#5010/5495 長編
★タイトル (AZA ) 99/12/27 1:59 (181)
空白 〜 青陽寮殺人事件 11 永山
★内容
そのとき、窓側で音がした。裏手にも誰かが来ている? 指を止め、息を飲
む。窓ガラスの異変に気付かれたら、今度こそアウトだ。
土橋は切羽詰まって、なお、最善の道を模索した。
(裏手の奴に僕が飛びかかる。玄関の奴がやって来るだろう。騒ぎになれば、
あいつも駆けつける。二対二ならどうにかなるかもしれん)
これは冷静さを欠いた判断だ。裏手に来た人物の数を確認できていないし、
騒ぎが大きくなれば近所の人間だって表に飛び出してくるだろう。
(……そうだ。電話であいつに酔っ払いの演技を頼もう。外にいる二人を引き
付けてくれれば、いや、どちらか一人でいいから引き付けてくれれば、取りあ
えず逃げ出せる。証拠をどうするかはそのあとだ)
土橋は吹っ切り、行動を起こした。小刻みに揺れる指先で、電話のボタンを
押し始め――。
「何をしとるかっ」
一喝が響き渡った。弾かれたように尻餅をついた土橋は、声のした窓の方角
を唖然として見上げた。次いで、強力な光を浴びせられる。
(終わった)
頭では悟ったが、身体はまだ理解していないらしく、あわあわとわななきな
がらも、落とした携帯電話や眼鏡を拾おうと畳の上を探索する。
「……土橋先生か」
鍋谷の声だと分かった。乗り越えてやってくる刑事を惚けたように見返し、
土橋はへたり込んだ。
部屋の電気を点けると、彼は手錠を取り出し、土橋を捕らえた。後ろ手に固
定される。時刻を告げ、不法侵入の罪で逮捕した旨を朗々と伝えてきた。
土橋の自由を奪うと、刑事は玄関からもう一人の人物を招き入れた。氷上だ
とすぐに分かった。床に座らされたまま、土橋は訝しさを覚えたが、もはやそ
れを声に出す気力が残っていなかった。
「どうしてこんなところに侵入したのか、話してもらえますかね」
鍋谷刑事の顔を見る。
(そうか。まだ殺人罪はばれていない)
勝手に解釈した土橋は、最後の抵抗を試みる。
「ただの泥棒ですよ」
「こんなぼろアパートに? 大学教授のあなたが?」
「どこに入ろうが僕の自由だ。刑事さんにも責任の一端はある。あんな住所を
書いたメモを、不用意に置いて行くなんて。あの話を聞いて、今この部屋には
誰もいないのか、よし、盗みに入ってやれという出来心を起こしてしまった」
「馬鹿か、おまえ。素直に認めたらどうなんだ」
鍋谷とは別の声が言った。何かの間違いかと思うほど、荒っぽい氷上の口調
だった。口をぽかんと開けた土橋に、氷上の罵詈雑言が浴びせられる。
「もうおしまいってことが分からないのか、教授のくせして。今しらばっくれ
ても、野崎があんたを脅していたネタがどこかにあるんだ。それが見つかりゃ
一発さ。あとは芋蔓式で、あんたの殺人は全て公に晒される」
「――さ、殺人とは何のことだ」
思い出したみたいに反論する土橋。
氷上は蹴りを入れかねない勢いで土橋に接近すると、顔を近付けてきた。慌
てたように鍋谷が止めに入る。
「ご心配なく、鍋谷さん。口で言ってやるだけですよ。鍋谷さんは、捜査本部
に連絡でもしててください」
断ってから、氷上は土橋に指先を突き付けた。
「反町真弥、矢田口文彦、渡幸司郎、野崎雄三。この四人をおまえが殺した」
「し、知らん」
「認めろよ。特に反町を殺したのは、野崎の脅迫ネタが出て来て言い逃れでき
なくなる前に、さっさと認めて心証をよくしな」
見得を切るかのように部屋中を見渡す氷上。土橋はほんの短い間、逡巡し、
うなずいた。
「確かに……反町を殺したのは僕だ」
「ほら見ろ。どんな理由があって殺した? 色恋沙汰のもつれか?」
「い、いや。当時、あの子と関係を持っていたのはその通りだが、恋愛感情に
行き違いはなかった。の、野崎が悪いんだ。あの男は反町を監視し、僕と関係
あることを掴むと、脅迫してきていた。僕は知らなかったが、反町は一人で苦
しめられていたんだ」
「格好つけんじゃねえぞ。ふん、それから?」
「あの四月二十八日の夜……野崎から金の他に身体も要求された反町は、野崎
