」
 被害者の弟は、残念そうにうなだれた。早く真相を掴んで教えてやりたいと
思う反面、仮に有島洋が交換殺人の片棒を担ごうとしていたと判明したら、遺
族にどう告げればよいのだろう……。
 下田は頭を振った。現時点で気を揉む対象は、そんなことではない。感情を
肉体の奥底に押し込んで、質問を重ねる。
「洋さんが嫌っていた人物に、心当たりはないでしょうか」
「兄貴が嫌っていた? どういうことです、それ」
「逆恨みという犯行動機も考えられますからな。洋さんが訳あって距離を置き
たがっているのに、それをひねくれて解釈するような輩が暴走すれば、事件に
発展しかねない」
「そういう意味ですか。ううん、だけど、心当たりはないなぁ。刑事さん、こ
ういうときにこんな問い掛けをされると、自分のことばかり考えてしまうんで
すよ。僕が変なのでしょうか」
「自分のことばかりと言いますと?」
「兄弟喧嘩の思い出がよみがえる。まさしく走馬燈のようにってやつです。あ
のとき、あんな理由で喧嘩になったけれど、兄貴はあれで僕を嫌うようになっ
たんじゃないかな……ってね」
 ますます顔色が悪くなったように見えた。下田は千鶴夫からの事情聴取を早
めに切り上げようと思った。
「最後にもう一つだけ。洋さんが遺体発見現場である郊外まで行かれた理由を、
何か聞いていませんかね」
「さあ……最近は電話でたまにやり取りするくらいだったから、確かなことは
言えません。でも、兄貴の専門を考えれば、別段、悩むような問題ではないん
じゃないですか、刑事さん?」
「ご専門は植物関係とだけ伺ってます。では何か珍しい植物の採集に行かれた
んじゃないかというんですな?」
「ええ、まあ。他に考えられませんし」
 最後に来て、薄く笑った千鶴夫。兄の専門馬鹿の一面を思い起こしていたよ
うに見えた。

「吉山さん。あんたの言うことを信じるから、あんたも正直に話してくれ」
 花畑がなだめる作戦に転じたのを、下田はこめかみを押さえながら見守って
いた。
 これは取り調べではない。話を聞く場所は会議が開けるほど、広々とした部
屋だ。吉山は容疑者ではなく、参考人扱い。ただし、頭に「重要」と付く参考
人であり、立場は微妙だ。
 有島洋の死亡推定時刻は、あの夜――六日の午後六時半から九時半の間と報
告されていた。幅をやや広く取ったのは、遺体が川の冷たい水流にさらされて
いたためだが、吉山の犯行だとしても計算は合う。彼が襲われたのが六時五十
分、逆襲に転じて殺したなら、七時までに完了したはずだ。遺体を川へと転が
し、凶器を始末しても、さほど手間は掛かるまい。吉山は帰宅時刻を七時過ぎ
と申告していたが、これには証人も証拠もない。
 凶器は、遺体の沈んでいた川底から見つかった。刺身包丁だった。出所が依
然はっきりしないが、これは有島・吉山いずれかの持ち物である可能性を想定
しての捜査故、時間を要しそうだ。指紋は検出されていない。これは水に洗わ
れたというよりも、何者かが、恐らくは犯人が拭い取ったと考えられた。
 長机を挟んで花畑の正面に座る吉山は、髪をなで上げ、苛立ちを隠さない調
子で言い放った。
「私は、最初っから正直に話してる!」
「いや、だからね。もっとリアリティのある説明がほしいんだ。帰宅途中のあ
んたを襲った犯人は、刃物を突き刺そうとはせずに、上から振りかぶってきた
んだったな?」
「ああ、そうだよ」
「それを手で防御したり、後ろに下がって避けたりする内に、数箇所の怪我を
負った。どれも軽傷だ」
「犯人は刃物の使い方を知らない、ずぶの素人だったんじゃないですか」
 吉山の声の響きには、怒りよりもあきらめの色合いが濃くなっているようだ。
 花畑は吉山の返答には反応せず、言葉を重ねた。
「あんたは逃げた。おっと、慌てんでいいって。どうして通報しなかったのか、
今は問わん。逃げたあんたの記憶力を試したいんだ」
 写真五枚を机の上に並べる花畑。どれも人物写真で、内一枚が有島洋が写っ
た物。残りはダミーだ。
「あんたを襲った奴、この中にいないかな? いたら指差してくれ」
 この中に襲撃犯がいるかどうか吉山に見せ、彼が有島洋の写真を選べば、証
言の信憑性がアップする。ただし、同時に、吉山が有島を殺したという線も強
まる。吉山が真実、襲われただけなら、有島の写真を選び、殺害に及んだのな
ら五人の中にはいないと応えるか、有島以外の誰かを生け贄とする――これが
警察側の思惑だった。吉山が襲撃犯の顔を全く覚えていない可能性もあるため、
即断は危険だが、参考にはなろう。
「暗かったからな。極端な話、男か女かさえ……」
 自分の記憶力に参った様子の吉山。本心の表れなのか、芝居なのか。刑事ら
には分からない。
「身長はあんたと同じくらいって言ったから、そういうやつを五人ピックアッ
プしたんだ。フードやマスク、サングラスで顔を隠してはいなかったとも言っ
たよな。ちょっとは印象に残るものだろ?」
「そう言われてもねえ」
 決めかねているようだ。無理に決めさせるのもよくないが、このままでは進
展が望めない。頃合を見計らって、下田は二人の方に近付いた。
「姿形の印象が薄くても、髪型は目に入ったんじゃありませんか」
 吉山に言った。道標のつもりだ。このくらいであれば、誘導ではないだろう。

――続く





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