#5457/5495 長編
★タイトル (AZA ) 01/07/28 23:42 (196)
さわられたい女 2 寺嶋公香
★内容
「おまえさんもおまえさんだよ。もっと怒らんかね? 濡れ衣を着せられると
ころだったんだよ」
「そうですね。でも、話がややこしくなる前に、この人は何も言わなくなって
くれたので」
女性を見やると、両手で顔を覆っていた。嗚咽が聞こえる。
「とにかく、話してくれるのを待ちましょう。――あの、名前を伺ってもいい
ですかね。僕は、相羽と言います。相羽信一」
相羽は女性に聞いた。どんな言葉遣いをすればいいのか判断しかね、内心、
戸惑いながら。
両手をやがて顔から離し、それでもうつむいたまま、彼女は答えた。かすれ
気味の声は、年齢に不釣り合いであるように聞こえた。
「……檜垣(ひがき)」
もう少し待っても、下の名前が言われることはなかった。もし、後ろめたい
ことがあるのなら、偽名である可能性は否定できない。しかし、相羽にとって、
それは些細な問題に過ぎなかった。
「檜垣さんは、どこへ行くつもりで、あの電車に乗っていたんですか」
「……」
黙り込んだかと思うと、また泣き出してしまった。何かまずいことを言った
だろうかと訝しみ、寄り目になる相羽。
しばらく考えて、一つ、閃いた。
「もしかして、当てもなく乗っていた?」
「……はい……」
返事をしてくれて、ほっとする。これで少しは進めやすくなるのではないか。
「つまり、電車に乗ること自体が、目的だったんでしょうか?」
「それは……あ、あの」
今度は、顔を上げてくれた。化粧気は乏しいとは言え、泣いて、かなりひど
い状態になっている。だが、檜垣の表情には、これまでになく、強い意志が感
じられた。
「さ、最初に、とにかくっ、謝らせてくださいっ。ごめんなさいっ」
椅子からずり落ちるんじゃないかと思えるほど、深く深くこうべを垂れる。
これに対して相羽から声の反応がなかったせいか、檜垣は椅子を離れると、今
度は床に正座して、土下座まで始めようとする。
相羽は急いで立つと、檜垣の手を取った。
「あの――分かりましたから、いいです。座ってください」
「で、ですけど」
「謝ってもらえて、だいぶすっきりしました。あとは、事情を聞かせてくださ
い。気になって仕方がない」
檜垣を立たせ、元の椅子に座らせる。
相羽は疲れた息を吐き、自分の椅子に戻る。その際、座って傍観しているお
ばあさんと目が合って、呆れ顔を向けられた。
「わ、私……電車に乗ったのは……」
相羽が座ると、檜垣は小さな声で、ぽつり、ぽつりと雨垂れにも似た調子で
語り出す。
「観光みたいなものです。お金の掛からない……」
「お嬢ちゃん、どこから出て来たんだい?」
背景の掴みにくい話しにしびれを切らしたか、おばあさんが口を挟む。最前
よりは、厳しくない話しぶりだ。
「……九州の方、です」
詳しくは言いたくないのか、こう答えるのみの檜垣。折角起こしていた顔が、
またも下を向いてしまった。
「それで……事故のせいで、電車が混んできたのを見てる内に、急に思い付い
たんです」
今もって話のよく見えない喋り方だったが、相羽は辛抱強く聞いた。
「被害者になれば、新聞に載れる。女の私にとって、一番簡単なのは、ち、痴
漢にあったことにすればいい、って」
「満員電車からの連想ですか」
深い息をまたつく相羽。檜垣は無言でうなずいた。
「そ、それで……辺り、見回したら、恐そうな人ばっかりで、嘘の痴漢騒ぎな
んか、起こせないなあと思ってたら」
区切り、相羽を一瞥する檜垣。
「優しそうで、年齢も私と同じぐらいの人が乗ってきたから……この人になら、
嘘とばれても、許してもらえるかも、って思ってしまったんです。本当にすみ
ません……何てお詫びすれば、許してもらえるか分かりませんが……」
「そうだねえ、許してもらえないよ、普通は」