を突き飛ばした。後頭部を打って動かなくなった野崎を見て、反町は僕に電話
で助けを求めてきた。人を殺してしまった、何とかしてと。僕が寮に着いたの
は七時四十五分だった。よく覚えている。部屋に行くと、鼻髭の男が横たわっ
ていた。野崎だ。僕は反町を落ち着かせ、自分も焦りながらも、野崎の懐を探
った。手帳があって、そこには野崎が、反町と僕との関係を掴んだ訳ではなく、
裕福な反町に目を着け、かまをかけたら成功した、という旨が記してあった。
僕は笑いたくなった。反町のそそっかしさのおかげで、何もかもがだめになっ
てしまう。今さら自分だけ立ち去ることもできない、野崎を運び出すのも危険
すぎる。そこで……反町を殺し、野崎と無理心中したと見せかけようと思った」
「ところが、野崎は死んでいなかったって訳か。そのことに、反町を殺したあ
とで気が付いたんだな。おまえもそそっかしさじゃ負けてない」
氷上が捲し立てる。土橋は虚ろに首を振り、自嘲的に笑った。
「反町をネクタイで絞殺し、首吊りの姿勢を取らせようとして、また落とし穴
に気が付いた。首を吊る道具がない。野崎のネクタイがあればよかったんだが、
奴はしてなかった。寮のよそからロープを探してくる時間もない。パニックに
なりながら、せめて泥棒の仕業に見せかけようと思い、反町のアクセサリーを
盗んだ。それを風呂場の壁に埋め込んで、さっさと逃げたんだ。野崎が死んで
なかったことは、あとで刑事さんの話を聞いて悟ったんだ。他のことは知らん」
「おい、反町のを認めたんなら、矢田口殺しも認めちまえよ。矢田口はおまえ
の身代わりになり、寮から逃げ出したんだ。その直後、口封じに殺した」
「知らんものは知らん」
「大学教授ってのはあほか。じゃあ、九時から九時半に車を呼び止められ、犯
人に襲われた云々てのは、何だ? あんたを誘い出したという偽の電話っての
は何なんだよ? 反町殺しといて、逃げようとしてたあんたがわざわざ警察に
関わる行動をしたのは、現場に居合わせてもおかしくない状況を作るためだろ
う? そしてその後、矢田口をスムーズに殺すためだ」
「……」
「カンニングの件で、矢田口の弱味を握ってたんだろ? 裏は取れてるんだ、
認めろよ。どうせ刑事責任には問われないんだ」
カンニングのことが知られていたとは。土橋もこれには衝撃を受けた。まさ
か、そんなことまで調べるはずがないと思っていた。
「わ、分かった。矢田口も僕が殺した。反町を殺したあと、八時過ぎに電話で
呼び出し、協力させた。礼を渡すという名目で待ち合わせ場所を決めておき、
一旦別れてから工事現場で会い、殺した。
し、しかし、あとの二件の殺人は知らん。本当だ。ねえ、刑事さんも知って
いるはずだ。渡さんが死んだとき、僕は日本にいなかったんだと」
鍋谷にすがるような目つきで振り返った土橋。その正面に回り込み、氷上は
声も一際大きく、罵倒した。
「くだらんアリバイを当てにするなよ。確かに直接には手を下してないよな。
だが、意味合いは同じさ。渡さんを非常階段から転落させたのは、あんたを守
ろうとした、あんたの息子の仕業だろうが。総都大の食堂であんたの息子に接
触して、揺さぶってみたら、おかしいくらいに慌てた反応を見せてくれたぜ」
土橋孝治は沈黙し、鍋谷が声を上げた。
「息子? 青陽寮の事件のとき、俺も会ったあの小僧か? 勇太だっけか?」
誰ともなしに発せられた鍋谷の質問は、しばらくの間、宙をさまよい、つい
に土橋孝治によって答を与えられた。
「ええ、そうです。親である僕の、十七年前の犯罪のせいで、息子を、勇太を
殺人者にしてしまうとは……僕は最低だ」
たがが外れたように喋り始めた土橋。彼自身、そのことを自覚していたが、
もはや止められはしない。
「全て、僕が殺したんだ。勇太は悪くない。たまたま、あのとき僕がいなくて、
勇太が渡さんから話を持ちかけられ、我を忘れて殺してしまったんだ。僕さえ
国内にいれば、僕が渡さんを殺していた。勇太は罪を犯さなかったんだよ。ね
え、分かるでしょう、刑事さん?」
結局、土橋孝治は野崎殺しを含めて全ての罪を認めた。息子の勇太も警察に
呼ばれ、退職刑事の渡幸司郎殺害を認めた。
「氷上君の提案が、あれほどうまく行くとは思わなかったぞ」
事件解決後、氷上と再会した鍋谷刑事は、連れ立って喫茶店に入った。話が
したかった。
「私も、あそこまで成功するとは思っていませんでした」
お冷やとイタリアンスパゲッティを交互に口に運びながら、氷上はにこやか
に答えた。中国拳法の達人が食事をしているみたいだ。これでメニューがラー
メンなら、言うことなし。
「こちらで野崎の別宅を用意した甲斐があったというものです」
土橋孝治を逮捕した日の午前中、大学の研究室で鍋谷が土橋に聞かせた、野
崎の別宅云々の話は、全くのでたらめであった。土橋に行動を起こさせるため
の罠が、見事に作動した。
「それにしても、よく土橋勇太にまで着目したな。俺は奴が小さいときに二度
ほど会っとるせいで、全然及びもつかなかった」
「逆を言えば、私は四歳の土橋勇太に会ったことがなかったおかげで、気が付
いたんでしょう、多分」
「名探偵でも謙遜するのか」
「私は探偵じゃありません。職業冒険家です」
「隠すなよ。あとで知ってたまげたぞ。今年の二月、O県で起きた資産家殺し、
世間で言う城西寺家殺人事件を実質的に解決したのは、氷上哲也という名の男
だと聞いた。君のことだな」
「ばれましたか」
スパゲッティを片付けると、ピラフに移る氷上。一口含み、味が気に入らな
かったか、塩を振った。
「十七年間あれば、色んなことが変化します。ゴールデンウィーク一つ取って
も、祝日が増えて連休になりやすくなりました。覚えてます? 一九八二年に
は五月四日は平日だったんですよ。それが今は『国民の休日』と定められた。
天皇誕生日だって、四月二十九日から八ヶ月近くも後ろにずれたんですよねえ。
その十七年間で、土橋孝治は助教授から教授になっていた。十七年前はピアス
で赤い髪だった草島が、普通のサラリーマン役をやれるようになった。四歳の
小僧が二十一歳の殺人者になっても、あまり不思議ではありません」
氷上は「あまり」にアクセントを置いて、微笑した。
「とにかく、解決できたきっかけは、君がアルバイト中に例のアクセサリーを
発見してくれたおかげだな。どうしてまた、青陽寮の解体工事のアルバイトな
んかをやろうと思ったんだ? 肉体労働が好きなのか」
「それもありますが、知り合いが次々と総都大に入るから、興味を覚えたんで
すよ。もう一つ、ニュースでちょっとした話題になっていたでしょう。寮の取
り壊しに反対する運動が大きくなって」
スプーンを軽く振り、記憶を呼び起こすかのように天井を見た氷上。
「二月半ばに始まった寮の取り壊しが、寮生のみならず、在学生やOB、OG
まで加わっての反対の声が上がり、中断。話し合いがこじれる最中、とうとう
篭城を始める学生まで出て来る始末。あの騒動が四月末に収まり、工事再開と
聞いて、一丁やってみるかとね、思った次第ですよ」
「興味を持つのは分からんでもないが、力仕事をしようとまでは思わんだろう、
普通は。ああ、これは氷上君が普通じゃないという証拠だな」
「普通でないからこそ、探偵をやるとうまく行くのかもしれないな」
職業冒険家は寂しそうに言い、大口を開けてピラフを載せたスプーンにぱく
ついた。演技なのか本気なのかは、当人にしか分からないだろう。
「それにしても、ほんと、人間の考えてることなんて分からないですねえ。一
見、生真面目な学者風だった土橋孝治が四人も殺してたとは。おお、恐い。私
は総都大に入らなくてよかった。入っていたら、きっと土橋教授の外見と肩書
きに騙されていたに違いない」
「……」
氷上の言を聞き流そうとした鍋谷だったが、相手の顔を見ている内に、言葉
がぽつりとこぼれた。
「俺には君の方がよっぽど恐いわい!」
「どうして?」
「土橋孝治を捕まえたときの、あの豹変ぶりだよ」
思い出しながら指摘した鍋谷に、氷上は首を傾げた。
「どうして?」
同じことを聞き返しながら。
――終