おばあさんがまたもや口を挟む、と言うよりも、茶々を入れる。それから相
羽の方を見て、何か言ってやりなさいとばかりに、顎を振る。
「いいんですよ。許す許さないの話なら、もう結論は出しました。警察沙汰に
なっていたなら、僕もこんなのんびり構えていませんけどね。そうなる前に言
ってくれたのだから……。あとは、さっきも言ったように、どうしてこんなこ
としたのか、教えてください」
相羽は微笑みながら、檜垣を促した。
対する檜垣は、目元を手でごしごしこする。またしばらく時間を置いて、や
っと決心が固まった風に、まず唇を結んだ。
「新聞に載りたかったんです」
「はあ?」
頓狂な声を上げたのは、おばあさんの方。腰を浮かして、張りのある口調で
檜垣へと歩み寄る。
「それって、お嬢ちゃん、有名になりたいってことかい?」
「ち、違いますっ、そうじゃないんです!」
慌てて首を水平方向に振る檜垣。勢いがつき過ぎて、丸椅子の脚が床を叩き、
かたかたと乾いた音がした。おばあさんが、鼻で息を吸い、
「じゃあ、何なんだろうね」
と詰問調で言った。苛立つのも分からなくはない。ただ、檜垣の性格や今置
かれている立場を推し量るに、追い詰めるのもよくない。
相羽は、おばあさんに目でお願いをした。もうしばらく我慢してください、
と。そしてそれは伝わったらしく、おばあさんは肩を大きくすくめ、椅子に戻
った。
「私……」
相羽が言葉で促す前に、檜垣が口を開いた。よい兆候だ。
「姉に会うために、出て来たんです。でも会えなくて」
「会ってもらえなかった?」
「いいえ。そうじゃなく……」
「まさか、住所が分からないまま、出たとこ勝負だったとか」
事情があって、姉は妹を始めとする家族に住まいを告げずに、出て行く……
ありそうな状況に思えた。
だが、檜垣は否定した。
「それも違うんです。住所は分かってましたが、行ってみたら、すでに引っ越
したあとでした……」
状況としては、大差ないと思う。
(仮に、この人の姉が、犯罪に巻き込まれているのなら、一大事だけど)
檜垣の様子を観察する相羽。どうやら、そこまで悲観的な事態ではないと見
えた。
「それで、調べようにも、手がかりも伝もまるでなく……途方に暮れてしまっ
て。考える内に、私がこっちに出て来てるって、知らせられたら、きっと連絡
くれるに違いないと思いました」
なるほど。理にかなっている。
「ですけど、新聞に広告を載せるのには、お金が全然足りません。インターネ
ットのお店を見かけましたが、私は使い方をよく知らないし、ほんとに姉に伝
わるかどうか……。それでまた途方に暮れてましたけど、今朝、ふっと思い付
いたのです。新聞に載れば、姉が読んで、気付いてくれるだろうって」
「ああ――」
相羽は思わず、膝を打った。
「分かった。痴漢の被害者になれば、事件が新聞ダネになり、自分の名前も載
ると思ったんですね」
「そ、そうです。で、でも、本物の痴漢にあうのは嫌だったし、さわられるま
で待っている暇もなくて……」
恐らく、実際に痴漢の被害にあっても、名前が新聞に出ることはないだろう。
他に大きなニュースが沢山あれば、痴漢事件そのものが記事にならない確率だ
って、かなり高い。
だが、この若い女性は、姉に会いたい一心で、計画を考え、成功を信じて実
行した。真剣なだけに、効果がなかったときは目も当てられない。こうして警
察沙汰にならずにすんだことは、相羽だけでなく、檜垣にとっても吉と出た。
「あ、あの、相羽さん。本当に、ごめんなさいっ。変な言い方になりますけど、
私、狂言をやろうとした相手が、あなたのような人で、よかったって言うか、
ほっとしたと言うか……」
「顔を上げてください」
相羽は優しい口調に努めた。檜垣が、赤らんだ顔を起こす。
「最初に、約束してほしいんです。いくらお姉さんに会いたいという切実な事
情があっても、こんな無茶な手段は二度と執らないって」
「は、はい。それはもう」
「よかった。次に……謝る相手を、もう一人、忘れていませんか」
おばあさんの方をちらりと一瞥しつつ、相羽が言った。自分でも何故だか分
からないが、弾んだ口調になる。
「え? あ、ああっ! ごめんなさい、お騒がせをして、すみませんでした!」
椅子から立ち上がり、必死の様子で頭を下げる檜垣。
そうされたおばあさんは、わざとらしい大げさなため息のあと、手を振った。
「もういいよ。当事者の間で決着してんだから、私には関係ないことさね。ま
あ、時間を潰して付き合ってやっただけのことはあって、面白い体験ができた
から、よしとしましょうかね」
そして、よっこらしょと、腰を上げる。相羽が何の気なしに手を貸そうとす
ると、「いらないよ」と言われてしまった。
「もう、私に用はないね? しかし、おまえさんのお人好しぶりには、呆れ果
てて、物も言えないよ、まったく」
「はあ。いらいらさせてしまったみたいで、どうもすみませんでした」
「ふん。でもまあ、今どき珍しい、貴重な男だ。私ゃ、惚れっぽくてね。だか
ら、電車の中でも、おまえさんの方をじっと見ていたんだけれど――」
思わぬ告白に、相羽は一瞬ぎょっとして、次に笑みを浮かべた。
「外見のみならず、中身の方もなかなかの色男じゃないの。私の見る目も、ま
だまだ曇ってないようだ。それが確認だけただけでも、収穫だったわよ」
言いたい放題をやって、おばあさんは戸口に足を向けた。ゆっくりした歩調
で行くその横を抜け、相羽はドアを引いた。
「ありがと」
今度はおばあさんも、素直に礼を言う。ただし、おまけ付きだ。
「おまえさん、本当にいい男ってのは、解決策も示してやるもんだよ」
「あっ、それなら一つ、思い付いたものがあります」
「……何だって?」
身体半分、部屋の外に出ていたおばあさんが、意外に軽い身のこなしで向き
直る。その両眼は、大きく開かれ、相羽をじろじろと見た。
「どうやるんだい?」
おばあさんの質問に、相羽は一つうなずくと、檜垣の方を向いた。
見れば、檜垣もまた意外に感じたらしい。立ちすくみ、両手を胸の前でお祈
りの形に組んでいる。
「大した案ではないのですが、マスメディアの仕事に関わっている知り合いが
います。その人に頼んで、ラジオであなたのお姉さんに呼び掛けるのはどうで
しょうか」
「昨日の放送、あれでよかった?」
涼原純子は、相羽と会うなり、葉書を取り出した。消印の押されていない、
一通のリクエスト葉書。
「一週間前に頼まれた通りに、やったつもりだけれど」
「充分」
相羽は葉書を受け取り、折り畳んでポケットに仕舞った。あのあと、檜垣に
急いで書かせた物だ。
「放送後、しばらくして、僕のところに電話があってね。九州の実家の方へ、
連絡があったんだって」
「よかった」
「よっぽど嬉しかったのか、一分ほどで切られちゃったけどね」
表情がほころぶ純子と、苦笑する相羽。なかなか対照的だ。でも、醸し出す
空気は、同じ種類。
「あはは、かわいそう。折角相談に乗ってあげたのにね」
朗らかに笑う純子は、相羽の車に乗り込むと、一つの疑問を呈した。
「それにしても、信一はどういういきさつで、その人と知り合ったの? この
間、聞いても、全然教えてくれない」
「気になる?」
ドアを閉め、ハンドルに両手を掛けたまま、振り向く相羽。純子は、二度、
うなずいた。
「最初、私にラジオで言ってくれって頼むときに、一緒に事情説明してくれな
いんだもの。怪しいように思えちゃう」
「それは、最初の時点で言ったら、純子ちゃん、君が怒ると思ったからで」
また苦笑いする相羽。キーを入れ、エンジンを始動させてから、事実を語り
始める。
「すでに決着したことだから、怒らないように聞いてほしい。……いくら、僕
を好きでもね」
「――背負ってるわねえ!」
――おわり